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第6回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~あなたはただ"本物の生きた人間 "だとインプットされている"つくりもの"かもしれない。3Dホログラムの物質化~

『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第六回

総務に居た女性に更衣室まで案内され、
そこでユニフォームである
上着を渡された。
縦長に狭い更衣室には、
もう既に従業員が六~七人いて、
それぞれがロッカーの前で
脱ぎ着しながら
暑いわねとかお先にどうぞとか
言い合っている。
特に話しかけられることもなく
着替えを済ませて廊下に出ると、
待っていた総務の女性が、
今度は就業場所へと案内してくれた。
更衣室の真向かいだ。


ドアを開けてもらい中へ入ると、
始業時間前ということで
ライトがほとんど点いておらず薄暗い。
従業員達は
暗がりに埋もれるようにして、
実験室側にある各々の椅子に着席して
コーヒーを啜ったり
スマホを眺めたりしている。
そんな実験室の間を
案内されるがままに通り抜けていき、
事務所側に座っていた
品管マネージャの隅田さんのもとへ
辿り着いた。
「ではここで」
と一言だけスッキリと言い置いて
ソツなく去っていく女性の後ろ姿を
心細い目で見送っていると、

「矢崎さん宜しくお願いします。
 席はこの島の一番向こうね。
 実験室に近いから
 色々騒音でうるさいやろけど、
 そのときは言ってね、
 直接うるさい!って
 怒鳴ってやってもええから」

と気の利いた笑顔を添えながら
デスクのパソコンを立ち上げてくれた。
そのあと隅田さんは、
同じ島の奥に座っていた社員を
手招きして私の近くに呼び寄せた。

「このおじさんが
 今日から矢崎さんに
 仕事を教えてくれることになるから、
 よろしくね。
 ほんまオッサンばっかでごめんね。
 品管はオッサンしかおらんから
 申し訳ない。
 こちらは吉岡さんです。
 僕より年上ね」

そう言って
隣りに呼び寄せた吉岡さんという社員を
私に紹介した。
続いて隅田さんが
吉岡さんに私を紹介する。

「こちら矢崎さんです。吉岡さん、
 この季節はただでさえ汗掻くんやし
 加齢臭に気を配るという意味でも、
 程よい距離感で教えてあげてね」

そう言い終えて
ニコニコ笑いながら
自席に戻る隅田さんに

「うっさいおっさん!
 お前それセクハラ言うんやぞ。
 加齢臭加齢臭って
 人をなんやと思てんねん、
 ほんならもっと
 汗掻かんでもええような仕事に
 まわしてくれよ」

と、応戦している。
吉岡さんは私の方へ向き直ると、

「そんなん言うても冗談やから。
 加齢臭なんてまだないよ、
 というかあるにしても、
 ちゃんとケアてるから!」

と目尻に刻まれた皺を
心置きなく寄せ集めて
優しそうに笑って見せた。
釣られて
愛想笑いをしようとしたそのとき、
下腹部にあのスース―したものが
舞い降りてきて、
少しぷるっと腫れぼったくなった
膣の口から
何かがヌッと飛び出たのを感じた。
昨日の晩あれだけ
「ナプキンと痛み止めを
 バッグに入れる」
と、脳内で連呼しまくっていた
にもかかわらず、
コンビニでご飯を買った途端、
一切合切忘れ去ってしまったのだった。


よりによって仕事の初日に。
知り合いの居ないこんな場所で、
準備のないまま
生理痛に襲われようとしている自分を
不甲斐なく思った。
生理からくる寒気で
血の気が引いていく自分の顔を、
宙に浮かび上がったもうひとりの私が
俯瞰している。
ログインされたばかりの
パソコン画面に浮かんでいる
コマンドボードに視線を合わせたまま
フリーズしてしまった矢崎紗英など
お構いなしに、
空中をぷかぷかと漂っている私は、
笑いながらくるくるスピンして
事務所の空を転げ回って見せる。

「どうか…した?」

という吉岡さんの後退する声に
我に返って顔を上げた。

「いや…たった今
 生理になったみたいで。
 生理痛ももうすぐ来るっぽくて」

と心細げに言うと、

「お、そーか。
 …どうしてらええんやろ。
 だいじょうぶ、か?」

不意を食らったような、
木魚みたいな顔をして
一瞬辺りを見渡すと、
すぐまた私に向き直ってそう言った。

「だいじょうぶです。
 ただナプキンも痛み止めも
 持って来てなくて。でもあの、
 女性陣に聞いてみますんで。
 誰かは持ってらっしゃると思うんで」

初対面だというのに
余りにも正直に
打ち明けてしまったことを後悔して、
大丈夫だとアピールするために
ほんの少し元気よく言った。
誰に聞けばいいだろうと
辺りに目を泳がせると、
手当たり次第、女性と目が合う。
やはりこの部署に
私という異物が混入した初日とあって、
異物の動向を危険がないかどうか
チラチラと確認しているのだろう。
思い過ごしか自意識過剰か。
いや、宙に浮かんだもうひとりの私は
全部知っている。
ここで働く女性陣とも
きっとあまり上手く接せられないまま
契期を終えるであろうことも——


