動物園と呆気ないわたしのこと_20190616
訳あって、本日はひとりで動物園をさんぽした。それは幼少期のわたしが通っていた保育園の近くにあって、ことあるごとに足を運んでいたおもいでの動物園。十数年ぶりに、なんとなく来てしまった。こんなお天気な日曜なのに人はまばら。その場にいる動物の数の方がきっと多いだろう。園内にはカップルなどおらず親子連ればかりが目立ち、もちろん、ひとりでルンルン徘徊するような21歳はわたし以外にはいなかった。
田舎の緑のなかにたたずむこの動物だらけの世界を、あのころはもっと大きなものだと思っていた。
園内をぐるりと一周するのにも朝から夕方までかかっていたような気がするけれど、21歳のわたしはたった30分もかからずにすべてをひと通り巡ることができた。売店を見ること以外やることがなくなってしまい、ビシビシと肌を焼く日差しから逃れようと木陰エリアのベンチに腰掛けた。
ひと息着くと同時にわたしは、わたしの呆気なさにひどく落胆した。
この何度足を運んだかも数え切れない大切な動物園をこんなにもちっぽけなものに思えてしまうのは、単にわたしの体が大きくなったからというわけではない。さまざまなものに驚きや疑問などの興味関心を持ちにくくなったからだ。これはもしかしたら、あらゆる知識や経験を含んだじぶんの成長を喜ぶべきなのかもしれないが、「ぜんぶおなじような鳥だから」「淡水魚だから」などと、たった数秒で通り過ぎてしまうような呆気なさがわたしは許せなかった。
あの頃、どうやって動物園を楽しんでいたんだっけ。ひとつひとつの檻にべったりと張り付いていたような気もするけれど、もう忘れてしまったな。
ベンチで涼みながら、一周してしまいやることもないのでカバンに突っ込んできた小説を読み進めることにした。これまた子連れのおじいちゃんの、「いい風が吹いてるなあ」という声とともに、「いい風」がさらさらとワンピースとわたしの軽い髪の毛を揺らした。「いい風」は、動物のにおいがした。
持ってきたペットボトルのジャスミンティーを飲み干したとき、小説は20ページほど進み、額の汗も引いていた。
動物園で動物を見ず、このままベンチにいてもなんだかおかしい人なので、もう一周することにした。今度は、呆気ないわたしを引きずりながら「よく見ろよ、目の前のものを、常識を、疑えよ」という気持ちも携えてのんびり歩く。
しかし、やはり数種類のフクロウを見分けることなどせず、フナのような地味な川魚には興味を持てず、さっさとカワウソを見に行ってしまうような呆気ないわたしだ。アヒルと白鳥、羊とヤギのちがいくらいは人生において重要だが、それが何かという細やかな部分は、いまはどうでもよかった。キャベツとレタス、恋と愛のちがいとさして変わりない。
二周目の最後、ワオキツネザルを見ていて「さ〜〜、売店でぬいぐるみを物色して帰るか〜」と思っていた。そのとき、いま入園したばかりの小さな子どもがワオキツネザルの檻を見て「わー!動物がいる!」と言った。
呆気ない21歳のわたしはハッとした。そうか、ここには動物がいるのかと。ここは動物園なのだから動物がいることなんて当たり前なのだけど(というよりも動物がいなくては動物園とは呼べないのだけれど)、子どもからしたらここが動物園かどうかなんてあまり関係ない。特定の場所に「動物がいる」事象があるという認識を初めてもってして、ここは「動物園」になる。
ここには、この夏からペンギンコーナーが増設されるらしい。例えば、21歳の呆気ないわたしを押し殺して5歳児のこころをもってこれを見たならば、いったいどう思うか考えた。「ペンギンは動物なの?」「ペンギンは海にいるから水族館じゃないの?」「なんで他の鳥と一緒にいないの?」「ペンギン、暑いところにいて平気なの?」
こころを5歳児に戻したら、確かに疑問は湧いてくる。いま身の回りにごろごろと落ちている当たり前のことって、ちゃんと説明しようとするとわりと難しかったりするのだ。当たり前は当たり前でしか押し通せないというような暴力がある。大人になって、知らずのうちにそのような暴力をふるうような生き物に、わたしもなってしまったのか。
呆気なくてつまんないな。つまんない大人だな。どうか、こんなつまんない大人にはなり腐らないでね。
カワウソフィギュアのガチャガチャを二度回して、わたしは動物園を後にした。
aoiasa
- 20190616
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