13歳で管理買春されてた私がトー横キッズを見て思うこと
東京・歌舞伎町。
水商売を辞めた今でもたまにこの街を歩くことがある。
歌舞伎町タワーの前を通るといつも数人で地べたに座ってたむろしている若者が目立つ。
大人びた化粧や服装を身に纏っているけど、よくみるとあどけなく幼い少年少女たちがいる。
彼女たちは家庭内暴力やネグレクト、いじめ等で居場所を失った似た境遇を持つ仲間を求めてこの歌舞伎町に集まって来るのだという。
彼女たちの足元にはいつもアルコールの缶やタバコの吸い殻が転がっていて、酔っ払っているのか地べたに寝転んだりする姿が見える。
派手な服装をする彼女はどうやって生活してるのだろうか?
私もかってば"トー横キッズ"のようだった。
いじめや虐待が理由で家出をし仲間と深夜徘徊し路上で飲酒し煙草をふかしたりしていた。
そうしているうちに私は犯罪に巻き込まれる形になった。
私が中学生に上がりたての頃時代はmixiという SNSが最高潮に盛り上がっている時で同級生も先輩も周りの人はみんなmixiを使って仲間や地域の交流を深めていた。
もちろん私も漏れることなく mixiを利用して友達と繋がったり彼氏のプロフィールに紹介文を書いたり楽しく利用していた。
mixiの機能にはコミュニティというものがあって、趣味や嗜好でカテゴリされていて仲間を作りやすいツールになっていて私も趣味に沿ったコミュニティに参加してコメントしあって参加して楽しんでいた。
そのなかで雑談のトピックと並んで不自然に掲載されてある求人があった。
「未成年でも働けるバイトあります。
身分証がない人でも応募OK!
気になる人はメッセージください」
当時両親が事業に失敗した時で家は貧乏だったから、子供ながら親の苦労を痛いほど感じていた私は中学生だけどバイトをして家にお金を入れたいと考えてその怪しい求人に応募することにした。
そこから私はホテルの一室に閉じ込められて毎日何人もの男性の性処理をすることになる。
ショックのせいでこのことはほとんど合間合間の記憶しかないけど、私はラブホテルの一室で行われる"面接"に行き服を脱がされビデオカメラがまわり、輪姦された。
バイトの募集は嘘だった。
何時間もポーズをとらさせられて行為をムービーに収められた。そのあとはホテルの一室に数週間から数ヶ月の間閉じ込められて客をあてがられることになる。
期間が曖味なのは記憶が定かではないからで、すごく長かったようなあっという間だったような不思議な時間の過ぎ方をした感覚がある。
私が逃亡するまでその部屋からは一歩も出ることは無かった。
お金は自分の取り分はあったのか無かったのか分からないけど渡されることなく全て管理されていた。
部屋に出入りしてくるのは客とマネージャーのような役割をする男が一人いた。
そのマネージャーのような男は40代くらいで毎日朝と夜にコンビニでオニギリや飲み物を買ってきてはたまに雑談をして消えていく。
"面接"で待ち構えていた男2人は面接以降現れることはなかった。
記憶は曖昧だが一日あてがわれる人数は少なくとも5人以上だった気がする。客は年齢層はバラバラで外人もいたし全身刺青がはいっている人もいた。スーツを着たサラリーマンのような人もいた記憶がある。
年齢を知っているのか知らないのか私には分からなかったけど、中には私の年齢を聞いて勃たなくなり行為を辞める人もいた。
その後私は隙を見て逃げ出して児童相談所に家出の件で保護された。
このことは時の私は誰にも話さなかったから明るみにはなっていないが、あの時私を囲っていた、犯した男たちは今何をして暮らしているんだろう。
子供はいるんだろうか。
私は26歳になった最近まで過去を清算できずにいた。
子供の頃はまだ良かった。自分の身に起きたことを理解できなかったから自分がひどく傷ついていることにも気づかなかった。
だから私はその苦しかったはずの経験を何故か何度も再体験しようと似た環境に身を置いた。
自分が身体を商品として、モノとして扱われた経験は自分を価値のない人間だという価値観を私に刷り込ませた。
無意識的に自分を大切にすることはなくなって性行為は自分にとって何かを得るための手段となった。
有無を言わさずに身体を弄ばれていた私には貞操概念がなかった。私のセックスの概念は相手をコントロールする為のツールでしかなかったからそこに特別な感情は伴うことは無かったし、そんな繊細な悦びがあることを知らなかったから私はいつも退屈して空想に耽っていた。
洗濯干すのとも料理を作るのとも変わらないただの行為でしかなかった。
子供の頃に性で支配された私の中では自分の価値は身体しかないと思い込んだ。
セックスは相手に与えるものだという固い信念があって自分を受け入れてもらうためにいつでも自分から脱いだ。
愛情や関心を引くための性行為。
環境や地位を得るための性行為。
お金や物を得るための性行為。
大人になっても私の中での性行為は何かを得るための手段でしかなかった。
管理売春という形で道具のように扱われ、一人の人間と尊重されずただの性的な対象として利用されたことで、自分を大切にするという考えが欠けていて興味のないはずの危険な性行為もいくらでもした。
結婚して夫からはじめて世の中でのセックスの概念を教えて貰って、その時はじめて自分が受けた屈辱と失ったものの本質を知ってショックを受けたのは最近の話だ。
