「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」

コロナ、コロナ、コロナ。
連日耳にするのはこの言葉ばかり。

外出自粛、感染、検査。
今日は何人感染した。
彼処で何人亡くなった。
聴き慣れない横文字の数々。

年明けから二ヶ月、
幼稚園が突然休園となり、
沢山の行事が潰れた。
年長だった娘は、
友達と作る最期の想い出の日々を奪われてしまった。

危ぶまれた卒園式は時間短縮、規模縮小という形でどうにか決行出来た。
そこから再び長い休みに入る。
出口の見えないトンネルだ。

自粛、自粛と連日流れる声に、
公園で遊ぶくらいなら大丈夫だと、
人が集まっていない場所で遊び、
人が増えてきたら帰るという形をとった。
ウィルスに怯えているのか、
人を恐れているのかわからなくなりそうだった。

沢山練習したピアノの発表会は中止。
楽しみにしていた卒園旅行はキャンセルした。
同級生との集まりも軒並み中止になった。

やがて世間は更なる自粛に向かって動いて行く。

入学式も大幅に短縮と縮小を余儀無くされ、
来賓や在校生のいない中、
新一年生の両親と担任、校長先生、教頭先生のみで進行。
窓の開いた寒い体育館。
国歌や校歌の斉唱も削除された。

教室でこれから先の話を聞いている最中、
「間も無く発令される緊急事態宣言により、明日からの休校が決定致しました」
とアナウンスが入る。
先生が用意してくれていたプリントや予定、行事は綺麗に白紙に戻った。
期待と不安で一杯だった子供達の新生活に、再び一ヶ月の休みが始まる。

初めて顔を合わせた同級生達との束の間の時間。
次に逢えるのはいつになるのだろうか。

家の近所を散歩していると、
公園で遊び集まる家族がいる。
パチンコ屋に行く大人や、
遊びに出掛ける人、
イベントを開催するお店、
外食を続ける人達。

公園で遊ぶ子供達を見て、
一瞬そちら側に流されそうにもなる。
正解はわからない。

でも、じゃあ何の為にこの子達は沢山の行事や想い出を犠牲にしてきたのだろうと悲しくなる。

「自粛しているのは好きでやってるんだろ」
「自分が我慢しているんだからって、みんなも我慢しろとか思ってる」

SNSではこんな言葉をよく見かける様になった。

そんな事、思っていない。
誰だって好きでこんな自粛や敏感になっているんじゃない。

「自分が正しいと思う事を子供に押し付けるな」
という意見も目にする。
こんな不憫な想いを子供にさせたい親がどこにいるだろう。
そんな事を思う人がこんなに子供の事で悩みますか。

私が思う事。
それは守るべき人がいるという事。

自分は死なないかもしれない。
自分は無症状かもしれない。
でも妻や子供に罹ったらどうだろうか。
他の高齢者や疾患のある人に、
自分を介して移ってしまったらどうだろか。
きっと誰かは誰かの大切な人。
私の「家族」と同じ様に。

苦しい思いは誰にもして欲しくない。
軽症の度合いなんてわからない。
メディアやマスコミに踊らされているかもしれない。

大袈裟かな。
気にし過ぎかな。
敏感になり過ぎてるのかな。

でも国から国民を守る為の要請が出ているのなら、
従う事が正しいと思っている。

指導者のあやふやな答弁や、
お偉いさん達が箸にも棒にもかからないような政策を考えていたとしても、
みんなを守る為の防御策として出来る事なら守るべきなんじゃないのかな、と思う。

みんな自分の愛する人の為なんだけど、
それが出来ない人が多いんだと思う。

人は人、
それぞれの生活があって、
そこには仕事や家族や生き方の形はあると思う。

私も休業にはならないし、
今まで通り毎日仕事をしている。
幸いにも人との接触は少ないし、外にいることも多い。

正しく生きる事は難しいし、
それが正解か、
賢い事なのか、
本当に正しいのかはわからない。

正直私もルールを守れない事の方が多い。
それをいつも子供が正してくれる。

ゴミの分別。
車の運転。
歩き方や食べ方、
人との接し方や生き方の一つ一つ。

子供に教えられる親でいたい。
駄目な父親の部分を含めて、
凛とした背中を見せていたい。

子供はよく見ていると思う。
きちんと覚えている。
ちゃんと感じている。

少なくとも私の娘はそうやって育ってくれた。
これからもそうであって欲しい。

このウィルスは人間の本質を剥き出しにする。
欲望や不満、身勝手な行動、無関心、暴言。

どんな状況下でも、
筋の通った冷静な判断を下す人でいたい。

「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」

娘の背中を見てそう思った。

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