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神国日本 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)【随時更新中】

2024年12月14日 修正


難解

 日本に関して書かれた書物は無数にある、然しそれ等の内に——芸術的の出版物並びに全然特殊の性質を有つた著作は別として——実際価値ある書冊は殆ど二十を出ないであらう。この事実は日本人の表面の生活の基礎となつて居るものを認知し、是を理解する事の甚だしく困難なる事に帰せられる。其生活を十分に解説する著作は——歴史的に、社会的に、心理的に、また倫理的に、日本を内部からも外部からも、描いた著作は——少くとも今後五十年間は出来まいと思ふ。此問題は頗る広大にまた錯綜して居るので、幾多の学者の一代の労力を合はせても、これを尽くす事は出来ず、またそれは甚だ困難な問題で、これが為めにその時を捧げる学者の数も常に必らず少いに相違ないのである。日本人その人の間にあつてすら、自国の歴史に就いての科学的知識はまだ得られない——何となればかくの如き知識を得る方法がまだ出来て居ないからである——よし其材料は山ほど集められてあるとしても。近代式の方法の上に立つた立派な歴史のない事は、実に幾多不利なる欠陥のその一である。その社会学的研究の基礎となるものは、まだ西洋の研究家の手には入らない。家族及び氏族の古い状態、諸階級の分派発達の歴史、政治上の法則と宗教上の法則との分離の歴史、諸〻の禁制拘束の事、及び習俗に及ぼしたるその影響の歴史、産業の発達に於ける、取締り及び協力の事情に関する歴史、倫理及び審美の歴史——これ等のすべての事、その他の事柄はみな不明である。

 私のこの論文は、日本に関する西洋の知識に対しての寄与として、只だ一方面に於てのみ役に立ちうるものである。併しこの一方面は必らずしも重要ならざるものとは云へない。従来日本の宗教に関する問題は主としてその宗教に対する仇敵の手になつたものであつた、また中にはこの宗教を殆ど全く無視したものもあつた。併しそれが無視され、誤り伝へられて居る限り、日本に就いての実際の知識は得られないのである。凡そ社会の状態に就いて少しでも真実の理解を得んと欲するならば、その宗教の事情を皮相的でなく、十分に熟知する事を要する。人民の産業上の歴史すら、その発達の初期に於ける産業上の生活を支配する宗教上の伝統と慣習とに就いての多少の知識がなくてはそれを了解する事は出来ない……。また芸術の問題を取つて見る。日本に於ける芸術は宗教と密接な関係をもつて居るので、その芸術が反映して居る信仰に就いての広い知識をもたずして、それを研究せんとする事は、たまたま時を浪費するに過ぎないのである。ここに芸術と私の云ふのは、ただ絵画や彫刻の事をいふのではない、あらゆる種類の装飾、大抵の種類の絵画の如きもの——男の子の凧、女の子の羽子板に描かれてあるもの、漆ぬりの手箱、若しくは琺瑯をかけた花瓶——お姫様の帯の模様と共に職人のもつ手拭の絵——仏教の山門を護る大きな仁王の姿と共に、孩児の為めに買ふ紙製の犬若しくは木製のガラガラ…………を云ふのである。又日本の文学に就いても、其研究が、ただに日本人の信仰を了解する事が出来るのみならず、又少くとも吾が大古典学者達が、ユウリピデイス、ピンダア及びセオクリタスの宗教に同感すると同じ程度に、それに同情を有しうる学者に依つて為されるまでは、正当にこれを評価する事は正に出来ないのである。西洋の古代並びに近代の宗教に就いて些心の知識をも有せずして、イギリス、フランス若しくはドイツ、イタリヤの文学をどれほど十分に了解しうるであらうか、それを先づ吾々は自分に尋ねて見よう。私は必らずしもはつきりした宗教的な作者——ミルトン若しくはダンテの如き詩人——の事をいふのではない、併しただシェイクスピヤの戯曲の一でさへも、キリスト教の信仰或はそれ以前の信仰に就いて、少しも知る処のない人に取つては、それは全く了解されないに相違ないといふ事実をいふのである。或る一つのヨオロッパの国語に真実に熟達する事も、ヨオロッバの宗教に就いての知識がなくては不可能である。無学者の言語すらも、宗教上の意義を沢山にもつて居る、貧民の俚諺、家庭の用語、街路にきく歌謡、工場の言語——それ等はすべて人民の信仰に就いて知る処のない人には、思ひつかれない意義を、その内に含んで居るのである。これは日本に居て、吾々のとは全然異つて居る信仰をもつて居り、吾々とは全く異つた社会上の経験に依つて作られた倫理をもつて居る学生に、英語を教へるに多年を費やした人の、何人よりもよく知つて居る処である。

新奇及び魅力

 旅客の筆にして居る日本に関する第一印象の多数は愉快な印象である。全くの処、日本がその人の情緒の上に何等訴ふる処もないと云ふやうな性質の人には、何ものか欠陥があるのか、或は其人に何処か苛酷な処があるに相違ない。その心に訴ふる所以は則ち問題解決の端緒である、而してその問題とはこの人種及びその文化の特質を指すのである。

 日本——晴れ切つた春の日の白い日の光の内に姿を現はした日本——に関する私一個の第一印象は言ふまでもなく、普通一般の人の経験する処と共通な点を多くもつて居た。特に私はその光景の驚きと悦びとを記憶して居る。この驚きと悦びとは遂に消え去らなくて、滞在十四五年後の今でも屡〻、何か偶然の機会があれば頭を擡げて来るのである。併しながら恁ういふ感情の起こり来る理由に至つては知り難い——若しくは少くとも攷へ難い、何となれば私はまだ多く日本に就いて知るとは言へないのであるから……余程以前に私の得た尤も良い尤も親しい日本の友人が、その死ぬ少し前に私に言つた事があつた『これからなほ四五年経つて、貴下が全く日本人は了解が出来ないとお考へになるやうになつたら、その時始めて貴下は日本人に就いて幾分かお解りになり始めるでせう』と。この友人の予告の真実なる事を実際に感じた後——私は全然日本人を了解し得ない事を発見した後——私は却つてこの論文を試みる資格のある事を感ずる次第である。

 最初に知覚した通り、日本に於ける事物の外観上の新奇は、(少くとも或る種の人には)叙述しがたい一種異様な竦動——全く見知らぬものに就いての知覚に伴なつてのみ吾々に起こり来る不気味の感を起こさせる。吾々は普通でない形をした上衣と草鞋とをつけた妙な矮人の沢山に居る異様な小さい町筋を通つて動いて居る、そして一見したばかりでは、その人の男だか女だかの区別も出来ない。家は吾々の経験した処とは全く異つた仕方で建造され、造作をつけられて居る、さらに店舗に並べられてある無数の品物の用途も意義も、全く考へつかれないのを知つて、吾々は呆然とするのである。何処から来たものか想像もつかないやうな食料品、謎のやうな形をした器具、何か秘密な信仰から来たものである理解の出来ない符牒、神々や悪魔に関する伝説を記念させる面と玩具、なほ怪異な耳をもち顔に笑をたたへて居る神々そのものの妙な姿、すべて斯様なものを、吾々は歩き廻はるに従つて認める事であらう、よし一方には電柱やタイプライタ、電灯及びミシンを見るに相違ないに。到る処、看板に、暖簾に、又道行く人の背に、驚くべき漢字を見る事であらう、そしてこれ等のものの不思議さこそは光景の主調を成すものである。

 この奇異な世界といよいよ進んで近接しても、その最初の光景に依つて喚起された新奇の感は決して減少される事はない。人はやがて此人民の身体上の行動すらも珍らしいものである事——彼等の仕事のやり方は西洋のやり方と反対である事を認めるであらう。諸〻の道具の恰好は驚くべきもので、それがまた驚くべき方法によつて取り扱はれる。鍛冶工は鉄敷の前に蹲つて槌を揮るふが、其槌は永く練習しなければ、西洋の鍛冶工には使ひ得ないやうな道具である。大工は異様なその鉋と鋸とを、前に突かずに後へ引く。いつも左側が正しい側で、右が間違つた側である。錠を開閉する鍵は、吾々の間違つた方向と常に考へて居る方に廻はさなければならない。日本人は逆に話し、逆に読み、逆に書くとパアシヴル・ロヱル氏が言つたのは当を得て居る——而もこれは『彼等日本人の逆行のいろはに過ぎない』のである。ものを逆に書く習慣に就いては明らかに進化論上の理由がある。そして日本の書法には、当然その理由があるので、書家はその筆を手前に引かずに、そりを前方に押すのである。併しながら何故に日本の娘は糸を針の目に通す事をせずして、針の目をして糸の尖端を通して行かせるやうな事をするのであるか。反対のやり方の無数にある例の内で、尤も顕著なものは、日本の劔術の示すものであらう。劔客は両手を以つてその一撃を施すのであるが、その打撃の際にその刃を自分の方に引かずに、自分の方から前の方にそれを突きやる。則ち他のアジヤ人のするやうに楔の理窟でせずに、鋸の理窟でやるのである、兎に角打撃をするに吾々が手前に引く運動を期待して居る時、突く運動があるのである…………これ等の他いろいろな吾々の知らないやり方があつて、その不思議な事は身体上から言つても、日本人は別世界の人であるかのやうに、吾々とは縁の薄い人間であるといふ考へ——何か解剖学上の相違のあるといふ考へを起こさせる位である。併しそんな相違はありさうにも思はれない、それですべてかくの如き反対は、恐らくアリャン人種の経験とは全く離れた人間の経験から来たものではなくて、進化論から言つて吾々の経験よりもまだ経験の若い処から来たものであらうと考へられる。

 併しながらその経験は決して劣等なものではなかつた。其表現はただ驚かすばかりでなく、又人を悦ばすものである。纎細なる細工の完璧、物象の軽快な力と品位、最少の材料を以つて最上の結果を収めんとするやうになされた力、出来うる限り簡単な方法に依つて機械力の目的を達する事、審美的価値あるものとして、不規則を了解する事、一切のものの恰好及び完全な趣味、着色若しくは色彩にあらはれたる調和の感——すべてこれ等の事は、ただに芸術及び趣味の事に於けるのみならず、又経済と功利(利用厚生)の事に於ても、吾が西洋はこの遠く隔たつたる文化から学ばなければならぬ処の少くない事を直に納得させられるに相違ない。これ等驚くべき陶器、目ざましい刺繍、漆器、象牙、青銅の細工等は吾々の知らない方向に想像力を教育するものであるが、其観者に訴ふる所以は決して野蛮朦昧な空想から生ずるのではない。否、これ等はその範囲内にあつては、芸術家以外には何人も其製作品を批判する事の出来ない位に微妙になつた文化——三千年前のギリシヤ文化を指して不完全と称する人々に依つてのみ不完全と称されうる文化の産物である。

 併しながらこの世界の根柢に横たはつて居る奇異——心理上の奇異——は眼に見ゆる外観の奇異よりも遥かに驚くべきものである。西洋で成人になつた者は到底日本の言語を完全に用ふる事の出来ないのを知るに至つて、人々は始めて、此奇異なる事の如何に大なるかを察しうるであらう。東洋も西洋も人情の根本的働き——情緒の基礎——に至つては多くは同じものである、日本の子供とヨオロッパの子供との精神上の相違は主として、其力の未発的な処にある。然るに其発育と共に此相違は急速に発展し、拡大し、やがて成人に於てはそれが言語を以つては現はし難い程になる。日本人の精神上の構造はすべて放出して、西洋の心理的発達とは何等共通の点なき諸相を構成する、則ち思想の表現は制限を加へられ、感情の表現は抑制せられて、人を惑乱せしめる姿を為す。日本人の思想は吾々の思想とは違ひ、其情操は吾々の情操とは違ふ、日本人の倫理的生活は、吾等に取つては、未だ探究された事のない、若しくは恐らく永く忘れられたる思想並びに感情の世界を示すものである。試みに日本人の普通の辞句を一つ取つて、これを西洋の言葉に翻訳して見ると、それは何とも仕様のない無意味なものになる、尤も簡単な英文を逐字的に日本語にして見ると、ヨオロッパ語を学んだ事のない日本人には殆どそれは理解されまい。日本の字書にある言葉を悉く学ぶ事が出来たとして、さらに日本人のやうに考へる事を学ばない以上——則ち逆に考へ、上と下と、外と内とを、取り違へて考へ、アリヤン人には全く縁のない方向に考へるのでなければ、文学の習得も、諸君の対話を了解さす助けとは少しもならないのである。ヨオロッパ語の習得に就いての経験は、それが火星住民の語る言語を学ぶ助けとなすに足らないと同様に、日本語を学ぶ助けとはならない。日本人が用ふるやうに日本語を用ひうるには、生まれかはり、根柢から頭脳をすつかり改造して来なければならない。日本で生まれ、幼年の時から日本語を用ひなれてゐるヨオロッパ人を両親とする人ならば、或はかの本能的の知識を後年まで持続し、其精神上の関係を日本の環境に適応さす事が出来るかも知れない、これは可能な事である。事実ブラックといふ日本で生まれたイギリス人があるが、此人の日本語に於ける勘能は、自らはなしかを職業として可なりな収入を得て居たといふ事実に依つて証明されて居る。併しこれは異常な場合である……。文学上の用語に就いて言へば、これを知るのは幾千の漢字を知るよりも遥かに多くの知識を要するとだけ言つて置けばよからう。西洋の人にして、自分の前に提出された文学上の文章を、一見して直ぐに了解しうるものは、一人もないと言つても誇張の言ではあるまい——実際日本の学者でもさういふ事をなし得る人は極めて少数である——そして幾多のヨオロツパ人が示して居る此方面に於ける其学識は、敬嘆に値するものではあるが、何人の著作と雖も、日本人の助力なくして、世界に発表され得たものは一つもないのである。

 併し日本の外面の奇異が飽くまで美を示すと同様に、その内面の奇怪に至つては又別の魅力をもつて居るやうに考へられる——則ち人々の日常生活に反映して居る一種倫理的の魅力をもつて居る。この日常生活の興味ある情景は、普通の観察者には、それが幾世紀を積んで得られたる心理上の異様な発展を示すものであるとは考へられまい、パアシヷル・ロヱル氏の如き科学的精神をもつた人のみが、直に提出されたるこの問題を了解するのである。かくの如き天与の力を多くもつて居ない外国人は、よし生来同情を有つて居るとしても、只だそれを楽しみ、また惑ひ、かくして世界の他方面(西洋)に於ける自分の楽しい生活の経験に依つて、今自分の心を魅したるこの社会状態を説明しようと試みる。今かくの如き外国人が、幸にして日本内地の古風な都会に、六箇月若しくは一箇年間住み得たと仮定する。すると此滞在の最初から、その人は自分の周囲なる生活に顕はれて居る親切と楽しさとに感銘せざるを得ないであらう。人々相互の関係に於て、並びに人々の自分に対する関係に於て、その人は余所ならば全く水入らずの親しい仲間に於てのみ得られるやうな、不変の快心、如才なさ、良い気心等を、感得するであらう。人は誰れでも他の人に挨拶するに、嬉しさうな顔附と楽しさうな言葉とを以つてする、顔はいつも微笑してゐる日常生活の極めて普通な事件も、教へられずして直に真心から起こつたと思はれるやうな、全く技巧を加へない、而も全く瑕瑾のない、儀礼のためにその形をかへて立派なものとなつてしまふ。如何なる周囲の事情があつても、外面の快い好機嫌は失はれない、どんな嫌な事が来ようとも——暴風雨でも、火災でも、洪水でも、地震でも——笑声の挨拶、晴れやかな微笑、しとやかな敬礼、親切な慰問、喜ばさうとの願ひ等は、いつまでも生存を美しくして居る。この日光の内には宗教も陰影を投じない、仏や神々の前で祈祷する時でも人々は微笑して居る、お寺の庭は子供の遊び場である、そして大きな公共の神廟の境内に——それは荘厳の場所といふよりも祭礼の場所である——舞踊の舞台が建てられて居る。家族の生活は到る処温和といふ特徴をもつて居るらしく、目に見ゆる争ひもなく、無情な荒ら立つた声もなく、涙もなく、叱責の声もない。残酷といふ事は動物に対してすらないらしく、町に来る農夫は牛馬を側につれて辛抱強く歩きながら、この口をきかぬ相手を助けて荷物を荷ひ、笞その他の刺激物を用ひない。車を曳くものも、極めて癪にさはりさうな場合にありながら、道をよけて、のろのろして居る犬若しくは愚かな雛をひくやうな事はしない…………随分長い間、人はかくの如き光景の間に日を送つて居ても、その生存の楽しさを害ふやうなものを認める事はないのである。

 言ふまでもなく、私が言ふかくの如き状態は今や消失しかけて居る。併しなほそれ等は遠隔の地方には見られる。私の住んで居た地方では窃盗事件が幾百年の間も起こつた事がなく、明治時代新設の監獄は空しく無用物として立ち——人々は夜も昼も同様に戸締りをしなかつたのである。かくの如き事実は皆日本人の熟知して居る処である。かくの如き地方に於て、外国人として諸君に対して表明される親切は、或は官憲の命令に出たものであると、諸君は考へるかも知れない、併しそれにしても人民相互間の親切は、これを怎う説明出来よう。何等の苛酷も、粗暴も、不正直も、また法の侵害もなく、而もかくの如き社会の状態は幾世紀間も同様であつた事を知る時、諸君は全く道徳上優越した人間の領土に入つたと信ぜざるを得ないであらう。すべてかくの如き優雅、非難の余地なき正直、言語動作の明々白々なる親切は、恐らく完璧なる善心から出た行為と自ら解釈されやう。而して諸君を悦ばすこの素朴は決して野蛮から来た素朴ではない。この国に於ては各人みな教育を受け、各個みな立派に書き且つ語るを知り、詩を作り、作法に従つて己を処する事を知つて居り、到る処清潔と良趣味とがあり、一家の内は光明に輝き純潔であり、日々の入湯は一般普通の事である。あらゆる事は博愛の精神に依つて治められ、あらゆる行為は義務に依つて動かされ、あらゆる物は芸術に依つてその形を作られて居るやうな、この文化にどうして魅せられずに居られやう。人はどうしてかくの如き状態に依つて悦ばされないで居られやう。また彼等の『異教徒』として罵られるのを聞いて、憤慨せずに居られやう。而して諸君の心の内にある博愛心の程度に応じて、この善良なる人民は何等外観上強ひて骨折る事もせずして、自ら諸君を楽しくさせるであらう。かくの如き環境に於ける唯一の感じは平静な楽しさである、それは夢の中の感じで、夢の中にあつては人々は自分がさう挨拶されたいと思ふやうな風に挨拶され、また聞きたいと欲する通りの事を聞き、して貰ひたいと願ふやうな事を、して貰ふのであるが、丁度その通りを感ずるので——人々は全く平静な空間を通つて足に音を立てないやうに歩き、すべて雰囲気のやうな光の内に浴して居るのである。さう——少からぬ時の間、この神仙の民は柔らかな睡眠の至福を与へる事が出来る。併し早晩、諸君が長く、彼等と一緒に住んでゐると、諸君の満足なるものは、夢の楽しさと共通な処を多く有つて居る事が解るであらう。諸君は決して夢を忘れる事をしまい、——決して忘れまい、併しそれは恰も輝く日の午前中、日本の風光に超自然の美しさを与へる春の霞の如くに、結局は消されるであらう。実際諸君は身体が神仙の国に入つたが故に楽しいのである——実際は現存しないし、また到底自分のものとする事の出来ない世界に入つたが故に。諸君は諸君の居る世紀から——過去の消滅した時といふ洪大な空間をこえて——忘れられた時代、消え失せた時代に——エヂプト若しくはニネヹの如き古代と云つたやうな処へ溯つて移されたのであつた。これが日本の事物の奇怪と美との奥義——これらの事物の与へる竦動の奥義——人民とそのやり方の、可愛らしい魑魅の如き魅力のある奥義である。幸運の人よ、『時間』の潮は諸君の為めに廻転したのであるよ。併し記憶せよ、ここの万事は魔法である、——諸君は死者の魅力にかかつたのである、——光明と色彩と音声とは萎れて、結局空虚と緘黙とに帰さなければならないのである。

 一時でも宜いから、もう消滅した美しいギリシヤ文化の世界に生活し得たらばとは、少くとも吾々の内の或る人の往々希望した処であつた。始めてギリシヤ芸術及びギリシヤ思想の魅力を知り、それに感激した結果は、其古代文化の実状を想像し得ない内に、早くもさういふ希望が起こつて来るのである。併し若しさういふ希望が実現され得たとしても、吾々は正にさういふ実状に身を適応させる事の不可能なる事を知るであらう。それは其環境を知るの困難なるが為めではなくて、三千年前に人々が感じて居たと丁度同じやうに感する事の遥かに困難なるが為めである。文芸復興以来、ギリシヤ研究にあらゆる努力が為されたにかかはらず、古代ギリシヤ生活の諸相を了解する事は、なほ吾々の難しとする処である、たとへば近代の思想を以つてしても、エデイプスの大悲劇に依つて訴へ得た人民の情操感情等を如実に感得する事は出来ない。而も吾々はギリシヤ文化の知識に関しては、第十八世紀の吾が祖先よりも遥かに進んで居るものである。フランス革命の時代にあつては、ギリシヤ共和政の実状をフランスに再現し、スパルタ式に依つて児童を教育する事も出来ると考へて居た。今日に於ては、近代文化によつて育てられたる人が、ロオマ征服前なる古代世界の都市に存立して居た社会主義的専制主義の下にあつて、幸福を得る事の出来ない事は、何人もよく知つて居る処である。よし古いギリシヤ生活が吾々の為めに再現して来たとしても、吾々はそれと融和する事は出来ない——その生活の一部となる事は出来ない——丁度吾々の自分の精神上の個性を変へる事の出来ないやうに。併し其生活を目睹し得るといふ喜びの為めには、如何なる労をも辞さないであらう——コリンスに於けス祝祭に一度列するといふ楽しみ、全ヘレナの遊戯を目撃するといふ悦びのためには………。

 が、併し消滅したギリシヤ文化の復興を目撃し、——ピタゴラスのその学寮のあつたクロトオナの都を歩き、——セオクリタスの居たシラキユウスを放浪するのは、現在吾々が日本人の生活を研究する機会を与へられて居るその特権に勝さるものとは言はれないのである。否、進化論的の見解から言へば、前者の方が却つて特権として弱いものである——何となれば吾々が親しくその芸術文学を知つて居るギリシヤ時代の事情よりも、遥かに古く、又心理的に遥かに吾々とは隔つて居る事情の、生きたる光景を、日本は吾々の眼前に捧げて居るからである。

 吾々の文化よりも進化の度の少く、智力上吾々から懸隔してゐると云つて、或る文化が必らずしもすべての点に於て、吾々のよりも劣つて居ると言はれないといふ事は、強いて諸君の注意を求めるまでもない事である。ヘレナの文化のその最高期は社会学から見たる進化の初期を代表して居る、而もその発展さし得た芸術は、美に関する吾々の最高のまた近似すべからざる理想を示してゐる。それと同じくこの旧日本の遥かに古風な文化も、吾吾の驚異と称讃とを十分に値する、審美上並びに道徳上の水準に達し得たものである。ただ浅薄な人——極く浅薄な人のみが、日本の文化の最上なるものを、劣等であると放言し去るのであらう。併し日本の文化は、西洋に比類のないほどに、特徴のあるものとされて居るが、それは沢山の相ついで来た外国文化の積み重ねが、単純なる本来の土台の上に置かれ、甚だ複雑なる紛糾をなす光景を呈して居るからである。この外来の文化の多分は支那の文化であつて、それはこの研究の主なる題目に対して、ただ間接の関係をもつて居るに過ぎない。不思議でまた驚くべきことには、かくの如き沢山の積み重ねのあつたに拘らず、人民及び其社会の本来の特質は、なほ歴として残つて居るのである。日本の驚くべき点はその身に纏つた無数の、借りものに——昔の姫君の、色と質とを異にした十二の式服を一つ一つ重ねて、そのいろいろの色をした端の、襟や袖や裾に露はれるやうに着るのと同じやうに——あるのではない、否、真に驚くべきはその着用者である。蓋し衣裳の感興は、その形や色にあるのではなく、考へとしてのその意義にあるのであるからである——その衣裳をつくり、それを採用した人を表現するものとして興味があるのである。されば古い日本の文化の最高の興味は、それがその人種の特色を示す点にある——明治のあらゆる変化に依つても、なほ全く変はらずに居るその特色を。

 この人種の特色たるや、認知されるのでなくて、直感されるのであるから、その用語も、『表現する』といふよりも『暗示する』といつた方が適当である。その特色に就いては、この人種の起原に関する明晰な知識があれば、了解の助けともなるであらうと思ふ、併し吾々はまださういふ知識をもつて居ない。人種学者は皆一致して、日本人種は幾種かの民族の集つて出来たものであり、その主なる要素はモンゴリヤ種であると云つて居る、併しこの主なる要素は、二つの甚だ相違した型に依つて代表されて居る——一つは纎弱な殆ど女のやうな風采、も一つはづんぐりした力のある姿である。支那朝鮮の要素も或る地方の人の内にあると云はれて居る、またアイヌの血も多分に混入したらしい。マレイ若しくはポリネシヤの要素が、少しでもあるかどうかといふ事は、未だ断定されて居ない。ただこれだけの事は十分肯定されうる——則ちすべて善良な人種はみなさうであるが、この人種も混成の人種であり、又本来一緒になつてこの人種を形成した幾多の人種は、相混和して永い社会的訓練の下に、可なり統一された型の性格を発達さし得たといふ事である。この特質はその外貌の或る点に於ては、直に認められはするが、容易に説明しがたい幾多の謎を吾々に呈するものである。

 さうは言ふもの〻、もつとよくこの人種を了解するといふ事は重要な事になつて来た。日本は世界の競争場裡に入つて来た、而してその争ひに於ける一国民の価値は、その兵力に依ると同様、その特質に依るのである。吾々は日本人種をつくり上げた四囲の状況の性質を明らかにしうるならば、その特質に就いても多少知る事が出来る——この人種の道徳上の経験に関する大きな一般的な幾多の事実を明らかにしうるならば。而してかくの如き事実は、国民信仰の歴史の内に、また宗教にその根を置き、宗教に依つて発達せしめられた社会の諸〻の制度の歴史の内に、或は表明され、或は暗示されて居るのを、吾々は認めるのである。

