ミスターバイセコー2
その日は突然やってきた。
庭先においていた、息子の自転車がどうもパンクしているようなのだ。
もちろん、私の脳裏にはあの自転車屋の老主人、「ミスターバイセコー」との1年前のやりとりがすぐさまよみがえった。
「パンクはふだんから空気を入れるのを怠っている証拠だ」
「ポイントにつられて、通販で自転車なんて買って、ちゃんと販売店から説明もないまま間違った乗り方をしている人が多いんだ」
誰にいうでもなくつぶやくようにミスターバイセコーの言った言葉の前にすべてを見透かされていた私。
人に「喰い付く」という恐ろしい犬が店内に放し飼いにされているデンジャラスなバイセコーショップ。そのすべてが走馬灯ように私の脳内を駆け巡る。
それなのに、1年後のいま今度は息子の自転車をパンクさせてしまった。また空気を入れていなかったことを責められるかもしれず、今度こそ、あの人喰い犬にかみ殺されるかもしれない…。
しかし、背に腹は代えられない。自宅から一番近く、パンクした自転車を手で押しながらもって行ける店は、ミスターバイセコーの店しかないのだ。
炎天下の中、意を決して息子と自転車屋に向かう。
果たして、一年前と変わらずその自転車屋はそこにあった。
入口に近づくと店の奥さんがいたので、声をかけると、ほかの修理が立て込んでいるので、あとで取りに来てほしいとのこと。
夕方、再び店に行くと店先に息子の自転車が置いてあった。
修理が済んでいるだろう、とパンクした箇所を触ってみると、まだ空気が抜けた状態であった。
店の奥さんに声をかけると、「あれ?おかしいな…」ともう一度みてくれることに。どうも今回はこの奥さんが修理してくれたらしい。
「とっても大きな穴があいていたのよー」と言いながら店内に招き入れてくれた。
奥に例のミスターバイセコーと人喰い犬がいる。
今日はミスターバイセコーは仕事しないのだろうか?
もしやもう引退したのだろうか?
人喰い犬は私たちを一瞥したあと、また床に寝そべっている。
ミスターバイセコーは私たちにイスを勧めてくれた。
ミスターバイセコーが席を立つと、人喰い犬もめんどくさそうにのそのそと私たちの前を横切って行った。
私の隣の息子が体を固くするのがわかった。
事前にこの店の犬がいかに危険な犬であるかを伝えていたため、息子も緊張したのだろう。しかし、人喰い犬は私たちを気に掛ける様子もなく少し移動したあとまた床に寝そべった。
よくみると、ちょっと足腰が弱ったようだ。犬の1年は人の4年に相当するといわれる。そうすると、もうかなりの老犬なのかもしれない。
店の奥さんがパンク修理に苦労している。「これで大丈夫かしらねぇ…もしかしたらチューブごとダメかもしれないけど、とりあえず治ったわー」と言ったとたん、さっきまでその存在感を消していたミスターバイセコーが突然「ちょっと」と言って奥さんに交代を指示した。
キター!!ミスターバイセコーの降臨!!なにかが起こる予感!!
ミスターバイセコーは、奥さんの修理跡をちらっとみて、無言のまま上から貼ったゴムをバリバリとはがして、新しいゴムを貼り、なにか道具を使って削ったり、木槌でたたいたりしている。
店内の空気ががらっと変わったのがわかった。ミスターバイセコーから職人の風格が漂う…。ミスターバイセコーの手と自転車のチューブがなめらかに絡み合い、宙を美しく舞う…。まるで命を与えられたかのように、自転車のチューブが生き生きと動き出す…。
「ちょっと、見て」
ミスターバイセコーに呼ばれる。…これも1年前と同じ光景だ。
ああきっと怒られる。自転車に空気を入れずパンクさせたことをおこられる。
ミスターバイセコーは、自転車チューブの中からぐにゅっとはみ出た白っぽい液体を私に見せた。
「この穴、いまふさがったけど。これ、○○(自転車チェーン)で買ったでしょ。この液体ね、パンクしにくいと説明されたと思うけど。1000円で○○が付けたと思うけどね。これパンクしたらこういうふうに中からでてきて修理のときにゴムがつかなくて、かえってダメになるの。○○は1000円の利益が欲しくて、つけてるけど。パンクしたときに、○○にもっていったらこんなのチューブごと交換ですと言われるよ。うちはすすめられんけどね、この薬は昔からあるけど、とてもすすめられん。わしもこの道60年だけどね。できるだけ修理して乗ってもらいたいから、こんな売り方はせんね。パンク修理もできんと思われたら困るからいっとくけど、このチューブの中の特殊な薬がどうしてもでてきて修理穴の粘着をダメするんだ」
去年もネットで買ってしまったことをみすかされ、
今日は悪徳利益重視の量販店で買ってしまったことをみすかされ、
ミスターバイセコーの自転車愛を傷つけてしまった。
私って…罪なナオン(女)ね。
次こそは、次こそは、ミスターバイセコーに認めてもらえるような立派な自転車乗りになって帰ってきます!!!!
ありがとう、ミスターバイセコー!!
なんか、いつも怒られながら、他社の批判を聞きながら、1000円払って修理してもらって、途中からもうこれ絶対エッセイのネタにしよ、と思いながら年1回のペースでミスターバイセコーに会いに行っている気がしてきました。
もはや来年もパンクしたい、そんな気すらしてきました。