どこかで発生したさざなみが、
私の子宮に痛みを引き連れ到達し、
ズーンと垂れ籠める
不穏なリズムとなって大波を打ち返す。
生理初日は、不意に襲ってくる大波に
ひたすら耐えるしかない。
生理になっても
無痛で過ごす女子がいることを思うと、
やはり私の子宮には
何らかの異常があって
痛みを発しているという因果律を
思わない方が不自然だ。
こんなことを思って
気持ちまで無駄に傷む。
やっぱり一度病院で
見てもらわなきゃいけないよなあと
毎月この期間は思うのだが、
思うに留まり生理が明けると
ケロっとしたもので
ナプキンの不快感から解放された
爽快な気分にかまけて、
痛かったことなど
記憶の果てへ忘れ去さられる。
……どうしよう、
ナプキンよりも痛み止めが欲しい。


「よし。ちょっと待ってて。
 すぐ、五分くらいで帰って来るから、
 取り敢えずパソコンで遊んどいて!」

吉岡さんはそう言い残すと、
散らかった実験室を
ドタドタと突っ切って
東扉から出て行ってしまった。
その素早い動きに
呆気に取られたまま
扉をぽかんと見詰めていると、
その扉のすぐ手前で作業している
ロボさんと目が合った。
面接のときに紹介してもらった
唯一の人だ。


「どーも」という具合に会釈をすると、
向こうも「どうもですね」という具合に
爛々とした瞳で会釈を返してくれた。
そのまま数秒間、
間の悪いかんじで
見詰め合う態勢となってしまい、
気を遣わせてはいけないなと思って、
一度目を逸らせてから、
もう一度彼の方へ
そっと向き直ってみた。
彼はすでに
実験台のほうへ視線を落とし、
手元の辺りで
なにやら青く発光している小さな物体を
丁寧に観察している。
なんだろう。
メタリックな光沢。
動いてる?
目を惹く青。

ロボさんの手元で揺らめいている
青い物体へ
気持ちを乗り出していたその時、
圧倒的な生理痛が我が下腹部を襲った。
その激痛に堪え切れず
眉際に力が込もる。
そんな状況でも、
何の青が彼の目前で動作しているのかを
知りたいという欲求が勝り、
腰を屈めもって
ロボさんの傍ら目掛け、
凝る身をおぞおぞと進ませていった。


やっとの思いで
辿り着いた私が目にしたのは、
不規則なリズムで青く煌めく蝶だった。

「……蝶?」

私の呟いた声に
ロボさんの顔がピクリと反応して、
こちらを見上げた。
目玉をウルンと動揺させつつ、
きゅっとすぼめた唇を
ほんの少し開けて
何か返事をしようとしている。

「んす……す、そ、
 そそうですちょうです」

ぎこちなくそう言い終えると、
ロボさんは飛び回る蝶の翅に
自分の左手を近づけて
そっと指先で触れてみせた。

指先に当った蝶は、
その反動でよろけながら
私の方へふらふら飛んでくると、
そのままちらちらと舞いながら
態勢を整えて、
今度はロボさんの指先に
すっと止まった。
休息するかのように
翅を閉じたり広げたりしている。

「生きてるみたいですね」

そう言ってから、
そう言ってしまったことを後悔して
ロボさんの瞳から眼を逸らせた。
それでは
「本物ではないんですよね」
とわざわざなんの情緒もない
余計なことを言い置いただけで
興ざめではないか。
するとロボさんがまた口を窄めて、

「……生きてますよ!」

と、何かから
後頭部を引き剥がすかのような勢いで
首を縦に振りつつそう言った。
その反動で指が動いたのか、
蝶は驚いたように
青く発光しながら飛び上がると、
私達の目の前を小さく舞い続け
——それは決して実験台の外へは
 出て行かないのだけれど——
とても自由気ままに
遊んでいるように見えた。

「ん~堀戸さんが……ん~、
 堀戸さんて方が居て、あそこに。
 今赤い軍手して
 飼育ポット弄(いじ)ってるひと。
 んーと、彼がこの超新蝶を
 自由に飛べるように、
 きっ研究してくれているんです」

ロボさんが小さく指差した辺りに
視線を向けると、
黒い艶のある頭頂部をこちらに向けて、
透明な筒状のものに
計測器をあてがいながら
寸法を測っている人が目に入った。
計測を終えてふっと顔を上げ
工具を握るなり、
次はそれを分解し始めた。