古代の祭祀

 真の日本の宗教、今日なほ全国民に依つて各種の形に於て行はれて居る宗教は、あらゆる文明国の宗教並びにあらゆる文明社会の基礎をなして居る処の其祭祀——祖先礼拝である。数千年の経過の内に、此始めの祭祀は、色々の変化を受け、色々の形をとる事となつた、併し日本国中、何処に於ても、其根本たる特質は変はらずに残つて居る。仏教の祖先礼拝の色々な形は別として、純なる日本起原の奉祭には三つの区別があるが、それは爾来支那の影響と儀式とに依つて多少形を変へられたものである。かくの如き日本の祭祀の形は、すべて『神道』といふ名の下に纏められて居る、其意は則ち『神々の道』といふ事である。これは古い言葉ではない、最初外国から来た仏氏の教則ち仏の道なる仏道と、本国の宗教則ち『道』とを只だ区別するために用ひられたものである。神道の祖先礼拝の三つの形とは、一家の祭祀、村邑の祭祀及び国家の祭祀である、——言ひ換へれば家族の祖先の礼拝、氏族若しくは部族の祖先の礼拝、並びに帝国の祖先の礼拝である。此第一は家庭の宗教であり、第二は一地方の神若しくは守護神の宗教であり、第三は国家の宗教である。神道の礼拝にはまだいろいろの形があるが、それは今考へる必要のないものである。

 上記の祖先礼拝の三形式に就いて云ふに、家族の礼拝は進化の順序上第一に居るもので、——其他は後に発達したものである。併し家族の礼拝を最古のものと云つた処で、それは今日見るが如き家庭の宗教を指すのではない——『家族』といふ言葉を以つて『一家』の意とするのでもない。古代に於ける日本の家族は遥かに『一家』以上のもので、百或は千の家を包有するかも知れないのである。それはギリシヤのγένος若しくはロオマのGensに似たもので——最も広い意味での族長的家族である。有史以前の日本に於ては一家の祖先の家族的礼拝といふものはなかつた——同族的奉祭は只だ埋葬の場に於てのみ行はれたらしく思はれる。併し後代の家族的礼拝は、原始的な同族的奉祭から発達して来たもので間接に尤も古い宗教の形を表はすものである、従つてそれは日本の社会的進化の研究には先づ第一に考へなければならないものである。

 祖先礼拝の進化的の歴史は、何処の国に於ても大抵同様であつて、日本の礼拝の歴史も、宗教的発達の法に関するハァバァト・スペンサアの説を支持する著しい証明となるのである。併しこの一般の法則を了解せんとすれば、吾々は宗教的信仰の起原に溯らなければならない。社会学的見解から、記憶して置かなければならない事は、日本に現存する祖先の祭祀を以つて『原始的』と云ふのが、其当を得て居ないのは、ペリクリスの時代に於けるアゼンス人の家族的祭祀を以つて『原始的』と云ふの非なると同様であるといふ事である。祖先礼拝の永続せるものは、いづれも原始的ではないのであつて、凡そ一定した家族祭祀は、多少一定の形を有せざる、また家族的ならざる同族の祭祀から発達したものであり、この同族の祭祀はまたさらに古い埋葬の奉祭から生じて来たものに相違ない。

 古代のヨオロッパ文化に就いて言へば、祖先礼拝に関する吾々の知識は、祭祀の原始的な形にまで及びうるとは言はれない。ギリシヤ人及びロオマ人の場合、この問題に就いての吾々の知識は、家族的宗教が成立してすでに久しく経つた時期から始まつて居るので、吾々はその宗教の性質に関して文書上の証跡を有つて居る。併し家庭の礼拝に先き立つてあつたに相違ない遥かに古い祭祀に就いては、あまり証拠が残つて居ない、それで吾々はまだ文化の状態に達して居なかつた人民の間に於ける祖先礼拝の自然の発達の歴史を研究して、その性質を推断するのみである。真実の家族の祭祀は一定した文化と共に始まるのである。さて日本人種が最初日本に落ち着いた時には、まだ今云ふ一定した文化の種類をも、また何等十分に発達した祖先の祭祀をも、もつて来たとは思はれない。勿論礼拝は正にあつた、併しその儀式は漠然と只だ墓辺に於てのみ行はれて居たのみと思はれる。真正の意味の家族の祭祀は、第八世紀則ち位牌が支那から入つて来たと考へられるその時代頃までは成立して居なかつたのであらう。最古の祖先祭祀はやがて詳説しようと思ふが、それは原始的な葬式並びに故人の霊を慰める儀式から発達したのであつた。

 それ故に現存の同族的宗教は、比較的近代の発達にかかる、併し少くともそれはこの国の真の文化と、その古さを同じうして居り、正しく原始的である信仰と思想と、並びにそれから出て来た思想と信仰とを保有して居る。それで祭祀そのものを説く前に、さういふ古い信仰に就いて少しく考へる必要があると思ふ。

 最古の祖光礼拝——ハァバァト・スペンサアの所謂、『一切の宗教の根元たる』——は恐らく亡霊に対する最古の明確なる信仰と存立を同じうしたものであつた。人間が影なる内部の自己、則ち二重の自己といふ考を抱きうるや、必らず霊魂に就いてのその慰藉的祭祀が始まるのである。併しこの最古の亡霊の礼拝は、人間が抽象的な考をつくり得るやうになつた精神的発達のその時期よりも余程以前にあつたに相違ない。原始的な祖先の礼拝者達は、まだ最高の神といふ考をつくり得なかつた、そして彼等の崇拝の最初の形式如何に関しての、現存して居るすべての証拠は、亡霊といふ考と神々といふ考との間に当初何等の相違もなかつた事を示すやうである。従つて未来に於ける賞罰の状態に就いての明瞭な信仰はなかつたのである——天国若しくは地獄といふ考はなかつたのである。暗い下界則ちヘイディスといふ考すら遥かに後代の発展である。最初死者はそのものの為めに準備されて居た墳墓の内に住んで居るとのみ考へられて居た、——その墳墓から死者は時折り出て来て、自分等の以前の住所を訪ね、生きて居る人々の夢に出現すると考へられて居た。死者の真の世界はその葬られた場所であつた——墳墓、塚穴であつた。その後になつて、下界といふ考が不思議な方法で墓場と結び合つて徐に発達して来た。この漠然たる想像上の下界なるものが、拡がり、亡霊の幸福を享ける天地と、不幸の天地とに分かたれるやうになつたのは、遥かに後の事である……日本の神話がエリジウム(至福の世界)若しくはタァタラス(地獄の奥の暗黒世界)の考を生み出さず——天国と地獄との考を発達させなかつたのは注意に値する事実である。今日に於てすら神道の信仰は、超自然に関してホオマア以前の想像時代を表はして居るのである。

 インドオ・ヨオロツパ民族の間にあつては、最初は神々と亡霊との間には何等の区別もなく、神々の大小といふ位置もなかつたらしい。この種の区別は徐に発達したものであった。『死者の霊は原始民族の間にあつては理想的の集団をなし、殆ど甲乙の差別もなかったが、だんだんにその差別が生じ来り、——社会が進むにつれ、また局部的な並びに一般的な伝統が集積し、錯綜するにつれ、嘗ては等一であつたこれ等の人間の霊魂は、人々の考の内にその性質の相異を来たし、重要さの度を生じここに区別を起こし——終にはそれ等本来の等一の本質は殆ど認められなくなつた』とスペンサア氏は云つて居る。かくして古代のヨオロツパに於ても、極東に於ても、国民のより大なる神々は亡霊の祭祀から生じ来たつたのである、併し東西の古代の社会にその形を成して居た祖先礼拝の倫理は、より大なる神々の生じた時代以前の時期から——すべての死者が何等の位置の差別なく皆神となると想像された時期から起つたものである。

 古代の日本人は、アリヤン民族の原始的祖先礼拝者と同様、その死者を以つて現世以外の光明至福の王土にのぼり、若しくは苦悶苛責の世界に堕ちるといふ風には考へなかつた。彼等は死者を以つて、なほ此世界に住み、若しくは少くとも此世界と常に交渉をつづけて居るものと考へて居た。日本人最古の神聖なる記録には、なるほど下界の事が記してあり、不思議な雷神及び悪霊が醜悪の内に住んで居るといふ事がある、併しこの漠然とした死者の世界は、生きた人の世界と交通し、その下界の霊は多少その朽廃の内に包まれては居るが、なほ且つ地上に於て人々の奉仕と供物とを受納しうるのである。仏教の渡来までは、天国地獄の考はなかつた。死者の亡霊は奉祭を要し、また多少生者の苦楽を頒かち得る恒久の存在を有するものとして考へられて居た。それ等は飲食並びに光明を要したが、その代りにまた利福を下し得たのであつた。その身体は地中に融解し去つた、併しその霊の力はなほ上界にさすらひ、その心髄に透徹し、風の内に水の中に動いて居たのである。死に依つて人々は神秘な力を得たのである——彼等は『上に立つもの』神(ゴッヅ)になつたのである。

 則ち換言すれば最古のギリシヤ及びロオマでいふ意味の神になつたのである。注意すべき事は、此神格化には、東西共に何等道徳的差別を伴はない事である。『すべて死者は神になる』とは神道の大解釈家なる平田(篤胤)の記した処である。これと同様に古いギリシヤ人の考に於ても、後のロオマ人の考に於てすらも、すべて死者は神となつたのである。クウランジュ氏はその『古代の都市』"La cité antique"の内に恁う言つて居る『この種の祭拝はただに大人物のみの特権ではない、何等の差別もありはしなかつた……。有徳の人であつたといふ事すら必要ではなかつた、悪人も善人と同様神になつた——只だこの死後の存在にあつても、悪人はその前生の悪るい性癖を保持して居たのである』と。神道の信仰も丁度その通りで——善人は善行の神となり、悪人は悪の神となつた——併しすべては等しく神となつたのである。『而して善神も悪神もあるが故に、その好み給ふ供物を以つて、琴を弾じ、笛を吹き、歌ひ且つ舞ひ、其の他神々の意に適ふものを以つてその霊を慰めの要あり』と本居も記した。ラテンの人は死者の悪意ある亡霊をLarvae(悪霊)と呼び、善意ある或は害なき亡霊をLares(家の神)と呼んだ、アピユレイアスの所謂Manes(亡霊、死者)Denii(守神)である。併しすべては等しく神々——dii-manes(亡魂の神)であつた、而してシセロはすべてのデイイ・マネスに正当なる礼拝を為すべき事を警告し『彼等はこの世から去つた人間である——彼等を神聖なるものと考ふるべし』と言つた。

 神道に於ては、古ギリシヤの信仰に於けるが如く、死ぬといふ事は、超人的の力を獲得するといふ事——超自然の方法に依り、利福を授け若しくは不幸を与へるやうになる事であつた…‥…。併し昨日かくかくの人は、普通の労役者、何等重きを為すに足らぬ人物であつた、——が、けふは死んで、聖い力をもつ人となり、其子供等は自分等の事業の繁栄の為めに、その人に祈願するのである。丁度ギリシヤ悲劇中の人物、たとへばアルセステイスの如き人物も、突然に死に依つて姿をかへ、神聖なものとなり、礼拝若しくは祈祷の言葉を以つて言ひかけられる。併しその超自然の力をもつて居るにも拘らず、死者は自分の幸福に関しては、生者に依頼して居る。夢の外には人の目には見えないが、彼等死者は地上の奉養と奉仕と——飲食並びに子孫の崇敬を要する。亡霊は孰れもその慰安を得る為めに生ける近親に寄り縋る、——その近親の信心に依つてのみ、その安息を得るのである。則ち亡霊はその息み所——適当なる墳墓を要し、——それは供物を要する。立派に息み場を有し、適宜な奉養を受ければ、霊は喜び、その奉祭する人々の幸運を守る助けをする。併し若し墓所と、葬式と、飲食と火との供物を欠くならば、霊は飢渇と寒さとのために苦しみ、怒つて悪意ある働きをなし、それ等を怠つた人々に不幸を被らせやうと力める……。かくの如きは死者に対する古ギリシヤ人の思想であつたが、それが又昔の日本人の思想であつた。

 亡霊に就いての宗教は、嘗て吾が祖先の宗教であつたが——北欧南欧いづれに於ても、——そしてそれから起こり来たつた慣習、たとへば花を以つて墓を飾る習慣の如きは、今日なほ吾が尤も進歩した社会の間に行はれて居るが——吾が思想の形は、近代文化の影響を受けて、甚だしく変化し、今や死者の幸福が、物質的なる食物に依るといふが如き事を、どうして人々が考へ得たかと想像する事さへ、吾々には困難な位になつた。併し古代のヨオロッパ社会に於ける真の信仰も、近代の日本に現存する信仰と似たものであつた事は察し得られる処である。死者は食物の実質を食ふと考へられるのではない、只だその目に見えない精気を吸ふとされて居るのである。祖先礼拝の古い時代にあつては、食物の供御は一般に行はれて居た、後代になつて霊は全く気息の如き類の給養をすらも殆ど要しないといふ考へが起つて来たに従つて、さういふ供物はだんだん行はれる事が少くなつて来た。併しその供物は如何に少くとも、それが規則正しく行はれる事は必要欠くべからざる事であつた。死者の幸福はかかる影の如き食物に依つて居たのである、而して生者の幸運は死者の幸福に依つたのである。生死の両者互に他の助けを無視する事は出来なかつた、目に見える世界と、目に見えない世界との両者は、相互に必要なる無数の覊絆に依つて結ばれて居り、その結び合ひの只だ一個の関係なりとも、これを破れば必らず尤も恐ろしい結果を生ずるのである。

 一切の宗教上の生費に関する歴史をたどれば、それは皆亡霊に捧げられた供物の古い慣習に帰せられる、而してインドオ・アリヤン民族も、嘗ては皆この霊に関する宗教以外他の宗教を有つては居なかつたのである。事実、すべて進歩した人間の社会は、その歴史の或る期間に、必らず祖先礼拝の状態を通つて来て居る、併しその礼拝が精緻な文化と両立して居るのを今日見んと欲するならば、吾々はこれを東洋に求めなければならない。さて日本人の祖先礼拝は——アリヤン人種以外の人民の信仰を代表し、その発達の歴史に於て種々なる興味ある特色を示して居るが——なほ且つ一般祖先礼拝の多くの特徴を具体化して顕はして居る。その内には、あらゆる風土地方に永続して居た祖先礼拝の、あらゆる形の下に潜んで居る次の三種の信仰が特に残つて居るのである、——

 第一——死者はこの世界にとどまつて居る——その墳墓や又以前の家庭に出没し、目に見えないながらも、その生きてゐる子孫の生活を共に享けて居る。

 第二——すべて死者は超自然の力を得るといふ意味に於て神になる、併し存生中その特徴であつた特質をなほ保持して居る。

 第三——死者の幸福は生存者が行ふ尊い奉仕に依るのであり、また生存者の幸福は、その死者に対し忠実に義務を果たす事に依るのである。

 この極めて古い三箇条に加へて、次の箇条がある。恐らくこれは後世に発達したものであり、而も嘗ては偉大なる力を振つたに相違ないものである。

 第四——善なると悪なるとに拘らず、現世に於ける事件——四季の順調、多分の収穫——出水、飢饉、——暴風雨、海嘯、地震等——は死者の業である。

 第五——善にあれ悪にあれ、すべて人間の行為は死者に依つて左右されて居るものである。

 始めの三個の信仰は文化の曙光の時から、若しくはその前から、死者がその力の差別なく、すべて神であつた時代から、今日まで残つて居たものである。後の両者は、真の神話——広漠たる多神教——が亡霊の礼拝から発達し来たつた時代のものと察しられる。此種の信仰は決して単純なものではない、それ等は厳粛なる恐怖すべき信仰であつて、仏教の助けに依つて、それが駆逐されなかつた間は、此地に住んで居る人々の心を圧迫し、恰もはてなき悪夢のやうな重味をそれに加へて居たに相違ない。併しその形の和らげられた古い方の信仰は、なほ現存する祭祀の根本的の要素となつて居る。日本の祖先礼拝は過去二千年間に多大な変化を受けたが、人の行為に関するその主要なる性質の上に変化を加へる事はしなかつた、そして社会の全構造はその性質の上に立つて居る事、恰も道徳上の基礎の上に立つて居るかの如くである。日本の歴史は実際その宗教の歴史である。この点に就いて、政治といふ事の古い日本語——まつりごと——がその文字上礼拝の事の意であるといふ事実は、尤も注意に値する一事実である。今後吾々はただに政治のみならず、日本社会の殆ど一切の事が直接間接にこの祖先礼拝から出て来て居る事、並びに生者にあらずして、むしろ死者が国民の統治者であり、国民の運命の形成者であつた事を知るにいたるであらう。

家庭の宗教

宗教上の発展、並びに社会発展の、大体の径路には、祖先礼拝の三期が劃され、その各
期は一々日本社会の歴史の内に説明されて居る。第一期は一定の文化の成立前、まだ一国
の統治者もなく、社会の単位は大きな族長を主とする一族であり、その長者若しくは戦〓
の将軍を主君として居た時期である。かくの如き事情の下にあつては、一族の祖先の霊の
みが祭られて居た-各一族はその一族の死者を奉祭し、その他の礼拝の形は一切認た
かつたのである。族長を主とする幾多の家族が一緒になつて、部族的氏族を作るに至ると、
その氏族の統治者の霊に部族の供御をする習慣が出来て来る-この礼拝が家族の礼拝に
加へられ、ここに祖先礼拝の第二期が劃される。最後になつて一人の最高の主長の下に
すべての氏族若しくは部族が統一されると、一国の統治者の霊を奉祭する習慣が出来てく
る。この第三の礼拝の形式が、国の当然まもるべき宗教となる、併しこの形式も以前の一
つの礼拝に取つて代はるといふのではない、三種の形式は一緒に存立して居るのである。
吾々の現在の知識の状態では、日本に於ける祖先礼拝の此三期の発展は、明らかにその
跡を辿る事は出来ないが、色々の記録に依つて、礼拝の永続的な形式が、先づ古い葬式か
ら発達して来たものであるといふ事を、吾々はかなり十分に推断する事が出来る。古いロ
本の葬式の習慣と、古いヨオロッパのそれとの間には、大変な相違がある-この相違は
日本に関して、其遥かに原始的な社会状態にあつた事を示すものである。ギリシヤに於て
も、イタリヤに於ても、一族の死者は、これを其一族の所有地内に葬るといふのが古い羽
慣であつた、それで財産に関するギリシヤ、ロオマの法律も、此習慣から出来てきたので
ある。時には死者は家のすぐ近くに葬られた。『上古都市論』の著者は、此問題に関する
古い記録の中に、ユウリピディスの書いたヘレンの悲劇の内から興味ある祈願を引用し〓
居る『喜ばしき哉、吾が父の墳墓よ、吾は幾度も御身に接し得んが為めに、御身プロテイ
ウスを、人々の過ぎ行く処に葬れり、されば吾が出入する毎に御身の子なる吾セオクリメ
ススは、父なる御身を訪る?なり……』と。然るに古の日本に於ては、人々は死の近傍か
ら逃れ去つた。即ち一時若しくは恒久的に死人のあつた家を棄てるといふのが永い間の〓
慣であつて、いづれの時代にあつても、死者を一家の生き残つて居る人々の居住の近く〓

葬る事を以つて、好ましいと考へたとは殆ど想像し得られない。日本の或る信頼すべき証
に依ると、極古い時代に於ては埋葬といふ事はなかつた、屍はただ寂寞の地に運び去られ
其処で鳥獣の為すがままに放棄されて居たのだといふ。それは兎に角として、それには埋
葬の風が成立して居た時代にあつた古い葬式-異様にして不思議な、そして一定した〓
化の慣習とは、何等共通なる所のないその儀式に関する確実な文書上の証明がある。家族
の住処は、最初一時的でなく、恒久に死者のものとして棄てられてしまつたと信ずべき理
由がある、そして住処はその構造の極めて簡単な木造の小舎であつたといふ事実から考・
ると、以上の想像は必らずしも出来ない事ではない。兎に角屍は喪期と称する一定の時期
の間、その人の死んで今や棄てられて居る家か、若しくは特にその目的の為めに建てられ
た小舎の内に置かれたのである、そしてその喪期の間、飲食物の供御が死者の前に置かれ、
屋外で儀式が営まれたのである。その儀式の一は死者を讃美した詩の郎読であつた、-
その詩を謀辞と呼んだ。笛、太鼓の音楽及び舞踊もあつた、夜になると家の前に篝火がた
かれた。以上の事が一定の喪期の間-或る典拠に依ると八日であるが、また十四日と!
ふものもある-執り行はれた後、屍は葬られるのであつた。この棄てられた家は、そぬ
から以後祖先を祭る社、若しくは霊屋となるといふのもあり得る事である-則ち神道の
宮の原型である。
古い時代に-何時といふ事は解らぬが-死者のあつた場合、喪屋(弔ひの家)を建
てる風が起つて来、埋葬に先き立つてこの喪屋で奉祭が営まれた。埋葬の仕方は極めて簡
単であつて、墳墓といふ文字の示すやうなものもなく、墓石もなかつた。只だ土饅頭が墓
穴の上につくられ、その大いさは死者の身分に依つて大小を異にして居た。
死者のあつた家を去るといふ風は日本民族の祖先の遊牧の民であつたといふ説と一致す
る、かくの如き風は、古いギリシヤ及びロオマの文化の如き固定した文化とは到底両立し
がたいもので、ギリシヤ及びロオマの埋葬に関する風俗は、少許の土地の恒久の占有を予
想せしめるものである。併し極古い時代にあつてすら、この一般の風に対する例外もあつ
たであらう-必要上から来た例外が。則ち今日でも日本の各所に恐らくは特に寺から遠
く隔つて居る地に於ては、農家がその死者を自分の土地に葬る風もあるのである
-埋葬後定まつた間隔を置いて、墓辺で儀式が営まれ、飲食物が霊のために捧げられ
た。位牌が支那から入つて来、真実な家族の礼拝が成立するに至つても、埋葬の場所で供
御を捧げる風はなくならなかつた。この風は今日に至るまで残つて居る-神道の儀式に
も仏教のにも、たとへば毎春帝室の使者は神武天皇の御陵に、鳥、魚、海草、米、酒、と

云つたやうな昔からの同じ供物を捧げる、則ちこれは二千五百年前の帝国の建立者の霊に
捧げられたものなのである。併し支那の感化を受けた時代以前にあつては、一族はその〓
者を礼拝するに、ただ喪屋若しくは墓辺に於てのみしたものと察せられる、そして霊は〓
思議な地下の世界に入り得たと同時に、特にその墳墓にのみ住んで居たと考へられて居ち
のである。霊はその食物以外に他のものをも必要としたと考へられた、さればその霊の用
途のため種々な物品が-たとへば武者の場合ならば剣、婦人の場合ならば鏡、と云つた
ものが-生前特に大事にして居た品物、貴金属とか宝玉の如きものと一緒に墓場に置か
れるといふ風であつた。霊がその存生中身体のために要したと同じ種類の奉仕を、影の中
にあつても要求したと仮定されて居る祖先礼拝のこの時期にあつては、動物の生費と共に
人間の生費のあつた事も当然であると考へるべきである。顕著な人物の葬式にあつては
此種の生費は普通の事であつた、或る種の信仰があつて、-それに関する一切の事はも
う解らなくなつて居るが-そのために、この種の生費は、ギリシヤのホオマア時代の聯
牲よりも遥かに残忍なものとなつて居た。生費となる人々は(馬やその他の動物も犠牲に
なつたかどうかそれは明瞭でない)墓の周囲に環状をなして頸まで土中に埋められ、鳥類
の嘴、野獣の歯にかけられて朽ちるのであつた。この形の犠牲に用ひられた文字-人籬、
則ち人間の垣-は一度に大勢の犠牲のあつた事を語るものである。この風習は約千九百
年前垂仁天皇に依つて廃止されたが、それは上古の風習であつたと『日本紀』にも記され
て居る。垂仁天皇の弟君なる大和彦命の墓の上につくられた土饅頭の内に埋められた犠姓
者の泣く声をあはれと思はれ、天皇は次のやうに宣はれたと記してある、『存生中に愛ー
んだ人々を強いて死んだものに従つて行かしめるのは、甚だあはれな事である。よしそぬ
は古いならはしであるにせよ、若しそれが悪風であるならば、何の理由あつてそれに従ふ
べきであらう。今より後は死者に跟いて行く事は廃止するやう協議せよ』と。宮廷の貴幼
しあつた野見宿禰-相撲の恩人として奉祭されて居る-は、その当時生費の代りに
土で造つた人や馬の形を以つてする事を申し上げ、その申し出は嘉納されたのであつた。
人籬は則ち廃されたのであるが、併し任意的に並びに強制的に死者に跟いて行つた事は正
しく幾百年の後までもつづいて行つた、それは西暦紀元六百四十六年に、孝徳天皇がこの
問題に就いて勅令を出して居られるのでも解る、-
『人の死ぬ時、人々が自らを絞殺し、若しくは犠牲にするために、他人を絞殺するか、或は死者
の馬を強いて犠牲にし、或は死者をあがめて、貴重品を墓に埋め、若しくは髪をきり、股を刺し
『日本記」、
(さういふ姿で)死者を讃称するやうな事があつた。斯様な旧習は全くやむべし』アストン翻記
アストン翻訳。

凡人死亡之時。若経自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。。
或為亡人。蔵宝於墓。或為亡人。断髪刺股而謀。
如此旧俗。一皆悉断。
強制的の犠牲及び世間の風習に関しては、此勅令はその望みの通りの直接の結果を得な
事と思ふ、併し任意的の犠牲に就いては断然と鎮圧されたものではなかつた。武権の擡頭
と共に、別の殉死といふ、死せる主君に従つて行く風習が起つて来た-刀を以つての白
殺である。それは北条執権の最後の人なる高時が自殺をなし、その臣下の多数のものが
主人に従つて行くために腹切りなるものに依つて、生命を失つた時、則ち一三三三年頃に
始つたのであつた。果たしてこの事件がさういふ風を実際に作り上げたものであるか、こ
れは疑の余地がある。併し十六世紀頃には殉死は侍の間に名誉と考へられた風習になつて
居た。忠義な家臣は主君の死後、その霊界の旅中、伴をして行くために、己を〓す事を〓
つて自分の本分と心得て居た、それ故仏教の一千年間の教へも、此犠牲を以つて本分と心
得る原始的の考へを拭ひ去る力はなかつた。この慣習は徳川将軍の時代までもつづいたの
-自〓者の全家族
て、家康はそれをやめさせる法律を制定した。この法律は励行された-自殺者の全家族
は、殉死の場合、その責任を負はされたのである、併しそれでもこの習慣は明治年代の如
め以後、可なり経つまでは根絶されなかつた。私の居た時分ですらも、なほその名残がお
つた-極めて感動的な種類のもので、主人、夫、両親の、目に見えない世界に居るその
霊に仕へ、その助けをする事の出来るやうにとの望みから、自殺をするのである。恐らく
尤も異様なのは、十四歳の少年が、その主人の小さい子息なる子供の霊に侍するために、
自殺したといふ事である。
墓に於ける古い人身御供といふ特別な事実、葬式の特徴、死者のあつた家の放棄-
れ等はみなこの古い祖先礼拝の正しく原始的のものである事を証明するものである。その
事はまた神道の方で死を不浄として特に恐れる事に依つても知られる、今日でも葬式に会
同する事は-葬式が神道の式に依つて営まれるのでなければ-宗教上の汚れなのでょ
る。上古の伊邪那岐命のその死んだ配偶(伊邪那美命)を尋ねて、下界へ降下した事は
書て抱かれて居た死者の上に力を有して居る魔力に関する恐るべき信仰を説明するに足る
ものである。腐蝕としての死に就いての恐怖と、亡霊に対する奉祭との問には何等の不調

