拝啓、3人の葵へ 第7話
◇ 7
看護学校を卒業するまで同じ事を教員に言われ、わたしは仕事に対する熱意のないまま看護師になった。
元々母が看護師だった。わたしはなりたくてこの道を選んだつもりはない。けれども、他に道は無かった。
わたしが「人の心を動かすような漫画家になりたい」と声を上げても応援してくれたのは、薫ちゃんだけだった。
薫ちゃんはわたしと一緒にチョークでこんがりしたアスファルトに落書きをしただけなのに、彼女だけがわたしを応援してくれた。
「葵ちゃんの漫画、ずっと楽しみにしているから!」
「じゃあ、完成したら、薫ちゃんに一番最初に見せるからね」
指切りげんまん、嘘ついたら、はりせんぼん、のーます、指きった。
薫ちゃんは、わたしの前から消えた。わたしは転校してからも何度もチラシの裏を使って書きまくった40を超えるショート漫画を一番最初の読者に見せる事ができなかった。
はりせんぼんなんて、ないじゃん。
なんで薫ちゃんは居なくなったんだろう。
それでもわたしは漫画家への夢を捨てきれないままでいた。しかし書いたラフ絵を自分の中に見せてもあまりにも酷く、ついに中の葵が苦笑したくらいだ。
『よくもまあ、このレベルで目指そうなんて思うな』
『お母さんの言うように、生きるにはお金が必要なんだから、まずは看護師になってからでいいんじゃない?』
『つーか、お前に心なんて無いのに、よくもまあそんなご大層な夢膨らませてるよな』
気分屋の葵がうるさくて、私は机の横にある壁を蹴り飛ばした。それだけでピタリと脳内が静かになった。
わたしの視線は鉛筆を睨みつけたまま、今度は妄想族が口を開く。
『いつまであんたは独り身でいるんだろうね。あーあー、ウチも素敵な推しが早く欲しいな』
そういえば、漫画や小説は読むがリアルの推しが居ない事にようやく気がついた。
リアルアーティストと言えば丁度SMAP派と、V6が絶世期で、○っち、○くん、と世代が変わっても時代は某有名会社が牛耳っていた。
わたしがときめいたのは、本当に陸上部の彼が最初で、その他にも「ああいいな」と思う人はいたものの、それはわたしに対して優しかっただけであり、たった一度の優しさを受けただけで「この人はいい人だ」と勝手に認識してしまう。
妄想族の葵がそれに勝手にドンドン妄想という名の肉付けしていくものだから、その人が優しい以外の感情を見せた時に全てが破綻する。
ほらみろ、やっぱり優しく無かったじゃないか、と。そもそもわたしに優しさを向けてくれた人は当たり障りない言葉を選んだだけで、それは本当の優しさではないと気づくまで、実に生まれてから30年以上の月日を要する。
◇
漫画家になる夢はこの後高校の知り合いと実際に作り上げようとしたものの、あまりにも酷くてとても世に送り出せるレベルでは無かった。かなり小さい子供の落書きレベルだろう。見もしないで破棄される運命ならば、最初から出さない方がいい。
40ページに渡るわたしの思い出の初期作は、自分の手で捨てた。
自分の作品を他人と比較はしなかった。ただただ斬新な発想と設定だけを模索し、ネットがようやく使える環境になってからは同じ題名や設定が重なっていないかだけを気にした。
しかし、このあとは永遠に後出しじゃんけんの敗者となる。
せっかくあれだけ探して見つけた設定、完結させてこの設定はどこにもない、自信を持って送り出せる。
絵は拙いけど、これは練習次第でどうにかなる、まずはこの斬新でかぶらない設定を見て欲しい! 妄想族の葵が脈々と注いだ熱い想いだけはたぎっていたが、結局後出しじゃんけんに負けた。
時が過ぎるとわたしの設定と同じものが増えた。だが世の中に出していない、わたしの脳内で完結している作品をパクリだなんて誰が言えるか。それこそただの妄想に過ぎない。名誉毀損で訴えられるだけだ。
この時から妄想族の葵は涙して漫画を描く事をやめた。元々上手い絵では無かったが、あれだけチラシの裏に書き殴った絵も全部狂ったように破り捨てて全部捨てた。
この行動を喜んだのは、奇しくも母だ。やっと無茶な下らない夢をあきらめてくれたのか、とほっとした事だろう。
『薫ちゃんに見せるんじゃなかったの?』
珍しく社交的な葵が口を開いた。
『薫ちゃんに見せる為に、毎日毎日頑張っていたんじゃないの?』
「薫ちゃんなんて、いないよ」
『葵が薫ちゃんを否定したら、もう薫ちゃんは本当に居なくなるよ』
「薫ちゃんが本当にいたら、わたしに会いにきてくれるんじゃないのか、何で肝心な時にそばにいてくれない、わたしの一番の理解者だったのに、薫ちゃんが居ないと」
わたしは、都合よく薫ちゃんを求めていただけだ。
そうだ、今みたいにネットが普及しているわけでもない、会いたいと言ったから会えるわけでは無い。望んだからって、ドラえもんの四次元ポケットなんて現実には存在しない。
薫ちゃんなんていない、それは薄々気づいていた。
いつからだろう、兄貴が薫ちゃんの話をしなくなったのは。
いつからだろう、母がうさぎ柄の封筒を持ってこなくなったのは。
いつからだろう、父が子供の霊を憑依させるわたしを心配しなくなったのは。
わたしの中から完全に薫ちゃんがいなくなったことで、墓参りの度に子供の霊を連れて下山する事が減ったらしい。
だから父は無駄に車を3周して山を降りるという奇行をやめたのだと思う。
薫ちゃんの存在がこの世界から消えた、と完全に認識したわたしは、ますます心が無になった。