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第26回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~だとしたら今の僕は、"最果ての僕" が意図した範疇でしか、行動し得えないのではないか~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第二十六回



僕らはオフィス街の隙間を縫うように
北へと向かって歩き出した。
紗英さんはよく
この辺りまで散歩に来るらしく
「意外とマンションが多いでしょ」
と言って、通り過ぎていくマンションを
見流していた。

確かに、この街は
オフィスビルしかないイメージが
僕にはあったが、
それと同じくらいに
マンションがそこかしこに乱立している。
マンションやオフィスに灯る
窓の明かりを見上げながら、
見知らぬ人々の生活する気配を想像した。


大き目の交差点に出ると、
急に斜め前方の視界が開けた。
横断歩道を渡った向こう側の道路は
橋になっていて、
その下を東から西へと川が流れている。
交差点を渡り、
橋の中間に辿り着いた時、
紗英さんは立ち止まって
「古真衣川っていうんだよ」と
川の名前を教えてくれた。

僕らは古真衣川橋の欄干に寄り掛かって、
流れゆく川や
その向こう岸に広がる街の夜景を
暫く眺めた。
紗英さんの香りが、
気紛れに流れる風と糾(あざな)い、
僕に届く。

「堀ドンもロダモやってるの?」

彼女は頬に纏わりつく後れ毛を
耳に掛けながら、
ちらっと僕をみて訊ねた。

「やってるっちゃやってるのかな。
 プレイリスト組んで自分で聴くために
 アカウントは持ってるよ」

僕の返答に
彼女の黒目が大きく輝いたように見えた。

「そうなの?私達なんで今まで
 ロダモの話しなかったんだろね。
 フォローしていい?」

と勢いづく彼女に、「いいよ」と言って
僕のアカウントの
ホーム画面を見せたのだが、
彼女は急に
「いや、やっぱやめとく」と言って
そっぽを向いてしまった。
分かり兼ねる言動に唖然としていると、
彼女が付け加えるようにこう言った。

「堀ドンのプレイリスト、
 ロダモで聴けるようになっちゃったら、
 カセット借りる機会
 なくなっちゃうでしょ?」

なるほどと一瞬思ったが、
借りなくて済むほうが
便利なんじゃないだろうかとも思った。

「知らない曲、
 最初はカセットで聴きたいから。
 フォローしちゃったら、
 借りる前に絶対聴いちゃうでしょ」

彼女はじっとこちらを見詰めながら
僕に言い含めるようにして
あらたにそう付け加えた。
向こう岸で煌めく無数の窓明りが、
二人の会話を聞いて
クスクスと揺れているように見えた。
紗英さんは続けて話す。


「ヨッシーも
 ロダモやってるみたいなんだよね」

それを聞いて、
僕はさっきまで居た店で
吉岡さんはロダモをやってないと
言っていたことを思い出したが
「そうなの?」と訊き返した。

「だって私ときどき見てるから、
 ヨッシーの投稿。
 フォローはしてないけど」

紗英さんはまだ何か言いたげに
黒く光る川波へ視線を躍らせている。


「ビッチって言葉の意味、知ってる?」
「うん。なんとなくだけど」

彼女はスマホを取り出すと、
ロダモを開いて何か検索し始めた。
暗がりでスマホの画面が蒼白く発光する。
夜を反射する川面からは、
パシャンと魚の跳ねる音がした。


「ビッチ女が今夜もしっぽ振って
 俺からのエサ待ち中」
「施しを乞う金のないビッチ女ほど
 無様なもんは無いな」
「たいして可愛くもない
 茶髪のビッチが
 最後の若さを振り絞って
 俺に纏わりついてくる、ウゼ」
「俺の一言で
 クビにもできる派遣ビッチのくせに
 会議で堂々と意見すんの止めてほしいわ」


魚の居場所を探しかけていた僕に向って、
ビッチという単語の入ったセンテンスを
まるで短歌でも詠むように
淡々と読み上げていく。

「それが吉岡さんの投稿してる文なの?」
「うん。他にもたくさんあるけど。
 これ多分私のことだよね」

親指で画面を繰りながら
それを僕に見せて来る。
そのアカウントのヘッダーには
「吉岡」と書かれた名札の写真が
セットされていた。
写真の背景からして、
それは明らかに
会社のデスクに置いてある
吉岡さんのバッジだった。
アカウントの名前は
アルファベットで「Yoshi」。
肝心のプロフィール画像は空白だった。

