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第15回 第一章 最終回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~感傷的反芻からの脱却には、数年を要した~

『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第十五回(第一章 最終回)



母の葬儀も終わり、
燃え残った骨も
早々に納骨堂へ納めに行った。
父の骨もそこに納めてある。
楓はバイトで午後から出て行ったので、
私は久しぶりに
家の中でひとりきりになっていた。

今から何処かへ
出掛けるような元気もわかず
手持無沙汰にしていたが、
母の手荷物やタンスの中を
整理することを思い付き、
母の使っていた和室へ行った。

部屋に入るやいなや、
畳に薄っすら残っている
母の吐血した跡が目に入る。
その横によいしょと尻もちをつき、
母が入院する度に使っていた
小さなボストンバッグを傍に引き寄せた。

入っていた携帯を取り出して中を見たが、
着信履歴も
メッセージの送受信も
きれいに消去されていた。
母は生前元気にしていた頃から
携帯のあらゆる履歴を
毎日消すという習慣があった。
理由は分からない。
何か自分たちに
残されたメッセージはないものかと
携帯中を探してみたが
全く見つからなかった。

そんなことをしているうちに
強烈な眠気に襲われ始めた私は、
いつの間にか眠ってしまっていた。


その時見た夢は、
まるで現実世界での
出来事だったかのように
今でも鮮明に覚えている。


私は真っ暗な空間に立っていた。
真っ暗で何も見えなかったのだったが、
なんだかとても
気持ちのいい場所に来たなと
自分は思った。
すると私の目の前に、
死んだはずの父が
忽然(こつぜん)と現れた。
父の全身からは
光がほんわかと放たれていて、
そのお陰で真っ暗な中でも
父を認識できた。
失明しているはずの父の眼は、
まるで見えているかのように
私の眼を真っ直ぐに見つめている。

「紗英」

そう呼ばれた気がしたが、
父の口は動いていなかった。
ただほんわかと発光している父の顔は
至極穏やかで、
私を見つめたまま微笑んでいる。
父は細く痩せた両腕を大きく広げて、
私を抱き寄せた。
父の腕に包まれながら、
私は桜を見ていた。

父の背後には、いつの間にか
一本の力強い桜の幹が生えていて、
私達の頭上からは、
その桜の花びらが
はらはらと舞い落ちていた。

「ありがとうな」

という父の声が
耳元で聞こえた次の瞬間、
もう父は桜の木と共に
遠くに行ってしまっていた。
私は夢の中で、
父はお別れを言いに来たのだなと思った。

暗闇の中で
距離感の掴めないほど
遠くに行ってしまった父を見ながら

「今まで何もしてあげれなくて、
 ほんとにごめん」

と言おうとするのだが口が動かない。
そこで目が覚めた。

重くなった躰をやおら起こして、
しっぽりと畳の上に座り直した。

「なんで桜やねん」

さっき会っていた父に向って
突っ込んでみたが勿論返事はない。

「お父さんが死んだのは、
 夏真っ盛りの、
 楓の誕生日だよ」


そう呟いたのを切っ掛けに、
私は幼少期に
母と過ごした一場面を
思い出していた。
それは父の運転で、
何処かへ出かける車中だった。

後部座席、
まだ小学生だった私の隣に
母が座っている。

「死ぬなら
 こんな気持ちのいい季節がいいわね」

川沿いを走っていた。
車窓からは川に沿って
延々と続く桜並木が見えた。
母はバックミラー越しに
父に話しかけている。
どういう件(くだり)でそんなことを
母が言うことになったのかは
忘れてしまったが、
その言葉は
当時まだ十にもなっていなかった私に
衝撃を与えた。

毎晩死について考えては
恐くなって母を揺り起こし
困らせていたような時分の私には、
死ぬ季節について希望を語る母が、
死さえもコントロールできる
無敵の超人にさえ思われたのだった。

ついさっき見た夢の中には
母も居たのかもしれない。
もしくは、母が桜に姿を変えて
父と現れたのかも知れないと
思おうとした。
両親が何らかのメッセージを暗示として
私の夢に託したのだと思いたい一心で、
夢から醒めた時間が経過していく程に、
独善的な付加解釈がなされていった——

そんなことを一頻り夢想し終えると、
私は座ったまま
部屋の隅にあるタンスまで移動して、
一番下の引き出しを開けた。
防虫剤の小気味好い香りが
鼻先まで届く。
そこには薄手のセーターやら、
長袖のシャツなんかが
折り目正しく畳まれ
平積みに収納されていた。
それらはつい今し方、
母の手によって
そこに収納せられたかのように
生き生きとして見えた。
そこから目に付いた
藤色の柔らかいセーターを取り出して
広げて見た。
広げた瞬間に、
母の匂いへとすり替わる。
母がその服を着ている場面が
ありありと思い起こされてくる。
ついさっきまで思い出していた
幼少時代の川沿いのドライブで、
母はこの服を着ていたような
気がしてくるのだった——

——私はたまに母の腕に寄り掛かって、
母の服から漂う清潔な香りを嗅いで
安心を得ようとしている。
母は私の頭に自分の頬を摺り寄せて
私の甘えた態度に応えてくれる——……


私は、手にしていたセーターを
おもむろに顔へ覆い近づけた。
瞑っていた両目から、
堰を切ったように
涙が溢れ出てきた。
小さい頃に母の膝の上で
よくそうしたように、
私は押し寄せる悲しみを剥き出しにして、
呆れるほど轟々(ごうごう)と
咽び泣きつづけた——


気が付くと、
バスタブから溢れ続ける湯で、
ユニットバスは
便器のある床のほうまで
水浸しになっていた。
静かに流水し続けている蛇口の栓を
右手でゆっくりと締めた。

涙の雫に浸りながら、
長い髪の毛を石鹸で洗った。
その泡を全身に滑らせるため、
貯めたばかりの風呂の湯を抜いた。


「そうだ。
 何はともあれ、
 まずはラケットを買おう」


ふいに、
点けっぱなしになっていた
部屋のパソコンのことを思い出し、
風呂上りに
ネットで卓球用のラケットを
探そうと思い立った。

ついさっきまで
家族との暗雲とした思い出に
浸り込んでいた自分とは思えないほど、
すっきりとした声で
そんな独り言を呟いていた。


泡に塗(まみ)れた全身を
勢いよくシャワーで洗う。
臙脂色をした風呂場の樹脂壁に、
白い水飛沫(しぶき)が舞う。


新品のラケットを手に入れて、
一ヶ月後には
堀戸さんを負かしてしまうくらい
強くなっている自分を想像する。

「私ね、
 卓球するために会社来てるんだよ」


実験室で、腰を落として、
さもプロ選手のように
ラケットを振りながら、
吉岡さんや堀戸さんに向って
そう呟いて見せる自分を思い描く。
ふたりとも笑ってくれるだろうか。

風呂場に掛かっている
小さな鏡の中で、
髪の毛を豪快に拭く自分の顔が
笑顔を作ってみせた。
泣き腫らした瞼だけが嘘みたいに、
笑う顔の上に鎮座して、
殴り合いでもして来たかのような
雰囲気を醸し出していた。
その顔は今まで見たどんな顔よりも、
不敵なまでに憎めない
素っ裸の自分の顔だった。



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【noteで読む】第1回  (『ノラら』堀戸から見た世界)

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