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自分を正当化して生きている


「人間は自分を正当化して生きている。そうじゃないと、つらくて生きられないでしょ」

ある日、母がつぶやいた。なんの話をしていたかは忘れたけれど、テレビをつけたら世界中が混乱し、死者が毎日増え続けることを知らせるニュースばかりだから、そんな話が出たのかもしれない。誰も予想のできなかったこんな現実を受けて、自分の人生を考え直す人は少なくないだろう。

聞いた私は、たしかにそうかもしれない、と思った。自問してみれば、ほとんどの場面で当てはまる。「自分は特別、自分は大丈夫」と思っていないと、前に進めない。希望を持って生きていくことができない。

そのことについて、書きたい。

自分を正当化すること

私は、おそらく私たち人間は誰しも、自分を正当化して生きている。

毎日食事を摂り、たくさんの命をいただいて生きている。自分の命は特別で、何にも代えられない大切なものだ。生きものの命をいただくことで、そんなかけがえのない自分の命を維持する。
もちろん、生きものの命も大切なものである。しかし、毎度生きものたち全てに心の奥底から深く感謝し、さらに、命を食してしまったというやり場のない罪悪感に打ちのめされていたら、きっと人間はおかしくなってしまうだろう。

テレビでは、新型ウイルスに感染して亡くなった人数が毎日表示され、ここではない遠い国の争いが映され、どこかの家で起こった火事の様子が詳細に伝えられる。「こわいな、自分も同じようになるかも」なんて思ったとしても、どこか他人事だ。なぜだろう。
どんな時も、自分は特別だ、今日までと同じように明日からも大丈夫だ、と思う自分がどこかにいる。もし、報道を常に自分ごとと捉えて、毎回本気でショックを受けていたら、精神的に参って死んでしまうだろう。

自分は、頑張っているから褒めてもらえる。
(頑張っているだけでなく、他にもいろいろな奇跡が重なって頑張れているはずなのに。)
自分は忙しいから、できなくて仕方ない。
(忙しいことを、本当はやるべきことをしない言い訳として使っているかもしれないのに。)
自分は、いいことをしている。
(誰かにとってのいいことは、他の誰かにとって悪いことであるかもしれないのに。)

挙げればきりがない。
たしかに、落ち込んだり、自分なんて価値がないのだと思ってしまう日もある。でも、全ての場面で自分の価値をあきらめて、なお生き続けられる人はいない。本当に自分の正当化をやめてしまうことは、死ぬこととほとんど同じではないだろうか。
誰だって、心のどこかで「自分は特別であること」を当然のことと見なしている。自分の生存を維持するのはいいことだ、そこに一点の曇りなくノーと言える人はおそらくいないだろう。

自分を正当化するだけでいいのだろうか

自分を正当化しないと生きていけないのは、当たり前のことである。命は何にも代えがたい大切なものだ。決して、その点を疑いたいのではない。
しかし、自分を正当化することを続け、そこに全く疑いを持たず生きていくことは、自分の命を、また誰かの命を、本当の意味で大切にすることに繋がるのだろうか。本当の意味で、一人ひとりが幸せになれるのだろうか。

本当に、命をいただいて生きていることを省みないでいいのだろうか。
本当に、自分の頑張ってやっていることは「いいこと」なのだろうか。
本当に、遠い国の知らない人の困りごとは他人事なのだろうか。

一人ひとりが自分を正当化することで、なんとか生きていくことができる。
でも、自分の正当化のみを考える人ばかりの世界になってしまったら、むしろ自分の力ではどうしようもできない、不条理なことで苦しむ人が生まれてしまうのではないだろうか。

もし、自分の食事について何も省みなかったら。生きものの命をいただいていることはもちろん、大切に命を育てる人がいて、それを運ぶ人がいて、売る人がいて、他に想像できないようなたくさんの人が関わって口に届いていることを省みなかったら。
たとえば、今日の食事でいただいた魚が、実は違法な漁によって獲られて、スーパーでは合法だとして売られていたものだったら。生活が立ち回らなくなり困った漁師に向かって、私は合法的に買っているから非はない、自分の力でなんとかしろ、と言うのだろうか。

もし、自分は毎日頑張って働き、税金を納め、社会に役に立っている「いいこと」をする人だと信じて疑わなかったとしたら、そうでない人のことを想像することができるだろうか。文字がうまく読めないので他の人と同じように仕事ができない、精神的な理由で休む必要がある、生まれつきの理由で毎日介助する人がいないと生活が難しい、そんな人と出会ったとき「いいこと」をしていない人だと見なしてしまわないだろうか。相手に対して、私は自分で頑張ってきた、自分の力でなんとかしろ、と言うのだろうか。

もし、どこかで争いが起きて市民が巻き込まれていても、遠い国のできごとだし、私には自分の忙しい日常があるし、と知らんふりを続けていたとしたら。自分が満員電車で具合が悪くなりすぐにでも降りたいとき、自分が病気でどうしても仕事ができなくなったとき、自分が自然災害に遭って住む場所や家族や財産を失ったとき、そんな、周りの人の助けがないとどうしようもないというときに、知らんふりされても仕方ないと思うのだろうか。知らない人に、自分の力でなんとかしろ、私は私のことで忙しいんだ、と言われて納得してなんとかできるのだろうか。

どんな言葉も誰かを傷つけてしまうけれど

自分を正当化することは、生きていく上で必要不可欠なことなのだろう。命は何にも代えがたいから、私たちは生き続けなければならない、その上で自分を正当化することは避けて通れないのだろうと思う。

しかし、そればかり考え、追い求めていてはいけないのではないだろうか。
自分を正当化することを当たり前とし、そのことを全く疑わずにいるのを続けると、自分と同じようにしない人、自分の力だけではどうしようもできない人のことを置いてけぼりにし、排除しかねない。そして、自分自身さえ排除される側に立っていることに気付けない。どうしようもなく困って、周りの人の助けなしに生きられなくなった時に気付いたのだとすれば、それはもう遅い。

この文章さえ、自分を正当化することを前提にしている。私は、これを書くのは自分だけでない誰かにとっていいことだ、と考えて書いている。
どんな言葉でも、どんな行動でも、自分を正当化していることを前提としており、誰かを排除する可能性を抱えている。どんな考えも、どんな意見も、他の人のことをどれだけ想像して、どれほど思いやったとしても、必ず誰かを傷つけてしまう。
でも、言わないと始まらない。言葉にしないと、なにも変わらない。傷つく人と傷つける人は増え続けるだけなのではないかと思う。
自分のことで手一杯、余裕のない人が多い社会であると思う。しかし、言葉にすることで、傷つく人を、傷つける人を、少なくできるのではないか、そんな希望をもって、その点で自分を正当化して書く。

誰かを思いやりながら誰かを傷つけてしまうという矛盾を抱え、自分の言動に最大限の注意を払いながら、自分の持てる想像力を最大限使いながら、思いを言葉にして、生きてゆきたい。


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