和もない、吾々は奉祭其事を以つて贖罪と解すべきである。此最古の神の道は〓久の恐れ
の宗教であつた。されば普通の家が死者のあつた後には棄てられたのみならず、天皇すし
も当初の幾世紀間は、先帝の死後はその首都をかへるのが常であつた。併し原始の葬式か
ら徐に高等の祭祀が発達して来た。悲みの家則ち喪家は変つて、神道の社となり、今日で
もそれは当初の小舎の形を保存して居る。それから支那の感化の下に祖先礼拝は、一家の
内に於て堅く行はれるやうになり、後になつては仏教が、この一家の礼拝をつづけさした
だんだんに家族のこの宗教は、優しい情緒の宗教であると共に、義務本分を主とする宗教
となり、死者に就いての人々の考を変へ、又和らげるやうになつた。遠く第八世紀に於て
すでに祖先礼拝は今日なほ保存して居るやうな三種の主なる形を発展さした、そして爾来
家族の祭祀は、古いヨオロッパ文化の家族的宗教に、いろいろの点に就いて、酷似して早
る性質をもち始めたのである。
今現存のこの家族的祭祀の形に対し瞥見を与へて見よう-則ち日本に於ける一般の宗
教の形に対してである。日本の各家庭には必らずそのために捧げられた神殿がある。若し
其家庭が只だ神道の信仰を有するものとすれば、其神殿則ち御霊屋(厳かなる霊の住処)
-神道の社を小さく型どつたもの-は何処か奥の方の部屋の壁によせてつくられた畑
の上に置かれてあり、その高さは床から約六尺の処にある。この種の棚を呼んでみたま
んの棚則ち『尊い霊の棚』といふ。この神殿には白木の薄い板牌があり、それに一家の死
んだ人の名が書かれてある。この板牌は霊の代理者(みたましろ)を示す名、若しくは恐
らくそれよりも古い『霊の木』といふ事を示す名を以つて呼ばれて居る-またその家族
が仏式を以つて祖先を礼拝するならば、死者の板牌か仏教流の神殿則ち仏壇に置かれる、
而してこの仏壇は奥の室の窪んだ個処の上部にある棚を占有して居るのである。仏教のこ
の死者の板牌は(多少の例外はあるとして)これを呼んで位牌といふ-『心の追憶』を
意味する文字である。それは漆塗り、金着せで、その台に蓮の花が彫刻されてついて居る
そしてそれは大抵死者の実名でなくして、宗教上の名若しくは死後の名を記すのである
註通例はそれを称して宮、則ち厳かなる家といふ-これは普通の神道の社にも与へられて居る名であ
さてここに重要な事はいづれの礼拝に於ても、この板牌則ち霊牌は事実形の小さい墓石
を示すといふ一事である-これは進化の上に興味ある事実である、よしその進化なるも
のは日本のといふよりも、むしろ支那のものでありはするが。神道の墓場に於ける簡単な

墓石は、その形が木製の亡霊の木若しくは霊の木と似て居るが、一方に古風な仏教の墓地
に於ける仏教の記念碑は、位牌のやうな形になつて居る、凡そ位牌は男女の性と年齢とを
示すために、その形がそれぞれ少し変つて居るが、墓石に於てもその通りで、少しづつそ
の形が変つて居るのである。
一家の神殿に於ける霊牌の数は、通例五個若しくは六個を越えない-かくしてただ祖
父母、父母、それから最近に死んだもののみが代表されて居るのである、併し遠い祖先の
名は巻物に記され、それが仏壇若しくは御霊屋の内に置かれてある
家族の礼拝の式如何に拘らず、祖先の霊牌の前には、日々祈祷が上げられ、供物がそな
へられる。その供物の種類並びに祈祷の性質に就いては、その家の宗教如何に依るのであ
るが、祭祀の主要な義務に就いては、何れの家でも同様である。この義務は如何なる事情
があつても、これを閑却してはならないので、当時にあつては、その営みは、通例年長者
若しくは一家の婦人達に委ねられてあつた。
その祈祷には長い式もなければ、何等命令的な規則もなく、また別に厳粛な処もない、
食物の供御は一家の料理から取り出されたものであり、口の内に囁く祈願は短く些かであ
る。併しこの式はつまらぬ様に見えはするが、その執行は決して軽々に見る事の出来ぬも
のである。供御をしないといふ事は、恐らく夢想だもされない事で、家族の存在する限り
行はれなければならないのである
註但し公儀の折に於ては-年囘のため一家に親族の集まる時の如き際には、さうは行かなかつた、
かる際には奉祀は一家の長に依つて営まれたのである。古い慣習-嘗ては日本の各家族に行はれ、な
神道の家では守られて居る-則ち神々に料理の道具と食物とを捧げる慣習に就いて、サア・アアネスト
サトウ氏は恁う言つて居る、『これ等の神々を祭る儀式は、最初一家の長に依つて為されたが、後にな
てその務めは一族の婦人達に委託された』と。(『古日本の奉祀例』iancient japanese rituals"吾々は古に
俵式に就いても亦同様な任務の委任が極古い時代に、明らかな便宜上の理由から行はれた事と察する。
の義務が一家の年長者-祖父母-の仕事となつた時、供物の事を管理した人は通例祖母であつた。一
リシヤ、ロオマの家々に於ても家族の儀式を行ふ事は、その家の長の責任であつたらしい、併し婦人達が
それに参与して居た事も吾々の知つて居る処である〕
家族のこの礼拝の式の詳細を叙述するには、多くの紙数を要する、-それが複雑であ
るがためではなく、西洋人の経験した処とは甚だ異つて居り、一家の宗派如何に依つて呈
つて居るからである。併し細目に亙る事は必要でもあるまい、主要な点は宗教如何を考へ
また人の行為と性格とに関してのその信仰を考察するに在る。只だこの家族の礼拝以上に

誠実なる宗教もなく、またそれ以上に感動を与へる信仰もないといふ点は、深く記銘すべ
きである、蓋しこの礼拝は、死者を以つて、なほつづいて一家の一部を成すものであると
なし、従つてなほその子女近親の愛情並びに尊敬を要するものとなすのである。愛情より
も恐怖が強烈であつたその暗黒な時代-死者の亡霊を悦ばさうとする欲望が、主として
死者の怒りを恐れる心から起こされた時代-に始まつたこの祭祀は、結局発達して愛情
の宗教となり、今日なほそのままに残つて居るのである。死者が愛情を求め、死者を閑却
するのは残忍であり、死者の幸福は生者の義務如何に依るといふ信仰は、最初の死者の怒
りを恐れたといふその恐怖心を殆ど放棄した信仰である。死者は死んだとしては考へられ
て居ないので、その人を愛して居た人々の間にはまだ存在して居るものと考へられて居る
のである。人の目には見えないで、その死者はなほ家を守り、その住者の安寧ならん事を
注意して居る、また夜毎に神殿の灯明の光の内にさすらひ、その灯明の〓の動きは則ち死
者の動きである。死者は大抵は文字を以つて書されたる霊牌の内に住み-時に依るとこ
の霊牌に生命を与へ-それを人間の体質に変じ、生者を助けまた慰めを与へるために、
さういふ身体を以つて現実の生活に〓つて来る。その神殿から死者はその家に起こる事
を見聞し、一家と喜憂を共にし、周囲の人々の声を聞き、その温情を得ては喜んで居る。
彼等は愛情を欲するが、一家の朝夕の会釈は彼等を喜ばすに足りるのである。彼等は又企
物を要するのであるが、それは食物の息だけで十分なのである。彼等は只だ日々会釈をす
る義務を果たして貰ふ事だけに就いて厳格なのである。彼等は生命を与へ、富を与へる〓
のであり、現在の創作者であり、教師である、彼等はまた民族の過去と、そのすべての騰
牲とを代表して居るもので-生者が現にもつて居るものは、みな彼等から来たものなの
てある。併しそれに対して彼等の求めるものは、誠に僅少である-一家の建立者として、
保護者として、次の如き簡単なる言葉を以つて、謝意を表されるより以上には、殆ど出て
ない、則ち『尊き御霊よ、昼となく、夜となく、与へられたる御助けに対し、吾々の恭し
き感謝を受けられよ』……と云つたやうなものに過ぎない。彼等を忘れ、閑却し、粗末に
冷淡に扱ふ事は、則ち悪心の証拠である、また行に依つて彼等を辱しめ、悪事に依つて彷
等の名を汚す事は、最大な罪悪である。彼等はこの民族の道徳上の働きを代表するもので
あり、道徳上の働きを否認するものは、また彼等を否認する事であり、かくの如きものは
野獣の列に、若しくはそれ以下に堕落したものである。彼等死者は不文律、社会の伝統
人々に対する人々の本分を代表して居り、これ等の事を犯すものは、また死者に対して罪
を犯した事になるのである。そして最後に彼等は目に見えざる神秘の世界を代表して居る

神道の信仰から言へば、少くとも彼等は神である。
勿論godsに対する日本語の神といふ言葉は、古いラテン語のdi-manesと同様、神性
[divinity)といふ近代的の〓念と一致するやうな観念を含んで居ない事は記憶して置くべ
き処である。日本の神といふ文字は『上長』(the superiors)『高貴の人々』(the highe
dnes)と云つたやうな言葉を以つて表はした方が、もつと適切かも知れない、事実この
文字は神々亡霊に対すると同様、生きた統治者に対しても以前は用ひられたものである。
併しそれは現身を〓却した霊といふ考よりも遥かに以上のものを含んで居る、何となれば
古い神道の教に従ふと、死者は世界の統治者となつたのであるからである。彼等死者は+
へて自然界の事件の原因であつた、-風、雨、潮流、発芽、成熟、発育、衰滅、及び功
ましい事、恐るべき事、其他一切の原因であつた。彼等は精妙なる一種の要素-祖先ト
り伝はつたる精気-を成し、宇宙に遍在し、たえる間なく働きを為して居る。彼等の力
は或る目的のために結合すると、抵抗する事の出来ないものとなる、そして国家の危機に
際しては、敵に対しその助けを求め、彼等を全体としてそれに祈祷するのである……ご
なわけで、信仰の眼から見れば、各家族の亡霊の背後には、無数の神の計量すべからざス
影の力が蟠つて居るのである、ために祖先に対する義務の感は、世界を左右して居る力ー
-目に見えざる広大無辺の力に対する畏敬の念に依つて一〓深くされる。原始的な神道一
考に依ると、宇宙は亡霊を以つて充たされて居たのである-後年の神道の考に依ると、
亡霊の存在は個々の霊の場合でも、場所や時間を以つて制限されては居ない。平田(篤胤
の書いた処に依ると『霊の居る処はその御霊屋の内にあるが、同時に霊はその祭られてぽ
る処には何処にでも居る-神であるが故に、又在さざる処はないのである』と
仏教信者の死者は神とは呼ばれないで仏(ほとけ)と云はれる、-これは勿論信仰と
いふよりも、信心から来た希望を言ひあらはした言葉である。この信仰に依れば死者は
単により高い生命の状態に進む途中にあるのである、それ故神道の神のやうに祭られもせ
ず、また祈祷を捧げられもしないのである、則ち祈祷は死者のために上げられるので、通
例(仏教の奉祭の内にはこの教に対する例外となるものもありはするが)死者に向つてす
るのではない。併し日本の仏教信者の大多数は、また神道の憧憬者であつて、一見不合理
のやうではあるが、この両信仰は世人の考の内に長い間調和されて居たのである。それ故
仏教の教理は思つたほど深く祖先の祭祀に伴なつた考に影響を与へては居ないのである

定まつた文化をもつたあらゆる族長政治の社会に於ては、祖先の礼拝から、孝道を尊ぶ
宗教が出て居る。祖先の祭祀をなす文化の民の間には、孝道が今日なほ最高の徳となつて
居る……。併し孝道と云つた処で、そのイギリスの言葉に依つて普通に伝へられて居る処
-子供の両親に対する尊敬と、それを解してはならない。孝といふ言葉をむしろその古
い意味、昔のロオマ人のpietas(ピエタスは義務、愛情、感謝、愛国心、親族に対する忠
実等の意を有す)の意に解すべきである-詳しく言へば、一家の本分に就いての宗教的
意義に解すべきである。則ちこの文字の下に、死者に対する敬意、生者に対する義務の感
子女の両親に対する愛情、両親の子女に対する愛情、夫婦相互の義務、並びに養子養女の
一体としての家族に対する義務、僕婢の主人に対する義務、主人の寄食者に対する義務-
-すべてこれ等が包含されるのである。家族そのものが、宗教であり、祖先伝来の家は
則ち社寺であつた。吾々は一族と家とが、今日に於てすら、そんな風である事を、日本に
於て見るのである。孝道なるものは、日本に於ては、子女の父母並びに祖父母に対する義
務の意のみではない、それ以上に祖先に対する祭祀、死者に対する敬虔なる奉仕、過去〓
対する現在の感謝、全家に対する関係に於ける個人の行為等をいふのである。故に平田は
すべての徳義が、祖先の礼拝から出て来て居ると云つて居る、サア・アアネスト・サトゥ
氏の翻訳した平田の言葉は特に注意に値すると思ふ、
親から祖先の僕であると考へ、其祖先の礼拝に精励するは臣民たるものの本分である
養子女を迎へる風習は、供御を為す人を得んとする自然の願から起つたもので、此願は
決してこれを閑却して、棄て置くべきものではない。祖先の憶ひ出に一身を捧げるとい
ふ事は、すべての徳の源である。祖先に対する義務をよく果たすものは、神々に対し
またその生ける両親に対し、決して不敬な事はない筈である。かくの如き人は王侯に対
しては真実に、友人に対しては忠実に、その妻子に対しては親切にまた優しいのである
何となればその一身を捧げるといふ事の本源は、実に孝の心であるからである
社会学者の見地からすれば、平田の考は正当である、極東の倫理の全系統が家族の宗〓
から出て居るといふ事は、疑もない事実である。その祭祀の助けに依り、生者並びに死者
に対するあらゆる義務の感が出て来たのである-畏敬の念、忠実の感、献身の精神、雰
国の精神の如きすべてが。孝道が宗教上の力として如何なるものを示すかといふ事は、車
洋に於ては、人の生命を購求する事が出来るといふ事実に依つて、尤もよく想像されよう
-生命がその市価を有するといふのである。かくの如き宗教は支那並びに其隣接の国々

の宗教であつて、支那では生命が売り物になつて居る。支那の孝道があつたればこそ、パ
ナマ鉄道の完成が出来たのである。パナマに於ては、土地を鑿つのは、死を解放して自由
の働きを為さしめる事であつた-地は幾千の労働者を喰ひつくして、終に白人黒人の労
働者間には、此業を完うするに十分なる其数が得られなくなつてしまつた。併しその労役
は支那から得られた-どれほどの数でも-生命といふ代価を以つて得られたのであつ
た。而してその生命といふ代価は払はれたのであつた、則ち無数の人が東洋から来て労役
して死んだ、それはその人々の生命の価が、その家族の許に送られるやうにとのためであ
つた……。私は疑はない、かくの如き犠牲が命令的に要求されたならば、生命は日本に於
ても直に購はれうるであらうと-よし恐らくはそんなに廉価ではないにしても。この空
教の行はれて居る処、個人は、-その場合に至つてはいろいろあらうが、-家族のた
め、家庭のため、祖先のために、いつでも直にその生命を差し出すのである。かくの如き
犠牲をなさしめる孝道は、これを押し進めると、主君のためには、家族をも犠牲にして惜
まない忠義の感となる-若しくはさらにそれを押し進めると、楠正成の如く、主権者に
捧げるために、七度も生まれかはる事を願ふ忠義の心となるのである。孝の心から国家を
護るあらゆる道徳上の力が発達した-専制主義が、世の安寧に取つて危険になつた際に
は、その官憲の専制主義に向つても、正当なる制限を加へる事を往々辞さない力ともなつ
たのである。
蓋し古い西洋の、家族の神壇を中心として繞る孝道は、なほ極東にその力を揮つて居る
孝道とあまり異つたものではなかつた。併し吾々は日本にアリヤン民族特有の炉辺なるも
の、則ちたえざる火の置いてある家族の神壇を見ない。日本の家庭の宗教は、ギリシヤ人
ロオマ人の間に、その有史時代にあつたものよりも、遥かに古い礼拝の時期にあつたもの
である。古日本の母屋なるものは、ギリシヤ或はロオマの家庭の如く、確定したる組織を
もつたものではなかつた。家族の死者をその家族の所有地内に葬るといふ習慣は、一般い
は行はれて居なかつた、住居そのものがまだ確とした永続的の性質をもつては居なかつた
のである。日本の武士に就いては、ロオマの武士に就いて言つたやうにpro aris et focis
『吾が神壇と炉辺とのため』といふ事は、その文字通りには当てはまらないのである。口
本の家々には神壇も神聖なる火もなかつた、それ等の代りに、夜毎に新しく点す小さな灯
火のある霊の棚若しくは神殿があつた、そして古い時代には、神々の影像は日本にはなか
つたのである。レイリイス及びピイネイテイス(lares and penates下界にあつて家を守る

ロオマの神々)の代りに、祖先の霊牌があるばかりで、また別に小さな板牌があつて、そ
れには他の神々-守護神の名があるばかりであつた。さういふ弱々しい木製の品物のあ
る事が、なほ家庭を為すのである、それ故、勿論それ等は、何処にでも持ち運びが出来た
のである。
一家の宗教、生きたる信仰としての、祖先礼拝の十分なる意義を了解する事は、今や〓
洋の人々に取つて困難な事である。吾々は吾がアリヤン民族の祖先が、其死者に就いて加
何に感じ、また考へたかを、ただ漠然と想像しうるのみである。併しながら日本の生きお
る信仰の内に、吾々は古いギリシヤの敬神の念が、如何なるものであつたかを暗示する〓
くのものを認めるのである。男にしても、女にしても、一家の各員は、常に霊の監視の下
にあると考へて居る。霊の眼は人の一々の行為を注目し、霊の身はその言葉を聴いて居る
行為と同様思想も死者の凝視の前には見えて来る、従つて霊の居る処に於ては心は至純で
なければならず、精神も制抑を受けなればならぬ。恐らくかくの如き信仰の感化は、たえ
間なく何十年間、人々の行為の上に加へられ、其結果、日本人の性格の美しい方面を作り
上げた事と思ふ。併しこの家庭の宗教には今日何等厳酷な処もなく荘厳な処もない、-
フュステル・ド・クウランジュが、特にロオマの祭祀の特徴であつたと考へたやうな厳格な
不易な規律の如きものは少しもない。むしろそれは感謝濃情の宗教であり、死者は実際身
体を有して一同の間にあるかのやうに、家族に依つて奉仕されて居るのである。私は思ふ
若し吾々が何処かギリシヤの都会の過去の生活の内に、一時でも入り得たならば、吾々け
その家族の宗教が、今日の日本の家族の祭祀と同様、快活なものである事を認めるであら
うと。また私は想像する、三千年前のギリシヤの子供は、今日の日本の子供のやうに、祖
先の霊に供へられた何か甘いものを盗み取る機を覗つて居たに相違ない、そしてギリシ
の両親は、日本の両親が、明治の現代に於て、子供をたしなめるやうに-小言に交じ
へるに教訓を以つてし、そんな事をすると気味の悪るい事があると云つて、注意し、やけ
り優しくその子供達をたしなめたに相違あるまいと
註死者に供へられた食物は、後で家の長者が喰べるか、又は順礼に施与された。併し若し子供がそれを
喰べると、その子供は生長して記憶力が弱くなり、学者となる事が出来なくなるといふのである

日本の家族

凡そ永続して来た祖先礼拝の基となつてゐる大きな広い考へ、則ちその基礎を為す思想
は、生者の安寧は死者の安寧に依るといふ考へである。この思想並びにそれから起つて来
る祭祀の感化の下に、古の家族の組織、財産及び相続に関する法律、一言を以つてすれば、
古代社会の全組織が発展して来たのである-西洋に於ても東洋に於ても
併し古い日本の社会組織が、祖先の祭祀からその形を得たものであるかを考へる前に、
最初は死者以外には神といふもののなかつた事を、重ねて読者に注意して置きたいのであ
る。日本の祖先礼拝が神話を作り出した時にあつてすら、その神々はただ亡霊のその姿を
かへたものに過ぎなかつた-而してこれが又すべての神話の歴史なのである。天国及び
地獄といふ思想は原始の日本には存在しなかつた、また輪〓の考も同様ありはしなかつた
仏教の再生の教も-後年に他から藉り来たつた教であるが-上古の日本の信仰とは全
然両立しないものであつて、その教を立てるためには、念入りの哲学的教理を要したので
あつた。併し吾々は日本人の死者に就いての古い思想は、ホオマア以前の時代に於ける。
リシヤ人の思想に酷似して居ると想像し得るのである。則ち霊が下つて行く下界といふ〓
のがあつた、併しその霊はまた好んで自分の葬られた墓昜、若しくはその霊屋の辺に、〓
どまつて居ると考へられて居たのである。この霊の遍在の力をもつて居るといふ考は、猫
に徐に発展し得た事であつた。その考の発展し来たつた時ですら、霊は特に墓場、神殿、
住家につき纒つて居ると考へられて居た。平田(篤胤)は十九世紀の初めに当つて恁う書
いて居た『死者の霊は吾々の周囲の何処にでもある目に見えざる世界の内につづいて存在
して居り、いろいろな種類や程度の力をもつた神々となつた。或るものはそれを祭るため
に建てられた社の内に住み、また或るものはその墳墓の近くに止まつて居り、みな続いて
生前と同様にその主君や両親、妻子等に奉仕して居る』と。言ふまでもなくこの『目に日
えざる世界』は大体は目に見える現世のうっしで、同じものであると考へられ、その世界
の幸運は生者の助けに依ると考へられてゐるのである。則ち生者と死者とは互に相ひ倚話
してゐたのである。故に亡霊に取つて何よりも以上に重大であつた必要事は、供物を以い
てする礼拝であつたし、また人に取つて何よりも以上に重大なる必要事は、自分の霊に対

する将来の祭拝をして貰ふ用意であつた。而して礼拝を受ける保証を得ずして死ぬといふ
のは最大の不幸であつた………、この種の事実を知つて置けば、族長的の家族の組織を了
解するに大いに都合が良い-その組織は死者の祭祀を保持し、その用意をするために作
られたもので、この祭祀を怠れば不幸を招くと信じられたのてあるから。
読者は古のアリヤン民族の家族の内にあつて、その結合してゐる覊絆が、愛情を主とし
た覊絆でなくして、宗教の覊絆であり、それに対しては、自然の愛情なるものは、全然〓
属の位置にあつたものである事に、必らず気づいた事であらう。この事情は祖先礼拝のあ
る処、必らず族長的家族の特徴となつて居る。それで日本の家族も、古ギリシヤ若しくは
ロオマの家族の如く、厳格なる意味に於ての宗教的社会であつたし、今でもなほそのまま
宗教的社会として残つて居る。その組織は本来祖先礼拝の要件に従つて出来たものであつ
て、その後に入つて来た孝道の教の如きも、一〓古い而も同種の宗教の必要に応ずるるため
に、支那で既に発達して居たものであつた。吾々は日本の家族の組織、法律、慣習等の内
に、古いアリヤン民族の組織及び伝統的法律との幾多の類似点を認めると考へる-社△
学的発展の法則はただ僅の例外をゆるすのみで、大抵は同一なものであるが故に、事実
くの如き多くの類似点は明らかに認められるのである。深い比較研究の材料はまだ集めら
れては居なかつたので、日本の家族の過去の歴史に就いて学ぶべき事はまだ多く残つて居
る。併し大体の筋道について言へば、古ヨオロッパに於ける家族制度と、極東に於ける家
族制度との間の類似は、明らかに認められる事である。
当初のヨオロッパの文化に於ても、古い日本の文化に於ても、一家の繁栄は祖先の祭祀
の務めを厳格に完うするにあるといふ信仰があつた、そして此信仰が今日に於ける日本の
家族の生活を支配して居る事は著しいものである。一家の幸運は祖先の礼拝を行ふに在り、
最大の不幸は其式を行ひ、供物を為すべき男子の後継を残さずして死ぬといふ事であると
今なほ考へられて居る。古のギリシヤ人並びにロオマ人の間に於ける孝道の最高の務めは、
家族の祭祀の永続を完うするにあつた、従つて独身生活は一般に禁じられて居た-結婚
の義務は法律に依つて励行されなければ、輿論に依つて励行されたのである。古い日本の
自由を有する階級にあつても、結婚は一般の規則としては、男子の後継者の場合義務的で
あつた、独身生活は法律を以つて有罪とされない場合には、慣習に依つて非難された。次
男以下の場合、子なくして死ぬといふのは、その人一個の不幸であつたが、長男で後継者

