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第8回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~感じるままに生きていると出会う~
『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第八回
その日から吉岡さんは、
私に付きっ切りで
仕事を教えてくれるようになった。
仕様変更書類や解析品の進捗管理、
新製品のサンプル作成、
クレーム品のピックアップ作業と
データ化、
品質状況の月次報告と
国内外業者へのフィードバック、
出荷止めや再出荷処理、
不良品の手直し…と、
覚えることは山ほどあり、
私にとってはどの作業も
一々新鮮だった。
数ヶ月もすると、
それぞれのタスクに対する
無駄な処理や慣行に
細かな疑問は抱きながらも、
担当分の仕事は
なんとか転がせるようになっていた。
それでも新しいことは
減少するどころか
増大しているような錯覚に陥るほど、
ここではやることが
そこかしこに転がっていた。
吉岡さんは
「わからんことは何でも聞いてや。
けどそんなに根詰めんとな。
息抜きこそ仕事の醍醐味やで」
と、私には終始
優しい言葉を掛けてくれた。
長身ですらっとした細い脚に、
はっきりとした目鼻立ちの顔、
今でこそ落ち着きのある
大人な四十代の佇まいだが、
若い頃はヤンチャだったのだろうと
思わせる口調や仕草を
チラホラ覗かせる。
足元はいつも
素足にローファ―という、
一般的にはおしゃれと
呼んでいいのか分からない
微妙な領域のスタイルではあるが、
何故か吉岡さんがそれをすると、
似合ってしまうから不思議である。
いつも手入れの行き届いた
ヘアスタイルからも、
美容院へ行く頻度や
髪型へのこだわりが見て取れる。
いつだったか、
仕事中に何の気なしに
髪型について質問したことがあった。
「吉岡さんのかけてるパーマ、
おしゃれですよねニュアンスあって。
なんていうスタイルなんでですか」
突拍子もない質問で
驚かせてしまったのか、
彼は手に取ろうとしていた
ドライバーを滑らせて
床に落としてしまったのだった。
絶句したかのように硬直したまま、
「すまんすまん」と言って
ドライバーを拾うと、
気を取り直すようにして肩を回し、
製品の分解に取り掛かりつつ、
私に向けての言葉を探している。
「そんな、おしゃれなことないて!
パーマ?
パンパカパーマやでこんなん。
おっさんがかけるもんは
ロクなパーマちゃうから
気にせんといてや?
…なんか、ごめんな」
妙に大きな声で
自分の髪型を卑下したあと、
謝りの言葉まで添えたのだった。
そういえば、いつの日からか
吉岡さんは私を
下の名前で呼ぶようになっていた。
品管グループのみんなからは、
「吉岡は矢崎さんが来てから
機嫌がいい」と言われて、
なんだかそういう感情が
面倒臭いものにも思われた。
そういう感情とは
どういう感情だろうと
考えようとするのだが、
「好かれる」という言葉から
派生した、もっと生理的に
行き詰ってしまうような、
魚を流水に晒しながら
鱗を取る時のあの
引っ掛かりのような、
取れると気持ちいいけど
その後ヌメッとして気持ち悪い
というあの感覚に近いのかもという
微妙な例えに行き着いただけで、
それに対する思考は
膠着(こうちゃく)してしまった。
昼になると一緒に食堂でご飯を食べ、
日によっては二人で
近所の食処へ出掛けて行き、
定食を奢ってもらったりもした。
この日もいつものように
会社の食堂で
吉岡さんと並んでご飯を食べていた。
私達のテーブルから
五、六列向こうにある
窓際のテーブルで、黙々と
ざる蕎麦を啜っている堀戸さんを
遠巻きにチラチラ
視界に入れつつ食べるのが
私の習慣になっていた。
今日も五分で食べ終えたなと
電波時計の方へ
目玉だけ動かして確認し、
またすぐ堀戸さんを見る。
彼はそそくさと
食器を洗い場に返却すると、
階段を上がって
二階へと消えていくのだった。
「堀戸さんっていつも
この二階で何してるんですかね」
と味噌汁を啜り終えてから
吉岡さんに尋ねてみた。
「知らん。寝てるのんちゃう?
あいつなんや変わってるやろ。
あいつこそロボっていうあだ名が
似合ってる思うねんけど、
図焼きの熊谷が
すでにロボいうあだ名やん?
まあ堀戸の場合
あだ名つけたところで
呼ばれる機会あんま無いやろけど」
と、無表情のままご飯を抱えて
柴漬けをポリポリいわせている。
「あいつ前の職場で癇癪起こして
辞めさせられたらしいわ、
詳しいことは知らんけど。
発達障害かなんからしくて、
そこ辞めた後うちの会社の
障がい者枠で嘱託として
来ることになってんて。
ほらうち、最寄駅からも遠いから
募集掛けてもあんま人集まらんやん?
そんな問題起こしたやつ
雇て大丈夫かって
上のやつらは言うてたらしいけど、
耐久試験やら地道な実験やらを
やれるような障がい者が
なかなかな、来てくれんでなあ。
んで堀戸は一見、
なんて言えばええの?
普通のって言うん?