紗英さんはどうやって
このアカウントまで辿り着いたのだろう
という疑問は浮かんだが、
今どきどうとでも
見つけ出すことが出来そうな気もした。

執拗に検索する紗英さんの姿を
想像してみたが、しっくりこなかった。


「別人みたいな文章だね」

思ったことをそのまま言ったが、
自分自身でもその平凡過ぎる言葉に
無意味さを感じた。
時々橋の上を車が通り過ぎる音が
呆気なく遠ざかっていく。
夜の静けさが際立つ。


「ヨッシーと顔合わす度に
 複雑な気分になるんだよね。
 私も大人だから
 普通に振舞えてはいると思うけど」

「本人に確認してみれば?
 なんか訳があるのかもしれないし」

僕の凡庸な回答に呆れたのか、
彼女は大きく溜息を吐くと、
憂いを帯びた目で
目下に広がる川の底へと視線を沈めた。

「ヨッシーが弁解してくれたところで、
 この体感は変わんないよ」

彼女の言葉に対して、
僕はまた
「何かの間違いかもしれないじゃん」と、
パンチに欠けた物言いをした。

彼女はちらっと僕を見遣った後、
夜空を振り仰いで軽く深呼吸した。
僕の頭ではこれ以上のアドバイスは
出来そうになかった。
それなのに僕は、
まだ紗英さんに向って
何かを伝えずにはいられなかった。


「なんでそんなに蝶が好きなの?」


これは、つい今し方
彼女が発した言葉だったのだと思う。
今まで会話していた内容からは
余りにもかけ離れた唐突な質問だったので、
もしかして僕の中の誰かが
僕に悪戯で
質問したのかもしれないなどと、
よっぽど変な疑惑を抱きながらも、
そんな想像をせずには居られない程に、
僕へと届いた紗英さんの声には
不思議なエフェクトが掛かっていた。

彼女の柔らかい視線が僕に注がれている。
戸惑いながらも、
彼女の質問にゆっくりと答えてみる。


「——僕はただ観察してるだけだよ」

彼女の頬が街灯の明かりを含んで
淡く発光して見える。
僕は遠慮がちに言葉を続ける。


「蝶が花に留まるのは、
 ただ感覚器の反応に従った結果だよ」

これでは
答えになっていないのかもしれない。


「でも、
 そうじゃないのかもしれない
 と思ったんだ」

僕は、自分がまだ幼かった頃に見た、
自宅の庭先を飛び回る
アオスジアゲハのことを
思い出してそう言った。


小学二年生だった僕は、
宿題を済ませてしまった後、
家のリビングで当時ハマっていた
スピノサウルスのペーパークラフトを
組み立てている最中だった。
ふと手を止めて顔を上げた僕は、
何気なくテラス窓の方を見遣った。
開け放った窓の向こうで、
青い翅をした一匹の蝶が、
全力で飛んでいる姿が目に飛び込んで来た。
庭に植わっていた
マーガレットの白い花を見つけると、
それに掴まり翅を立てたまま
しばし留(とど)まっていた。

それを見た僕は
「いつかと同じだ」と
何故だか深くそう思った。
その瞬間から、
僕はその青い蝶が次に何処を飛ぶのか、
さっきまで何処の公園を飛んでいたのか、
いつ蛹から羽化したのかも、
全てを鮮明に知り得てしまったのだった。
いつメスに出合い、交尾をして、
何処で死に絶えるのかも、
僕はこの蝶の全貌を、
その蝶自身の内側から
目撃させられたのだった。

僕は束の間、青い翅をした蝶になっていた。

「いつかと同じだ」と既視感を抱いたのは、
僕なのか蝶なのか判然としなかった。
目撃させられた青い蝶の記憶は、
全体の一部でしかないと認識したのは、
僕だったのか、蝶だったのか―

すごろくのように、
決まりきった道のりを
振り出されたサイコロの目通りに
進んでいるように見えた。
ただ、そのすごろくには、
はっきりとした
始まりと終わりのようなものが
あるわけではなかった。
転がり落ちたサイコロの数字すら、
すごろくに描かれた道と同じで、
予め決まっていた―