の場合、男子の跡継ぎを残さずして死ぬといふのは、祖先に対する罪悪であつた、-
れに依つて祖先の祭祀が絶えるといふ恐れがあるので。如何なる口実があつても、子な!
して居るといふ事は許されない。日本に於ける家族の法律は、昔のヨオロッパに於けるよ
正しく同様で、かくの如き子のないといふ場合に対して、十分な用意が出来て居るのであ
つた。則ち妻に子がなかつた場合には、その妻は離婚される事もあつた。また離婚すべき
理由のなかつた場合には、世嗣を得るといふ目的の為めに妾を置き得たのである。なほ進
んで各家族の代表者は世嗣を養子する特権を有して居た。また悪い息子は廃嫡され、その
代りに他の青年を養子する事もあつた。さらに最後に女の子ばかりで、男の子のなかつた
場合、祭祀の継続はその長女のために夫を養子して得られたのである。
併しながら古いヨオロッパの家族に於けると同様、女の子達は家を継承する事は出来な
かつた、継続の系統は男系にのみあるので、男子の嫡子を得る必要があつたのである。士
い日本の信仰に依れば、古ギリシヤ、ロオマの信仰に於けると同様、母親でなくて父親が
生命を与へる人であつた、生々の本元は男性にあつて、礼拝を保持する務めは女子でな!
男子にあつたのである。
註祖先を礼拝する人種の間にあつて、継承が男系にある場合、祭祀も男系にある。併しながら読者は、
族長政治よりも一〓古い原始的社会の形-女子家長政治時代-に於ても祖先の礼拝は行はれて居たと
想像されて居る事を知つて居るであらう。スペンサア氏は恁う言つて居る『継続の女系にあつた時代には
如何なる事があつたか、それは明瞭でない。かくの如き習慣のあつた社会に於て、死者の霊に仕へる義〓
がその人の子供の一人の上にあつて、他のものの上にそれが被される事はなかつたといふ事を示す記録
未だ見なかつた処である』と。(『社会学原理』第三巻六〇一節〕
婦人も祭祀に参与した、併しそれを保持する事は為し得なかつた。その上一家の娘達は
一般の規則として結婚して他家へ行く運命をもつて居たので、家庭の祭祀には一時的の関
係をもちうるのみであつた。妻の宗教はその夫の宗教たるべき事が必要であつた、それて
ギリシヤの婦人と同様、日本の婦人も他家に嫁する事に依つて、当然その夫の一家の祭祀
に加はるのであつた。この理由から特に族長的家族に於ける女性は、男性とは等しくない
ので、姉妹は兄弟とは同列たり得ないのである。日本の娘も、ギリシヤの娘と同様、結婚
後も自分の家にとどまり得たのは事実である、夫がその娘のために養子された場合には、
-換言すれば、それは夫が子息としてその家に迎へられた場合である。併しこの場合〓
於てすら、娘は只だ祭祀に参与しうるのみて、その務めを保持するのは養子となつた夫の
義務となつたのである。

族長的家族の制度は、何処でもその祖先の祭祀に起原をもつて居る、それで日本に於け
る結婚及び養子の問題を考へる前に、古の家族の組織に就いて一言する必要がある。昔の
家族はウヂ(氏)と呼ばれた、-此言葉はもと近代の文字ウチ(内)則ち内部、若しく
は家と同じ意味をもつて居たものであるが、正しく極古い時代から『名』-特に氏族の
名の意味に用ひられて居た。ウヂに二種ある、オホーウヂ則ち大族並びにコーウヂ則ち小
族で、-いづれの文字も血統並びに同一な祖先の祭祀に依つて結ばれたる大きな団体を
意味するのである。このオホーウヂは或る程度まで、ギリシヤのγeos(種族)ロオマの
gens(部族)と同じで、コーウヂは其分派で、オホーウヂに隷属する。社会の単位はウヂ
であつた。各オホーウヂは其所属のコーウヂと共にphratry(人民の或る階級)若しくけ
Curia(或る一族の集合)のやうなものを代表して居た、そして原始的日本の社会を作る大
きな団体は、ただウヂを合はせたものであつた-それを氏族と云つても、部族、民群と
呼ぶとしても。一定した文化の生じたと共に、大きな仲間は、当然分かれ、又さらに細か
く分かれたが、其最少の分派も、なほ其当初の組織を保つて居た。近代の日本の家族すら
一部分は其組織をもつて居る。それはただ一家といふ意味ではなくて、ギリシ
の家族の、部族(gens)の分解後に、其形をなした所のものと同じものである。吾々(ヨオ
ロッパ人)に取つては家族なるものは分解してしまつて居る、吾々が或る一人の家族と云
ふ時には、その人の妻子を言ふのである。然るに日本の家族は、もつと大きな仲間である
早婚であるが故に、その家族は一軒の家として、曽祖父母、祖父母、父母及び子供-継
代もの子息及び娘から成り立つて居ると見るべきであつて、通例は只だ一個の家族以上に
及んで居るのである。古い時代にあつては、其家族は、一村若しくは一町内の全人員を句
有して居たかも知れないのであつて、従つて今日なほ日本には、大きな社会でありながら
その人々がみな同一な族名をもつて居るといふ事がある次第である或る地方に於ては
以前は出来うる限りすべての子供達を、もとの家族の一団体の内に、其ままにして置くと
いふ事を習慣として居た-すべての娘達にはその夫を養子として迎へて。斯うなるとそ
の一つ屋根の下に住んで居る団体は、六十人或はそれ以上の人々から成るといふ事になる、
其場合家は、勿論その要求に応ずる為めに、だんだんに拡げて建て増しされるのである。
(私は只だ説明の為めにこんな不思議な事実を記して居るのである)併し民族の落ち着い
た後には、大きなウヂは急速に増加した、そして遠い辺陬の地には、なほ一家を以つて、
一社会を成するやうなのもあると言ふ事ではあるが、原始的な族長の団体は殆ど到る処で

疾くに分壊したに相違ない。それから後もウヂの主なる祭祀はつづいて、またその小区分
の祭拝として残り、もとの部族の人々は、つづいて同一の祖先則ち氏の神(ウヂーノーホ
ミ)を祭つたのである。それから徐に氏の神の霊屋は近代の神道の社に変はり、祖先の靄
は地方の守護の神となつた、その近代の称呼、氏神なる言葉は、昔の名である氏の神を毎
くしたものに過ぎない。その内一般に一家の祭祀が成立して後、個々の家は、社会一般の
祭祀に加へて、その家の死者の為めに特別な祭祀を営むやうになつた。かくの如き宗教上
の状態は今日なほつづいて存立して居る。家族なるものは沢山の家を包有する事もある
併し各家はその家の死者に対する祭祀を営んで居る。そしてその大小に拘らず、一族の〓
体はその古い制度と特徴とを守つて居る、それは今日でもなほ宗教的社会であつて、家〓
の各員に向つて、伝統的風習に従ふ事を求めて居るのである
これだけの説明をして置けば、家族の教長政治との関係に於ける、結婚及び養子に関す
る慣習は明瞭に了解される事と思ふ。併しなほ一言、今になほ行はれてゐる此教長政治に
ついて説かなければならない。理論上一族の頭首の権力は、なほその家に於て最高なもの
である。すべてのものがこの頭首に従はなければならぬ。なほ女性は男性に従はなければ
ならぬ、妻は夫にといふ工合に、そして一族の若い人達は年長の人達に従属するのである。"
子供達はただに父母、祖父母に従はなければならぬのみならず、自分達の間にあつても、
上長に関する家法を守らなければならない、則ち弟は兄に、妹は姉に、従はなければなら
ないのである。優先の法則は、優しく行はれて居るのではあるが、励行されて居て、細か
な事に至るまで快よくそれは服従されて居る、たとへば食事時に長男が先きに、次男がそ
のつぎに、と云つた風に給仕を受ける-例外は極く小さい子供の場合のみで、小さい子
供は待つ事なく一番に給仕を受ける。この習慣は次男を『冷飯喰ひ』master cold-Riceと
嘲つて呼ぶ俚言を説明するに足りる、則ち次男は、小さい子供や、年長の人達の給仕を受
けるのを持つて居るのであるから、自分の番になる時には、飯は自分の欲するやうに温か
でなくなるといふのである…………。法律上一族は只だ一人の責任ある頭首を持ちうるの
である、それは祖父である事もあれば、父である事もあり、或は長男である事もあるが、
大抵は長男である、何となれば支那伝来の風に従つて、老人は長男が事にあたりうるやう
になれば、通例はその実権を譲つて引退するからである。
若者の年長者に、女性の男性に従属する事-事実家族の現存の全制度-は族長的家
族の恐らくは一〓厳密なる組織を語るものであらう、抑もこの種の家族の頭首は、殆ど鉦

限の力をもつた統治者であり、同時にまた神官(僧侶)であつたのである。この組織は本
来宗教的であり、今日でもなほさうである、家族を作成するものは、結婚上の結合ではな
く、また一家に対する親たるものの関係も、宗教的一体としての家族に対する父なり母な
りの関係に依るのである。今日でも妻として一家の内に迎へられたる一人の女子は、一〓
の養子として位置をもつて居るのである。則ち結婚は養子の意である。其女子は花嫁Flov
-er-daughterといはれて居る。同様にまた同じ理由で、或る家の娘の一人に対する夫とし
てその家に迎へられた青年も、只だ養子としてその位置をもつて居るのである。かく迎へ
られた花嫁でも花婿でも、当然年長者に服従すべきものであり、また年長者の意向次第で
逐はれる事もあるのである。養子として迎へられた夫の位置は、技倆を要し、難しいもの
である-それは日本の俚諺に『小糠三合あれば、婿養子になるな』While you have evei
three go of rice-bran left, do not become a son-in-law.とあるのがよく証明して居る。ヤ
ブはラケルを待ち受けなくも良いので、所望されてラケルに与へられるのである、そし〓
それからヤコブの奉仕が始まる。それから七年の二倍の奉仕をして後、ヤコブは逐ひ出さ
れるかもしれないのである。(『旧約聖書』に依ればヤコブはラケルを得るために七年の
奉仕をする、そして後さらに二度七年の奉仕をするのである)其場合ヤコブの子供達はも
う自分のものではない、それは家族のものである。その養子とされた事は愛情などとは何
の関係もない事で、又その放逐も何等不行跡があつたといふのでもない。さういふ事柄い
法律で定められてあつたとしても、実際は家族の利害に依つて決定されるのである-〓
とその祭祀とをつづける事に関しての利害に依るのである
註最近の法律は婿養子の利盆になるやうになつて居る、併し法に訴へるのは、不行跡のために養家を〓
はれたので、その逐はれた事に依つて、何か利盆を得ようと焦慮するやうな人のみのする事である。
養子養女は以前には殆ど勝手に逐はれ得たものでありはしたが、古い日本の家族に於け
る結婚の問題は、宗教上の意義あるものであつて-結婚は孝道の主なる義務であつた車
は忘れてはならない。これはまた古いギリシヤ、ロオマの家族にもあつた事で、その結婚
式は、寺院でなくて、現時日本で行はれて居るやうに、家庭で行はれた。これは家族的宗
教の式-花嫁が祖先の霊の居ると仮定されて居るその前で、その家の祭祀の内に迎へス
れられる式であつた。原始的日本人の間には、恐らくそれに等しい式はなかつた事であら
う、併し一家の祭祀の制定された後、結婚式は宗教上の式となり、今日なほさうなつてる
るのである併し普通の結婚は、特別な事情のない限り、一家の神殿の前若しくは祖先の

位牌の前で行はれるのではない。普通の結婚に関する規則は、若し花婿の両親がまだ存生
中ならば、位牌の前では行はないと云ふ事らしい、併し若し両親が死んで居たら、花婿は
位牌の前に花嫁をつれて行き、其処で花嫁は服従を誓ふのである。以前は少くとも貴族間
の結婚はもつと明瞭に宗教的であつたらしい-『諸礼筆記』"Record of ceremonies"とい
ふ書物の中にある、次のやうな不思議な関係から判断して見ると、さう考へられる、曰く
『高位の人の結婚に於ては、三つの部屋を打ちぬきて結婚の室とし、(通例部屋々々を公
かつて居る襖を除けて)新たに飾りをなしてこれに充つ………。家の神の像を納めたる神
殿は寝所に接する棚の上に置かる』と。皇室の結婚は、必らず公然祖先に報告されるのも
注意すべき事であり、また帝室の推定相続者たる方、若しくはその他の王子の結婚は、腎
所則ち宮殿の地内にある祖先を祭る帝室の御堂の前で行はれる事も注意すべき事である
大体の規則として日本に於ける結婚式の発展は、主として支那の先例に従つたものであス
が、支那の族長的家族にあつては、結婚式は、古いギリシヤ、ロオマの結婚と同様、全く
それ一流の宗教的儀式である。そして日本の結婚式の、家族の祭祀に対する関係は、あに
り顕著でないとしても、研究の結果それは十分明瞭になつて居る。たとへば花嫁花婿が
同じ器から相互に酒を飲む事は、ロオマのconfarreatio(一種の麦で作つた菓子を結婚の
際、人の共に食する式)に酷似して居る。結婚の式に依つて花嫁は家族の宗教の内に入れ
られる。その場合花嫁は夫の祖先を、自分の祖先として、畏敬しなければならないし、〓
たその家に年長者がなければ、夫の代りとして供御を捧げる義務を負はなければならない
のである。自分の実家の祭祀に関しては、花嫁はもう何等の関係もないのである、それて
両親の家からその娘の去る時、一種の葬式が行はれるが-厳かに家の部屋々々を掃除し
門前に死者のための篝火をたくのである-それは宗教的に分かたれた事を意味するもの
である。
註一この翻訳はミツトフオド氏のである。家の神の『像』なんていふものはない、思ふにこれは祖先の
位牌のある、一家の神道の神殿の意であらう。
註二現皇太子の御結婚の時はさうであつた。
ギリシヤ、ロオマの結婚に就いて、クウランジュ氏は恁う言つて居る『かくの如き宗教
は決して一夫多妻を容れない』と。『古代都市論』'la cite antique'の著者(クウランジ
氏)が考へて居たやうな、さういふ社会の非常に発達した家族的祭祀に関しての、氏の記
述は殆ど疑問を挿む余地はない。併し一般の祖先礼拝に関しては、或は正鵠を得て居ない

処もある、蓋し一夫多妻も、一妻多夫も、祖先礼拝のまだ全く進歩して居ない形と共存し
うるのである。クウランジュ氏に依つて研究された時代の西方アリヤン民族の社会は、管
際一夫一妻であつた。古代の日本社会は一夫多妻であつて、それは家族の祭祀が成立した
後までもつづいて居た。極く古い時代にあつては、結婚の関係そのものが不正確なもので
あつたと考へられる。則ち妻と妾との間には何等の区別も出来て居なかつた『それ等は共
い、「女共」として一緒にされて居た』恐らく支那の感化の下にあつて、その区別は後〓
はつきりとなつて来たのであらう、そして文化の進歩と共に統治階級は一夫多妻であつた
けれども、一般の傾向は一夫一妻の方にあつた。家康遺訓の第五十四条にこの社会状態の
姿が明瞭に言明されて居る-これは現代に至るまで行はれて来た状態であス
妻妾之差別は君臣之礼を以てすべし妾は天子十二妃諸侯八嬪大夫五嬉士に二妾其以
下は匹夫也(
附記第五十四条とあれど『禁令考』には五寸三条にこの事あり、後段、
四十五条引用の個処も四十四条にあたれり、その他一条づつの相違あ
註サトウ著『純神道の復興』"The revival of pure shintau."
これに依つて見れば、蓄妾は永い間(多少の例外はあつたとして)特殊の権利であつた
事と考へられる、そしてそれが大名制度及び武家階級廃止の時代まで続いて来たといふ事
は、古代社会の武力的性質を説明するに足りる。(特にハアバアト・スペンサアの『社▲
学原理』第一巻三百十五節なる『家族』の一章を見よ)家族的祖先礼拝は、一夫多妻とは
両立し得ないといふのは事実でないとしても、(スペンサア氏の言葉は極めて包括的であ
る)少くともかくの如き礼拝が、一夫一妻的の関係に依つて便宜を得、従つてさういふ制
度を建てる傾向をもつたといふのは事実である-それは一夫一妻が、他の関係に依つて
得られるよりも、家族の継続を鞏固になし得るからである。吾々はよし古い日本の社会が
一夫一妻ではなかつたとしても、自然の傾向は、家族の宗教並びに多数人民の道徳観と
番よく一致する条件として、一夫一妻の方に向つて居たと言ひうるのである
家族の祖先祭祀が一般に行はれるやうになるや、結婚の問題は孝道の義務として、これ
を若いもの自身の意志に委して置く事は、正当な事であり得なかつたのである。則ちそれ
は子供等に依るのでなく、家族に依つて決定さるべき事であつた、何となれば男女相互の
愛情の如きは、家の宗教の要求する処に対して何等の力をも有し得ないからである結婚
は愛情の問題でなく、宗教上の義務の問題であつた、それに対して、別種の考へ方をする
のは、神の教に背く事であつた。愛情は後になつて夫妻の関係から起こり来るとなし得ス

し、又さうであるべきであつた。併し如何なる愛情でも一族の団結を危くするほどに、そ
の力を有つ場合には、それは罪悪とされる。故に夫があまりに妻に愛着するやうになつち
が為めに、その妻の離婚される事もありうるし、養子とした夫が、その愛情に依つて、家
の娘の上にあまり大なる感化力を働かしうるといふので、離縁される事もある。いづれの
場合に於ても、その離婚を決行するに、別の理由が附けられなければならぬ事であらうが
-併しその別の理由なるものは容易に得られる事であらう。
夫婦の愛情も一定の制限内に於てのみ許されうるといふその理窟から、両親なるものの
その自然の権利も(吾人の了解する処に依れば)当然古い日本の家に於ては制限されて居
た。抑も結婚は礼拝を続かせるための後嗣を得る目的であるが故に、子供等は父母のもの
といふよりも、家族のものと考へられて居た。ここに於て子息の妻を離婚した場合若しく
は養子を離婚した場合、-或は結婚した子息を廃嫡した場合も-その子供等は家族〓
残されて居るのである。それは若い両親の自然の権利は、一家の宗教上の権利に従属すス
もの、と考へられて居たからである。この宗教上の権利に反対するものは、如何なる権利
と雖も認められなかつたのである。勿論、実際には多少幸運な事情に依つて、個人も世襲
的の家にあつて、自由を享有する事もあらう、併し理論上並びに法律上から言へば、古い
重大な責任
日本の家族には、その内の一員に取つては、何等の自由もないのであつた-重大な責に
をもつ、一家の認められたる首長さへも、この例には洩れないのである。各個は尤も若・
子供から祖父に至るまで、他の何人かに服従して居り、一家の生活の各行為は、伝統的槽
習に依つて制限を加へられて居たのである。
ギリシヤ或はロオマの父親の如く、日本の家族の家長は、古い時代にあつては、一家の
すべての人々の上に、生〓与奪の権力をもつて居たと考へられる。遠き蒙味な時代にあっ
ては、父はその子供を〓し、若しくは売つたものと考へられる、而して後代になつても
統治階級の間にあつては、父の権力は殆ど無制限であり、その状態のままで近代にまで及
んで居た。その伝統に依つて説明される地方的の例外、若しくはその服従の事情に依つて
説明される階級の例外はあつたとしても、日本の家長は、由来その一族内に於ては統治者
であり、祭司(僧侶)であり、又役人であつたと言つて然るべきである。家長はその子を
強いて或る結婚を為さしめ、或はそれをやめさせる事も出来、或は廃嫡するとか、勘当す
る事をなし得、またその子供等の取るべき職業を定める事も出来たし、なほその権力は
族の各員並びにその家の寄食者に迄及んだ。普通の人民の場合に於ては、時代に依つて、
或る制限がその権力の遂行に対して加へられた事もあるが、併し武家階級にあつては、〓

の家長の権力patria potestasは殆ど無制限であつた。その極端な形に於ては、父の権力は
一切を左右した、-生命と自由とに対する権利-結婚させ、若しくはすでに配偶した
妻或は夫をして其結婚状態をつづけしめるとする権利-自分の子達に対する権利-田
産を保有する権利-官職を保持する権利-仕事を選び若しくはそれを続ける権利、
ういふものを凡て左右して居た。家族は則ち専制主義であつた
併しながら族長的家族に行はれて居るこの絶対主義も、宗教上の信仰からは、正当なも
のとされて居るといふ事-一切の事は一家の祭祀のためには、犠牲に供せらるべきもの
であり、又一族の各員は、一家の継続を完うするために、若し必要とあらば、その生命を
も直に差し出すべきであるといふ確信からすれば、正当なものである、といふ事を忘れて
はならない。この一事を記憶して置けば、何故に他の点に於ては進歩した文化を有する,
の社会に於て、父がその子供を〓し、若しくは売る事を正当と考へたかといふ事が容易に
了解される。子息の罪悪の結果は、一族の滅亡を招き、祭祀を絶やす事になるかも知れな
い-特に日本の武家の如き、その家族の一員の行為に対して、全家族が責任を有し、乙
の大罪は全家族の死刑となり。それが子供等にまで及ぶといふやうな武家の社会に於ては、
さうであつた。また極度な必要に迫られた場合、娘の身売りが家の破滅を救ひうる事もあ」
るが、孝道は家の祭祀のために、かくの如き犠牲にも服従を要求したのである
〓リヤン民族の間に於けるが如く、財産は、長子相続の権利に依つて、父から子息に衝
ヽられ、長男は、他の財産が、大勢の子供の間に分配される場合にも、常にその本家を舞
承したのである。然るに本家に属する財産は家族の財産であつて、それは長男なる個人〓
伝へられたのでなくて、一家の代表としてその長男に伝へられたのである。大体に就い〓
言へば、父がその家長たる間は、その承認なくして、子息が財産を所有するといふ事は有
り得ないのである。規則として-それにはいろいろ例外もあるが-娘は家を継承する
事は出来ないので、それが独り娘である場合、養子として夫を迎へるのであるが、家の助
産は、その養子となつた夫に伝へられるのである、何となれば(最近に至るまでは)婦人
は一族の頭となる事が出来なかつたからである。これは西洋のアリヤン民族の家族に於〓
も、その祖先礼拝の時代にあつては同様であつた
註旧日本に於ける父子継続の法は、階級と場所と、時代とに依つて著しく異つてゐる、この全問題はま
だ十分に論じられて居なかつた、今は安全な一般的な記述を試みるに止めて置く。

近代の考へ方から見ると、旧日本の家族に於ける婦人の地位は全く幸福なものとは思は
れない。子供として、女はただに上長に服従したのみならず、また家のすべての成人の男
子に服従して居た。他の家へ妻として迎へられても、ただ同様な服従の状態に移されたに
過ぎず、而も自分の祖先の家に於て、父母や兄弟姉妹の関係に依つて与へられて居た愛情
は得られなくなるのである。その夫の家に居るのは、夫の愛情に依るのではなく、むしる
多数の人の意志、特に年長者の意志如何に依るのである。離婚された場合にも、女は自分
の子供を要求する事は出来なかつた、それは夫の家族に属したものであつたからである。
如何なる際にも、妻としての務めは雇人なる女中の務めよりも苦しいものであつた。只だ
老後に於てのみ、婦人は多少の権威を振るひうる望みもあるが、その老年に於ても、なほ
後見を附せられて居た-女は全生涯を通じて後見の下にあつたのである。『女は三界に
家なし』a woman can have no house of her own in the three Universes.とは古い日本の
諺である。婦人はまた自分一個の祭祀を行ふ事も出来ない、一家の婦人達の為めの特別な
祭祀といふものはない-夫の祭祀と離れた婦人だけの別の祖先の祭祀はない。結婚に依
つて婦人がより位の高い家族に入るや、その位置はいよいよ難しくなる。貴族階級の婦人
には、自由といふものは全くない。貴族階級の婦人は駕籠に乗るか、若しくは警護に依つ
て伴なはれるのでなければ、家の門外へすら出られなかつたのである。そして妻としての
その生活は、その家に妾の居る事に依つて、恐らくは痛められたのである。
かくの如きは則ち古代に於ける族長的家族の状態であつた、が併しその実際の事情は法
律と慣習とが示すよりも遥かに良かつたと察しられる。由来日本の民族は陽気で快活であ
るから、何世紀も以前に於て、人世の難境を平らかにし、法律と慣習との酷しい強要を和
らげる道を幾多発見した。家族の頭の、偉大なる権力の、残虐なる方に用ひられた事は弘
らく滅多にない事であつた。一家の頭は、法律上尤も恐るべき種類の権利をもつて居たの
ではあるが、併しこれ等の権利は一家の頭が、責任をもつて居るといふ理由から、自然も
つて居るもので、社会の批判に反いてまでも用ひられたといふ事は、先づない事であつた一
古い時代にあつては、法律上個人といふものは、認められなかつたものである事を記憶し
て置かなければならぬ、承認されたのは只だ家族のみで、家族の頭は法律上その家の代表
者として存在したのである。故に一家の頭が過をすれば、全家挙つてその過から来る罰を
受けなければならないのであつた。なほまた一家の頭が、その権力を極度に働かした場合
その一々の働きはそれに相応した責任を伴なつたのであつた。彼はその妻を離婚し、若ー

くはその子のために迎へた嫁を逐ふ事も出来た、併しこの孰れの場合に於ても、その行為
に対し、離婚されたるものの一族に向つて責任を負はなければならないのである、而して
離婚の権利は、特に侍の階級に於ては、家族の怒りを購ふ恐れのあつたので、制限されて
居た、則ち妻を不当に離縁する事は、その親族に対する〓辱と考へられたのである。家巨
はその唯一の子息を廃嫡する事も出来る、併しそのものが下等な階級のものでない限り
家長は社会に対しその行為を声明しなくてはならない。家長が一家の財産の処置に就い〓
不取締であるといふ事もある、併しその場合には組合の当局(其筋)に訴へる事も出来、
その結果その家長は隠居を命ぜられる事もある。吾々の研究した古い日本の法律に関して
今日なほ残つて居るものから判断しうる限り、家族の長も、その所有地を売り、若しくけ
割譲する事は出来なかつたといふのが、一般の規則であつたらしい。家族の統治は専制的
であつたが、その統治は一人の主人のではなくて、一個の団体の統治であつた、一家の長
は実際家族の他の人々の名に於て権威を働かしたのである。……この意味に於て家族は〓
ても専制主義である、併しその法律上の頭たる権力は、後年の慣習に依り内外両方面から
防遏されて居る。養子、廃嫡、結婚若しくは離婚の行為は、通常広く家族一般の同意に依
つて決定され、何事でも個人の不利となるやうな重要な事を決行するには、一家並びに到
族の決議が要されるのである。
註侍たる父は不貞の行のあつた娘を殺し、若しくは家名を汚す行為を敢てした子息を殺しても差支な」
のであつた。併し侍たる身分のものはその子女を売る事はしない、娘の身売りはただ下〓階級のもの、〓
は侍以外の他の階級の進退谷まつた場合に立ち至つた家族に依つてのみ行はれたものであつた、併し娘〓
その家族の為めに進んで身を売るといふ事はあつた。
勿論古い家族組織にも、或る種の利盆はあつて、それが大いに個人の服従状態の償ひ〓
なるのであつた。則ちこの家族は相互扶助の一社会であつて、従順を強ふると同様に、曲
力をも与へるのである。必要の場合には家族の各員は、他の一員を助ける為めに、何等ふ
の仕事を為し得たのである。各員は全体のものから保護を受ける権利をもつて居た。この
事は、今日と雖も、なほ日本の家族の状態である。各人の行為が礼譲、親切といふ古い形
に従つて動かされて居るやうな規律正しき家に於ては-荒々しい言葉を発する事もなく
-年少者は愛情深き畏敬の念をもつて年長者を見-年取つて最早活動的の仕事の出来
なくなつた人々は、自ら子供の世話をし、教育、訓練に無上に貴い務めをする-と云へ
たやうな家に於ては、理想の状態が実現されて居るのである、かくの如き家庭の日常生活