あの時、私は性行為が苦痛でたまらなかった。
セックスという行為は知っていたけど現実の行為は漫画で見るようなトキメキもドキドキもない。ただ、代わる代わるおじさんたちの手により愛撫され舌が全身を這う不快な行為でしかなかった。
だから私はいつも全身に力を入れて目を瞑って空想をして耐えた。ドラえもんがスモールライト使って私を小さくしてくれたらここから逃げれるのにと、空想を膨らましてその場を凌いだ。
現実逃避に没頭している中、現実世界の私は相手の期待に沿うように振る舞って必死に生きた。
自然に自分の意思とは関係なく相手のニーズに自然と応えるスキルがついて私はどんなに人が嫌がるようなことでも平気でやってのけれた。
身体は貸していても私はいつもフワリと自分の中から抜け出してその場をやり過ごすことができていた。自分を不在にしてしまえば怖いことなんてなかった。
だけど心の中ではいつもその状況から逃げ出したいと思っていた。行為前後は大量に飲酒し、血が滲むほど身体を洗い口をゆすいだ。
大丈夫だと言い聞かせても無作為な性行為は気づかないうちにどんどん自分を蝕んでいった。
軽々しく性行為をすることがどういう結末になるのか時の私には分からなかったけど、私にとっての性行為は恐怖と不快感で溢れていた。
それでも私は生きるために辞めることはできなかった。
だけど、本来の性行為はすごく幸せな行為で不明瞭な意識で挑むものでないのだ。
児相に保護された後、まだ中学生だった私はキャバクラやスナックで働いたりそこで知り合った客からお金をもらって寝たりしていた。
学校には行きたい気持ちはあったけど、周りはデートの経験もしたことがない子たちばかりで沢山の男性と交わった自分はもうそこでは馴染めないように思えて学校に通うことを拒否した。
学校に行けていないことを働くことで誤魔化した。夜の世界で子供が働くことは容易なことではなかったけど、それ以上に学校へ行って周りと自分が違うことを認識する方が怖く恐ろしいことのように思えた。
やがて大人になっても私は性行為に愛情が伴う感覚がよく分からなかった。
彼氏との行為も私はいつも意識をどこか遠くに飛ばしていたし、その時間は相手への接待のようなものだと思っていたから苦痛だった。
だけどセックスをしないと相手に求められている実感を持てず自分から積極的に求める。
だけどいざしてしまうと相手は自分の中でら私のことを利用して搾取する存在に成り下がってしまって信用することが出来ずに別れを選ぶようになっていた。
そこから大人になった今私は結婚して子供がいる。自分が結婚するなんて思ってもみなかったけど、縁があって今こうして落ち着いた生活を送っている。
かっては危険で刺激的な行為を求め、彼氏がいても彷徨っていた私だったけど今は妻として母として家庭に収まることができている。
人はトラウマ的体験をするとトラウマの影響を受けて持つようになった否定的な信念を現実にしようとする傾向があるらしい。
またトラウマ的体験と似た環境に身を置き状況を再演し繰り返すことで自分が生き延びたということを再確認する。
私はこうしてトラウマを何度も何度も体験することで自分の生命があることを確認すると共に深く深く傷ついていった。
身体は貸しても減るものではないとずっと思っていたけど今の私にはそうではないということがわかってきた。自分をモノとして雑に扱っていると自分が着実に削られていく。
そして自分を軽視していると相手にも雑に扱われるようになる。人は宝物に感じるものを大切にする。
私は記憶を整理することで今はもうトラウマは過去のものになった。問題としては終わり自分が損なわれた部分に対しても諦めがつくようになった。それに私はある大切な部分を失われたかもしれないけど、人生自体は損なわれていなかった。
被害には遭ってしまったけどこれから切り拓くのは自分自身しないことに気づいてからは、自らトラウマの再演をすることも少なくなった。
だけどここまで回復するのに本当に本当に長い月日がかかってしまった。その間にしなくても良い体験も沢山あったし、大切なものをいくつも失った。
トー横に集う彼女たちはどうやって暮らしているのだろうか。彼女たちがどうやって食事をしたり寝床を用意したりしているのか分からない。
彼女たちは今何を思うのだろうか。
「好きでやってるし」
とインタビューで語る彼女たちの強気な言葉は本に本音なのだろうか。
彼女たちには彼女たちの人生があるから私はそれを否定するつもりもない。
生活のために、欲を満たすために、それは本来安心して過ごせるはずの家が正しく機能しなかった彼女たちの生きるための手段であったのは間違いがない。
それでも守られる存在なはずの子供たちが薬をOD(オーバードーズ)したりお酒を飲んで気持ちを誤魔化して身体を張って生きている姿を見ると、「好きでやってる」ようには見えないのだ。
彼女たちの気持ちは私には分からない。
だけど彼女たちが目を見開いて世界を見たときに絶望の淵に立つようなことにならないことを祈るばかりだ。
とりとめがなくなってしまいましたが、今日の日記はこれでおわりにします。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
(中学校の卒業式の写真。
校長室で一人で卒業証書を受け取りました)