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モンテ・クリスト伯感想 18

アルベールの自尊心

モンテ・クリスト伯の元で、結婚を嘆くアルベール。
彼は、どれほど婚約者が自分に相応しくないか、その結婚がどれほど不幸な事であるかを述べる。

「世間人だな!」と、伯爵は、口のうちでつぶやくように言った。p.52 ※1

アルベールが世間体を気にする見栄っ張りな性格だと見抜く伯爵。

人よりも劣る妻を持つことに耐えられない。
母のような理想の人を手にいれたいと、父親の性格を受け継ぐ彼の自尊心に、伯爵が語りかける。

ダングラールも、この結婚を避けたいと望んでいる事、その為なら貴方の倍の金額を払っても良いと思っていると伝える。

まさかと不安げな様子を見せるアルベールに、続けて伯爵は痛烈な言葉を放つ。

「他人の自尊心は平気で斧で絶ちきりながら、いったんこちらの自尊心となると、針でちょっとさされたくらいでも悲鳴をおあげになるのですから。」p.55 ※2

このストレートな指摘。

嫌みでもなく、批難でもなく、何かそういったものを超越した伯爵の言葉。

先ほどの「世間人だな!」という言葉と同じく、ストレートな観察と感想がとにかく面白い。

気取りもなく傲慢でもなく、卑屈でもなく、どこまでもフラットな伯爵は、ミステリアスであり魅力的だ。

さて、この言葉の意味を考える。

自惚れて自尊心が強い人物ほど、
他人の自尊心は平気で斧で絶ちきる。
それに対して、自らの自尊心が傷つけられると、針の先くらいの事でも悲鳴をあげて騒ぐ。

確かにそうだ。


これが鋼の精神を持つ者であれば、常に正しい言葉を用いる。
相手を侮辱する言葉など使わない。そんなものは必要ない。汚れたナイフなど持たない。
磨きあげられた日本刀のような、鮮やかで鋭い言葉で戦う。

醜い言葉を人に向ける人間は臆病だ。

そして、弱い。
弱いから自分を強く見せたい。

怯えながら強がっているから、強い言葉に助けを求める。侮蔑や罵倒を使う。
それは、実力が無いから道具で勝とうとする姿だ。
何も言わないと、自分が弱く見えるのではないかと怯えて威張り散らす。

そういう人間はそれほど怖くない。

一見礼儀正しく、感情をみせず、友好的で常識があるフリをして近づく人間の方が、余程怖い。


疑惑

さて、いてもたってもいられなくなったヴィルフォール。モンテ・クリスト伯の正体とその目的を探り始める。

それもすでに計算済みのモンテ・クリスト伯。

二人の人物に変装し、ヴィルフォールに敢えて接触、様々な証言をする。

この証言を信じたヴィルフォールは再び安堵。

ここで身の破滅を導く「油断」をする。

モンテ・クリスト伯爵の「まだだ、とどめを刺すにはまだ早い。」そんな言葉が聞こえてくるような展開だ。

変装していた衣服を脱ぎ捨てる場面が好きだ。
伯爵の描写に、苛立ち、怒り、執念を感じる。

綿密な計画は、逃げ道を狭めながら着々と進められて行く。


勲章

「人類の殺戮者にたいして与えられる褒賞にくらべて、人類への徳行に与えられる褒賞のほうがずっと好きだと申しております。」p.71※3

一人を殺せば殺人犯、何万人も殺せば英雄などという理論はおかしいと言った人がいる。

確かに戦争の功労者を称えるのはおかしな事だ。

勲章は人道的な徳行にこそ相応しい。
そういった勲章の方が「私は好きだ。」とデュマは言う。

こんな率直な書き方をするデュマが、私も好きだ。

世界は複雑な問題が絡み合っているが、
その解決の糸口は実は単純なのだと思う。

全ての人間が求めてやまない「幸福」。

その幸福の環境条件は「平和」だ。

そして、個人の内面的幸福条件は「生きる意味」だ。

「無意味」こそ人間にとっての最大の不幸だと思う。

そこから派生する「無力感」。
ついてくる「焦燥感」。

SNSの普及で幸福を演出する人々は、人よりも幸福であることに満足を見出だそうとしている。

実態の無い幻を追う人々。

その演出された「架空の幸福」に踊らされる人々。

幻を見て自分に「不足」を感じ、それが「不幸」だと錯覚する。

負のサイクル。

自分が不幸ではないのに、不幸だと錯覚する人が出てくる。

例えば、無差別殺人の根底には激しい憤りがある。劣等感からの道連れ。「自分だけが不幸だ」という錯覚。

そういった錯覚を誘う情報。


東日本大震災で沢山の人が亡くなった。
何故、その時自殺者も減ったのか?

多くの人が亡くなった時。
自殺を踏みとどまる人が増えたのは何故か。

毎日繰り返し放映される現実。

溢れる悲しみと苦しみ。

その時、苦しいのは自分だけではないという真実に気づいたからだ。

あの時は見せかけの華々しい幸福に惑わされなかったからだ。


現代の心の闇の原因はメディアにもある。

華々しいメディアの光が、個人の苦しみに影を作る。

現実は、誰もが人には言えない悲しみや悩みを抱え生きている。

それは、恥ずべきものか?