普通の人のように会話も成立するし、
あいつロボットみたいに
指示されたこと正確にやりよるし、
パソコンとか機械いじりとかも
経験あって得意やから
ええんちゃうか言うて。
それにまだ若かったしな。
あの頃でまだ二十にも
なってなかったんちゃうか。
それ以来デジタイズグループで
試験やら開発やらを
やってくれてるねん。
ちょっといちいちやり方が
神経質過ぎて
周りにはめんどくさがられてるけど」
私は「ふ~ん」と気の無い返事をして
吉岡さんの横顔を一瞥した。
「さき行ってますね」と言って
食器を片づけ、
「え、どないしたねん」という声を
後ろに追いやりながら、
私は二階へと続く階段を、
いつ振りかぐらいの
軽快な足取りで駆け上がって行った。
階段を上りきると、
薄暗い廊下の突き当りにある一室から
小気味よい音が聞こえてきた。
開け放たれたままの扉の奥は、
室内に漏れ入る外の光で
フレアがかって見え、
それがなんだか
異次元の世界へと繋がっているような
錯覚を起こさせた。
ひんやりとした空気が辺りを包む中、
眼を細めながら光の方へと歩を進める。
そっと部屋の中を覗き込むと、
堀戸さんがこちらに背を向けて
卓球台越しに
引っ付けた壁と向かい合って、
ひとりでラリーをしていた。
その一律に弾(はじ)き合う
安穏とした音色を乱さぬように、
日溜りの中へと
ゆっくり足を踏み入れた。
彼の背中から
視線をあまり逸らさぬようにしながら、
近くに放置されていた
古びた事務椅子にそっと腰を下ろした。
肩幅くらいに構えた足の立ち位置は
微動だにしない。
その両足に履いている靴が、
私の今履いている靴と同じ型の
コンバースであることに気付いて、
一瞬ひやりとする。
確認する気持ちで
自分の足元に視線を落とすと、
右足の靴紐がほどけていた。
しつこく履き過ぎて
黒のキャンバス地が
茶色く色褪せてしまっている。
そろそろ買い替えなきゃなと思いながら
椅子に座ったまま足元へ
両手を伸ばして結び直していると、
さっきまで聞こえていたはずの
小気味よい音が何処かへ消え去り、
辺りを包む空気が
静まり返っていることに気付いて
ぱっと顔を上げた。
さっきまでラリーをしていた堀戸さんが
ラケットと白球を
それぞれの手に握り持って
こちらを振り返っている。
私と目が合うと
スタスタとこちらへ近づいてきた。
「どうぞ」
警戒する猫のように
硬直してしまった私へ、
彼は予想外の言葉を投げかけた。
彼の両手から差し出された
ラケットと白球を
戸惑いつつ受け取ると、
澄んだ眼に引き付けられるようにして
椅子から立ち上がった。
「ラケットもボールも沢山あるから、
それ使ってもらって
だいじょうぶです」
そう言って部屋の隅にある
木製の古ぼけた戸棚へ歩み寄ると、
ガサガサと
いくつかラケットを取り出しては
ラバーの具合を確認しはじめた。
何からどう動き出すのがベターなのか
思案しながら
「卓球台、もうちょっと
こっちに動かしてもいい?」
と壁に引っ付けられた台を
指差して問うてみた。
彼はこっちを振り向くと、
「うん」と言って軽く頷いて見せた。
「ここにあるボール、
ほとんど割れちゃってる。
昔は本田のジジイが
ボールの新調してくれてたんだけど」
戸棚を漁るのを諦めた彼は、
卓球台の移動を手助けしてくれながら
話し始めた。
「本田のジジイ?」
端正で透明感のある顔立ちから
ジジイという言葉が
突如出現したことにハッとしながら
言葉をなぞる。
「デジタイズグループで僕が
仕事教えてもらってた人なんだけど、
二年前に定年退職したんだ。
卓球も本田のジジイに
教えてもらった」
淡々と話す彼を
運び終えた卓球台越しに見遣る。
彼の後ろから差す逆光が
まるで後光のようだ。
私の俗世に擦れ切った風体を曝け出す
順光が憎たらしい。
手持ち無沙汰になり、
持っていた球を
台にバウンドさせて一先ず打ってみた。
球はネットを乗り越えて
無事彼に打ち返される。
ぎこちない私の打ち手に合わせて
球のやりとりをする。
台を打つ音は、
ポッツンポツンと
微妙な間をとって
リズムを成してくれない。
俗っぽい自然体を装って、
不格好に続いているラリーに
乗っかりながら、また会話を試みる。
「その本田のジジイさんと
二人だけで卓球してたの?」
「うん、基本ふたり」
会話はすぐさま完了し、
ラリーの音が全休符の役目を果たす。
再び思いついた質問を繰り出す。
「たまには三人?」
「うん、ジジイが若手社員を
たまに連れてきてたけど、
みんな次の日にはもう来ない」
卓球台を打ち返す乾いた球の音が、
会話に合いの手を入れる。
「よくふたりだけで
飽きなかったんだね」
「うん飽きるよ。
飽きるからやるんだろうね。
『おりゃ卓球やっために
会社来ちょるんだで』が
ジジイの口癖だった。
今思い出した」
微かに笑った彼の声に気をとられて、
もしくは、
飽きるのにやるとはどういうことだと
素直に躰が反発したせいで、
球を打ち返し損ねた。
ただ続いていただけのラリーが
中断する。
「あっ、ごめん」
卓球台からはみ出した球は、
部屋の隅まで転がっていった。
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