【短編小説】ヒューマンエラー
もうすぐで、この会社に勤めて20年になる。
長く同じ場所にいれば、あらゆるタイプのミスを見ることになる。
もちろん、私もたくさんのミスをおかしてきた。
機械とは違い、人間は全てのことを完璧にこなすことなどできない。
現代では、そんな人為的ミスのことを"ヒューマンエラー"というらしい。
そしてこの部署では現在、そのヒューマンエラーとやらが起きている。
パソコンのセキュリティ管理不足により、我々の機密情報が流出してしまったという内容だった。中には、各取引先に送る見積もりデータも含まれていたとか。
私の部署は、開発部門を担当しており、今回のミスは非常に致命的であった。
無論、他の部署なら助かったという話ではないが、往々にして人は金が絡むと怖くなる。
部署内では水面下で犯人探しが始まっていた。
部長は上からの指示のもと、定例面談と称して事情聴取をしようとしていた。
「田中さん突然すまないが、来週の月曜あたり面談の時間取れるかな?」
田中さんは、私と同じか少し後に入ってきた女性で、20年近くこの部署で勤めてきた。
敏感な人なので、部長が探りを入れていることにもすぐ気がついた。
「もしかして、例の件で私を疑ってます?
長年勤めてきた人に対して失礼だとは思いませんか?」
そう言うと、プイッと視線をパソコンに戻した。
彼女は、思っていることを心に溜めない人でもあった。
返答に窮した部長は、次に私をターゲットにした。
「山田くん、来週の月曜日は打ち合わせも入っていなかったよね。たまには一緒にランチでもどうだい」
部長の顔は笑っていたが、笑っているのが薄気味悪かった。きっと悪魔とはこんな感じなのだろう。
「あ、大丈夫ですよ」
「では、よろしく」
月曜日のお昼、私はいつものサバ定食を食べに部長と社内食堂へ向かった。
「ところで山田くん。最近、仕事で困っていることなどないかな」
「特にないですね。もう20年も勤めていると。私には部下もいませんので」
「そうか。細かい作業も多いだろう。疲れたら有給もどんどん申請したまえ」
「ありがとうございます」
私たちの中身のない言葉は、お味噌汁の湯気にかき消され、私は脂の乗ったサバと出汁のきいた味噌汁に感動するだけだった。
次に部長は、入って5〜10年目の中堅社員にターゲットを絞った。
その後は1〜4年目の新人社員がターゲットとなった。
薄々勘づいている社員もいれば、ただの定例面談だと信じて疑わない社員もいた。
事情聴取が始まってから1ヶ月ほどが経った。
しかし、自体が収束に向かっている様子はなかった。
いつ見ても部長の顔には、"原因の解明と改善"と彫ってあるようだった。
その日は突然訪れた。
それはいつもの、なんの変哲もない朝礼の時だった。
部長の話がひと通り終わったところで、田中さんが手を挙げた。
「例のあの件について、原因は解明されたのでしょうか」
「心配をかけてしまって申し訳ない。未だ解明とまでは至っておらず、ヒューマンエラーというしかない状況だ。みな、より一層気を引き締めて職務に励んでほしい」
「私たちのせいですか?」
「もういいじゃないですか田中さん。仕事に戻りましょう」
「よくないです」
「出たよ。重箱の隅つつきおばさん」
「ちょっと。今言ったの誰よ」
「岡田です。岡田」
「あんた営業帰り足臭いのよ。今回の情報漏洩も、あんたたちシステム管理課がしっかりしてないからでしょ」
「君だって、厚化粧に鼻をつくような香水を振り撒いて、その歳で恥ずかしいとは思わないのか。昨年犯した君のミスを私は忘れてないぞ」
「まぁまぁ、落ち着きましょう」
「新人は仕事でも覚えてろ」
「そんな言い方ないでしょう。誰のおかげで企画書が上がってると思ってるんですか。あなたたちのじゃ古くて見にくいから私がやってるんでしょうが」
「ここのトイレ掃除は誰がやってるんだ。ゴミがまだ落ちてるぞ」
「毎朝の朝礼ってほんと時間の無駄」
「日報って上げないとダメですかね」
「そもそもなんでこの部署だけテレワーク導入してないの」
「コピー機とシュレッダー古すぎて使い物になんない」
今までの鬱憤が堰を切ったように溢れ出した。
私たちの部署は、突如として崩壊してしまった。
2週間後には組織改革を求めストライキが起き、5人しか出社しなくなった。
私にもストライキを促す連絡が来たが、昔から集団で何かをするのは好きではないのでいつも通り出勤した。
そしてさらに数ヶ月後には、部署の一時的閉鎖が決定し、私たち職員にも別部署への一時的異動が告げられた。
過去にも大きなミスはたくさんあったはずなのに、部署が閉鎖するまでに至った要因は、きっと別のところにあるのだろう。
それにしても、20年間見続けた桜並木を見られなくなるのはじつに淋しい。
私が異動する部署は、太陽の見えないB館にある総務部である。
ヒューマンエラーが、"人為的ミスにより招いた悲惨な結末"という意味であるならば、今この状態こそ1番のヒューマンエラーなのかもしれない。
そんなことを思いながら、山になったファイルをダンボールへ詰め、私は20年勤めたその場所を立ち去った。