『七時の約束』 —息子との小さな儀式—
長い間、医師たちは時計の針に縛られることはなかった。患者がいれば、それだけで十分な理由だった。でも、そんな暗黙のルールが、少しずつ、でも確実に変わっていく。働き方改革という名の波が、古い習慣を静かに洗い流していった。
僕が駆け出しの頃、先輩医師たちは「帰る時間」という概念そのものを持っていないように見えた。今でも覚えているが、一度帰宅しても、受け持ち患者の容態が急変すれば、真夜中でも当たり前のように病院に戻ってきた。その時の彼らの表情には、疲れさえ見えなかったように思う。
そんな光景が、今では懐かしい記憶になりつつある。タイムカードを打刻する。シフトの引き継ぎをする。チームで診療を行う。新しい習慣が、僕らの日常に浸透してきている。まるで古い建物が、少しずつ建て替えられていくように。
そして今、よほどの急患でもない限り、僕は19時には家に帰ることができる。
「お父さん、何時に帰ってくるの?」
毎朝、息子が聞いてくる。まるで日課のように。
「七時だよ」
「七時だね。絶対帰ってきてね。絶対だよ。ゆびきりげんまん」
「うん、わかったよ」
僕は少し面倒くさそうに答える。でも、心の中では小さな温かさが広がっている。
19時に帰宅すると、息子は「お帰り!」と元気な声を上げて、リビングから飛び出してくる。そして決まって「"ス" かして」とつぶやく。スマホでゲームをしたいのだ。息子にスマホを渡して、僕は上着を脱ぎ、手を洗い、ビールを一缶開ける。冷たい泡が喉を通り過ぎていく。息子はソファの隅で、僕のスマホを操作している。
「今日は学校どうだった?」と聞いても、たいてい「うん」という返事が返ってくるだけだ。でも、その横顔は穏やかで、どこか満足そうに見える。たった一時間ほどの時間。20時になれば彼は眠りにつく。でも、この静かな時間が、どこかでとても大切なものに思える。
時々考える。「絶対帰ってきてね」というのは、単純にスマホゲームがしたいだけなのかもしれない。でも、そんなことは、実はどうでもいい。スマホゲームだろうと、ただの甘えだろうと、息子が僕の帰りを待っているという事実は変わらないのだから。
夕方になると、病院の廊下に長い影が伸びる。タイムカードを打刻する音が、どこか遠くで響く。そして僕は、朝交わした小さな約束を思い出しながら、家路を急ぐ。息子の「絶対」という言葉を、大切な護符のように胸に抱きながら。