——少年のよう——

この言葉はきっと
彼のような人に使うために
生まれたのだと思わせる程に、
ふと覗かせた顎の細い輪郭は、
嫉妬するほど色が白く、
見つめるものすべてを
青く鎮めてしまいそうな
涼し気な目をしていた。
世間に擦れすることを
やりそびれたまま
大人になってしまったような、
罪悪感という類の言葉を知らない、
悠々たる高貴な視線を、
目の前の仕事に手向けていた。


研究してるって何をだろうと
疑問に思ったけれどそれは聞かずに、
相変わらず目の前で飛び続けている
青い蝶に向き直ると、
その蝶を揶揄(からか)うように、
自分の手を左右に振りながら
近づけてみた。
指先に留まったその蝶を、
まじまじと眺めているところへ、
また生理痛の波が
下腹部の底から押し寄せる。
指先から手の甲へと
こそばゆく歩き回る
艶やかな青を見詰めながら、
全身の動作を一時停止して
痛みに堪える。

「この蝶が、
 あの筒状の飼育ポットに
 入れられて販売されるんですか」

平静を装いながら、
そうロボさんに尋ねてみる。
さっきから私の甲を
よたよたと這う蝶に、
息をふーっと吹きかけると、
きれぎれに翅が風に靡(なび)いた。
鱗粉が飛んでいきそうなほど
繊細に描き出された翅脈(しみゃく)と、
ざらつきのある輝きを
散らかすように、
ぎこちなく震える動きが妙にリアルだ。

「んーと、スっ、そうではないですね
 飼育ポットに入ってるのは。
 ——んーと、
 入れるのはこの子の方です」

ロボさんはそう言って、
実験台の引き出しを滑りにくそうに
ガタガタといわせながら開けると、
中から何やら摘まんで
取り出してみせた。

黒い実験台に
そっと置かれたその物体は、
今目の前で遊び回っている青い蝶と
なんら違わぬものに見える。
ただ、
青くぎらつく翅を広げ切ったまま、
微動だにせず
そこに横たわったままでいる。

「もう、そうですねこちらは
 黄鉄鉱を加工した
 新素材で出来た超新蝶で
 バージョンは2.0です。んんーと、
 こんなふうに物理的に
 実存してしまうので
 いくら強度が高まったとはいえ
 飼育中にこの子自体が
 外傷を負うなどして
 扱い方によっては
 破損してしまう可能性を
 内包しています。
 動作不良もあり得ます。んーんと、
 この子は飼育ポット内でのみ
 動作可能なのです、例えるならば
 既定のOSでなければ
 動作しないソフトのようなもの
 ですね。うんーんと、んと、
 この今目の前で
 飛び回っている超新蝶のほうは
 テトラグラフィを利用して
 映し出されたもので、
 僕らは超新蝶2.0以下と
 区別するためにプレαって
 呼んでます。このプレα自体は
 いくら触ったりしても
 壊れることはありません、
 電気系統やテトラグラムそれ自体さえ
 異常をきたさなければ…んーと、
 簡単に言えば
 そうですねそんなかんじで
 把握してもらってだいじょうぶです。
 うんんー、んとあとはですね、
 こっちの2.0も開発段階だと言えます
 …安定した3.0を来年の八月に
 リリース予定ですが、
 会社で決定されている
 新製品のリリースサイクルが早過ぎて
 そもそも飼育ポットの開発に
 最善を尽くせていないまま
 リリースしてしまうのが現状です。
 今年こそは満足の行くものを出すぞと
 デジタイズグループの面々は
 宣言してますが、毎年のことです。
 あ、っと、そ、っその前に、
 ボディカラーや
 飛翔パターンのバリエーションを
 追加して
 マイナーチェンジした2.1が、
 来年の二月にリリースされますが。
 くッ…プ、プレαは
 テトラグラムを使って
 映像通り飛ばせますが、
 2.0は物理的に
 動作させなければならないので
 思った通り飛翔させるには
 想像以上の精緻さが必要です」

始めの言葉が出てきにくいのか、
ときどき目をしょぼつかせながらも、
ロボさんは私に向って
懸命に超新蝶についての解説を
施してくれた。
ただひとつだけ疑問が残る。
そのことをロボさんに尋ねるために、

「でもなぜプレαのような、
 CGの世界っていうんですかね、
 この——」

と話しかけた瞬間、
東扉がガバッと開け放たれて、
息も切れ切れの様子で
吉岡さんが突入してきた。


【YouTubeで見る】第6回(『ノラら』紗英から見た世界)


【noteで読む】第1回(『ノラら』紗英から見た世界)

【noteで読む】第5回(『ノラら』紗英から見た世界)

【noteで読む】第7回(『ノラら』紗英から見た世界)

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