私にとって家族とは #6
私にとって「家族」とはなんなんだろう。
お久しぶりです、禾田です。
大学の後期授業が始まり、朝から晩まで勉強の毎日を送っております。
専門分野の勉強と国家資格に向けての勉強、それと個人的に取得したい資格や検定の勉強と読書……。
記事の更新をすっかり忘れておりました。
書きたいことはたくさんあったはずなんですが、どうにも思い出せないので直近で考えたことについて書こうと思います。
「家族社会学」という講義
私の履修は、資格課程でいっぱいです。
国家資格を受けるにあたって、履修しなければならない講義が多く、「何を履修しようかな〜」なんて悩みはむしろ羨ましい悩みだな、と感じるくらいです。
そんな私が、資格課程とは関係ない講義で履修したのが「家族社会学」です。
1週目から「家族」の定義を問われて、ずいぶんヘビーな講義だな……と思いましたが、答えのない問いに食らいつくのは好きなので、15週かけて家族とは何かを理解してやろう、と意気込んでおります。
親は? 別居する兄弟姉妹は? 死別した祖父母は?
じゃあ育ての親と生みの親は? ペットは? 離婚したらどうなるの?
「家族」とは案外曖昧なものだな……
これが私の素直な感想でした。
「家族」に含めるべきか、含めていいのか、いやこの人は家族だろ、……え、違う?
腑に落ちるところと落ちないところ、納得出来ずに唸っていれば勝手に進む講義。
うんうん言いながらも楽しく勉強できる私がいるのは、他の誰でもない「私の家族」のおかげなのです。
私の家族
私は会社勤めの父親と、専業主婦またはハンドメイド作家の母親、6歳上の兄と私の4人「家族」ですくすく育ちました。
祖父母やいとこもいますし、仲は良い方ですが、ここで言う家族は「両親と兄」もしくは「両親と兄と私」のどちからを指すことにします。
「家族」の難しいところが出ましたね、もう。
ここからは私の主観なので、両親がどういう意図でそうしていたかはわかりません。真偽は問わず、主観で進めていきます。
禾田家の人間
我が家は子どもを子どもとしてではなく、禾田家の人間として接することが多い家庭でした。
それ故に兄妹を比較されることも無かったですし、逆に幼い頃から何をするにも責任は自分にあると言われてきました。
「お母さんの人生じゃないし」という言葉は耳にタコができるほど聞きましたが、私はこの言葉が大好きです。
私の人生だということと、母親の人生じゃないことを再認識させてくれる言葉は、何かを決めるときにとんと背中を押してくれるような気がします。
禾田家の母親は「禾田うずらという子ども」に対して無責任なように見えて、「禾田うずらという人間」に対しては的確な対応を取っているのです。
父もとい出資者
我が家はプレゼン形式だ、と説明することが多々あります。
プレゼンというと固く畏まったように聞こえますが、実際は父親に対して根拠を持って説明に臨み、説得しなければならないだけです。
禾田家の父親は出資者です。
今も今までもお金に不自由のない生活を送れているのは父親のおかげであり、私はそれを知った時点で、お金をかけても良いと思ってもらえなければならないと解釈しました。
出資者にお金を出してもらうにあたって、「こいつにはお金を出してやってもいいだろう」と思ってもらう必要があるためにプレゼンが必要なのです。
うまく説得できないときはこのシステムにイライラすることもありましたが、今となっては物事に根拠を持たせる力を身につけられるいい機会だったと感じています。
まとめとあとがき
こう見ると、禾田家はずいぶんと面白いかたちの「家族」ですね。
「家族」というものの定義が難しいのは、人それぞれ異なったかたちの「家族」を持っているからこそ広義が難しいのだと思います。
ただ、私は「家族」はいるに越したことはないと思っています。
そう思うのはきっと「禾田家の人間」として育ててくれた母親と、「出資者」である父親、似た思考を持った兄がいるからで、その3人に助けられてきたと自認しているからなのでしょう。
今回は「家族」についていろいろ考えてみました。
このご時世、家族のかたちも在り方も様々ですから、私の思考を押し付けるようにことはしません。
むしろ、皆さんが家族に対して思っていることはそのままでいるべきだと思います。
不定期更新にはなりますが、また記事を更新した際にはさっとでも目を通していただけると幸いです。
禾田。