
忘却のアポカリプス 2話
2話
『おいで、シャクス』
少年が何もない空間に漆黒の短剣を突き刺し広げた所から出てきたのは、巨大な甲羅をつけた手足の短い四足歩行の生物だった。
青緑のドロドロ滑る皮膚に茶褐色の亀の甲羅、50センチ程の鋭い牙が口横から2本飛び出し、温厚そうに見える大きな瞳とは裏腹に、猛毒を塗した紫色の長い舌が獲物を求めてチロチロと動く。

「……どうせならもう少し可愛らしいコを呼んで欲しいものね」
小声で悪態を突いた瞬間、何かがイリアの真横をすり抜けた。支柱が酸のような液体で溶かされたのだ。
天井もバランスを崩し、奥の何かが倒壊した音がドドォンと響いた。
「ああもうっ、これ以上壊されたら後処理が大変なのよ!」
流石にこれ以上中で戦うのはリスクが大きい。神殿の中も、地下も避難している民が大量にいるのだ。
覚悟を決めたイリアは魔物の攻撃を避けつつ外へ飛び出した。
『ふふっ広い所に出られてよかったなあ、シャクス。好きなだけ暴れていいよ!』
少年は魔物の脊髄に漆黒の短剣を投げつけた。
『《解放》』
紡がれた言葉と共に、魔物に刺さった黒い短剣が稲妻に貫かれたような赤い光を放つ。
「まさか、アウトサイダーを強制的に《解放》させると言うの……? そんな事をしたら」
『ボク達に残された方法はこっちを破壊するしかないんだ』
強制的に能力を限界まで《解放》させられた魔物は半径二キロ程まで深い地割れを起こし、大きな咆哮と共に全身の血管をビキビキと浮立たせ、黒い模様を全身に宿した。
瞳は赤い光を帯び、青緑の皮膚も黒鋼鉄に変化し、鋭い牙を持つ顔は三つに分かれた。
猛毒を持つ舌は絶えず唾液を溢し、ボタボタと異臭の強い酸で大地を腐らせていく。
強烈な腐敗臭に思わずイリアもローブの端で口元を覆った。
「《召喚》ウィンブルフ!」
顕現した風の竜は辺りに蔓延る臭気を一気に吹き飛ばしたものの、何故か魔物に攻撃する前に姿をかき消した。
風の竜で神殿に回った炎まで打ち消せると思ったが、この周囲一帯に禍々しい気が満ちており召喚魔法の威力が半減している。
この魔物が《解放》したのも変異の要因なのかも知れないし、アウトサイダーが2人いる影響なのかは分からない。
『だから言っただろう、お前の魔法じゃ勝てないって。抵抗しないで大人しく死ねよ』
「くっ……」
エレナが焔に飛んでまだ一時間も経過していない。例え馬を全力で走らせたとて四時間以上を要する道のりだ。
それに、彼女の存在を危険ではないと認識出来るのは【威】にいるディオギスのみ。夜中に果たして彼とコンタクトが取れるものなのか。
動きにくいローブの裾を乱暴に破いたイリアは杖を召喚型ではなく攻撃型にシフトした。威力が弱まった魔法ではあの甲羅を破る事が出来ない。
「何とかしなければ……」
視界の奥に燃えるクレセント大神殿が映る。
カシム達は無事地下に逃げ込めただろうか。シェルターは確実に生き残れるよう《結界》が張られている。
やるべき事は時間稼ぎだけでいい。奥の手はまだ残されている。
『ギャァオオオオオン!』
「えっ……?」
焔の到着にしては早過ぎる。まだ何も撃っていないのに、三つ首のうち一つが突然だらりと機能を停止した。
残り二つの首が自身の周りにいる何かを執拗に攻撃をしている。
巨大化した体躯で見えなかったが、敵の中心部に剣を突き刺す人物が見えた。闇の中でも鮮やかに煌めく金色の美しい髪。
「リーシュ!」
「ったく、こいつ本当に臭えな。あまり近寄りたくねえけど──」
軽口を叩きながらリーシュは銀色の剣を敵の頸椎部分に突き刺し、首の神経を切った。
二本目の首も機能を停止し、残り一本の首も急所を突かれて硬直したまま動きを止めた。
そのまま魔物の頭頂まで飛び、少年と目が合った瞬間、リーシュは口元を緩めた。
「ガキの遊びにしちゃあ随分と派手な事を」
招かれざるものには《魔装具》しか通用しない。長年の研究結果によりそれだけは判明された。
しかし、リーシュが今握っているのはクレセント大神殿の騎士達が使っているただの銀の剣だ。切れ味も能力もごく普通。
少年はリーシュの顔を見て何かに気づいたのか口角を上げると一気に距離を取った。
「おい、逃げようったって──」
『逃げる? ははっ、バカが! 《再動》せよ、シャクス!』
少年の呼応に絶命した筈の魔物が再び動き出した。しかも完全に機能を再生させた三つ首がそれぞれ長い舌を伸ばし、リーシュの両腕と首を絡めとる。
「ぐっ……自己再生能力、こんなに、早いなんて」
招かれざるものはランクによって自己再生能力を持つと言われている。遭遇して生き残り兵士からのデータが少ない為、研究はまだ初期段階だが。
「くっ……」
力が一気に抜ける。視界は揺らぎ、左手に握られていた銀の剣が虚しく落下した。硬化した敵の舌を切る武器はもう手元にない。
『そいつをあの御方の所へ連れて行くぞ』
少年が再び異空間を開いた瞬間、イリアの杖が白く光った。イリアの瞳も青から赤へと変わる。
「《解放》を許可します! リーシュ・フォレスト。──全てを司る熾天使よ、盟約の名の下に今一度、彼に魔を破壊する力を与えたまへ」
『今更何をしても無駄だ。シャクスの舌は剣では切れない』
「《召剣》、セラフクライム!」
異空間から飛び出した剣は熾天使に認められし炎の中をたゆたう“剣自身が明瞭な意思を持つ“という特殊な剣だった。
常に使い手に問いかけ、審判を下す。魔へ傾いた時はその剣により裁きを受けるとまで言われている。
『主よ、了解した』
セラフクライムはリーシュの頭の中を瞬時に読み取り、彼の両手を絡める魔物の舌を一瞬で切り裂いた。
『ギャアオオオオン!!』
傷つけられた魔物は巨体を左右に揺らしのたうち回る。持ち手から離れているセラフクライムは泳ぐように動き、首、硬い甲羅も難なく傷つけた。
そこが弱点なのか、するりと彼の首に巻きついていた舌も自然と離れる。
「おわっ!」
拘束を失い突然自由になったリーシュの身体は急降下したものの、途中で方向を変えて綺麗に地面に着地した。やれやれと一息吐くが身体に染みついた臭気に形の良い眉が歪む。
「くそっ……やっぱり臭え。あいつは絶対に始末する」
左手にしっくり馴染む熾天使の剣を握り、リーシュは暴走する魔物を強く睨みつけた。

・第3話
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