は-その家に於ける各人の努力は、すべてのものの為めに、生存を出来うる限り愉快に
するにあり-その結合の覊は愛情であり、感謝であるといふ-さういふ家の日常生活
は、尤もよきまた尤も純なる意味に於ての宗教を代表するものであり、その場所は神聖で
ある。
なほ一言すべきは、古い家族に於ける寄食者の事である。事実上まだ十分な定説とする
わけには行かないが、恐らく日本の初めの寄食者は、奴隷若しくは農奴であつたらしい、
そして爾後の僕婢の状態は-特に統治階級の家族に於けるそれ等の状態は-古いギリ
シヤ、ロオマの家族に於ける奴隷のそれによく似て居る。当然それ等は劣等者として取扱
はれては居るが、なほ一家の人員として考へられて居り、親しいものとして信頼され、家
族の快楽に分与し、其親しい会合には、大抵席を頒かたれて居た。法律上から言へば奴僕
は酷しく取扱はれ得たのであるが、通例は親切に取扱はれたといふに疑ひはないと考へら
れる-絶対の忠実といふ事が、彼等から期待されて居たので。過去に於ける奴僕の事情
に就いての最も善い証跡は、今日なほ残存して居る風習の内に見られる。僕婢の上に及〓
す家族の権力は、最早法律の上にも事実の上にも存在しては居ないが、昔日のその関係の
楽しい特徴は、なほ続いて居り、それ等は少からず興味のあるものである。則ち家族はそ
の使用人の繁栄に就いて、真心をもつて考慮して居る-殆ど貧しい親族の場合に対して
示されるが如き考慮をとる。以前にあつては、或る位の高い家に僕婢を差し出す家は、乙
の主家に対し、家臣の大名に対するが如き関係をもち、両家の間には忠順と懇篤との真の
契約が存立したのである。かくて僕婢の務めは父子相伝的となり、その子供達は小さい時
分から、その仕事にならされて居た。僕婢が相当の年配に達すると、結婚の許しが与へら
れ、奉仕の関係はなくなる、併し忠順の関係はなくなるのではない。結婚した僕婢の子供
達は、年が行くと主人の家で働くやうにその家に送られ、これも亦その婚期の来るに至っ
て暇を貰ふ。この種の関係は貴族の家と、その家臣たる家との間には、なほ行はれて居り
幾百年の間も変はらずに父子相伝的に代々務めをするといふ、美しい伝統と習俗とを保在
して居る
勿論封建時代にあつての主人と使用人との関係は、極めて厳格なものであつた、必要な
場合には、使用人は主人若しくは主人の家の為めに、自分の生命その他一切を捧げるやと
に期待されて居た。これは又ギリシヤ、ロオマの使用人にも求められて居た忠順であつち
-それは労役者を牛馬の状態に陥れた、不人情な服役の事が、まだ行はれなかつた以前

の事であつて、その関係は半ば宗教的であつた。唯クウランジユ氏が記述して居るやうな、
ギリシヤ若しくはロオマで僕婢を一家の祭祀に列ならしたといふ、その風俗と同じ風俗が
また古代の日本にあつたとは考へられない。併し日本の使用人を差し出す家臣なる家族は、
家臣として、当然その主君の氏族の祭祀に属して居たのであるから、家族に対する僕婢の
関係は、或る程度まで宗教的の関係であつたのである
読者はこの章に記した事実から、どれ程まで個人が宗教的団体としての家族の犠牲にな
つたものであるかを了解し得たであらう。僕婢から主人まで-一家の教長政治のあらゆ
る階段を経て、上は主人にまで及び-義務の法則は何人にも同様に当てはめられ、風羽
と伝統とには絶対の柔順が要求された。祖先の祭祀は、決して個人の自由を認めなかつた、
男女を問はず何人も自分の意ふままに生活する事は出来なかつた。各人みな規律に従つて
生活しなければならなかつた。個人は法律上にも存在をもつて居なかつた-家族が社会
の単位であつたのである。その家長すらも、法律に於ては、只だ代表者としてのみ存在し
たのである、-生者と共に死者に対して責任をもつて。併し家長の公共の責任に至つて
は、単に民法に依つてのみ定められたものではなかつた。それはなほ一つの宗教上の約束
-氏族若しくは部族の祖先の祭祀といふ約束に依つて定められたのである、而してこの
祖先礼拝の公式は、家庭の宗教よりも以上に厳重なものであつた。

組合の祭祀

一家の宗教に依つて、各個人の家庭生活の一々の行動が支配されて居たやうに、村或は
一地方の宗教に依つて、家族の外界に対するあらゆる関係が支配されて居た。家庭の宗教
と同様、組合の宗教も祖先礼拝であつた。一家の神壇が家族に対して代表して居た処のも
のは、則ち神道の教区の社が、組合に対して代表して居た処のものであつた、その守護の
神として礼拝されて居たものは、氏の神則ち氏神と呼ばれて居たが、この言葉はもと一族
の名と共に族長的家族則ちgensを示すものであつた。
氏神と組合との本来の関係に就いての問題に関して、多少不明な点がある。平田(篤胤)
の言ふ処に依ると、氏の神は、氏族なる一族に共通した祖先で-第一の族長の霊であつ
たと、蓋しこの意見は(種々の例外はあるとして)殆ど確に其当を得たものである。併し
ながら『一族の子供』則ち氏子なるものは、(神道に属する教区の民は今でもさう呼ばれ
て居る)最初はただ氏族の祖先から出た子孫をのみ包有して居たのか、或は又その氏が支
配して居た地方の住民全部を包有して居たのか、それは容易に決定しがたい。現時に於〓
は、日本の各地方の守護の神が、その住民共通の祖先を代表して居るとは決して言へない
-もつとも遠隔の或る地方に於ては、この一般的規則に対して例外はありうるとして
も。恐らくは、最初氏の神なるものは、共通の祖先の霊として、といふよりも、古いその
地方の統治者の霊、若しくは統治して居た家族の守護神として、地方の人民に依つて礼拝
されたといふのが真実らしい日本人の大部分は、有史以前の時代から、奴隷的服役の状
態にあり、比較的近時に至るまで、その状態にとどまつて居たといふ事は、可なり十分に
証明されて居た事であつた。果たしてさうとすれば、その従属して居た階級は、最初は白
分等自身の祭祀をもつては居なかつたとも言ひうる、則ちそれ等のものの宗教は、多分は
主人の宗教であつたであらう。又後代になつて、家臣は確に主君の祭祀に加はつて居た。
併しながら日本に於ける組合の祭祀の最初の状態に関して、総括的の記述を試みる事は、
今日の処ではまだ困難である、何となれば日本国民の歴史は、只だ一個の血統をもつた単
純な人民の歴史ではなくて、起原を異にし徐に一つの大なる族長的社会を形成するやうに
まとめられた沢山の氏族の群の歴史であるからである。

併しながら最も信頼すべき日本の典拠に依つて考へるに、氏神は氏族の神であり、又必
らずしもさうと極まつたわけではないが、通例氏族の祖先として祭られて居たと言つて差
支ない。氏神の内には有史時代に出来たものもある。たとへば軍神八幡-この神を祭つ
た教区の社は殆どすべての大きな都にある-は応仁天皇を祭つたもので、有名な源氏族
の守護神である。これは氏神の内でも、その氏族の神が、祖先でない一例である。併し多
くの場合に於て、氏神は実際氏の祖先である、それは春日大明神の場合のやうなもので、
藤原家(氏族)は、この神からその血統を引いて居る。有史時代の始まり以後、古い日本
にはすべてで大小千百八十二の氏族があつて、それ等が同数の祭祀をもつて居たらしい。
さう有りさうな事であるが、今日氏神と呼ばれて居る神社は-則ち一般の神道の神社で
あるが-必らず一種特別な神を祭つたもので、決して他の神々を祭つたものではない
また大きな町には、同じ幾個かの氏神を祭つた神道の社が、幾個もある事は注意すべき点
である-これは組合の祭が、その本来の土地から、他に移つて行つた事を証明するもの
である。それ故出雲の春日様の礼拝者も、大阪、京都、東京に、その自家の守護神を祭(
た教区の社をもちうるのである、また九州の八幡様の礼拝者も、肥後或は豊後に於けると
同様、武蔵に於ても同じ神様の守護の下にありうるのである。なほ今一つ注意すべき事実
は氏神の社が、必らずしも教区に於ける一番重要な神道の社ではないといふ事である、氏
神は教区の社で、組合の礼拝には大事なものであるが、併しそれは近所にある、より高い
神道の神々を祭つた社に依つて負かされ、蔽はれて影にされる事もある。たとへば出雲の
杵築に於ける出雲の大社は、氏神ではない-教区の社ではない、その一地方の祭祀は、
遥かに小さい社で行はれて居る、……より高い祭祀については、いづれ今後なほ語る事と
するが、今は只だ組合の生活に関係ある、組合の祭祀に就いてのみ語る事にする。今日の
氏神礼拝に依つて表はされた社会状態から、過去に於けるその影響に就いて多くの事が推
測されうる次第である。
殆ど日本の村といふ村には氏神がある、大きな町若しくは都を中心とした各地方にもそ
の氏神がある。この守護神の礼拝は教区の民-氏子則ち守護神の子供全体に依つて守ら
れて居る。かくの如き教区の社には、みなその祭りの日があつて、その日にはすべての氏
子は、社へ来る事になつて居り、事実家々は少くとも一人の代表を氏神に送るのである。
祭りには大祭の日と普通の祭の日とがあり、行列、音楽、舞踊、その他人々を慰め、その

日を面白くさせうるいろいろの事が行はれる。近隣の地方の人々は互に競争してその社の
祭を楽しくし、家々はその分に応じて寄金をする。
神道の社は、一つの団体としての組合の生活に密接な関係を有すると共に、各氏子の個
人的生活にも重要な関係をもつて居る。男でも、女でも、生まれた孩児は、氏神の許へ性
なはれて行く、-(男の子ならば生後三十一日を過ぎ、女の子ならば同じく三十三日を
過ぎて)そしてその神の保護の下に置かれる、その神の霊前に出たと仮定して、孩児の々
も登録されるのである。その後も子供は時を定めて、特別な聖日に神社に伴なはれて行く
勿論大祭の日には伴なはれて行くので、その日には、仮りの小屋がけで売る玩具、社の培
内にある面白い見世物、-色のついた砂でもつて鋪石の上に画を描く芸人や-飴で
ね上げて拵へた動物や、怪物をつくる菓子売りや、-その技術を示す手品師や軽業師に
依つて、年の行かないものの心を楽ますのである。……それから後子供が大きくなつて
走りまはる事が出来るやうになると、社の庭やその森が遊び場になる。学校生活も、氏子
と氏神とを離しはしない、(その家族が永久にその地方を去るのでなければ)神社へのぬ
詣は、なほ義務としてつづけられる。成長して結婚しても、氏子は妻なり、また夫なり〓
伴なはれ、規則正しく保護の神に参詣し、神に忠順なるやうに自分の子供をつれて行く
若し長い旅行をするとか、或は永久にその地方を去らなければならない場合には、氏子は
氏神並びに家族の祖先の墓に訣別の参詣をする、そして永く留守にした後、故郷に帰つて
来た時、その最初に行く処は神様の許である。……私は嘗て一度ならず田舎の寂しい社の
前で、祈祷をして居る兵士を見て、甚だしく感動された、-それは朝鮮、支那、台湾ふ
ら帰つて来たばかりの兵士である、家に帰つてからの彼等の最初の考は、自分の子供の時
の神に感謝をのべる事であつた、彼等の信ずる処に依ると、その神は戦時並びに悪疫の流
行に際して、彼等に保護を与へたといふのである。
旧日本の地方の風習と法律に就いての権威者なるジヨン・ヘンリ・ヰグモアは恁う言(
て居る、神道の祭祀は地方の行政とはあまり関係がないと。氏の説に依ると、氏神は上士
の或る高貴な家族の祖先を、神として祭つたものであり、その社は引きつづいてその家族
を守護して居たものであるといふのである。神道の祭司(僧侶)則ち神主(god-master)
の役は、父子相伝のものであつたし、今日でも左様である、そして規則として神主の血結
は、その氏神を本来守護神として居た一族から下つて来て居るのである。併し神道の神官
(神主)は、多少の例外もありはするが、役人でもなく行政官でもなかつた、かくの如き

は『祭祀そのものの内に、行政的の組織のなかつた事に帰せられ』うるものであると、ヰ
グモア教授は考へて居る。この説明は当を得たものであらう。併し神官は政治上の機能を
働かせなかつたといふ事実のあるにも拘らず、私は神道の神官が法律以上に権力をもつて
居たし、また今でももつて居るといふ事が証明されうると信じて居る。その組合(社会〕
に対する関係は非常に重要なもので、彼等の権威は只だ宗教的に限られて居たが、その権
力は重くまた抵抗すべからざるものであつた。
註神道の族長制度の瞹眛な事は、スペンサア氏の『社会学原理』第三巻第八章に於て恐らく尤もよく説
明されて居る。スペンサア氏はこれと同じ条下に於て、古代の日本に於ては『宗教と政府とが同一のもの
であつた』といふ事実をのべて居る。さうなると特殊の神道の政教制度は発展しなかつたのである。
この事を了解するためには、神道の神官はその地方の宗教的感情を代表して居たもので
ある事を記憶しなければならぬ。各組合の社交的規約は、宗教上の規約と同一であつた、
-それは則ち地方の守護神を祭祀する事である。則ちすべての組合の仕事の成功、病気
に対する防禦、戦時に於ての主君の勝利、飢饉若しくは疫病の際ににける救助、さういふ
事の為めになされる祈祷は、みな氏神に向つて為されるのである。氏神はすべて良い事を
与へるものであつた、-人民の特別な助力者、保護者であつた。かくの如き信仰が今日
なほ行はれて居るといふ事は、日本の百姓の生活を研究するものの等しく認める所である
百姓が秋の沢山の収穫を祈り、若しくは旱魃に際して雨乞ひをするのは、仏に向つてする
のではない、また米の沢山の出来の為めに感謝を捧げるのも仏へではない、-それは昔
の地方の神に向つて捧げるのである。また氏神の祭祀は、組合(社会)の道徳上の体験を
具現して居るものである-それは則ちすべて其大事にして有て居る伝統と習慣、其行昼
に関する不文律、その義務の感を代表して居るのである。一家の倫理に対する違犯が、か
くの如き社会に於ては、一家の祖先に対する不敬と考へられるやうに、村或は一地方に於
ける慣習を破る事は、その氏神に対する不敬の行為として考へられるのである。一家の敏
昌は孝道を-孝道は一家内の行動の、伝統的規則に服従するのと同一にされて居る-
守るにあると考へられて居るが、それと同じく組合の繁昌も、祖先の風習を守るにあると
仮定されて居る、-則ち少年の時からすべての人に教へられて居る、地方の不文律に裕
ふにありとされて居るのである。風習は道徳と同一視されて居る。一地方で定められたス
風習に対する違犯は、その地方を守る神に対する違犯であつて、従つてそれは公の安寧を

危くするものである。組合の存在はその仲間の一人の犯罪に依つて危くされる、故に各員
は社会から、その行為に対する責任をもつやうにされて居る。人の各行為は、氏子の伝統
的慣習に一致しなければならない、独立した例外の行動は公然の違法である
古代に於ける社会(組合)に対する個人の義務の如何なるものであつたかは、これに依
つて想像されよう。個人は自分に関して、正しく三千年前に、ギリシヤの市民がもつてぽ
たと同じ権利以上のものをもつては居なかつた-恐らくはそれ程ももつては居なかつた
らう。今日に於ても、法律は甚だしく変化したとは言へ、個人は実際殆ど古と同様な状能
にある。個人の欲するがままに行ふ権利と云ふやうな、ただそれだけの観念でも(たと
ば、イギリス及びアメリカの社会に於て、個人の行為の上に加へられる一定の制限の内に
あるやうな自由な観念であつても)それは個人の考への内には入り得ない。かくの如き白
由は、若しそれが日本の人に説明されたならば、その人は、それを以つて禽獣の状態に出
べらるべき道徳上の状態と考へるであらう。吾々西欧人の間にあつては、普通の人々に而
つての社会上の規定が、主として云々の事は為すべからざるものであるといふ事を定めス
のである。然るに日本に於て行つてはならぬといふ事は-広い範囲に亙つた禁止を示す
ものではあるが-普通の義務の半分よりも少いものである、それよりも人の行はなけれ
ばならぬ事を学ぶのは、遥かに必要なのである……今個人の自由の上に、風習が及ぼす制
限を簡単に考へて見よう。
先づ第一に注意すべきは、組合の意志が一家の意志を後援する事である、-則ち孝道
を守る事を強ふる。幼年の時期を過ぎた男の子の行ひすらも、家族でなくて、それが公共
に依つて定められる。男の子は家に服従しなければならぬが、またその家に於ける関係に
就いては、公共の意見に従はなければならぬ。孝道と両立しないやうな著しい不遜な行は
すべてのものから批判され叱責される。さらにその子が大きくなつて働き、また学問を於
めるやうになると、その日日の行為が監視され批評される、そして一家の法が始めてその
ものの周囲に緊張して来るやうな年配になると、そのものは同時に世間の意見の圧迫を圃
じ始める。年頃になると結婚しなければならないが、勝手に妻を選ばせるといふやうな老
へは、全然問題外である、そのものは自分の為めに選んでくれた配偶を受けるものとされ
て居る。併し何か理由があつて、どうしてもその妻を厭悪するので、その意を酌量すると
いふやうな場合には、そのものは家族が、またつぎの選択をしてくれるのを待つて居なく
てはならない。社会はかくの如き事柄に就いて不従順なのを許さない、一たび孝道違反の

例を示すと、それは甚だ危険な前例となるのである。青年が終に一家の長となり、一家の
人々の行為に対して責任をもつやうになつても、なほ且つその主人は公共の考へに依つて
左右され、その家事を治める方針に関して忠告を受納しなければならないのである。主人
と雖も不慮の事の起つた場合、勝手に自分の考へに依つて行動する事は出来ない。例へげ
一家の主人は慣習上親族を助けてやらなければならない、また親族と葛藤の起つた場合に
は、仲裁を受けなければならないのである。主人が自分の妻子の事のみを考へるといふ車
は許されない、-斯様な事は許しがたい利己心であると考へられる、彼は少くとも外観
上は、その公共の行為に於て、父子或は夫婦の愛情に依つて心を動かされては居ないやう
に行動しなければならない。後年になつて村或は地方の頭の位置にあげられたと仮定して
も、その行動及び判断の権利は、以前同様な制限の下に置かれて居るのである。実際、廿
個人的自由の範囲は、社会的地位の登るに応じて減少して行くのである。名目上彼は頭と
して統治するが、実際上其権威は、只だ社会から藉りて居るのであつて、それは社会が許
して居る間のみ自分の手にあるのである。蓋し彼は公共の意志を遂行する為めに選ばれて
居るので、自分の意志を行ふためにあげられて居るのではない、-自分の利盆の為めて
はなくて、社会共同の利盆のためであり、慣習を維持し、これを堅くするためであつて
決してそれを打破する為めに選ばれて居るのではない。こんな次第で、首長としてあげら
れて居ながら、彼は只だ公共の僕であり、その古郷に於ての尤も自由を持たない人である
ヰグモア教授がその『旧日本に於ける土地所有権並びに地方制度所見』"notes on land
Tenure and local Institutions in old Japan."の内に翻訳し、且つ公刊した幾多の文書は
徳川将軍時代の田舎の地方に於ける社会生活に関する、詳細な規則に就いての驚くべき若
へを与へて居る。その規則の多くはたしかに高い権威者から下されたものであつた、併し
その大部分は昔の地方の慣習を表はしたものである。此種の文書は組帳kumi-enactments
と云はれて居る。そしてこの組帳なるものは、村の団体の全員が遵守すべき行為の規則を
定めたものである、かくしてその社会に於ける利盆は莫大なものである。私一個の探究に
依り、私はこの国の諸地方に、この組帳に記されて居たものに酷似せる規則が、なほ村の
慣習に依つて励行されて居る事を知つた。私はここにヰグモア教授の翻訳から二三の例を
引用して見る-
註封建時代の終りに至るまで、国中の人々の多分は、大都会に於けると、村に於けるとを問はず、行政
的に幾個かの家族或は家の群に依つて分かたれて居た、それを称して組則ち『仲間』と云つた。組に於け
る家の普通の数は五つであつた、併し処に依つては六軒十軒の家から成る組もあつた。組を作つて居る家

家の主人達は、その内から頭を選んだ、-それが組の全員の代表になつたのである。この組の組織の却
原及び歴史は不明である、これと同様な組織は支那にも朝鮮にもある。〔日本の組の組織は、軍事上かゝ
へて居るといふ事を、ヰグモア教授は疑つて居るが、その理由は心服するに足るものである〕正しくこ
組織は非常に行政の上に好都合であつた。上長の権威に対して責任をもつたものは一個の家でなくて、〓
がその責任の衝に当つたのである。
『組の内の一人が、両親に対し好意をもたず、両親をなほざりにし、若しくはその言?
事をきかぬ様な事があれば、吾等はそれを隠匿し、若しくは差しゆるしたりする事なく
それを報告するであらう……』
『吾等は子供達のその両親を尊敬し、僕婢のその主人に服従し、夫妻、兄弟、姉妹の和
合して暮らし、若者の年長者を畏敬し愛撫する事を求める……各組は(五軒の家から成る
その部員の行状を注意して監視し、非行のないやうにすべきである』
『百姓にせよ、商人にせよ、また職人にせよ、何人でも組の一人が怠惰であり、仕事〓
精励しなければ、番頭(主なる役人)はそのものに注意を与へ、忠告をし、その行をなほ
すやうに指導する。若しそのものが忠告をきかず、怒りまた剛情であるならば、そのもの
は年寄(村の長老)に申し出される‥…」
『喧嘩を好み、また家を出て夜遅くまで流連し、勧告をきかぬものは訴へられるであら
う。若し他の組で斯様な事を怠る事あれば、それに代つて左様なものを訴へるのが吾等の
義務の一つである……』
『親族と争ひをなし、その親切な忠告をきかず、或は両親の言葉に背き、或は同村の人
人に不親切であるものは、みな(村の役人に)申し出されるであらう……」
『舞踊、相撲、その他公の観覧物は禁止の事、芸娼妓は一夜たりとも村に滞在する事を
許されず
『人々相互の喧嘩は禁断の事、争ひの場合、事情は申告すべし。若し申告なき時は、雌
方とも等しく罰せらるべし……』
『他人の事を悪口し、公に他人を悪人とふれまはるが如き事は、たとへそれが事実であ
るとしても、それは禁断である』
『孝行及び主人への忠実なる奉仕は、当然の事ながら、特に左様の事に忠実に勤直なス
ものは、吾々より政府へ推薦するため、必らず左様の者を申し出る事にする。……』
『組の仲間として、吾等は親族に対するよりも以上に友誼を篤くし、相互の幸福を増進
し、また相互の悲みを頒かつ事をする。若し組の内に非道不法のものあれば、吾等一同は

そのものに対する責任を分担するものである』
註『旧日本に於ける土地所有権並びに地方制度所見』'notcs onland tenure and local Institutionsin ol
japan.' -『日本亜細亜協会』第十九巻第一部所載論文。私は各種の組帳から以上を選抜して引用し、説
明に都合の良いやうに排列した。
訳者註以上の諸項は小泉先生も言はれて居る通り、ヰグモア教授の翻訳から抜萃したとの事であるが、
五人組の規約なるものは地方々々に依つて無数にあり、多少の相違もある。先生のあげて居られるやうな
個条を、五人組制度に依り、並びに『徳川禁令考』に依り、探して見たが、正確に合ふのは見当たらない、
併し大略同じやうなものを二三見つけ出した故、左にその一二をあげて置く事にした。
一第一親に孝行を尽くし、下人は主能順ひ主人は又召仕を憐み夫婦仲よく、兄第親類に親しく、友立は
老たるを敬ひ、物毎頼母しく諸人に対し不礼悪口不仕…‥又村中に勝れて親に孝行なるもの有之候は、
其容子を見届け委く申上ぐべし……ガサツ口論を好み夜アルキ不作法にして行跡不見届のもの有之候
はゞ名主五人組異見申すべし、若不用候はゞ其段申上隠置後日顕れ候はゞ其五人組共越落たるべし…。
一不孝の輩於有之は急度曲事行はるべくの間、若し左様の族御坐候はゞ、有体に申上べく候、隠し置き
脇より顕はるるに於ては、名主五人組まで越度に仰せ付らるべくの旨奉畏候事。
以上は単に道徳上の規約を示した例に過ぎないが、この外に道徳以外の義務に就いての
もつと詳細な規約もある-例へば-
『出火の際は、各自みな手桶に一杯の水を携へ、直にその現場へ行き、役人の指揮の下
に消火につとむべし……出場せざるものは罰せらるべし」
『他郷の人にして、此の地に居住せんとするものある時は、その出身の村を尋ね、当人
より保証を差し出さすべし。……旅客は一夜たりとも旅宿以外の家に宿泊すべからず」
『盗賊夜襲の報知は、梵鐘その他の方法に依つてなさるべし、其報知を聞くものは犯人
の捕縛さる?まで、共に追跡すべし。故意にそれを避けるものは糺問の上罰せらるべし」
一村中火の用心可入念自然火事有之は火元え駈付消べし蔵近所出火之節は別而精を出か
こひ可申候若遅出合候者有之は穿鑿の上急度可申付之-
一在々所々悪党有之時はナリを立べし、然ば先の村々より出合可召捕之、御褒美可被下、
若し不出合郷中は穿鑿の上可為曲事事。
一行衛不知者は一夜なり共宿貸候儀堅仕間敷候、尤御伝馬宿場之旅籠屋は勿論、其外町
並往還通り有之所と共に総て往来の旅人、一夜泊りは格別、二夜三夜共泊り申度と申候は
ば請人立させ、其子細篤と聞届け、問屋名主五人組へ相断り吟味の上……

