第3回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~過去と現実の隙間に落っこちてしまった自分を救い出すには~
『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第三回
何故いつもギリギリになってから
行動するのだろう。
何かに急き立てられながら動く
こと自体が趣味であるかのようだ。
アラーム音で目覚めてから
まだ時間もあるなと
もたもたコーヒーを
飲んだりしているうちに、
あっという間に時間が過ぎていた。
メイクを仕上げるのは半分諦めて、
忘れ物はないよなと
無駄にカーペット上を見渡して
勘繰りながら、
バタバタと玄関まで駆けていき
部屋の鍵を掛けた。
最寄の大江駅までは
歩いて七~八分だ。
止めどなく垂れ流れる汗を
背中に感じながら、
日陰の無い歩道を足早に歩く。
大江駅入口の階段を下り、
そのままホームへと続く
エスカレーターに乗ると、
地下を吹き抜ける風が
噴き出ていた汗を撫で、
心持ち涼しくなった。
ホームへ電車が
滑り込む合図が鳴り響き、
慌てて長いエスカレーターを
掛け降り電車に乗り込んだ。
昨日はスマホの着信に起こされ、
起き抜けのざらついた声で
電話に出たのだった。
「矢崎紗英様の携帯で
よろしかったでしょうか。
この度はご応募いただき
ありがとうございます。
是非当社からご勤務して
いただきたいのですが、企業様での
職場見学のお日にちはいつ頃が
ご都合よろしいでしょうか」
私が寝ぼけていたせいもあるのか、
電話口の彼の陽だまりのような口調を
耳にして、ふと生理用品のナプキンを
イメージしてしまった。
肌に優しい女性にやさしい・・・
舌足らずとまではいかないが、
ダやタやザやサの発音に
可愛らしい特徴のある
ゆっくりとした丁寧な喋り方だ。
「あ、ありがとうございます。
日程は、い、いつでも大丈夫
なので、そちらの都合、に
合わせて、できればと」
思った以上に
ぎこちない返答になってしまった。
私が所属することになった派遣会社と
派遣先となる企業側との日程調整の末、
職場見学は
今日の十一時に設定されたのだった。
職場見学という
イベントじみた名称ではあるが、
実際にやることは
面接以外の何物でもない。
職場見学で幾度となく
落とされてきた身の上としては、
この名称には未だに違和感を覚える。
またセキュリティ第一のこのご時世、
実際に働いている部屋を
見学させてくれるところなど
滅多にあったものではなかった。
到着した千夜上(せんやうえ)駅は高架駅で、
駅出口の真正面に地上へ降りられる
エスカレーターがみえる。
そこを降りて行くと、小洒落た
スーパーマーケットやケーキ屋などが
テナントとして出店していた。
高架下を南へ出ると、
学校の校庭くらいある
だだっ広い公園があり、
その敷地内と言っていいのだろうか、
墓石が百基以上は乱立してる
低いブロック塀で囲まれた一画が
目に入った。
その真横で
ちょうど発車を待っている
無人バスの行先を、
ランダウンコードにスマホを翳して
確認すると、
マップ上で目的地が点滅した。
「所要時間14分」と出たので
そのまま乗り込むと、
バスはすぐさま発車した。
派遣先となる
ウルトラボンドラー株式会社に
到着してすぐ、
派遣会社の営業である山本さんと
簡単な挨拶を交わすと、
早速エントランスを入って
すぐ左にある応接室に案内された。
そこでの質疑応答もそこそこに、
品管グループのマネージャだという
隅田さんが、いそいそとした調子で
案内してくれたのは、
私のごく近い未来に
働いているであろうその場所であった。
「ここが矢崎さんに
所属していただく部署です」
隅田さんが開け放ったドアの向こうは、
ジャングルのように
あちこちに積まれた荷物で
ごった返しており、
視界はとても良好とはいえなかった。
見渡そうと思うのだが、
随所に積まれた製品や箱たちに
視線が蹴躓き、思うようにいかない。
向かって左半分が
倉庫のような様相を呈しているのだが、
その合間合間に
黒いどっしりとした実験台が
据え置かれており、
従業員達が所狭しと椅子を並べて
作業している。
まだ見渡しの利く右側半分の地帯が
事務所として扱われているらしく、
その一番奥に見える窓までは、
三、四十メートルはあるだろうか。
厳密に言えば、その事務所側の手前
三、四メートルほどだけ
事務机ではなく、
私の背丈ほどもありそうな
巨大な印刷機じみたものが
二台設置されており、
その隣には通常サイズの
コピー機らしきものが
二台並んで配置されていた。
そこに埋もれるようにして
長机と回転椅子に挟まれる形で
座っていた男性に
隅田さんが声を掛けた。
「近々ロボの縄張りの真横、
その辺りで働いてもらう
ことになる~、かもしれん方です。
あ、ロボ言うんはあだ名ね。
ロボットみたいやから、
そう呼ばれとるんですよ、
なあロボ」
事務所の一番手前の方を指差しながら、
