『小さな手の軌跡』
勉強はできた方が良い。
そう、これは間違いのない事実だ。少なくとも僕にとってはそうだった。医学部の厳しい受験勉強も、医師免許を取得するための膨大な過去問対策も、今となっては遠い記憶の中の風景のように思える。でも、その風景があったからこそ、今の僕がある。
僕が今、大学の医局で若い研修医たちと向き合い、病院で患者さんの診察をし、時には論文を書くという、やりがいのある仕事に就けているのは、ひとえに勉強ができたからに他ならない。日本では、医師という職業は「勉強ができる」という一つの結果である。他の職業にこれが当てはまるかどうかは正直わからないが、勉強ができることにより開かれる未来の方が、そうでない未来よりも間違いなく選択肢が多いのだ。あるドアが閉まっていても、別のドアが開いているかもしれない。そう、勉強ができるということは、より多くのドアに鍵を持っているようなものだ。
昨日、6歳の息子がZ会の教材に向かっている姿を見ていた。問題を解くたびに丁寧に鉛筆を走らせる小さな手に、何か懐かしいものを見た気がした。20年後、彼に医者になってほしいとは、実はあまり思わない。好きなことをやればいい。それが商社マンでも、プログラマーでも、はたまた小説家でも構わない。医者であることの一つのメリットは時間あたりの報酬が高いことだ。でも、それが20年後も同じとは限らない。まるで誰かが書いた小説の結末のように、未来は予測不能なものだから。
ただ、息子には勉強を通して何かを感じてほしい。努力が報われた瞬間の、あの達成感を伴う喜び。難しい問題が突然解けた時の、不思議な高揚感。どうしても解けない問題に出会った時の、悔しさと気持ちの悪さ。そういった感覚の一つ一つが、きっと彼の人生の中で意味を持つはずだ。
起床して日の出前の時間、息子の机の上に置かれたZ会の白い教材が、やわらかい食卓の灯りに照らされてオレンジ色に輝いていた。その光の中で、小さな鉛筆の影が、少しずつ、でも確実に伸びていくのが見えた。