この組帳から察して、何人も許しなくしては、一夜たりとも村を去り、-若しくは余
所で仕事をし、或は他郷で結婚したり、別の処に定住したりする事は出来なかつたと考ハ
られる。処罰は厳重であつた、-恐ろしい答刑が、高い役人に依つて加へられるといゝ
のが、普通の懲罰であつた……。今では斯様な罰はない、そして法律上各人はその欲すス
処に行く事が出来る。併し事実は何処へ行つてもその欲するままに行ふといふ事は出来な
いのである、何となれば個人の自由は、組合の感情がなほ残つて居るのと、古い慣習との
為めに、甚だしく制限されて居るからである。地方の組合に於て、各人は自分の適当と若
へるやうに、其時間と方法とを自由に用ふる権利をもつて居る、と云つたやうな説を主張
する事は甚だ賢からぬ事である。何人も自分の時間、金銭若しくは努力を以つて、全然白
分のものであると考へる事は出来ない、-自分の魂魄の住んで居るその身体すらも、白
分のものとは考へられないのである。社会に生活して居るといふその権利は、全然その人
が社会に奉仕する事を欲するといふ心の上に基礎を置いて居るのであつて、その人の助
若しくは同情を要するものは、何人でもその人に向つてそれを要求する特権をもつて居る
のである。『各人の家はその人の城廓なり』といふ事は、日本では言はれない言葉である
-高位の主権者の場合以外には。普通の人は世間の人々に対して、その戸を〓ざしてヽ
れを入れないといふわけには行かないのである。各人の家は来訪者に対して、公開されて
居なければならぬ、日中其門を〓ざして置くといふ事は、社会に対する〓辱である、-
病気と雖もその口実にはならない。極めて高い位の人のみが、他に接近しないといふ権和
をもち得たのである。そして或る一人の住んで居るその社会の意に悖るといふ事は、-
特にその社会が田舎であるとすれば-重大な事である。社会が立腹する時、その社会は
個人として行動する。其社会は五百、一千、或は数千の人々から成る、併しそのすべての
人々の考へは、只だ一個の考へである。只だ一つの重大な過失のため、人は〓然に社会止
通の意志に対して、孤独反対の位置に立たせられる事がある、-孤立して、極めて有効
な絶交にあふのである。緘黙と柔和な敵意とは却つてその罰を恐ろしくする。かくの如き
は慣習に対する重大な違反を罰する普通の方法である、暴行を加へる事は滅多にない事で
さういふ事をする場合は、(非常な場合は例外であるが、その事はやがて説く事とする」
それは過失の罰としてではなく、単に矯正の方法として課せられるのである中に粗野な
組合に於ては、人の生命を危くするやうな過失を、直に身体上の〓罰を以つて罰する事が
ある-それは公憤の為めに行はれるのではなくて、伝統的の理由に依つて為されるので
ある。嘗て私は或る漁村に於て、此種の〓罰を見た事がある。人々は其処で波の中で鮪を

殺して居た、その仕事は恐ろしく危険なものであつたが、その興奮の最中、漁夫の一人が
過つて鮪を〓す道具の穂尖を、一人の少年の頭に打ち込んだ。人々はそれが全く過失であ
る事を知つて居た、併しその過失は人の生命を危くするものであつたので、直にそれに対
して処分が行はれた、そしてこの過失者は、その近くに居た人々に依つて打ちたたかれ
正気を失つてしまつた、-それから波の間から引き上げられ、砂の上に投り出され、白
分で正気のつくまで打棄られてあつた。この事に就いて、口をきくものは一人もなかつた
そして鮪を〓す事は、前の通りつづいて行はれて居たのである。私の聞いた処に依ると
若い漁夫は、船に危険を及ぼすやうな過失をした場合には、その仲間から船中で乱暴な動
扱ひを受けるのださうである。併しすでに言つた通り、かくの如き罰を受けるのは、痴愚
な行ひのみであつて、絶交の罰は、暴行よりも遥かに恐ろしいものとされて居る。いやフ
の絶交よりもなほ重い罰が一つある-則ち幾年かの期間若しくは生涯の追放である
昔の封建時代にあつては、追放は重大な罰であつたに相違ない、事物一新の今日でも
重大な罰である。昔組合の意志に依つてその土着の地から逐はれた人、-その家、その
氏族、其職業から見棄てられた人、-は絶対の困苦に当面するのである。他の組合に行
つても、其処にたまたま親戚でもあるのでなければ、自分を容れる場所はない、而も親〓
とても、さういふ者を家に入れるには、先づその地方の官憲と、そのものの故郷の役人と
に相談しなければならない。また他郷のものは、官憲の許しを得なければ、自分の地方〓
外の他所に定住する事をゆるされない。親類といふ口実の下に、他郷のものを、泊めた家
に向つて加へられた事を記した古い記録がなほ残つて居る。追放された人は、家なくまか
友なきものであつた。そのものは、或は上手な職人であつたかも知れない、併しその職を
行ふ権利は、そのものの行つた地方に於て、その職を代表して居る職業組合の承認を得な
ければ得られないのであるが、追放にあつた人は職業組合も、これを受ける事をしないの
である。さういふ男は下男となりたいと思ふかも知れないが、その逃げ込んで来た組合は
如何なる主人でもが、此亡命者にして且つ他郷の人たるものを雇ふ権利をもつて居るかど
うか、第一それを疑ふ。其ものの宗教の如きは少しも役には立たない、組合生活の法規は
仏教に依つて極められるのでなく、神道の倫理に従つて定められるのである。則ち自分の
生まれ故郷の神々が彼をすてたのであり、また他の地方の神々は、そのものの祭祀とは何
の関係もないのであるから、宗教は其ものに取つて、何の助けともならないのである。其
上、彼が亡命者であるといふ事実は、其事がすでに、其ものが祭祀に対して罪を犯して居
るに相違ない事を証明して居るのである。いづれにしても他郷の人は、自分の知らない仙

郷の人々の間にあつて、同情を得る事は出来ない。今日でも他の国から妻を迎へる事は、
其地方の意見に依つて悪るいとされて居る、(封建時代にはそれは禁止されて居たのであ
る)各人はなほその生まれた土地で生活し、働き、結婚するやうに期待されて居る、-
もつとも或る場合に於ては、その故郷の公然の承認を経て、他の組合に入る事を許される
事はある。封建制度の下にあつては、他郷人の同情を博す事は、とても比較する事の出来
ない程に少い、従つて追放は、飢饉、孤独、並びに口にしがたい程の困苦を意味するもの
であつた。何となれば当時に於ける、個人の法律上に於ける存在は、その家族と組合との
関係以外には全然なくなつてしまふのであるからである。人はみな家の為めに生活し、家
の為めに働き、家は又氏族の為めに存立して居たので、家並びに幾多の家の相聯関した焦
合以外には、生きて行くべき生活はなかつたのである、-罪人、乞食、穢多の生活を除
いては。役人の許しがなければ、かくの如き者は、仏教の僧ともなれなかつた。賤民-
たとへば穢多階級の如き-も自治の社会をつくり、独得の伝統をもち、決して進んで外
来人を受け容れるやうな事はしない。かくして追放されたものは、大抵は非人-公式上
『人間にあらざるもの』と呼ばれて居る放浪の憐むべき穢多階級の一になり下がり、人の
袖にすがり、或は楽器を流して歩く音楽者、若しくは野師の如き下等な職業に依つて生活
するのである。なほ遠い昔にあつては、追放されたものは奴隷に身を売り得たのであるが、
この憐むべき特権すら、徳川時代には取り上げられてしまつたらしい。
吾々は今日斯様な追放の状態を想像する事は出来ない、これと同じやうな西洋の例を〓
めるには、帝国時代に先き立つ遠き以前の古いギリシヤ、ロオマ時代に〓らなければなら
ない。その当時追放なるものは、宗教上の破門を意味し、実際上文明社会からの除外であ
つた、-其頃はまだ人類同胞の考へもなく、血族上から親切を求めるといふ外、親切を
求めるといふやうな考へはなかつたからである。他郷の人は何処でも敵であつた。さて昔
のギリシヤの都会に於けると同様に、日本に於ても、守護神の宗教は、いつも団体の宗教、
組合の祭祀であつて、一地方の宗教とさへならなかつたのである。一方に高等の祭祀は〓
人とは関係して居なかつた。個人の宗教はただ一家、一村、或は一地方の宗教であつた。
故に他の家、他の地方の祭祀は、全然別のものであつた。他の祭祀に属するといふのは、
其処に迎へ入れられる事に依つてのみなされ得たのである。そして他郷人を迎へ入れると
いふ事は、規則としてない事であつた。家或は氏族の祭祀がなければ、個人は道徳上にも
社会上にも、死んだものであつた。何となれば余所の祭祀も、氏族も、かくの如きものを
排斥したからである。個人の私生涯を規定した家族の祭祀から棄てられ、なほ対社会の生

活を定める地方の祭祀から除かれた時、そのものは人間社会に対する関係に於て、全くそ
の存在を失つたものである。
以上の事実から、過去に於て、個人が自己を発展させ主張する機会の極めて乏しかつな
事は想像しうるであらう。個人は無慙にも全然社会の為めに犠牲に供されて居た。今日で
も日本人の居住する処に於ける唯一の安全な道は、何事もその地方の慣習に従つて行くと
いふ事であつて、少しでも規則から離れると、嫌悪の目を以つて見られる。秘密といふも
のはない、何事も隠蔽され得ない、各人の善徳も悪徳も他のすべての人に知れる。故に尋
常でない行為は、行為の伝統上の標準から離れたものと判断され、すべての風変りな事は、
慣習に反くとして非難され、その伝統と慣習とは、宗教上の義務と云つた位の力をなほも
つて居る。事実それ等は、(伝統と慣習とは)ただにその起原からばかりでなく、なほ過
去の礼拝の意なる公共の祭祀に関係ある所から、宗教でもあり、義務ともなるのである
これに依つて神道が道徳上の成文法をもつて居ない理由も容易に了解されるし、また神
道の大学者が道徳の法規は、不必要であると断定した所以も了解されよう。祖先礼拝が代
表して居る宗教的発達の其階段にあつては、宗教と道徳との区別もなく、また道徳と慣羽
との区別もあり得ない。宗教と政治(政府)とは同一物であり、慣習と法律とは同じでよ
る。神道の倫理は慣習に服するといふ一事の内に悉く包容されて居る。一家の伝統的規則
組合の伝統的法律、-それ等は則ち神道の道徳であり、それに従ふのは則ち又宗教でお
り、それに反くのは不信心であつた……、而して成文たると否とに拘らず、凡そ宗教的法
規の真の意義は、要するにその社会に於ける義務の表明、善悪の行為に関する教義、人民
の道徳的体験の具体化等にあるのである。実際イギリスに於けるが如き行為の近代的理想
と、古ギリシヤ及び日本のそれの如き族長制度的理想との間の相違は、これを精査して見
れば、只だ古い考へを、詳細に亙つて、個人生活の細目にまで拡げるといふ点にあつた事
が解る。正しく神道の宗教は、成文上の命令を要しなかつた。それは教訓に依り、或は実
例に依つて、幼少の時代から各人に教へられたもので、普通の知識あるものであれば、価
人もそれを了解し得たのである。規則に外づれた行動が、人々に取つて危険である事を、
宗教が認める以上、法規を作る事は無論無用な事である。たとへば吾々のより高い社会生
活、則ち文化的生活の、他を排して居る吾々の一団の行為は、決して単なる十誠に依つて
のみ支配されるものではない、それ故吾々とても事実、行為に関した成文上の法規をも(
て居るわけではないのである。自分の住んて居る地帯(社会)に於て、何を為すべきか、
如何にしてこれを為すべきか、と云つたやうな知識は、ただ訓練に依り、経験に依り、〓

察に依り、また事物の道理を直覚する事に依つて得られるのである。
さて社会の感情を代表する人としての神道の神官の権威に関する問題に〓つて見ようー
-この権威は常に偉大なものであつたと私は信ずる。社会が誤をなしたるその所属の人々
の上に被らせる罰は、もと守護神の名を以つて被らされたものであるといふ事の、著しい
証拠は、恁ういふ事実に依つてよく解る、則ち社会の嫌悪の表現は、今でも幾多の地方に
あつては、宗教上の性質を取つて顕はれるといふ一事に依つて解る。私はこの種の表現を
実見した、そして私はそれが今なほ大抵の地方に行はれて居ると信じて居る。併しこの古
い慣習の残つて居るのを尤もよく見うるのは、古の伝統が殆ど変はらずに、そのまま残
て居る辺陬の田舎の町或は寂しい村落に於てである。斯様な場所に於ては、各住者の行為
は、精細に注目され、人々に依つて厳格に判断されるのである。併し地方の神道大祭-
守護神の例年の祭-の時までは些細な非行に就いては、殆ど何事も口外されない。其時
(祭日)になつて、社会はその警戒を与へ、或はその罰を加へる、かくの如きは少くとも
地方の道徳に反いた行為のあつた場合にする事である。此祭の機会に、神は氏子の住居を
見に来ると考へられて居る、そしてその移動させうる神殿(御輿)-三十人或は四十人
に依つて担はれる重い構造物-が主なる街路を通つて運ばれる。それを担ふ人々は、〓
の意志に従つて働くので、-則ち神の霊の彼等を向かはしめる方向に進んで行くのだー
考へられて居る。私は或る海岸の村で、一度ならず、幾度も見たその行列の事件を記述し
て見ようと思ふ。
行列に先き立つて、若い男の一群が、飛び跳ね、環を描いて、無闇に躍りながら進んで
行く、此若者達は道を清め払ふのである、そのもの達の近くを通るのは、険難である、何
となれば彼等は狂乱のやうな動き方をして、ぐるぐるまはつて行くからである……。私が
始めて恁ういふ躍りをする一群を見た時、何となく古いデイオニソスの饗宴を見て居るや
うな気がした、-彼等の烈しい旋転運動は、たしかにギリシヤ古代の神聖なる狂熱の記
事を実現したものであつた。実際を言へば、ギリシヤ風の頭は見られない、併し腰巻と荳
鞋とを外にしては、すべて裸体な、そして極めて彫刻的な筋肉をした青銅色の、しなやか
な姿は、躍つて居る牧羊神を顕はす水盤かなにかの意匠に用ひたら良からうと思はせる〓
のであつた。この神の乗り移つた踊り手-その通過は群集を左右に散らして街路を払〓
清めたのであるが、-についで、乙女の祭司が白衣を着て、面を蔽ひ馬に乗つて来、ス
れにつづいて幾人かの乗馬の祭司が、これも白衣で儀式上の高い黒い帽を被つてやつてず

る。その背後に大きな重さうな神殿が、それを担ふ人々の頭の上で、恰も暴風に玩ばれた
る船のやうに、揺れ動いて進んで来る。幾多の筋肉逞しい腕がそれを右手の方につきやる
と、また同様な沢山の腕が左手の方にそれをつきかへす、前にも、うしろにも、亦烈しく
押したり、引いたりする、そして何かを呼び立てる声の唸りは、全く他の声を聞こえなく
さしてしまふ。極々古くからの慣習に依つてすべての家の二階は固く〓ざされる。かかス
際に節穴からでも、神様を見下すやうな不敬な所業をして居る処を見つけられた、あのゴ
ダイヴアの姿をのぞいたやうな男があつたら、その者は〓なる哉……
私の言つた通り、神輿を担ふ人々は、神の霊に依つて動かされて居ると考へられて居る、
-(神道の神はいろいろな性情をもつて居るから、多分その暴い霊に依つて、動かさ〓
て居るのであらう)それでこのつき進み、引きかへし、またそれを揺る事は、只だ前後左
右の家を神が検査するの意である。神はその礼拝者の心が、果たして純真であるかを知ら
うと見まはして居り、またそれに警告を与へ、或は罰を加へる必要があるかどうかを決め
ようとして居るのである。担ふ人々は何方へも神の欲する方に、その神をもつて行くの
である、-必要とあれば固い壁を通してでも。それで若し神殿(神輿)が、或る一軒の
家にぶつかるとすれば、-ただその家の暖簾にあたつてすらも-それは神様がその家
の人々に対して立腹して居られる徴となるのである。若し神輿が家の一部でも破壊する車
があれば、それこそ重大な警告である。併し神様が家の中に入る事を望まれる事もある-
-その行く道をさへぎるものを毀しても。さうなるとその家の人々は、すぐに裏口から逃
げなければ、大変な事になる、そして乱暴な行列は、雷のやうな音を出して入り込んで来
る、神様がまた進んで巡囘する事を承諾されるまでは、その家の内のあらゆるものを砕き
裂き、破り、押しつぶしてしまふであらう
私は二箇処の破壊の跡を見たが、その理由を尋ねて、始めて、組合の見解から言つて、
両度の侵入は共に道徳上正当と認むべきものであつた事をよく知る事を得た。則ち第一の
場合には欺偽が行はれたのであり、他の場合には水に溺れたものの一族に救助を与へなか
つたといふのである。則ち一つの犯罪は、法律上のであり、他のは道徳上の犯罪であつた。
田舎の社会は放火、〓人、窃盗、その他の重大な犯罪の場合でなければ、その犯罪人を警
察に渡す事をしない。田舎では法律を恐れて居る、故に他の方法に依つてきめられるもの
なら、決して法律を呼び起こす事をしない。かくの如きはまた古代の規約であつて、封建
の政府はさういふ慣習の維持を奨励したものである。併し守護の神が立腹されると、その
犯罪者の処罰、若しくは排斥を主張される。さうなると封建の慣習に従つて、その犯罪〓

の全家族が責任をもたせられる事になる。この被害者は、若しさういふ気があるならば、
新しい法律に訴へる事も出来る。そして自分の家を破壊したものを、法廷に引き出し損生
を陪償させる事も出来る。何となれば近代の警察廷は、神道に依つて左右されて居ないの
であるから。併し余程の向う見ずでなければ、社会の判断に対して、新しい法律に訴へス
やうな事はしまい、何となればさういふ行動その事が、すでに甚だしい慣習の破壊として
非難されるからである。社会は、その協議会に依つて、寃罪であつた事が証明される場合
には、いつも直に公明な判断を下すに吝ではない。併し責を負ふべきものとして訴へられ
たその罪悪を、実際犯して居た者が、宗教に依らない法律に訴へて、復讐をしようと試み
るやうな事があれば、さういふ者はなるべく早く自分と、自分の家族の居処を、何処か〓
い所に移すが上策であらうと考へられる。
旧日本に於ては、個人の生命は二種の宗教的支配の下にあつた事を吾々は観た。則ちす
べて個人の行動は、一家の若しくは社会の祭祀から来た伝統に従つて定められて居た。而
してかくの如き状態は、一定した文化の成立と共に始まつたものである事を知つた。吾々
はまた社会の宗教が、家の宗教の遵奉を励行する労を取つた事を知つた。この事実は、若
し吾々がこの両祭祀(社会と家族との)の基本となつて居る考へ-則ち生者の幸福は死
者の幸福に依るといふ考へ-は同一なものである事を記憶して置くならば、決して不思
議とは思はれないであらう。家族の祭祀を閑却する事は、霊の悪意を起こさせるものと信
ぜられて居た。而して霊の悪意は公共の不幸を齎すのである。祖先の亡霊は自然を支配し
て居た、-火災、出水、疫病、飢饉等は、報復の手段として、亡霊の自由に用ひ得たも
のであつた。故に村に於ける不信心の一所業は、全村の上に不幸を齎す事があつたかも知
れないのである。而して一社会(組合若しくは一地方)は、各家庭に孝道を維持する事に
関して、死者に対し責任をもつて居ると考へられて居た。

神道の発達

人民のあがめる大きな神々-人々の想像の内に、天地の創造者として、若しくは特に
木火土金水の如き要素たる力を動かすものとしてその形をとつた神々は-後に祖先礼拝
となつたものを代表して居ると云つたハアバアト・スペンサアの説は、今日一般に認めら
れて居る処である。原始社会がまだ何等重要なる階級的区別を発達させて居なかつた時代
に於て、多少同じものと考へられて居た祖先の幾多の亡霊は、社会そのものが分裂するに
従つて、大小いろいろな種類に分裂するやうになつた。さうして居る内に、或る一個の祖
先の霊若しくは一団の霊に対する礼拝が、他のすべての礼拝に立ち勝さるやうになり、〓
高の神若しくは幾個かの最高の神の群が発展するに至つた。併し祖先祭祀の分裂は、各種
の方向を取るものと了解されなければならぬ。父子相伝の職業にかかはつて居る家族の特
別の祖先は、発達してさういふ職業を主宰する守護の神となる事もある、-則ち職業乃
び組合の保護神となる。いろいろな精神上の聯想の径路に依り、他の祖先の祭祀から、+
と、健康と、長命と、特殊な産物と、特殊な地方との、いろいろの神々の礼拝が発展して
来る事もある。日本起原の神の事に就いて、今よりも以上に多く光明が投ぜられるやうに
なれば、今日田舎に於て礼拝されて居る小さい守護神の多くは、もと支那或は朝鮮の職人
の守護神であつた事が解るやうになるであらう、併し日本の神話には全体として進化の法
則の甚だしい例外となるやうなものはないと私は考へる。事実神道は神話の上の政教関係
を示すもので、その発達は全く進化の法に依つて十分に説明が出来るのである
氏神の外、優等或は劣等の神々が無数にある。ただ名ばかり記されてある原始的の神々
もある-混沌時代の人の考へにのぼつた幻影である、また土地の形をつくりなした天地
創造の神々もある。天地の神々もあれば日月の神々もある。また人生の善悪あらゆる事物
を主宰すると考へられて居る神々も数へ切れないほどある、-出生と、結婚と、死と
貧富、強健及び病気……等の神々がある。すべてかくの如き神話は、日本のみに於ける古
い祖先祭祀から発達し来たつたものであると仮定するのは少し無理である、むしろその発
展は多分アジヤ大陸で始まつたものであらう。併し国民的祭祀の発展-国家の宗教とな
つた神道のその形式-は厳密なる言葉の意味に於て、日本的であつたと考へられる。〓
祭祀は、代々の天皇が、その血統であるとして居られる神々に対する礼拝であつて、-

則ち『皇室の祖先』の礼拝である。蓋し日本の上古の皇帝-古い記録には『天の王君
と呼ばれて居る-は真の意味に於ての皇帝ではなかつたので、また天下に対する権威を
動かす事すらしなかつたものと考へられる。則ち天皇は尤も有力なる氏族則ち氏の主なる
もので、その特殊な祖先祭祀は、その当時にあつては、多分何等統治的勢力をもつては居
なかつたのであらう。併しやがてこの大きな氏族の主なるものが、国の最高の統治者とな
つた時、その氏族の祭祀は到る処に拡がり、他の神に対する祭祀を打ち破る事はしないに
でも、それを蔽ひかくしてしまつた。ここに於て始めて国民的神話が出来たのである
それ故吾々は日本の祖先礼拝の径路は、アリヤン民族の祖先礼拝のそれと同様、前にの
べた引きつづいた発達上の三個の階段を示して居る事を認めるのである。日本の人種は太
陸からその現在の島国裡に来る時、祖先礼拝の粗末な形式を伴なひ来たつたものであると
仮定して然るべきであらう、而してその形式は死者の墓前で行はれる儀式並びに供物に過
ぎないものであつたらう。それから後国が幾多の氏族-その各?はそれぞれ別の祖先〓
祀をもつて居たが-の間に分かたれるやうになるや、或る一つの氏族に属する一地方の
すべての人々は、やがてその氏族の祖先の宗教を受けるやうになり、かくして幾千の氏神
の祭祀といふものが出来るやうになつたのである。さらにそれより後になつて、尤も有
なる氏族の特殊の祭祀が発達して、国家の宗教となつた-則ち最高の統治者が、それか
ら血統を引いて居ると称する女神太陽の礼拝がそれである。それから支那勢力の下に、家
に於て祖先を礼拝する形式が、原始的家族の祭祀に代つて成立した、それ以来供物も祈祷
も規則正しく家庭に於て為され、家庭には祖先の位牌が、家族の死者の墳墓を代表する事
となつたのである。併し今でも特別の場合には、墓場に供物を捧げる事もある、そして三
種の神道祭祀の形式は、仏教の伝来した後代の形式と並んで、今日までつづいて存立して
居た、而してその形式は今日国民の生活を支配して居るのである
伝統的信仰に就いて、文字を以つてそれをあらはした説明を、始めて人民に与へたもの
は、最高の統治者に対する祭祀であつた。統治して居る家に就いての神話は、神道の経典
の基となり、祖先礼拝のあらゆる現在の形式をまとめる所の思想を確立した。あらゆる神
道の伝統は、此書きものに依つて混和されて一個の神話的歴史となり-同じ一個の伝説
の基礎に依つて説明されるやうになつた。而して全神話は二つの書物の内に包容されて居
るが、其書物はすべて英訳されて居る。其最古の書物は『古事記』"Records of Ancien

mntters"と言はれて居り、紀元七一二年に編まれたものと考へられて居る。他の一つはそ
れよりも大部な物で『日本紀』"chronicles of nihon"と言ひ、紀元七二〇年頃に出来たも
のである。両書は共に歴史と言はれて居るが、其大部分は神話のやうなもので、両書と〓
天地創造の話を以つて始まつて居る。聞く処に依ると、両書とも、天皇の命に依つて、よ
〓は口伝へになつたものに依つて編まれたのであつた。それよりも更に古い第七世紀に作
られた書物があつたといふ事であるが、それは堙滅してしまつた。それ故此現在の書物は
そんなに古いものであるとは言はれない、併し両書とも極めて古い伝説-多分は幾千年
も古い-をその内にもつて居る。『古事記』は驚くべき記憶力をもつて居た老人の口授
を書いたものだとされて居る、そして神道の神学者なる平田は、恁うして伝へられた伝説
は、特に信頼するに足るものであるといふ事を、吾々の信ずるやうに望んで居る。その言
つた処に恁うある『記憶の働きに依つて吾々に伝へられた、かくの如き古い伝説は、それ
が記憶に依つて伝へられたといふので、却つてそれが文書に記録されてあつたものよりも
遥かに詳細に伝はつて来たといふ事は、ありうる事である。其上人々が覚えて置かうと目
ふ事実を、文字に託する慣習を、まだ得て居なかつた時代にあつては、人の記憶力は今日
よりも遥かに強いものであつたに相違ない-それは今日でも、目に一丁字のない人々は
何事をも全く記憶に訴へて居るのでもわかる』と。吾々は口碑の不変である事を、篤く信
じて居る平田の信念に対して微笑を禁じ得ない。併し民俗学者は古い神話の特質の内に、
その非常に古代のものであるといふ性質上の証拠を発見する事を、私は信ずるものである。
両書の内に支那の感化が認められる、併しその或る部分には、私の想像する処に依ると、
支那の書物の内には認められない特殊の性質がある-他の神話的文学には共通して居な
い原始的素朴な趣、怪異な趣がある。たとへば世界の創造者なる伊邪那岐命のその死んだ
配偶(伊邪那美命)を呼びかへすために、黄泉の世界に行く話の内に、吾々は純日本のも
のと考へる神話を認める。その話し方の古風な素朴な処は、その書の逐字訳を研究する人
の、必らず感得するに相違ない処である。私は今そのいろいろな訳文の内に見られる(7
のいろいろな訳についてはアストンの『日本紀』の翻訳第一巻を見よ)その伝説の大意を
記して見る事にする。
迦具十の火の神の生まれる時の来し時、その母なる伊邪那美命火傷し、姿かはりて去れ
り。かくて伊邪那岐命怒つて言ふ『一人の子にかへて吾が愛する妹を与へ去らん事は』と。
命は妹(伊邪那美命)の頭にはひ行き、その足にはひ行き、泣き悲めり、かくしてその流

