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傷は勲章とよく言うけれど

他愛もない話をしながら、久しぶりに顔を合わせた従姉妹をそっと見つめる。
大学に通うため遠方に引っ越してから、彼女は飛行機代が高くつくからとお正月やお盆を避けて帰るようになり、その時期以外休めない私とは長くすれ違いの日々が続いていた。

「仕事はどう?もう慣れた?」
手早く服を脱ぎながら、浴室に持ち込むものを取りまとめる。祖父母の家から歩いて数分のこの温泉施設には、昔から帰る度にお世話になっている。
今年地元に戻って就職したばかりの彼女はそうだなぁと呟き、とりあえず中に入ろうと小さく笑った。

年末年始のせいか、まだ夕方の早い時間にも関わらず洗い場はほとんど埋まっていた。
運良く隣同士空いている場所を見つけて、お湯の温度を調整しながら話の続きを待つ。ところが彼女は浮かない顔でなかなか口を開こうとしないので、私もそれ以上聞くのをやめた。

✴︎

髪が短くせっかちな私は誰かとお風呂に行っても大抵一番に洗い終わる。先入ってるね、と隣で髪をゆすぐ彼女に声をかけ、比較的人が少ない浴槽にそろりと入る。じわじわ肩までお湯に浸かると、しみるような熱さにため息が漏れた。
肌が熱さに慣れてくると、立ち上がり際に見えた彼女の膝を思い出す。

ーーなんだろう、あの傷。
何かで切ったような、引っ掻いたような切り傷が、膝からふくらはぎに差しかかったあたりに複数あった。

高校までバレーボールを続けていた彼女の膝には、当時いつ会っても茶色いアザが散らばっていた。それを見る度に、ボールを追いかけて容赦なく床に飛び込むスポーツの激しさを感じたものだ。

「なにか新しいスポーツでも始めたの?」

遅れて湯船に入ってきた彼女に率直な疑問をぶつける。そう思った理由も。
傷のことに話が及ぶと彼女は一瞬目を丸くして、見つかっちゃったかと目を伏せて笑った。

✴︎

「みんなには動きが雑なんだって、もっと気を付けろって言われるんだ。……私もその通りだと思う」

聞けば、立ち上がって急いで移動する時や物を運ぼうとする時、床に置かれたままの箱や板がちょうど足に当たり、その度に傷を増やしているらしい。
水面のゆらぎに阻まれてはっきりとは見えないが、まだ赤くカサブタになっているものから茶色く色素沈着したものまで様々な傷があるのが分かる。

「それって気をつける云々より職場環境が悪いだけじゃないの?」
「でも、他の人はそんなことないって言ってるし」

当たったのが積まれた箱だと床に散らばってしまうこともある。たびたび音を立てて物を倒す彼女に、初めは声をかけていた他の社員も今は無視するか小言を言うか、片付ける彼女を手伝う者はいないらしい。

「私が悪いんだもん。しょうがないよ、もっと気をつける」
こんな傷たいしたことないよ、と空元気ぎみに笑う彼女の目の下には、今まで化粧でうまく隠していたのか薄くクマが広がっていた。

「もしかして、あまり眠れてない?」
「どうしてもね。帰りが遅いから……」

初めて聞く話だった。老舗中堅メーカーの事務職というイメージから、勝手に残業は少ないものと思い込んでいた。
もっと詳しく話すよう促すと、3ヶ月前に直属の先輩が会社を辞めたらしい。彼女は先輩が持っていた仕事を全て引き継ぐことになったが、元の業務にやっと慣れたばかりの彼女にその負荷は大きく、今でもマニュアル片手に夜遅くまでパソコンに向かっているという。

「ちょっと待って。上司のフォローはないの?他の人に仕事を分配するとか。会社だって配置を変えるなりもっとやり方あるでしょう」
「……元々は先輩が一人でやってた仕事だからって」

その先輩が何年目だったか知らないが、だからってこの采配はどう考えてもおかしい。むしろその先輩も任されていた業務量に限界を感じて辞めたんじゃないか……だったら今それを一人で抱え込んでる彼女は……

いろいろな考えが頭を駆け巡り、黙ってしまった私の顔を彼女が気遣うように覗き込む。

「でも大丈夫だよ。今のところ何とかやれてるし、バレーやってたから体力には自信あるし」

あの頃永遠に残るように感じた膝のアザだって、卒業してからは徐々に消えていった。今の仕事に慣れて落ち着きが出たら、きっと怪我もしなくなる。今ある足の傷は消えるし痛みも忘れる。だから大丈夫だと矢継ぎ早に続ける彼女は私に話しているというより、自分に言い聞かせているように聞こえた。

彼女は自分の選択を、能力を、会社をまだ信じていたいのだ。長い就職活動を経てようやく決まった会社だ。まだ1年も経ってないのに、後悔したくないし諦めたくない、そんな思いがひしひしと伝わってくる。

ーーけれどこの危うさは。

どこかでぽきりと折れていそうで、胸がざわつくのは心配のしすぎか。

「……それでも、自分の痛みに鈍感になっちゃ駄目だよ」
水面下に沈む傷に目を落とす。
「この足はきっとあなたの心の代わりに傷ついているだけで。……ないがしろにしちゃいけないよ」

そうじゃないと、いつか足だけじゃ受け止め切れないほどの傷に、あなた自身が飲まれてしまうかもしれない。

「……心の代わりに、足が?」
「周囲のものに気を配れないほど、危険を避けられないほど、今のあなたは常に追い込まれてるってこと。誰も言わなくても、あなただけはそれを自覚してほしい」

自覚したからって仕事の量が減るわけでも、環境が変わるわけでもないけれど。それでも。

「自分をちゃんと守ってほしい。……そうだな、バレーする時にサポーターで膝を守るじゃない。それと同じだよ」
「職場では制服なんだけど……?」
「ただの比喩だって」

こんな、変に真面目なところが心配なんだ。

「サポーターは怪我しないように、自分の意思で付けるでしょう?あなたもこれ以上怪我しないように意識して自分を守る。……逃げるのも、無理って言うことも全然悪いことじゃないんだから」
「……そうかな」
「そうです。それができて初めて立派な社会人です。それに自分を守る方法は一つじゃないよ。……よし!ここは一つ先輩の私が仕事の割り切り方と立ち回り方を少しだけレクチャーしてあげよう」
「それはちょっと聞きたいかも」

おどけるように言うと、ようやく彼女は見覚えのある笑顔を浮かべ、少しだけ胸をなで下ろす。
思えば、自分を守ることと戦う力を手に入れることは、どこか似ているかもしれない。
彼女は賢いから、きっかけさえあれば後は自分で考えて、自分に合う方法を見つけられるだろう。

「続きは上がってからにしよう。このままじゃのぼせちゃう」

はーい、と生徒のように手を挙げて湯船から上がる彼女の背中を追いかける。

身体を拭きながらふと彼女に目を向けると、ずいぶん真剣な顔をして、傷まわりの水滴を丁寧に拭い取っていた。


fin

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自分の傷を自覚するお話。

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