アオスジアゲハが
庭先から姿を消すと同時に、
僕は目の前のペーパークラフトに
視線を戻していた。
何事もなかったかのように、工作に戻った。
そしていつもどおりに、
幾何学的な形をした
スピノサウルスが出来上がった。
ただ、このときの僕には、
自分が完成させたのだという
実感はなかった。
誰か別の何かがそれを作ったかのような
余所余所しい感覚があった。
感覚があったという表現も
違うかもしれない。
「僕という感覚を失った」という方が
適切な気がした。


この日を境に、僕は何をするにも、
常にエレベーターに乗っているような
妙に浮ついた空間からの分離感を
抱えるようになった。
食事をするにも、誰かと会話するにも、
僕がしているのではなく、
僕らしき人が何かしているといった
第三者的な立ち位置から
観察することでしか、
空間に介入できなくなってしまっていた。
二人羽織の後方にいるような感じ
とでも言おうか。
あまりしっくりくる例えではないのだが、
何せ何かにつけ、
具体性に欠けた感覚が付きまとった。
あれ程ハマっていた
ペーパークラフトへの興味は失せ、
宿題をした後は
昼寝をしてしまうことが多くなっていった。

学校へは変わらず登校できていたし、
授業もきちんと受けた。
テストなどの成績も変わらなかったが、
授業中に先生に当てられると、
答えが解っているにもかかわらず
無言のまま立ち尽くすということが
増えていった。
給食当番や掃除を
サボるような行動が目立つようになり、
放課後に職員室へ呼び出されたり、
親が学校に呼び出されたりすることも
多くなった。
両親はそんな僕を悲観することもなく
以前と変わらず淡々と
僕に接していたように思う。
少なくとも僕にはそう見えていた。
最終的に親も含めた大人達の話し合いが
なされた結果、
僕は集団生活が不向きだということで
三年生から「なかよし学級」に
通うことが決まったのだった。

なかよし学級担任の信岡先生の
児童に対する寛容さも相まって、
その頃から僕は
「蝶を観察する僕」を
極めて好んで選択するようになっていった。
今現在のこの僕が
紗英さんから見ても
蝶好きに見えるような伏線は、
この時に敷かれていったのだと思う。
もしくは、
今のような僕が
ここに居られるようにするために、
何者かが小学生の彼の元へ
アオスジアゲハの遣いを
寄越したのかもしれない
とさえ思えるのだった。
だとしたら今の僕は、
最果ての僕の意図する範疇で
行動していることにならないだろうか―


小学二年生の春から
巧(たく)まずして始まった
僕自身の身体や空間からの
離脱感のようなものは、
結局高校三年生の夏の終わりまで続いた。

質問への答えを、
僕の記憶の中で探しかけていたところに、
足元がふわりと浮つく
眩暈のような不思議な揺れが僕を襲った。
グワンという音とともに、
橋の上をトレーラーが
横切っていくところだった。
その振動が橋の上に立つ僕にまで
伝播したらしい。
紗英さんも揺れを体感したらしく、
周囲の気配を感じ取ろうと
物音に反応する小動物のように
はっと静止した。
その振動は
トレーラーがもたらしたものだと
分かった途端、
僕を振り返って小さく笑った。

彼女はひとつ大きく息を吐くと、
手にしていたスマホを突然僕に見せながら

「やっぱり堀ドンのロダモ、
 フォローするよ」

と言って、僕にアカウントコードを
表示するように促した。
僕のコードを読み取った
紗英さんのスマホ画面に、
誰にもフォローされたことのない
僕のアカウントがポップアップ表示された。
紗英さんはフォローボタンを押すと、
茶目立った口調で
「私がフォロー第一号ですね」と言って、
鼻腔に響く澄んだ声でクスクスと笑った。


橋を渡り終えたところからは
大江駅へと続く商店街が北へと延びていた。
商店街の中間辺りに大江駅があり、
そこから北へと続く商店街は
アーケードが設置されている。
紗英さんとは大江駅で別れた。
彼女はアーケード街ではなく、
大江駅から東へと延びる
交通量の多い大通り沿いを歩いていった。
家まで送ろうとしたが、
紗英さんは
「そんな気を遣わないで」と言って
僕の申し出を断ったのだった。


しばらくの間、
僕は橋の上で交わした会話を反芻しながら、
自宅へと帰っていく
彼女の後ろ姿を眺めていた。

結局何処へも思い至らぬうちに、
僕は改札口へとつづく階段を
駆け下りて行った。



【YouTubeで見る】第26回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


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【noteで読む】第25回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第27回 (『ノラら』堀戸から見た世界)



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