したの〓は落ちて神となれり……その後伊邪那岐命、伊邪那美命を逐うて死者の国黄泉の
国に行けり。ここに伊邪那美命なほその生きてありし日のやうなる姿して(死者の)宮〓
の幕をあげ、伊邪那岐命に会ふために出て来り、二人は共に語り合へり。さて伊邪那岐命
妹に言ふ『愛らしき若き妹よ、吾は汝の為めに悲しむが故に来たれり。吾が愛らしき若き
妹よ、吾と汝との共につくりかけたる国は、まだ作り果たされず、されば帰り来よ』と
伊邪那美命答へて言ふ『吾が厳かなる君にして、また夫なる人よ、今少しく早く来ざりー
は惜しき事なり-今吾は黄泉のかまどのものを食へり。されど愛する兄、見給へ、君の
特に来ませしを喜ぶが故に、吾は生命の世界に君と帰る事を願ふ。今吾はその事を黄泉の
神々と論ふために行くべし。君は此処に待ちたまひて、吾を見んとし給ふ勿れ』と。かノ
語りて伊邪那美命は帰り去り、伊邪那岐命は待てり。然れども伊邪那美命の帰る事遅けれ
ば、伊邪那岐命もどかしくなれり。かくて髪の毛の左総につけたりし木の櫛をとり、命は
その櫛の一端より、一本の歯を折りとり、それに火を点し、妹を見んとて行けり。然るに
伊邪那美命はふくれ、虫の中にただれて横たはり、八種の雷の神その上に坐れり……伊〓
那岐命この姿に恐れをなして逃げ去らんとせり、然るに伊邪那美命立ち上り叫ぶ『君は五
をはづかしめたり。何故に吾が命ぜし事を君は守らざりしや……君は吾が裸の姿を見め
ば、吾も亦君のその姿を見るべし』と、言ひて伊邪那美命は、黄泉の醜女に命じて伊邪那
岐命を追ひ、これを〓さしめんとす、八人の雷の神も亦命を逐ふ、伊邪那美命自らも追い
かく………。ここに於て伊邪那岐命剣を抜き、走りつつ背後にそれを振りまはす。されど
同は命に追ひせまる。命はその黒き頭の鬘をなげつけたれば、鬘は葡萄の総となる、醜〓
はその葡萄の実を食ひたれば、その間に命は逃げたり。されど彼等はなほ急ぎ追ひかけな
れば、命はその櫛をとりてなげつけたるに、その櫛は筍となる、醜女等それを貪り喰ふ問
に、命は逃げて黄泉の口に達す。ここに命、もちあぐるに千人力を要する岩をとり上げ
伊邪那美命の来る入口をそれにて塞ぎ、その背後に立ちて、離婚の言葉をいふ。その時岩
の彼方より伊邪那美命、叫んでいふ、『吾を愛する君にして主なる人よ、君かくの如き車
を為さば、吾は一日に汝の人の一千人を絞め〓さん』と。伊邪那岐命これに答へて『吾ぶ
愛する若き妹よ、汝若ししかするならば、吾は一人に千五百の子を生むべし……』と。然
るにその時、くくりひめの命来り、伊邪那美命に何事か語りしに、伊邪那美命それを承認
したる様子にて、その後伊邪那美命の姿は見えずなりたり……
この神話の驚くべき素樸な点を、私は敢て表はす事をしなかつたが、その不思議にも哀

傷と悪夢のやうな恐怖との混和した処は、十分にその原始的性質を示すに足りる。それは
実際人のよく見る夢である-自分の愛して居た人が恐るべき姿にかはり果てたといふや
うな悪夢の一である、そしてすべて原始的祖先礼拝を語る死に就いての恐れ並びに死者に
就いての恐れを表明するものとして特別な興味をもつて居る。この神話の全哀傷並びに幻
味悪るさ、空想の漠然たる怪異、極度の嫌悪並びに恐怖に際して、形式的な愛着の言葉を
用ひた事-それ等は日本的である事を間違ひなく感じさせる。以上と殆ど同様に著しい
幾多の他の神話が、『古事記』及び『日本紀』の内にあるが、それ等は明かるい優しい種
類の伝説と混和されて居り、それが同じ人種に依つて想像されたものとは思へない位であ
る。例へば『日本紀』の第二巻にある魔法の宝石、海神の宮殿へ行く話は、印度のお伽噺
のやうな趣がある、而して『古事記』、『日本紀』共に幾多外国の本源から得来たつた神話
をもつて居る。兎に角其神話的の諸章は、多少なほ解決を要すべき新しい問題を、吾々の
前に提出するのである。これを外にしては、此両書とも、上代の慣習信仰を照らすに足ス
光明のあるに拘らず、読物としては面白くないものである、そして総括的に言つて、日本
の神話は面白くないものである。併し茲に神話の問題を兎や角説くのは不必要である、〓
となれば其神道との関係は極めて短い簡単な一章句に依つて総括されうるからである-
太初には力も形も顕はれては居なかつた、世界は一定の形のない一塊で水母のやうに水
上に浮かんで居た。その内どうかして-どうしてといふ事は書いてない-天と地とが
分かれ、朦朧たる神々が現はれ又消えた、最後に男性の神と女性の神とが出来、万物を生
み且つその形を与へた。この二方の神、伊邪那岐、伊邪那美の命に依つて、日本の島が出
来、またいろいろの神々と日月の神とが出来た。これ等創造の神々、並びにそれに依つて
造られた神々の子孫は、則ち神道の礼拝する八千万(或は八億万)の神々であつた。その
神の或るものは高天原plain of High Heavenに行つて住み、又他のものは地に住み、ロ
本人種の祖先となつた。
これが『古事記』、『日本紀』の神話で、出来うる限り簡潔に書かれてある。最初に二種
の神々が認められて居たらしい、それは天の神と地の神とである、神道ののりとritua
なるものは、この区別を示して居る。併しこの神話の天の神なるものが、必らずしも天の
力を代表して居るものでないといふ事、並びに実際天の現象と同一のものとされて居る神
神が、地の神々と一緒に置かれて居る-地上に生まれた則ち『生じた』といふので-
といふ事は妙な事実である。たとへば日月は日本で生まれたとされて居る-後になつて

天にあげられたのであるが、則ち日の女神、天照大神は伊邪那岐命の左の眼から生じ、日
の神、月読命は伊邪那岐命の右の眼から生じた。それは(この両神を生じたのは)伊邪冊
岐命が下界に行つた後、筑紫の島の河口で身を清めた時の事である。十八世紀十九世紀の
神道学者は、只だその偶然生まれた処に関する外、天の神と地の神との区別をすべて否定
し、この混沌たる空想の内に、多少の秩序を立てた、彼等神道学者は神世age of gods
とその後の人皇の時代との古くからあつた区別をも否定した。彼等の言ふ処に依ると、〓
本の当初の統治者が、神であつたのは事実である、併しながら後代の統治者も亦同様神で
あるといふのである。全皇統、日の御嗣sun's success onなるものは、日の女神からの連
綿たる一つの血統を顕はすものである。平田は恁う書いて居る『神代と現代との間には偏
等確とした固い分界線はない、「日本紀」の言ふやうなその区別の線を引く事の正当な理
由は少しもない』と。素より恁ういふ立脚地からすれば、その内に全民族が神の血統であ
るといふ教理が含まれる事になる-古い神話に従つて、最初の日本人はみな神の子孫て
あつた限り-而して平田はさういふ教理を大胆に取つたのであつた。平田の断言する処
に依ると、すべての日本人の起原は神にある、それ故日本人はすべての他の国人に勝さっ
て居るのであると。平田は日本人の神の血統を引いて居る事を証明するのは容易であると
すら説いて居る。その言は恁うである『瓊々杵命(日の女神の孫で皇室の建立者とされて
居る人)に伴なつて行つた神々の子孫-並びに代々の御門の子孫で、平、源等の名をも
つて御門の臣下の位に入つた人々-はだんだんに増加し、繁殖した。日本人の多数は、
如何なる神から降つて来たのか確とは解らないが、それ等はみな部族の名(かばね)とい
ふものをもつて居て、それはもと御門から賜はつたものである、そして系図の研究をその
務めとする人々は、人の普通の苗字から、その人の極めて遠い祖先は誰れであつたかを語
る事が出来る』と。此意味に於て、すべての日本人は神であり、その国は当然神の国-
神国と呼ばれたのである。吾々は平田の説をその文字通りに了解すべきであらうか。私は
さう了解すべきであると思ふ-併し吾々は、封建時代に、国民を形成して居るとして公
然認められて居た階級以外に、日本人として考へられず、また人間としてすら考へられて
居なかつた人民の、幾多の階級のあつた事を記憶しなければならぬ、それ等は則ち非人で、
獣類と同様に考へられて居たものである。平田の日本人といふのは只だ四大階級を言つた
ものであらう-士、農、工、商の。併しさうとしても、平田が日本人に神性を与へたと
いふ事は、人間の道徳性並びに体格上の虚弱であるといふ点から見て、それをどういふ意
味に考へて然るべきであらう。この問題の内、その道徳的の方面は、神道の悪の神、邪曲

の神に就いての説に依つて説明される、則ちこの神は『伊邪那岐命が下界に行かれた時
身に受けた不浄から起こつた』ものと考へられて居るのである。人間の体格上の虚弱に関
しては、皇室の神聖なる建立者たる瓊々杵命の伝説に依つて説明される。則ち長命の女神
岩長姫命(ro k-long-princess)が襲々杵命の妻として送られた、然るにその醜いのを見て、
命は姫を拒絶した。それでその不明な仕方が『人間の現在のやうな短命』を招致したので
ある、と。大抵の神話は、当初の族長則ち統治者の生命を以つて非常に長いものとして居
る、神話の歴史を古に溯れば溯るほど、主権者はいよいよ長命になつて居る。日本の神話
もこの例に洩れない。瓊々杵命の子は、その高千穂の宮で、五百八十年生きて居たと言は
れて居る、併しそれでも『それ以前の人々の生涯に比べたら短命なのである』と平田は言
つて居る。その後人間の身体の力は衰へ、生命はだんだん短くなつた、併しすべて堕落し
たにも拘らず、日本人はなほその神から出て来たものであるといふ形跡を示して居る。〓
後日本人はより高い神性の状態に入るのであるが、而もこの現世を棄ててしまふ事なくて
……かくの如きは則ち平田の意見である。日本人の起原に関する神道の説からすると、〓
間性にかく神性を与へるといふ事は、一見した際に考へられるやうに、矛盾した事ではな
いのである。而して近代の神道学者は、すべての起原を太陽にもつて行くが、その教義の
内に、科学的真理の萠芽が見出されうる事であらう。
日本の文学者の誰れよりも以上に、平田は吾々に神道神話の内にある政教政治をよく了
解さしてくれる-吾々の期待しうるやうに、日本の社会の古い秩序と密に〓合して居ス
政教の関係を。社会の最下級には、只だ家々の神殿若しくは墓場に於てのみ礼拝される普
通の人民の霊がある。その上には同じ氏族の神則ち氏神がある-それは守護神として今
礼拝されて居る古い統治者の霊である。平田は言ふ、すべての氏神は出雲の大神-大〓
主神-の支配の下にある、そして『氏神はみな大神の代理として働き、人々の生前、生
後、並びにその死後の運命を統治して居る』と。その意味は、普通の亡霊は、目に見えざ
る世界に於て、氏族の神則ち守護神の命令に従ひ、そして生存中の組合での礼拝の状態は
死後までもつづくといふのである。つぎの言葉は平田の書きものから引用したものである
が、興味ある言である-それはただに個人の氏神に対する仮定的な関係を示すのみなら
ず、個人が生まれ故郷を去るといふ事が、以前にあつては如何に世間の意向に依つて判断
されたかを語るのである-

『人がその住居をかへる時、その人の始めの氏神は、居を移した其地の氏神と取り極め
をしなければならない。斯様な場合には先づ古い神に別離を告げ、新しい管理の地に来お
後、出来る限り早く、新しい神の宮に詣るが至当である。人には其住居をかへるに至らー
めた表面の理由は沢山にあらう、併しその実際の理由は、その人が氏神の機嫌を害し、〓
つで其処から逐はれかか、或は他の地の氏神が、その転住を交渉したかに外ならない….
註サトウ氏の翻訳、圏点は私(小泉先生)のつけたものである。
これに依つて各人はその生存中並びに死後も、氏神の臣下であり、下僕であり、従者で
あると考へられるであらう。
素よりこれ等の氏族の神にはいろいろの階級がある、それは丁度生きて居る統治者、十
地の君主に、いろいろの階級があると同じである。普通の氏神の上に、各地方の主なる神
道の神社で礼拝されて居た神々が立つのであるが、その神社は、一の宮則ち第一級の神耐
と言はれて居る。恁ういふ神は、大抵以前広い一地方を統治して居た君公則ち比較的大き
な大名の霊を祭つたものであつた、併しすべてがこの定則で律せられるわけには行かない
その内には木火土金水等の原質若しくは原質的力-風、火、海-の神、長命、運命、
収穫等の神-その真の歴史は忘却されて居るが、もとは多分氏族の神であつたと思はれ
るやうな神々もある。併しすべての他の神道の神の上に皇室祭祀の神々-御門の祖先と
考へられて居る神々がその位置をもつて居るのである。
神道礼拝の高級の形式に就いて言へば、皇室の祖先礼拝の形式こそ、国家の祭祀であつ
て、尤も重要なものである、併し必らずしもそれは最古のものではないのである。最高の
祭祀は二つある、伊勢の有名な神廟に依つて代表されて居る日の女神の祭祀と、杵築の太
社に依つて代表されて居る出雲の祭祀とである。この出雲の大社は遥かに古い祭祀の中心
である。それは神々の領土の第一の統治者であり、日の女神の弟から出た大国主神に捧ば
られたものである。皇統の建立者の為めに自分の王土を譲り、大国主神は目に見えざる世
界-則ち亡霊の世界の統治者となつたのである。この影の領土に、すべての人の霊は
死後に入つて行くのである。かくして大国主神はすべての氏神を統治して居るのである
故に吾々はこの神を死者の皇帝としても宜いのである。平田は言つて居る『尤も良い事情
の下にあつても、人は百年以上生きて居る事は望み難い、併し死後大国主神の目に見えぬ
土土に行き、その臣下となるのであるから、早くこの神の前に頭を下げる事を知れ』

……。詩人コオリツヂの筆になつた驚くべき断片『カインのさすらひ』"Tha wandering;
of cain "の内に表明されて居る怪異な空想は、事実古い神道信仰の一箇条を成して居る
と考へられる、曰く、『君主はただ生者の神にして、死者には別の神あり……
旧日本に於ける生者の神は、勿論御門-神の権化現人神-であつた、そしてその宮
殿は国家の聖所、至聖所であつた。その宮殿の内に賢所place of awe則ち宮中の礼拝の
行はれる皇室の祖先を祭る私の神殿があつた、-これと同じ祭祀の公式は伊勢で行はれ
る。併し皇室は代理を以つて(今でもさういふ風に礼拝を行つて居る)杵築と伊勢と両士
で礼拝を行ひ、また大きな諸方の聖所でもそれが行はれて居る。以前は神社の多数は皇室
の収入に依つて支へられ、若しくは一部それに依つて支へられて居た。また重要な神道の
神社はみな大社小社として分類されて居た。その第一の階級に属するものが三百〇四社あ
り、第二級のものが二千八百二十八社あつた。併し神社の多分はこの官省の分類の内には
包含されて居ず、地方の支持に依つて立つて居た。神道の神社の記録に上つて居る全数は、
今日十九万五千を超過して居る。
斯様な次第で-出雲に於ける大国主神の大祭祀は数に入れないとして-祖先礼拝に
四階級がある、家族の宗教、氏神の宗教、諸地方の主なる神社(一の宮)に於ける礼拝
及び伊勢に於ける国家的祭祀がそれである。これ等の祭祀は今や伝統に依つて一緒に結▲
されて居る、そして熱心な神道家は、すべての神々を一緒にして、毎朝の祈祷の内にそれ
を礼拝する。さういふ神道家は、折々その地方の主なる神社に参詣する、そして出来る車
ならば伊勢まで巡拝をする。日本人はみな生涯一度は伊勢の神宮に参詣するか、若しくけ
その代理を送るべきものとされて居る。無論遠隔の地に住んで居るものは、誰れもかれも
この巡拝をなしうるとは考へられない、併しいづれの村でも或る期間に、その地方の為め
に杵築若しくは伊勢へ巡拝を出さない処はない-恁ういふ代表の費用は、その地方の寄
附金に依つて支払はれる。なほ進んで、日本人はみな神道の高い神々を自分の家で礼拝し
うるのである、則ちその家には神棚の上に、神の守護の保証を記した板牌が置かれてあス
のである-それは伊勢或は杵築の神官から得た護符である。伊勢の祭祀の場合、この〓
牌は聖い神社そのものの木材から通例拵へられるのであつて、その神社は古くからの慣翌
に依り、二十年毎に再建される事になつて居るのである-則ちその壊された建物の木材
が切られて、板牌になり、全国に分布されるのである。

今一つの祖先礼拝の発達-仕事及び職業を主宰する神々の祭祀-は特別な研究を値
する。不幸にしてこの問題に就いて吾々の知る処は甚だ少い。古代にあつては、この礼拝
は今日よりも遥かに正確に定められ、行はれて居たに違ひない。職業は父子相伝的で、職
人は、同業組合なるものに纏められて居た-恐らくそれは階級と云つても差支ないかも
知れない、そして各組合若しくは階級は、多分その守り神をもつて居たに相違ない。或ス
場合には職業の神は、日本の職人の祖先であつたかも知れない、また或る場合には、そり
が朝鮮或は支那起原のものであつたらう-それは日本へその職業をもつて来た移住の職
人の祖先なる神々である。それ等の事に就いて知られて居る処は多くない。併し職業組合
のすべてではないとしても、その大抵は、或る時代にあつては、宗教的の組織をもつて居
り、その徒弟はただに職業の内に迎へ入れられたのみならず、その神を祭祀するやうにさ
れたのであつた。組合には織工、陶器工、大工、箭製作者、弓製作者、鍛冶工、船大工
その他の職人の組合があつて、これ等が過去に於て、宗教の組織をもつて居たといふ事は
或る種の職業は、今日でも宗教の性質をもつて居るといふ事実に依つて思ひ及ぼされる
たとへば大工は今でも神道の伝統に従つて家を建てる、則ち大工はその仕事が或る程度に
達すると、神官の衣をまとひ、儀式を行ひ、祈祷を捧げ、かくて新しい家を神々の保護の
下に置く。併し刀鍛冶の職業は、昔にあつては職業中の尤も神聖なるものであつた、刀〓
冶は神官の衣を着て仕事をし、立派な刀身を作つて居る間は、神道の斎戒の式を行ふので
ある。その鍛冶場の前に、その時藁の神聖な綱(締縄)が下げられる、これは神道の最古
の象徴である、その時はその家族の何人たりとも、その内に入り、また鍛冶工に話しかけ
る事を許されない、そしてその当人は聖火をもつて〓炊きされた食物の外喰へないのでか
る。
神道の十九万五千の神社は、併しながら氏族の祭祀若しくは職業組合の祭祀、或は国家
の祭祀等より以上のものを代表して居る、その多くは同じ神の異つた精霊に捧げられたも
のである、といふのは神道では、人間の霊にしても、神の霊にしても、それが幾種かの靄
に分かたれ、その一々はみな別々の性質をもつて居ると説くからである。恁ういふ分か〓
た霊は『分魂』august-divided-spiritsと呼ばれて居る。たとへば食物の女神、豊受姫神の
霊は、分かれて樹木の神、久久能智神と、草の女神、鹿屋野比売神のなかに入つたとされ
て居る。神も人間も、また荒い霊と、穏かな霊とを、もつて居るとされて居た。それで平

田は大国主神の荒い霊は甲の神社に於て礼拝され、その穏かな霊は別の神社に於て礼拝さ
れたと云つて居る……。吾々はまた氏神の社の沢山が、同じ一つの神に捧げられて居る事
を記憶して置かなければならない。恁ういふ重複、若しくは増加は、また或る主なる神社
に於て沢山の異つた神々が、一緒に祭られてあるといふ事実に依つて、入れ合はせがつけ
られて居る。そんなわけであるから実際にある神道の神社の数は、必らずしも礼拝されて
居る神々の実数を示すものでもなければ、その祭祀の種類を顕はすものでもない。『古車
記』或は『日本紀』に記されてある神は、いづれも何処かに、その神社がある、そしてそ
の他の数百の神も-後年の多くの奉祭をも入れて-その神社をもつて居る。たとへば
沢山の神社は歴史上の人物-偉大なる大臣、将軍、君主、学者、勇士並びに政治家の霊
に捧げられて居た。たとへば神功皇后の有名な大臣、武内宿禰-六代の君主に仕へ、一
百年の齢を過ごした人-は今や多くの神社に於て、長命と大知識とを与へる神として祈
願されて居る。嘗て醍醐天皇の大臣であつた菅原道真の霊は、天神若しくは天満宮の名の
下に、文字の神として祭られて居る、子供達は何処でも、その書いた文字の一番良いもの
を、この神に捧げる。そして自分の使ひふるした筆を、その社の前に置かれてある入れも
のの中に入れる。曽我兄弟は第十二世紀の有名な悲劇の犠牲であり、勇士であるが、この
兄弟は神となり、人々は兄弟の仲をよくする為めにそれに祈祷をする。キリスト教のジ
ジュイト派に対する強烈な敵であり、秀吉の有力な将軍なる加藤清正は、仏教と神道との
両方から神として祭られて居る。又家康は東照宮の名の下に礼拝されて居る。事実日本の
歴史上の大人物の多くは、そのために大抵神社をたてられて居る。そして以前には、大々
の霊は、必らずその子孫並びに後継者の臣下に依つて礼拝されて居た
註人間も荒い霊と穏かな霊とをもつて居た。併し神は三つの異つた霊-荒い霊、穏かな霊、授けを〓
る霊をもつて居た、-それは荒御霊、よき御霊、幸御霊と云はれて居る。-サトウ氏の神道の復活
satow's "Revival of Pure shintau"を見よ。
産業及び農業を主宰する神々-特に農夫の祈願する、蚕の女神、米の女神、風及びエ
気の神の如き神々-の外に、国中殆ど到る処に、償贖和解の神社とでも云つたやうなの
がある。この種の後代に出来た神道の神社は、不幸、不正の為めに苦しみを受けた人の靄
の為め、その贖ひを成す為めに建てられたものである。この場合、礼拝は、極めて異様な
形をとり、礼拝者は、その祭られて居る人が存生中に被つたやうな、災難及び困難に対1
て保護を求めるのである。たとへば出雲に於て、私は嘗て王侯の寵愛者であつた一婦人の

霊の為めに捧げられた神社を見た事がある。この婦人は嫉妬深い競争者の術数にかかり、
自〓したのであつた。その話は恁うである、この婦人は極めて美しい髪の毛をもつて居た
併しそれは黒さが足りなかつた、それでその敵どもは、その色を以つてこの婦人を排斥す
る手段としたのであつた。それで今や世間の赤毛の子供をもつて居る母親達は、その赤色
の黒色にかはる事をその神に祈り、髪の毛の束と東京の錦絵とを供物として捧げる。それ
はこの婦人が錦絵を好んで居たと考へられて居るからである。同じ地方に、主人の留守を
悲しんで死んだ若い妻の霊の為めに建てられた神社がある。この婦人は、岡にのぼつて夫
の帰りを待つて居たのであるが、神社はその待つて居た場所に建てられたのであつた、乙
して細君達はその留守の夫の無事に帰つて来るやうにと、この婦人に祈るのである……。
これと同じやうな和解の礼拝は、普通の墓地でも行はれて居る。公衆の憐憫の心は、残店
の為めに自〓するの已むなきに至つた人々、若しくは法律は罪科にあたひするが、事実愛
国心その他同情を得るやうな動機から為された犯罪の為めに、処刑された人々を祭らうと
欲するのである。さういふ人々の墓場の前には、供物が捧げられ、祈祷がささやかれる。
不幸な恋人等の霊も、同じ事の為めに苦しむ若い人々に依つて祈願される……。なほ償聴
融和の礼拝のその他の形のうちに、私は動物-主として家畜であるが-の霊の為めに
小さい社を建てる古い慣習のある事を言はなければならない、それは黙つておとなしく用
をなし、而もその報いを得なかつたその奉仕を認めてか、或は不当に被らされた苦痛の晴
ひのためになされるのである
なほ別種の守護神の事も一言しなければならない-則ち人々の家々の内、若しくはゃ
はりに住む神々の事である。その内の或るものは神話の内にも書いてあり、恐らくは日本
の祖先礼拝から発展したものであらう、また或るものは外国起原のものであり、或るもの
は神社をもつて居ないらしく、なほ或るものは所謂万物有霊説と云つたやうなものを代表
して居る。この種の神はギリシヤの〓oよりもロオマのdi genitdles(生々の神
に近い。井戸の神なる水神様、食器の神なる荒神(殆ど孰れの家の台所にも、この神に捧
げた小さな神壇があるか、若しくは、其名を書いた護符がある)鍋類の神、曲〓(竈)
神、戸部の神(昔は沖津彦、沖津姫と言はれて居た)蛇の姿で顕はれて来ると云はれて居
た池の主、米壺(櫃?)の女神、お釜様、始めて人間に地に肥料を施す事を教へた手洗〓
場の神(これは通例顔のない男女の形をした紙で拵へた小さな八の姿を以つて現はされて
居る)木材、火、金属の神々、並びに庭園、原野、案山子、橋、丘陵、森林、河流の神〓

