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【002】11年目に明かす、店名とマークの裏話

オーナーの傍らで見てきた11年あまり分の六角堂を振り返りつつ、自分がオーナーになるにあたって残したい&続けたいと思うものを確認して記していく「100のおぼゑがき」。とても個人的な話なので、これにお付き合いいただくのが申し訳ない。でも、頭も胸もいっぱいになっているので、一度書くことで気持ちを整理しておきたい。

ロゴ・文字試作(オープンの約1ヶ月半前、2013.12.9に試作を始めしている)

昔の資料を見返して思い出す

さて、2つめにすべき大切な確認は何だろう…改めてオープン当初に作っていたデザインや資料を眺めてみた。…12年前のデザインデータはアートボードから拙さが漂い、ひたすら恥ずかしい。そして、ふと気く。なぜ「六角堂」という名前になったのか?ロゴに込めた意味は何だったか?というあたりのことを、すっかり忘れていたな、ということに。

六角形だから六角堂…?

もとの畳屋さん「澁谷製畳所」が2度も角切り*されている建物で、上から見ると変形六角形をしている。空き家になってはいたが形が面白いため、地元のNPO「水辺のまち新湊」さんが発行している絵図に「六角形の家」としてずいぶん丹念に描きこまれていた。それが気になって実際に見に行ったら、見事に夫が雷に打たれてしまった(おぼゑがき000参照)…というのが、もっとも頻繁にしてきた話だ。…でも実はそれだけの理由でこの名前がついたわけではない。

*角切り=すみきり。隅切りとも。家の角を切り取って道路状の空間を増やし、車や曳山を通りやすくする方法

六ってなんか不思議な数字

夫の誕生月が4月、私は5月。人は知らず知らず、自分のラッキーナンバーとか好きな数字にほのかに傾いた生活をしているものだ。私はなんとなく少な目の奇数(1、3、5)が好きだし、夫は4の倍数が好きっぽい。…だから、澁谷製畳所の六角形…「6」という数字には、二人ともあまり愛着がなかった。使い慣れていない「6」という数字をどう捉えるか? 今までほとんど考えも触れもしてこなかった世界に、強引にチャネルをあわせるみたいな感覚があった。お店の名前を決めた夫にも、すでにそこにあるものを受け入れて活かしたいという意識があったと思う。「6」にちなんだ名前にしたいという思いがあるのは知っていたが、「六角堂」にしたいと聞いたとき、私は一瞬…いや結構、戸惑った。なんなら反対した。

最初に「六角堂」ときいて思い出したのは…

夫はいつも、普遍的でわかりやすいネーミングが得意だ。え?その角度で行きますか?っていう感じで。私が「六角堂」ときいたときに頭に浮かんだのはまず、岡倉天心だった。そして、京都の頂法寺六角堂。

茨城県・五浦の断崖に建つ、岡倉天心設計の六角堂は、いわば、日本美術界における聖地と言ってもいいだろう。人生の後半を五浦で過ごした天心が、波の音を聞きながら思索にふけった場所である。

太平洋に臨む岸壁の上に立つ、天心遺跡のシンボル。この建築には三つの意図が込められているといわれています。まず、杜甫の草堂である六角亭子の構造。つぎに、朱塗りの外壁と屋根の上の如意宝珠は仏堂の装い。そして内部に床の間と炉を備えた茶室としての役割。つまり六角堂には、中国、インド、日本といったアジアの伝統思想が、ひとつの建物全体で表現されているのです。

茨城大学五浦美術文化研究所ホームページ>五浦海岸の魅力より

また、京都にある頂法寺六角堂は、華道の家元・池坊さんが住職を務めるいけばな発祥の聖地だ。近年は映画『花戦さ』でも広く知られた。あの映画とてもよかった。…またもや聖地…。

「…いや…恐れ多すぎるでしょ?!六角堂って!そんな大事な聖地の名前使ったら、美術界にも華道界にも怒られちゃうよ!」というのが、私の最初の反応だった。でも、「6」という数字のおかげで、日本の伝統や美しき文化が、今までとはまったく違う自分ごととしてぐぐっと引き寄せられた感じがした。偉人達の視座を追体験する扉が開かれたのだ。…ギギ、ギギ…ギーィ…と。

道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中にも美を見出そうと努めている。宋代のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるが、三教義の傾向を実に立派に説明している。昔、釈牟尼、孔子、老子が人生の象徴酢瓶の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが酸いと知り、仏陀はそれを苦いと呼び、老子はそれを甘いと言った。

茶の本(岡倉 覚三 訳:村岡博)第三章 道教と禅道より

学生の頃は一応文学部だったので、学生生協にならぶ岩波文庫の青いやつから全部行く(読む)、ということをしていた(もちろん読み切れることはなかった)。「茶の本」は読んだ記憶がある。本が薄めだったし。でも、「6」からつながって読み直した「茶の本」は、まるで別モノみたいに私の共感の鈴を鳴らしまくって、体の中に染みわたるようだった。お茶も習ったことない私だけれど、天心の捉える「Taoism」に改めて敬意を表し、「やっぱり、六角堂しかないね…」となった。