私とロボさんを交互に見返しつつ
面接中のモラトリアムな私を
絶妙な調子で紹介してくれたのだった。
ロボさんは私に向かって
何か挨拶じみたことを
ぼそぼそと発言したようなのだが、
私にはよく聞こえなかったので、
彼の終始爛々とした眼を見詰めながら
「よろしくお願いします」
とだけ言い残し笑顔を手向けておいた。
こんなに何の躊躇もなく、
技術開発部へ案内し、
実験室で行われているモノづくりを、
従業員諸君の手元を指さしながら
説明したり、
何をやっているのか
隅田さん自身不明な場合は
やっている本人に質問したりしながら、
ぐるりと一周して回るなどという
ことは、予想外の流れであった。
そんな風に名実ともに
職場見学という行事が終わり、
エントランスで
総務の方と隅田さんに見送られた。
「お疲れさまでした~」
ナプキンボイスで山本さんが私を労う。
笑顔まで喋り方と同じく
完璧度を欠く綻(ほころ)んだ表情には、
警戒心を
根こそぎ取り去ってしまう力があった。
珍しい八重歯が口元から覗いている。
「僕はこの後、もう少し
先方とお話があるので、ここで。
暑いので
気を付けて帰ってくださいね」
山本さんとは
エントランスを出たところで別れた。
その日の夕方、山本さんから
無事ウルトラボンドラーに
採用されたという連絡があった。
「面接でおっしゃってた通り、
明日から出勤になるんですが、
行けそうです?」
「はい、大丈夫です」
「では今日と同じ
正門前で待ってますんで。
ちょっと早いですけど
八時四十分頃集合でお願いします。
今日は緊張して疲れたかと思うんで、
ゆっくり休んでくださいね」
「…はい、ありがとうございます」
電話が切れた後も突っ立ったまま、
出窓の四角い窓枠の中で
小さく色付き始めた
赤い観覧車を眺めていた。
山本さんの
「ゆっくり休んでくださいね」の
押し売り口調が
妙に耳に取り付いてしまい、
ついさっきまで
暇だしどこか
散歩にでも出掛けようかと
思案していた気持ちも萎えて、
折角出掛ける準備をしていた躰は
その場にへたり込んでしまった。
「もうすぐ生理だから
こんなに眠いんだ」と、
部屋の片隅で
長閑(のど)やかに呟くが先か
一気に眠気が襲ってきた。
死ぬ時もこれくらい
気持ちよく死にたいものだと、
平和なことを思い遣ると同時に、
ぐいと引き寄せてしまった
惰眠の端っこを
貪り始めるのだった——
「逃げても無駄じゃ!
絶対殺したるからなー!」
ここに越してきて以来
一番の声量で叫んだであろう
自分の絶叫で目を開いた。
病気の母が今し方まで
そこにいた気がする。
楓もいたはずだ。
車の中か、いや
昔住んでいた
木造建ての四畳半の居間だ。
隅に置かれたテレビが
夜のニュースを流している。
母がいつものように、
家から一区画分程離れた
西側の道路を走ってくる
父の車のエンジン音を聞きつけると、
「さてとっ」と言って立ち上がり、
台所で晩御飯の
最後の仕上げに取り掛かる。
私と楓は居間の柱に掛けてある
ガムの商品名が入った時計を見上げる。
父が会社の一気飲みイベントで
一位になって貰ってきた景品だ。
「渋滞してなかったみたいだね」
楓が誰に向かってでもなく
独り言のように言う。
運送会社に勤めていた父は、
帰る前に必ず家に電話をくれた。
電話のあった時間から
家に着くまでの時間を
いつも楓と計測して待っていた。
そういえば、
長らく母のもとに帰ってないな。
仕事も漸く決まったし、
落ち着いたら久しぶりに
お土産でも買って帰ることにしよう。
それにしても何に対して
殺したると叫んだのか。……
お父さんの車の音?
父が働いてたのは
私が小学校の頃までだ。
台所を覗くと居たはずの母の姿はなく、
煮物の入った鍋から
焦げた匂いがしている。
居間に戻ると楓も居なくなっていた。
父はいつまでたっても帰ってこない。
その時、
玄関横の窓から
黒い人影が
左から右へ動いたのが見えた。
ふと自分の両手を見ると
何故か血だらけになっていて、
それが自分の血なのか判然としない。
痛みは無い。……
母は病気じゃなかったのか?
父がまだ帰ってこない。
楓は何処へいった——
汗が尋常ではなく、
心臓はここにありますと
主張するかのようなポンプ機能を
フルに発揮して
わたしの胸をバクバク震わせていた。
カーペットに付けた頬を引き剥がし
身体を起こして手を見詰める。
暗がりに白っぽい掌が
ぽっかりと浮かんで見える。
いや、自分は今どこにいるんだ?
お母さんもお父さんも病気でしょ?
え、違ったかな…
「私は…今……」
さっきまでの混乱していたリアルが、
輪郭を伴いだした自分の部屋の
実感とともに夢へと変わっていく。
そうじゃん、
お父さんもお母さんも
とっくに死んだんじゃん……
右頬を指先でそろそろと撫でると
カーペットの跡が付いて
でこぼこしていた。
その指先も右頬も、
溢れ出る涙ですぐに濡れてしまった。
【YouTubeで見る】第3回(『ノラら』紗英から見た世界)