映画マイ・ブロークン・マリコ感想


マイ・ブロークン・マリコ。
原作はこれ。

以下ネタバレには一切配慮していません。

原作に出会ったのはいつだったろう?
結構前だった気がする。コロナ禍には入っていたはず。たぶん、一年か二年ぐらい前、正確な時期はわからないけど、一話目がネットで話題になっていて読んだ。僕のアンテナにピンと引っかかったわけだ。
一話を読んで、パンチの効いた話だと思った。特に遺骨を盗んで逃げるっていう展開に驚いて、なんかすごいものを見せられたという感じがした。

一話のざっくりとした流れは以下。


主人公のシイちゃんは昼飯を食っている時に、テレビのニュースで親友のマリコが死んだと知る。マリコにラインや電話をしてみるが、返事は返ってこない。
翌日、シイちゃんはマリコのために何かができないか考えていた。
中学時代からシイちゃんとマリコは友達だった。ある日、二人は花火をする約束をしていた。シイちゃんが待ち合わせの公園で待っていても、マリコはやってこない。痺れを切らしたシイちゃんはマリコの家へ出向く。部屋の前で、マリコの父親がマリコを虐待しているような音が聞こえてくる。シイちゃんは必死にマリコの家の玄関のドアを叩く。出てきたのは、殴られて顔を腫らせたマリコだった。
シイちゃんはマリコの遺骨のことを思いつく。包丁を持って、今度こそ父親からマリコを救うため実家へ向かったのだ。
シイちゃんはセールスのフリをしてマリコの実家へ入り込む。マリコの祭壇の前に父親がいる。シイちゃんは父親からマリコの遺骨を奪い取る。マリコの父親は怒り狂って襲ってくるが、シイちゃんは包丁を使って威嚇する。そして、父親の過去の罪を暴き出し、その隙をついて窓から飛び出して、遺骨を抱えて逃げていった。


これが一話の流れ。この先どうなるのだろうと思っていたが、その先の話は読まなかった。自分の観測範囲に続きが流れてこなかったからだ。単に忘れてただけなのだけど、毎日の暮らしの中で新しい情報が出ないものはあっという間に忘れられていく。それがネット社会!なんつって。

それから時が流れて、この作品のこともすっかり忘れていた頃、Amazonで単行本が出ているのを見かけた。Kindle版を買った。(完全電子書籍派なので)さくっと読んだ。

マイ・ブロークン・マリコは全四話構成の短編だった。僕が知らなかった残りの三話は、ぶっちゃけ何も起きない。遺骨を盗んだ後、衝撃的な展開は何もない。展開のピークはマリコが死んで遺骨を盗んだ一話で終わってしまっているのだ。

だからといって、面白くないわけではない。

これはシイちゃんとマリコの物語である。そして、その関係性はマリコが死んだ一話の時点で終わってしまっている。関係性は変わりようがない。変わるのは主人公であるシイちゃんだ。二話以降の展開は、シイちゃんがマリコの死を受け入れ、一歩踏み出すまでの旅を描いているのだ。


と、やたらと前置きが長くなったわけだけど、ここからが映画版の話。


映画版のマイ・ブロークン・マリコは原作を忠実に再現して、それ以上を目指そうとした意欲作だと思った。原作ではスピード感を出す為なのか、さまざまな描写が割とあっさりしている。細かいところまで突っ込んで描写されていない。

対して、映画版では原作に忠実でありつつ、実写化するにあたり足りない部分を補足している感じだなと思った。実写なので人が演技して、セリフを言って、間が入って、時間をかけて鑑賞することになる。だから、漫画のようにテンポよく鑑賞することができない。あっさりとした描写だと、展開が早すぎてよく分からない感じになるんじゃないかと思う。だから、そういったシーンしっかり補足することで、シイちゃんとマリコの関係性の描写がより濃密になった。入り込むことができた。よりエモくなった。マリコの痛々しさがより切実なものになった。

原作を読んだ人は、そういった意味で満足できたんじゃないかと思う。

映画版で補足されているのは基本的にシイちゃんとマリコに関わる部分だ。シイちゃんが遺骨を盗むシーンで、マリコの父親と母親にはドラマが色々ありそうなことは匂わされているけど、そこが深掘りされることはなかった。おそらく、そこを掘ってもシイちゃんとマリコの物語にはノイズでしかないということなのだと思う。

あと、シイちゃんを助けるマキオ。あの役の人がすごくいい味を出していた。ボクトツとした感じの役にピッタリとハマっていた。追加された駅のホームで見送るシーンもキャラが出てて良かった。

原作も映画もシイちゃんは最後まで深掘りされない。マリコの唯一の友達で、中学からタバコを吸っていて、友達がマリコしかいなく、家族との関係も不明で、おそらく不仲で、ブラック企業で営業をしている。シイちゃんはマリコとの関係から浮かび上がるだけだ。

シイちゃんがマリコの遺骨を抱えて独白するシーンで

あんたは
どうだったか
しらないけどね
あたしには
正直あんたしか
いなかった

っていう部分がある。
このセリフを映画版で見てグッと来たんだけど、結局、シイちゃんにはマリコしかなかった。中学、高校、社会人になっても変わらなかった。それを自分でも認めている。シイちゃんを描写する場合、細かいパーソナルな情報を加えるよりも、マリコとの関係を深める方がいい、ということなのかもしれない。


この映画の微妙だったなと思った点は、実写化したことで、シーンが補足されて自然な流れになったことで、リアリティが上がったことが問題になっている気がする。

例えば、シイちゃんが遺骨を盗むシーンで父親に啖呵を切るところでは、混乱した場面なのに、説明台詞みたいに見えてかなり違和感があった。漫画版ではそこまで気にならなかったのに、実際の演技として見るとそんな理路整然としたセリフを言える場面か? という疑問が浮かんできた。

中学時代、シイちゃんがマリコの家の玄関を叫びながら叩くシーンも、演技によってかなりオーバーな感じになってる気がした。

そして何より、フルフェイスのバイク男、あの存在の浮き具合が半端ない。原作では物語を動かす装置として数コマしか出てこなかったフルフェイス男だが、映画版はで描写後増えることで存在の意味がわからなくなってしまった。田舎のバス停で引ったくりをする、田舎の人気のない海で地元の女子高生を襲う、という人間性皆無の犯罪者。原作では物語の舞台装置でしかなかったけど、映画でリアリティが出ることで、こいつの存在は何なんだろうという疑問しか出てこなかった。

映画の制作者もこいつの扱いは困ったのかもしれない。深掘りしても何も得るものがない。襲われる女子高生は突然ではなくバスで出会う形にはなったが、基本的にシイちゃんにもマリコにも何も関係がない。何もドラマを産まない。だからフルフェイス男は不自然だけど放置するしかなかったのかもしれない。


とはいえ、実写化をして生じた違和感は、おそらく枝葉の部分で、この映画の本質ではないと思う。

この映画は関係性の密度を上げることで二人の物語の完成度を高めた。そこが重要なのだと思う。シイちゃんとマリコの、このどうしようもなく、全てが手遅れで、あまりに救いのなかった悲劇の物語は映画化によって完成した、のかもしれない。

映画を見てほろほろと泣いたけど、見終わったあとは少し微妙な感情があった。それは先にあげたの違和感が大きくて気になっていたのが理由。だけど、家に帰って原作を読み返して、映画を思い返し、物語を味わってみると、なんだか、とてもいい映画だと思えてきた。

なんでだろうね。よくわからないけどエモかったんだ。
おわり😁




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