「六角堂」つながりはまだまだあった…

のちに、金沢の有名ステーキ屋さんの六角堂があることも発覚した。テレビCMも流れているので、富山県民にとって六角堂といえばこのお店だ。テレビを観ない私たちはそれを知らぬままオープンしてしまったが、当初は関連店舗だと思われる方も少なからずいた。金沢の先輩六角堂さんにもきっとご迷惑をおかけしたことだろう。あの頃は目の前の課題をこなすことに一生懸命で、自分たちが今どんな状況であるか認識することも、それを踏まえたうえで行動することもできなかった。(その後、もったいなくも、オーナーさんがわざわざ足を運んでくださったそうだ。にこやかに。その懐の深さにしびれた。当時のスタッフたちも伺ったそうだ)

そういえば、カフェのリノベーションの建築施工を担当してくれた藤井工業さん(南砺市)の最寄り交差点も六角堂だった。


そして、ロゴマーク。

栃木で、六角形と畳と麻とがつながる

カフェ探訪で栃木に行った際、あるカフェから麻の工房にお邪魔した。そこで、麻が、畳表の経糸(たていと)にも使われていると知った。中央に空洞があって、他の植物繊維よりも通気性や吸湿性に優れているため、高級で丈夫な畳には、たいてい麻が使われている。

麻は、美しく強い。昔から人類の暮らしとともにある繊維だ。日本でも縄文人が来ていた服とかは苧麻(ちょま、からむし)だし、大麻は、今はいろいろ規制があるが、昔から祭祀や儀式に使われてきたものだ。栃木県鹿沼市の麻工房で、六角形と畳と麻がつながってしまい、私たちは大興奮した。…自分たちが選んでいるようで、その巡りあわせは自分だけの力では絶対になしえない。

「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。「道」は道教徒の愛する象徴竜のごとくにすでに反り、雲のごとく巻ききたっては解け去る。「道」は大推移とも言うことができよう。主観的に言えば宇宙の気であって、その絶対は相対的なものである。

茶の本(岡倉 覚三 訳:村岡博)第三章 道教と禅道より

傑作にあやかる、普遍的であるということ

ロゴをデザインする上で一番意識したのは、流行り廃りから遠く、普遍的で親しみやすいこと。そこで、六角形であり、日本古来の伝統柄である麻の葉をそのまま使った。…え?デザインしてなくないかって?…手を加えないという意図があれば、それもデザインだと思う。

大麻の葉をあしらった、六角形の麻の葉文様。麻の葉は成長が早く真っ直ぐ伸びるので、すくすく育ってほしいという願いから、赤ちゃんの産着などにも使われる定番の柄。縁起が良く、魔除けの意味もある。

傑作はすべて、いかにも親しみがあり、肝胆相照らしているではないか。これにひきかえ、現代の平凡な作品はいかにも冷ややかなものではないか。(中略)現代人は、技術に没頭して、おのれの域を脱することはまれである。竜門の琴を、なんのかいもなくかき鳴らそうとした楽人のごとく、ただおのれを歌うのみであるから、その作品は、科学には近かろうけれども、人情を離れること遠いのである。

茶の本(岡倉 覚三 訳:村岡博)第四章 茶室より

1000年の時を軽々と越えて今に至るまで人々に親しまれてきた、非常に耐久性の高い日本の伝統柄にあやかることで、すくすくと末永く、続く店になってほしいという思いを込めた。しかし、ほぼ家紋である。今までいっぱいみてきた模様だ。そして、このロゴマークが新たな意味を持つために、夫は42年、私には37年の時間を要したことになる。

世の中はいろんなものであふれているのに、私たちは利己的で無知だから、語りかけてくれるものにいつも限りがある。だからせめて、広い世界のなかから見つけたほんの些細なものや微かに与えられた機会を、一所懸命に見つめ直し、そこにある美しさに光を当てたい。「愛でる」というのは発見への感謝だと思う。その感謝をいろんな人と分かちあえるなら、これほど嬉しいことはない。

芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。 また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。伝統や型式に屈従することは、建築に個性の表われるのを妨げるものである。
(中略)
道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。

茶の本(岡倉 覚三 訳:村岡博)第四章 茶室より

時空を超えられるカフェにしたい(←え?)

なにげなく足を踏み入れた場所(初めてでもそうでなくても)で、急に、その時そこに立っていることが、今までの自分の人生すべてを集約した瞬間のように感じることってないだろうか。そしてその瞬間が、どうしようもなく美しく愛しいと感じてしまうことが。私はそれを「見えない超時空スイッチが作動した!」と思うことにしている。時代や空間を超えた何か(ご先祖様?宇宙?)とつながったような感じがするからだ。天心が言っている茶室の効果「静寂純潔」って、そんな感じじゃないだろうか。お茶も習ったことない私だけど。

いなかの片隅にあるカフェが、誰かのそういう場所になれたら素敵だ。まずは「簡素清浄」。めちゃめちゃきれいに掃除するところからだけれど…。


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