crimes
朝井リョウの「正欲」を読んで、私はこの人の文章を初めて読むのだが、たぶん就活アレコレの本とか、部活のアレコレとか描かれた本もこんな感じで進むのかなぁとぼんやり思った。現代の娯楽小説として本当に巧いし時代を読んでいるし面白かったけれど特に感情を揺さぶられたりすることはなかった。自分は作品の好き嫌いに共感という軸はれていなくて、共感できなくとも素晴らしい作品や情緒を揺さぶられるものがあると思う。
読者の8割くらいは八重子と検事と田吉にイライラさせられるようにできているし、実際イライラしたけれど、はたしてこの「多様性」から漏れ落ちた人代表の水に欲情される方々が、もしマミフィケーションやズーフィリアなどハードコアな性的指向をお持ちだったりする場合、それでも受け入れる!となるのだろうかと思うなどした。あとフィクトセクシャルとかだった場合もどうなるだろうとか。そして諸橋大也がいわゆる端正な顔立ちではなく、凡人であった場合でも、八重子は受け入れるのか?とか疑問が渦巻く。終盤以降の八重子と大也の喧嘩(?)のシーンはなんだか苦手で(申し訳ない)、最近の邦画でよく見る「あなたのことわからないから、本音でぶつかろうぜ!」みたいなのめちゃしんどい。
この小説における自分の居心地の悪さは、映画「逆転のトライアングル」を見た時の感覚に似ている。SNSでの繋がり、あるいは「議論」という傘を被った村社会吊し上げ大会を見させられている感覚。理解しがたいものに対する排斥。
この小説の中で好きな文章がある。
これらはそれぞれ違う登場人物が発した言葉なのだが、ここになんとなくだが著者の意地悪なところが垣間見えた気がしたし、考えるってなんだろうなと思った。
そういえば、クローネンバーグのクライムズオブザフューチャーを見たことを思い出し、身体改造に癖を見出さない自分はへぇーと思いながら見ていたけれど、人間の欲望をメインであろうがアングラであろうが関係なくあそこまで「芸術」に昇華させてしまうパワーみたいなものに圧倒された。身体改造、うちなる美。内なる美を品評するのは誰か。癖を万人が住む世に御開陳するのは胆力がないとできないことであるが果たしてそれは罪なのか、否か。自分の知らない世界はまだまだある。
この記事が興味深かった。イヤーマンには元ネタがあったのか。あと全然関係ないけど劇中に出てくる食事を補助する機械が食べにくそうで笑ってしまった。