第5回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~労働の本質を考える。"月並み" の世界だからこそ生まれてしまったカテゴライズワードの "罠" ~
『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第五回
結局私が落ち着いた先というのが
派遣という働き方だった。
期限付きの三ヶ月程度で
ミッションが終了するものを選んで
初めて働きに行った先の仕事が、
自分には偶然合っていたのをきっかけに、
短期募集の案件を探してきては
期日まで働くということを
繰り返すようになった。
数打ちゃ当るなのか、
地元に戻って来て二年もすると
働くということの要領も
掴めるようになってきた。
ただ、同じ派遣会社に
登録しているだけでは、
気に入る仕事は湧いてこないので、
短期で終われることを大前提に、
自分に合いそうな
仕事内容のものを見つけては、
それを募集している派遣会社に登録して、
職場見学という面接を熟していった。
私は未だに、
自分の本当の履歴書を見たことがない。
過去の散々な職歴を
一々覚えていられないのだから
履歴書にも書きようがない
ということもあるが、
仕事に応募する度に、
職歴は次の仕事に合いそうなものだけを
ピックアップして記載しているうちに、
本当の履歴書など
必要ないというのが現実なのだと
思い知らされるに至ったためでだった。
不実だらけとは言わないまでも、
職歴を多少偽装していることに関しての
罪悪感は特に無い。
と、敢えてここに表明することに
何か自己肯定欲求みたいなものを
見出してみても別に構わないが、
罪悪感を持つ必要など無いという
結論に至った理由も、
こじつけなりとも説明はできる。
ある優良会社の技術企画グループに
派遣で数ヶ月程、
分析・情報収集の仕事で入職した際に、
そこで知り合った男性と
半年程付き合ったのだが、
向こうの両親と対顔したときに、
父親からこんな話をされた。
「うちも派遣社員は雇とるんじゃが、
如何せん何処の馬の骨かも
分からん奴を雇うわけやから、
それに伴うリスクも
馬鹿んならんでなぁ。
結局、こないだ雇た女なんぞは、
しょっちゅうマネージャと
煙草休憩に行くもんで、
ほんまにどないした奴じゃと
呆れとるところじゃわ」
彼の父親は中堅の部品会社で
平取を務めているらしく、
面接も担当しているとのことだった。
派遣で働いていると自己紹介して
すぐにこの話をする時点で、
この父上は私から、
「立派な出来損ないジジイ」
の認定を受けたのだった。
枯渇した脳みそのまま
死にゆくであろうジジイに私は、
「正社員でもクソが付くほど
仕事がデキないばっかりに
延々と下らない作業を
残業代発生させてまで
自席にへばり付いてる疫病神が
わんさかいますよね。
大変ですね、
何処の馬の骨かしか
判然としていない正社員を
雇用するなんて尚更」
と自分でも驚くほどの喋々しさで
応酬したのだった。
付き合っていた彼からは
後日あっさり振られてしまった。
何処の馬の骨かも
分からなくなるまでには、
その「馬の骨」の上に
「失敗」やら「道草」、
「遠回り」やら「若気の至り」等が
降り積もっている必要がある。
それらの降り積もった下敷きにある
馬の骨々が、
こうして派遣で働いている
という解釈が
今の世の常であり、
そんな人生を
世間が良しとしないのならば、
いくら職歴を正確に記載し
誠実な対応をしたところで、
向こう側の
不誠実な魂胆を前にしては、
こちら側は
馬鹿を見て終わるだけなのだという
結論に至ってしまったわけなのだ。
「あー胸糞わり。
なんともつまらんことだ」
目覚めてからどれだけの時間、
空(うつ)けた顔で
夜の出窓をみとぼけていたのだろう。
とっくに陽の沈んでしまった
外の世界からは
ビル街の淡彩な明かりが入り込み、
自分の頬が
白っぽく照らし出されているのを
視界の隅で感じた。
なんだか最後には
怒りを胸に上京した
ロックンローラーのような境地に至り、
何をどうしてこんな記憶を
ぶり返すことになったのか
思考を遡(さかのぼ)ろうとしたその時、
胃の方から鈍く唸る音がした。
