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「将来の夢は何?」と小6の甥に言われて、思わずどきりとした話。

秋休みを迎えた甥が家にやってきている。

甥は小学6年生なんだけど
6年に進級してから、学ぶ楽しさに目覚めて
めきめきと成績を伸ばし始めた。

以前は、どちらかというと消極的に見えてた彼が
今はどこかはつらつとした空気をまとっていて
人前に立って誰かを笑わせたりすることにも
喜びを感じるようになったというのだから、本当に驚きです。

子供って本当に
ちょっと見ない間に別人みたいに変わったりするんだな。


その様子を見て
以前、彼とこんなやりとりがあったことを思い出した。

ある日の食事の場で
彼が将来の夢を語りだした時のこと。

私を含めた周りの大人たちは
彼が自由に語る色んな未来の可能性に思わず笑顔になったし
心からワクワクもした。

彼の夢の話を聞いていて、皆が
「その夢、最高だね」
「あんたなら絶対に叶えられるよ!」
「この先何にでもなれるね」
なんて心からのエールを送っていたのだけど

笑顔の甥から無邪気に返ってきたこの言葉に
その場の大人たちが一瞬だけハッとした。


「皆の将来の夢は何?」


そこにいたのは30代、40代、60代、70代の
それぞれの人生を歩いてきた人間たち。

その言葉に対して苦笑いしたり
「将来かぁ~」と笑ったきり言葉を濁らせり、反応は色々だった。

40代になったばかりの私はというと
妙に痛いところを突かれたようで
内心、少しぎくりとしていました。

もしかしたら、私が彼に送ったエールの中にはどこか
「自分にはもう、あなたのような自由度はないけれど」
という自虐的なニュアンスが含まれていた気がして。


どんな人も、歳を重ねる中
色々な経験を積んで自分自身を知り
『自分らしさ』をその都度カスタマイズしたり
アップデートしながら、今まで生きてきたはずで。

それぞれに『これが自分の人生』とでも言うような
何かを持っていると思う。

私はというと、持病のこともあって
「私は私にやれることを、丁寧に淡々とやっていく」
っていうのが
いつでも自分との約束になってる部分がある。

だから、『将来』という漠然とした未来を見るよりかは
いつも足元や目の前に焦点を合わせようとすることが多い。

これは、誰かのあり方と比較せず
自分が歩いてきたこの人生を肯定するために必要なことでもあったから
今の私らしさがこれであり、私が身につけてきた生き方でもある。

でも、この時ばかりは

『将来の夢』
という言葉の持つ、あまりにも無邪気な若々しさ。

それになんだか呑気で向こう見ずな感じもして
だけど、それだけにすごく自由で
自分でつくった檻や柵を取っ払って
どこまでも行けてしまいそうな力強さに
ちょっとどきっとした。

私も、もう少しくらいは
自分の未来に無謀なほどの夢を見てみてもいいのかもって。

それが実際に叶えられるかなんてことよりも
子供の時のような、無限にどんな夢を掲げてもいいような
自由を感じてみるのもいいなぁって。


でも、今の自分の夢の描き方も、夢への歩き方も
とても気に入ってるのも本当で。

それは、これまでの
私自身との数えきれないほどの対話の結果だから。

今の私の生き方は、小学生の頃の自分が思い描いた人生では
全然ないかもしれないけど
「味のある良い人生だ」と断言できる。

今、やれることを私らしく
私のペースで頑張れていることが本当に嬉しいし
それはいつか、必ず実を結ぶとも信じている。


あれから数ヶ月経って
はつらつとした雰囲気となった甥は
また、自分の日々やこれからに
新しい夢や可能性を見出したりしているんだろうか。

何にせよ、私はいつでもそれを応援したいと思うし
この先も
あの子とお互いの夢や大好きなこと、大切にしていることを
笑って語り合えるような関係でいられたら

そういう私でいられたら、嬉しい。

改めてそんな気持ちになって、少し背筋が伸びた。

そんなお話でした。


読んでくれて、ありがとう。

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