隠すべきものか?

違う、讃えられるべきものだ。

誰もが、人知れず、それぞれの立場で精一杯やっている。

だから、この世の中がうまく回転している。

誰もが必要な存在なのだと。

一つ一つの問題を四苦八苦しながら、乗り越える。

誰もが称賛されるべき存在だ。その苦闘を認められ、労われるべき存在だ。

メディアの伝える幸福は薄っぺらだ。


違う見方をしてみよう。

世の中には確かに悩みなんか無い、私は幸せだと宣言する人もいる。

実際悩みが無い人もいるかもしれない、充実している人もいるかもしれない。

しかし、それは永遠だろうか。

いつか、どんな幸福も終わりがある。

どんなに私は幸せですと宣言した所で、人はいつか老い、病み、死ぬ。

幸せであればあるほど、それを失う恐怖は大きい。

この世に生まれたと言うことは、執行日の分からない死刑囚になったと言うことだ。

何が幸せなのか。

夢、財産、地位、若さ、恋人、家族。

瞬間の幸福で人を計り、あなたは幸福、あなたは不幸とレッテルを貼る情報化社会、コミュニティのランキング。

意味がない。

自分に貼られたレッテルを剥がすべきだ。

生きるとは、幸福とは何か、その実態を見据えるべきだ。

真実を見通す目を持たないと、架空の情報の中で人生を送る事になる。


人間に対する侮蔑、人間に対する崇拝。

モルセール氏の舞踏会。

キラキラと輝くような恋に身を任せているマクシミリアンとヴァランティーヌ。

過去の罪を引きずりながら戦々恐々として集うヴィルフォールとタングラール夫人。

純粋に期待に胸踊らすアルベール。

参加者の関心を一身に集めるモンテ・クリスト伯。

様々な人生が一堂に会する。

ここで、モンテ・クリスト伯に対する詳細な描写が入る。

勲章一つ無いフロック。
飾り気のないさっぱりした服装。
艶のない顔色。
あらゆる印象を同時に感じさせる風貌。
柔軟さと不屈。
集まる人々は、想像もつかない伯爵の過去をその様子から伺い知ろうと必死だ。

この描写の後にメルセデスと伯爵が挨拶を交わすシーンがある。
この時の演出も面白い。
暖炉に向かい伯爵に背を向けているメルセデスが、鏡に映る伯爵が自分の方へ向かってくる様子をじっと見つめている。

振り返り、伯爵の挨拶を受けるメルセデス。
言葉を不要と思う二人の空気。
一瞬の間。

近づくアルベールとそちらへ向かうモンテ・クリスト伯。

そして、この後の会話にもデュマの価値観が垣間見える。
モルセール伯爵を取り囲んで話し込んでいる学者らを見ながら、動物実験に関する台詞。

彼ら(学者)は学術論文を書くために、兎の頭にピンをさしたり、犬の脊髄を剥がす。
しかし、それが科学に大きな貢献をもたらした訳ではない。
そうやって立派な文章を書いただけで、アカデミーの会員になることができるという結果をもたらす。この結果を見れば、苦しめられた動物達の自尊心は満足させられるだろう。

そういった会話をしているのだが、これは現代にも通じる。

必要のない動物実験、科学や医学の名の元に行われる虐待。
それは、動物達の自尊心を満足させられるだけの理由があるのか?

科学者や研究者の名誉の為だけではないのか?

動物を苦しめる実験が、人の命を救う技術を生み出すとは思えない。

動物を救う実験が、人間をも救うというなら分かる。

シャンプーや化粧品も同じだ。
成分が有毒か無毒かなんてことは、分かりきっている。それを、啼くことの出来ないウサギの目をこじ開けて点眼し、目が腐っていく様を調べる。そんな実験は必要無い。
野蛮な行為だ。
成分を調べれば分かることだ。
科学とは、そんな実験をせずに結論を導き出す為の知識ではないのか。

便利な日用品や、化粧品の影に啼くことの出来ないウサギの涙が流されていたことに愕然とした。

そんなものはいらない。
そんな実験をしなくても物は作れる。

デュマも、デュマの時代にあった動物実験を批判的に描いている。
私は勇気を得た。

動物を苦しめる人間がいる。

動物を苦しめることに反対する人間がいる。


デュマは描く。
底知れぬ人間への絶望と侮蔑を。

デュマは描く。
底知れぬ人間への信頼と崇拝を。


人間は価値観と行動によって、
尊くもなり、卑劣にもなる。


デュマの人生も波乱に満ちていた。

だからこそ描ける物語がある。

※1,2,3,アレクサンドル・デュマ作、山内義雄訳、モンテ・クリスト伯五 岩波書店

3月22日更新

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モンテ・クリスト伯の感想です。 1巻から7巻まで、感想と個人的な思索をまとめました。

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