自分は今、
忍ばれぬ程の
空腹状態であることに気付くと、
コンビニへ向かうために
乱れた髪の毛をくくり直した。
マンションを出ると、
斜め向かいにある居酒屋の店主が、
スーツ姿の酔客達と
暖簾の前で立ち話をしていた。
仕事終わりに行きつけのこの店へ
立寄ったのであろうサラリーマン達が、
名残惜しそうに振り返り手を振る。
店主はふら付く足元達に
優しい眼差しを向けながら、
何か言葉を投げ掛けつつ
暫(しばら)く見送っていた。
漸(ようや)く気が済んだらしい店主は、
店内に戻ろうと
暖簾の裾(すそ)に
片手だけ引っ掛けたのだが、
突然振り返って、
思いついたように何かを見上げた。
その方角には、
洗い立ての月がポンと浮かんでいて、
素っ裸の夜空を煌々と照らしていた。
「ああ月だな」
と確認事項を確認するかのように
心で頷き、
視線を居酒屋へ戻すと
店主はもう
暖簾の向こうに消えていた。
人は月を見るんだなと、
また凡庸じみたことを思い、
その凡庸さに何故か自分は
「こういう世界で生きているんだな」
とも思った。
その膨らみかけた月を見て、
もうすぐ来る生理のことへと
思考が飛んだ。
二十六日サイクルで
赤いアイツはいつもきっかり
股の下から顔を出す。
明日にでもスース―した痛みが
何処からともなくやってきて、
私の下腹部に暫く滞在するのだろう。
「ナプキンと痛み止めを
バッグに入れる」
そう念じながら
月明りに照らされ始めた街に混ざって、
コンビニのある方角へと歩き出した。
翌朝、
正門前に着いたのは
待ち合わせ時間の十五分程前だった。
始業時間が近づくにつれて
人通りが多くなることを懸念し、
正門を少し離れようとしたときに
山本さんから連絡があったのだった。
「山本ですおはようございます、
今もう現地です…よね?」
「あ、はい…おはようござ…」
「あの矢崎さんすみません!
突然なんですけど、
今日私ちょっと別件のトラブルで
他社さんに出向かなくちゃ
いけなくなりまして。でですね、
矢崎さんおひとりで
総務まで行って入職手続きして
いただきたいんですけど、
どうでしょうか
…だいじょうぶですかね?」
「…あ、はい、だいじょうぶ…です。
大変ですね」
「いや、こちらこそほんとすみません。
急で申し訳ないんですか、
よろしくお願いします!」
代替の営担を急に現場まで
送り込めるはずもないのだから
大丈夫かどうか聞いても
仕方なかろうにと思うのだが、
聞くのが人としての常識なのだろうし、
それも仕事のうちなのだろう。
こんなことは珍しくも無くて、
営担が来られないことなど
今までに何度もあった。
派遣会社なんて噛まさなければ
こんな面倒臭いやり取りは
要らないのにと何度も思ってきた。
わざわざ早目の時間に
待ち合わせる必要も無くなる。
だが、今のところ世の中は
この派遣システムを便利だと認めて
多用しているのだから、
こちらとしても
上手く利用せざる負えない。
よく知らない零細企業に
アルバイトで行って、
契約も律義に結ばない
フリーダムな働き方を
させられるよりも、
律義に契約を交して
お互いのために伏線を張って
仕事をするほうが
私の性には合っている。
ただ、
契約期間が予め設定してある部分が
企業間で重宝されているのだとしたら、
いつでも切って
人員の増減を容易く調整できるという
派遣の機能を
正社員という雇用形態にも
適用してしまえばいいのにとも思う。
そもそも正規とか非正規という、
こちらは本物で
こちらは偽物ですみたいな、
どうでもいいカテゴライズワードを
生み出す羽目になった
この世の労働とは一体なんなのだろう…
兎に角、
人なんてどんどん入れ替わればいい。
若しくは
いつでも入れ替われるのだという
自由さを、
目に見える形で提示していくべきだ……
こんな仕様もないことを、
「二十代一般女性その①」が
性懲りもなく黙想しながら、
一人で正門をくぐる。
入門時に顔認証は疎(おろ)か、
カード認証すらなされないこの会社では
守衛に会釈をすると、
特に不審がられもせずに
易々と総務部まで辿り着けてしまった。
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