こ、また樹木の霊(日本の神話にもdryads-樹木のニンフ-があるので)等があへ
てその多くは言ふまでもなく神道起原のものである。また一方に道路が主として仏教の
神々の保護の下にあるのを見る。私は地方の境の神々(ラテンではそれを呼んでterme:
といふ)に関して、少しも知る事を得なかつた、そして吾々は村はづれの処に仏の姿を見
るのみである。併し殆ど何処の庭にも其北の方に、鬼門則ち悪魔の門と称する方に向つて
神道の小さい社がある-鬼門とは、則ち支那の教に依ると、すべての悪事の来る方向で
ある、そして各種の神道の神々に捧げられた、これ等の小さな社は、悪霊の来ないやうに
家を護つてくれると考へられて居たのである。鬼門についての信仰は、明らかに支那から
渡来したものである。
併しながら家の各部-その一々の梁-また家庭の一々の道具が、目に見えざるその
守護神をもつて居るといふ信仰は、支那の感化のみが発育さしたものであるか、それには
疑の余地がある。兎に角この信仰を考へて見ると、家の建造が-その家が外国式でない
限り-なほ宗教的行為であり、また建築の頭領の仕事が、神官の仕事をも含んで居ると
いふ事も驚くには足らない事である。
ここまで来ると万物有霊説の問題に逢着する。(私は現代の学派に属する進化論者にし
て、万物有霊説は、祖先礼拝の前にあつたといふ旧式の考へ-無生物に霊ありとする信
仰は、人間の亡霊に就いての考へが、まだ出て来なかつた前に発展したものであるとい。
仮定を包有して居る説、をもつて居るとは思はない。)ここまで説いて見ると、日本に〓
ては、万物有霊説的の信仰と、神道の最下級の形との間の境界線を引く事は、植物界と動
物界との間の区劃をつけると同様困難である、併し最古の神道文学も、今日存在するやう
な発達した万物有霊説の証拠は少しも与へては居ない。恐らくその発展は徐々たるもので
多くは支那の信仰に感化されたものであらう。それでも吾々は『古事記』の内に、『蛍〓
の如く輝き、艀嚇の如くに乱れて居た悪の神々』といふ事、並びに『岩や木の切り株や辺
の水の泡をして語らしめる悪魔』といふ事を見るが、これに依つて万物有霊説乃至拝物教
〓考への、支那の影響時代前に、或る程度まで行はれて居た事を覗ふに足りる。そして万
物有霊説が恒久の礼拝と結び合つた場合、(異様な形をした石或は木に捧げられた崇敬の
念に於けるが如き)礼拝の形は、大抵神道に依つて居るといふ事は注意すべき処である。
斯様な物の祭られて居る前には、通例神道の門が見られる-鳥居が……。支那朝鮮の影
響の下に於ける、万物有霊説の発達と共に、昔の日本の人は、真に自分が霊と悪魔の世界

の内にあつたと考へたのである。霊と悪魔とは、潮の音、滝の響き、風のうめき、木の葉
の囁き、鳥のなく声、虫のすだく声、その他自然のあらゆる声の内に、人間に向つて語つ
て居たのであつた。人間に取つて、あらゆる運動、-波の運動でも、草のでも、または
移り行く霧、飛び行く雲の運動でも、みな亡霊の如くであり、動く事のない岩石-否
路傍の石すら、目に見えざる厳かなるものに依つて魂を入れられて居たのである

礼拝と浄めの式

吾々は旧日本に於て、生者の世界が到る処、死者の世界に依つて支配されて居た事-
個人はその生存の各瞬時、亡霊の監視の下にあつた事を見た。家にあつては、個人はその
父の霊に依つて見護られ、外にあつてはその地方の神に依つて支配されて居た。その周囲
にも、その上にも、下にも、生と死との、目に見えない力があつた。自然に就いてのその
考へに依ると、万物は死者に依つて、その順序が定められて居た-光明と暗黒、天候と
四季、風と潮、霧と雨、生長と枯死、病気と健康等悉く。目に見えない大気は霊の海、〓
霊の大海であつた。人の耕す地は霊の気に依つて透徹されて居た。樹木にも霊が居てそれ
は神聖にされて居た。岩石すら、自覚ある生命を附与されて居た……。この見るべからざ
るものの、限りなき集合に対して、人は如何にしてその義務を果たし得たであらう
学者と雖も、小さい神々の名は別として、大きい神々の名だけでも、記憶し得る人はあ

まりあるまい。また如何なる人でも、日々の祈祷の内に、その大きい神々の名をあげて、
言葉をそれに言ひかけるだけの時間をもつては居まい。後年の神道の教師は、一般の神々
に簡単な日々の祈祷を、それから特殊な二三の神々に特殊な祈祷を定めて捧げる事に依り、
信仰の務を単純化しようとした。そして斯くして彼等は、必要の上から既に確立して居た
慣習を、尤も都合よく確実に守り得るやうにした。平田は恁う言つた、『いろいろな働き
をもつた神々の数は沢山にあるので、只だ尤も重要な神を名指して礼拝し、其他を一般の
祈祷の内に収めるのが便宜であると考へられる』と。平田は時間のある人々に向つて十種
の祈祷を定めたが、忙しい人のためには、その義務を軽くし-恁う言つて居る、『日々
の用務が多端で、すべての祈祷をのべる時間をもつて居ない人々は、第一に天皇の皇居を
拝し、第二に家の神の棚-神棚を、第三に祖先の霊を、第四に地方の守り神-氏神を
第五に自分の特別な職業の神を拝して、満足して居て然るべきである』と。彼は次の祈祷
の日々『神棚』の前で読まれるべき事を言つて聞かした-
『第一に恭しく伊勢の両宮の大神を拝し-八百万の天の神々-八百万の地の神々-該
諸の地方、島々、八島の大地のあらゆる場所に於ける大小の神社の捧げ奉られたる百五十万
神々、人々の為めに務を為す百五十万の神々、離宮、支社の神々-。この聖い神棚に私がそ
の神殿を建てさした、そして私の日々讃辞をあげる曽富騰の神を拝し、私は厳かに、その神。
が、私の故意でなく犯したる過失を矯正し、それぞれに用ひ給ふ力に従つて、私を恵みまた弥
しみ、その聖い例にならひ、道に従ひ善事を為すやう、私を導き給はん事を願ふ」
註一曽富騰の神は案山子の神で、田野の保護者である。
註二サトウ氏の翻訳。
この文字は神道の最大の註釈者が、神道の祈祷の如何なるものであるべきかを考へた
その一例として興味あるものである。そして曽富騰の神に関する事を除いては、その実〓
は今日なほ日本の家に於て毎朝の祈祷にのべられて居る処のものである。併し近代の祈誌
は遥かに短くなつて居る……。最古の神道の地方なる出雲に於ては、慣習的に行ふ朝の礼
拝が、祈願の古い規定の最上の例を示して居る。則ち朝起きるとすぐに礼拝する人は、泳
裕をなし、顔を洗ひ、口を漱ぎ、日に向ひ、両手を合はせてたたき、恭しく頭を下げて
簡単な挨拶をする『厳かなる神よ、よくこそ、今日来られし』と。斯く日を拝するのは、
また臣民としてのその本分をつくす所以である-則ちそれに依つて皇室の祖先への忠順

を為すのである。これは戸外で行はれるのであつて、跪く事なく立ちながら為されるが、
この簡単な礼拝の光景は感動を与へる事夥しい。
私は追憶の内に、-何年も以前に、隠岐の海岸で実見した通りに、明瞭に今でもその
光景を眼の前に浮かべる事が出来る、-若い漁夫が裸体で小船の船首に直立し、昇る〓
日を迎へるために、両手を合はせてたたいて居ると、日のあかあかと照らす光は、その里
を青銅の立像のやうに見せた其光景を。また私は富士山の絶頂なる岩の尖端に身の平衡を
保つて立ち、東に向つて両手をたたいて居た順礼の生き生きとした追想をもつて居る……。
〓らく一万年-二万年前、すべての人はかくして日の君を礼拝したのであらう……
太陽を拝した後、礼拝者は家に帰り、神棚の前並びに祖先の位牌の前で祈りを上げる
腕いて礼拝者は伊勢或は出雲の大神、その地方の主なる神社の神々、教区の神社の神(氏
神)を呼び、最後に神道の無数の神々を呼び起こす。斯様な祈祷は声をあげて称へるので
はない。祖先には家の基礎を置いたとして感謝を表し、高い神々は助力と守護とのために
呼び求められる……。天皇の皇居の方に向つて、頭を下げる事に就いては、それがどれほ
ど遠隔の地方にまで行はれて居るのか、私には言ひ得ない、併し私はその敬意の行はれて
居るのを屡?実見した。また一度私は田舎の人達が首府を見物に来て、東京の宮殿のすぐ
門前で、その敬意を表したのを見た事もある。私は度々その人達の村に逗留して居た事が
あつたので、その人達は私を知り、東京に来るや私の家を探しあて、遇ひに来た。私は
の人達を宮殿へと連れて行つた、そして宮殿の正門の前に来るや、その人達は帽を〓ぎ、
お辞儀をして拍手をうつた-丁度神々や旭日を迎へる時にしたやうに-簡単にして
た威厳ある敬意を以て為されたこの一事は、少からず私の心を動かした
朝の礼拝の務は、その内に書牌(お札)の前に供物を置く事も入つて居るのであるが
それは一家の祭祀の唯一の務ではない。神道の家に於ては、祖先と高い神々とが、別々に
礼拝されるのであるが、祖先の神壇はロオマのlararium(家族の神)と似て居るらしい
一方その大麻、御幣(特に家族の崇敬する高い神々の象徴である)のある神棚は、ラテト
の慣習に依つてpenates(家の炉辺の神)の礼拝に与へられた場所と比べられ得る。この
両種の神道の祭祀には、その特殊の祭日があり、祖先祭祀の場合には、祭日は宗教上の集
合の時であり-一族の親戚が、家の祭拝を為すために集まる時である……。神道家はま
た氏神の祭りをあげ、国家の祭祀に関する九種の国家の大祭を祝するに、少くともその町
力をしなければならない、国家の大祭は十一種あるが、その内この九種は皇室の祖先を礼

拝する機会なのである。
公然に行ふ奉祭の性質は、神々の位に従つて相違して居る。供物と祈祷とはすべての神
神に捧げられたのであるが、大きな神々は非常な儀式を以て礼拝された。今日では通例供
〓は、食物と酒と、昔からの風習として供へられて居た高価な織物を表はす象徴的の品物
から成つて居る。又儀式には行列、音楽、歌謡及び舞踊が入つて居る。極小さな社では儀
式も少い-只だ食物が供へられるのみである。併し大きな神社には神官と女の神官(巫
女)-通例神官の娘である-との一団の司祭があり、儀式も念が入り厳粛である。か
かる儀式の古風な趣を尤も都合よく研究し得るのは、伊勢の大廟(この神宮の婦人の高!
神官は天皇の娘であつた)か、出雲の大社に於てである。仏教の大波は、一時古い信仰を
殆ど葬り去つたのであるが、それにも拘らず、この伊勢と出雲とに於ては、何十世紀以前
のままに万事が残つて居る、-この特別な聖い境内にあつては、神仙談の中にある魔の
宮殿に於けるが如く、過ぎ行く時も眠つて居たのかと思はれるやうである。建築の形その
ものが、不思議に高く聳え、その見なれない姿で、人の目を驚かす。この社の内にはすべ
てが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ装飾もな
象徴もない、ー-只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの標号である不思議な御
幣が、真直ぐな棒にかけられてあるのみである。奥にあるそれ等の御幣の数に依つて、乙
の場所に捧げてある神々の数を知る事が出来る。其処には空間と、緘黙と、過去の暗示と
の外、何も人の心を動かすものはない。最奥の神壇には幕がかかつて居る、恐らくその内
には、青銅の鏡と古い剣と、八重に包まれて居る何か他の品があるのであらう。それだけ
である。蓋しこの信仰は諸?の偶像よりも古いのであるから、人の姿などを要しないので
ある。其神は亡霊である。そしてその社の何もない静けさは、耳目に触れ得る代表物に依
つて起こされうるよりも、遥かに深い厳粛の感を起させる。少くとも西洋人の眼には、〓
奉祭、礼拝の型、神聖なる品物の形は、いづれも甚だ異様に感じられる。神火は決して近
代式の方を以て点ぜられるのではない-神々の食物を料理するその火は、それは木をも
つて作つた火を発しさせる錐のやうなものを以て尤も古い仕方で点火される。神官の長は
神聖な色-白-の上衣を着、今日では他所には見られない形の頭の装をつける、-
昔の大公、王子等の着けた高い帽子である。その補助の人達はその位に応じて各種の色を
つける。そしていづれの人の顔も全く髯を剃つたのはない-或る人はすつかり顎髯を生
やし、また或るものは口髯のみを生やして居る。この種の教僧の行動も、態度も、威厳を

備へて居るが、而も一寸文字にあらはせない程に古風な処がある。その身の動かし方は、
一々古くからの伝統に依つて定められてあるので、神主たる職務を十分に行ふには、長い
準備の訓練が要せられるのである。この職務は父子相伝で、その訓練は少年の時代に始ま
る。そしてやがてその感情を表現しない様子が習得されるのであるが、それは実際驚くべ
きものである。その職を行つて居る神主は.人間といふよりも、むしろ立像のやうに見え
る、-目に見えない何物かに依つて動かされて居る姿である-そして神と同じく神主
は目ばたきをしない……。嘗て長い神道の行列に際し、多くの日本の友人と共に、私は
どれ位長い間、若い神主が目ばたきをしないで居られるかを見ようと思つて、その馬上の
姿を注目して居た。而も私共の一人も、吾々が見て居た間に、神主の馬が止つてしまつた
に拘らず、その眼若しくは眼瞼の最小の運動たりとも発見したものはなかつた
大きな神社に於ける祭典の儀式の中の大事な事項は、供物を捧げる事、祝詞を読む事、
並びに巫女の舞である。これ等のことには、それぞれ伝統に依つて、堅くその事に結びつ
いた特別な性質が伴なつて居る。食物の供御は、琺瑯を引いてない素焼の古風な器(大抵
は赤色の土器-かはらけ)を以てせられ、炊いた白飯は棒砂糖のやうに円錐形に如
けられ、それに加へるに、魚、食用海草、果実、鳥類、それから太古からの形そのままの
徳利に入れて捧げられたる酒がある。これ等の供物は不思議な形をした白木の盆の上にの
せて神社に運ばれる、-それを運ぶ人の顔は両眼以下、白紙を以て蔽はれて居る、それ
はその人が神々の食物を汚さないやうにとの為めである、そして同様な理由から、盆も十
分に腕をのばして持ち運ばなければならないのである……。古代にあつては供物の内に、
食物よりももつと遥かに高価なものが含まれて居たらしく思はれる、-恐らく日本語に
於ける現存して居る最古の文書である、神道の儀典則ち祝詞の証明する処を信頼し得ると
すれば、次に挙げる竜田の風祭神に向つて為された祝詞の、サトウ氏の翻訳の抄録は興味
あるものである。それは祝詞の言語の立派な一例としてのみならず、また上古に於ける大
儀式の特質と供物との性質とを示すものとして興味があるのである、-
いたてほみ
奉るうづの幣帛は、男神に御服は明妙照妙和妙荒妙、五色の物、楯戈御馬に御鞍具へて、只
品の幣帛献る。女神に御服備へ、金の麻笥、金の〓、金の持、明妙照妙和妙荒妙五色の物、御
馬に御鞍具へて、雑の幣帛奉りて、御酒は悪の上高知り、〓の腹満て双べて、和稲荒稲に、山
に住む物は、毛の和物毛の荒物、大野の原に生ふる物は、甘菜辛菜、青海原に住む物は、鰭か

広物鰭の狭〓、奥つ藻菜辺つ藻菜に至るまでに、横山のごと打ち積み置きて、奉る此のうづは
幣帛を、安幣帛の足幣帛と、皇神の御心に〓けく聞し食して、天の下の公民の作りと作る物を、
悪き風荒き水に遭はせたまはず、皇神の成し幸はへ賜はゞ、初穂は、〓の上高知り、〓の腹満
し双べて、汁にも頴にも、八百稲千稲に引き居ゑ据きて、秋の祭に奉らむと、王卿等、五
官人等倭の国の六の御県の刀禰、男女に至るまでに、今年四月(七月には今年七月と云ふ)
諸参り集ひて、皇神の前に、うじもの頸根衝抜きて、今日の朝日の対栄登りに、称辞竟へ奉る。
皇御孫命のうづの幣帛を、神主祝部等受賜りて、堕つる事なく奉れと宣りたまふ命を、諸聞し
食せと宣る。
訳者註先生の引用したのはサトウ氏の翻訳である。これは祝詞の其条下を読みよくした訳文で、有朋堂
の叢書から取つたものである。
今日では供物は『小山の並んだやうに』積まれる事もなく、またそれは『山にまた海に
住む一切のもの』を含みもしない、併し大袈裟な祭拝はなほ残つて居り、儀式はいつも感
銘を与へるものである。神聖な舞も亦少からず興味ある儀式の一部分である。神壇の前に
置かれた食物と酒とを、神々が口にされて居る間に、乙女の巫女が、緋と白との衣をまと
ひ、太鼓と笛の音につれて優雅に動く、-神の居ますまはりをまはつて、扇子を波の
うに動かし、小さい沢山の鈴の総をふり鳴らしながら動く。西洋の考からすれば、巫女の
この舞は、殆ど舞踊とは言はれないが、併し見た処では優雅なまた不思議な光景であるー
-何となればその一歩その一姿勢は、何時の事か解らないほど古い伝統に依つて定められ
て居るのであるから。哀調のある音楽に就いては、西洋人の耳は、その内に何等真の旋律
らしいものを認める事は出来ないが、併し神々はその内に喜悦を見るのである。何となれ
ば、今日なほこれは二十世紀も以前になされて居た通り、全く同じやうに行はれて居るの
でも知れるからである。
私は特に出雲で見た儀式に就いて語るのである、その式は祭祀の種類如何、並びに地方
に依つて多少の相違がある。私の見た伊勢、春日、琴平その他の社に於ては、通例巫女は
子供である。そしてその子供等が結婚期に達すると、その仕事をやめる。杵築の巫女は成
人の婦人であつて、その職務は代々後に伝へられるのである。そして結婚後でもその職を
つとめる事を許されて居る。
以前には、巫女は単なる祭典の執行者以上のものであつた。その今日なほ覚えなければ

ならぬとされて居る歌は、もとこの巫女が花嫁として神々に捧げられたものである事を示
して居る。今でも巫女の触れたるものは神聖なるものである。その手に依つて播かれた種
子は神の祝福を受けたものである。過去に於ける或る時代にあつては、巫女は神々の用を
する女と考へられて居たらしい。神々の霊が巫女にのり移り、その唇を通して神が口をき
いたのである。この最も古い宗教のあらゆる詩的な情緒は、この小さい神女-亡霊の幼
少なる花嫁-の翩翻として舞ふ其姿を中心として起される。その姿は実に見るべからざ
る神の神壇の前に於ける、驚くべき白と緋の蝶のやうである。近代の万事の変化した世に
あつては、この少女も公立の学校に行かなければならないが、而もなほ日本の少女の楽し
さうに見える一切をそれは代表して居る。何となればその家庭に於ける修練は、少女をー
て尊厳を保ち、無邪気に、その何事を為すにも可憐ならしめ、神々の愛するものたるの価
値をもたしめるからである。
他の国に於ける祖先礼拝の高級な諸?の形式の歴史は、吾々をして、神道祭祀の公の儀
式の内には、浄めの式が多少必らず入つて居るに相違ないと想像させる。事実神道の儀式
の内の最も重要なるものは浄めの式である、この浄めの式を称して御祓ひといふが、その
意は悪を投げ出し、若しくは逐ひ払ふ事である……。古代のアゼンスに於ては、これと同
じ式が毎年行はれた。ロオマでは四年毎に行はれた。御祓ひは毎年二囘-旧暦の六月と
十二月とに行はれた。それはロオマの浄めの式と同様義務的のものであり其義務の背後
にあつてその基礎となつて居た思想は、この事に関してのロオマ法を動かしたその思想と
同様なものであつた……。則ち生者の安寧が死者の意志に依ると、人々が信じて居た限り
-世界に起る一切の事は、善悪各種の性質ある霊に依つて定められ-悪事は一々目〓
見えざる破壊の力に、更に別の権力を加へ与へるものであり、従つて公共の繁栄を危くす
るものである事を人々が信じて居た限り、公の浄めの必要は、世間共通の信仰箇条として
行はれるのである。只だ一人たりとも、或る社会に於て神々の意に悖つた人があれば、乙
れが意識してであると、意ならずした事であるとを問はず、それは公共の不幸、公共の伯
険となる。併しすべての人々が、或は思想に依り、或は言葉に依り、或は行為に依つて、
決して神々の心を煩はした事はなかつたといふほど立派に日を送つて居るといふ事は不〓
能な事である-或は激越した感情に依り、或は無智に依り、或は不注意に依り、さうい
ふ事が起る。平田は言つて居る『各人は如何に深く注意して居ても、必らず偶然知らずし
てする罪を犯すものである……。悪行悪言には二種ある、意識してするのと、意識せずし

てするのとの二種が……。吾々には恁ういふ意識して居ないで犯した罪があると仮定して
置く方が却つて良いと思ふ』と。さて旧日本の人に取つて-古のギリシヤ、ロオマの市
氏に取つてと同様に-宗教なるものは、主として無数の慣習を正確に守るといふにあり
またそれ故に幾種かの祭祀の務を為す間に、人は思ひがけなくも、目に見えざる神の意に
逆らふ事を果たしてしなかつたか、それを知る事は甚だ難しいといふ事を、吾々は記憶し
て置かなくてはならない。従つて人々の宗教上の純潔を保持し且つそれを確実にする方法
として、時を期しての浄めの式は、必要欠くべからざる事と考へられて居たのである
極古い時代から神道は厳密に清潔といふ事を要望した-実に、身体の不潔を以て道徳
上の不潔と同じものとなし、神々に対して許すべからざるものと考へて居たと云つて差古
ない位であつた。神道は常に洗浄の宗教であつたし、今日でも同様である。日本人の清漫
を愛することは-日々に入浴すること、家庭の点のうち処のない状態等に依つても解ス
のであるが-その宗教に依つて維持され、恐らくそれから教へられたものであらう。
点の汚れもとどめない清潔といふ事が、祖先礼拝の祭典に求められて居て、-神社に於
ても、祭司の一身に於ても、また家庭に於ても-純潔に関するこの規定は、自然だんだ
んと生存のあらゆる状態に押し拡められて行つた。そして一定の時期に於ける浄めの式
外に、幾多の不浄払ひの式が祭祀に要求された。記憶すべき事には、斯ういふ事が、古い
ギリシヤ、ロオマの文明の内にもあつて、その市民はその生活の殆どあらゆる重大な時期
には、浄めの式に従はせられたのである。則ち誕生、結婚、死亡等に際しては、浄めが必
要欠くべからざるものとされて居た。戦争に出る前にも同様であつた。一定の時を期し〓
住居、土地、地方、その都会の浄めもあつた。そして日本に於けると同様、予め手を洗は
ずして宮に近づく事は決して許されなかつた。併し昔の神道はギリシヤ、ロオマの祭祀以
上にそれを要望した、神道は則ち誕生のために特別な家-分娩の家、結婚完了(床入)
のための特別な家-婚儀の家、並びに死者のための特別な家-喪屋等の建立を要求し
た。以前婦人はその月経期間、並びに産褥期間、別居する事を求められて居たのである。
この種の古い厳しい慣習は、一二の遠隔の地に於けると、神官の家族に於けるとの場合以
外、今は殆どなくなつてしまつた、併し浄めの式並びに聖処に近づくのを禁ずる時日及び
事情等に関しては、今日なほ到る所でそれが守られて居る。身体上の純潔は、心の純潔と
等しく強要され、毎六箇月目に行はれる浄めの大きな式は、勿論道徳上の浄めとなるので
ある。それはただに大きな神社に於て、並びに氏神に於て行はれるのみならず、またすべ
ての家庭に於ても行はれるのである。

註神棚には大抵長方形の紙の箱が置かれてあるが、その内には国の大祓の式の時、伊勢の神官が用ひた
棒の断片が入つて居る。この箱は通例式の名則ち御祓といふ名を以て呼ばれて居リ、伊勢の大神宮の名:
記されてある。この品のあるといふ事は、家を保護するのだと考へられて居る、併しそれは六箇月の尽
た際には、新しい御祓に代へられる、何となればその祓の力は両度の浄めの式の間だけつゞいて居るも一
と考へられて居るからである。伊勢の浄めの式の際に『悪魔を払ふ』ために用ひられた幾本かの棒の断上
を、幾千といふ家庭に分配する事は、勿論高い神官の保護を、次の御祓の時までそれ等の諸家庭に拡める
といふ意味である。
近代の家族の祓の形は極めて簡単である。各神道の教区の社は、その教区の者則ち氏子
に『人型』といふ影絵のやうな男、女、子供の姿を現はす小さい紙の切れをくれる-
の紙は白紙で、不思議な折り方をしたものである。家々はその家の人数に応じて幾個かの
人型を貰ふ-男と男の子には男の形をしたのを、女と娘とには女の形をしたのを。家の
各人は、其人型を一つ取つて、自分の頭や、顔や、手足、身体にそれを触はらす、其問神
道の祈祷を唱へ、神々に向つて、知らずして為したる犯行のために被る不幸や病気の(神
道の信仰に従ふと病気と不幸とは、神罰であるといふのであるから)神様の慈悲に依つて
除けられるやうにと祈るのである。人型の上には、それを受け取つた人の年齢と男女孰れ
かといふ事が書かれる(名は書かない)。そしてその上で人型はすべて教区の社にかへされ
る。すると其処で浄めの式と共にそれが燃やされるのである。こんな風にして社会は六箇
月毎に『不浄を払はれる』のである。
昔のギリシヤ、ラテンの都会にあつては浄めの式に伴なつて人名登簿といふ事があつた。
式への各民の出席は、極めて必要な事で、故意に出席しないものは、答刑に処せられ
または奴隷として売られた程であつた。これに欠席するのは市民権の喪失となるのである
古い日本に於ても、社会の各員は、式に出席する事を以て責任とされて居た。併し私はそ
の折に人名登簿が為されたかどうかまだ知らない。恐らくそれは不用な事であつたらう、
日本の個人は官庁の方からは認められなかつたのであるから、家族の一団のみが責任を有
したので、その家の各個の出席は、家の一団の責任に依つてきめられた事であらうと思は
れる。人型を用ふる事-それに礼拝者の名を記さず、只だその男女孰れかと年齢とをの
み記す-は恐らく近代的の事で支那起原の事であらうと思ふ。官庁の登簿なるものは極
古い時代にもあつた、併しそれは御祓ひとは何等特別な関係はなかつたらしい。そしてそ
の登簿なるものは、神道でもつて居たのではなく、仏教の教区の僧に依つて保存して居な
らしい……。御祓ひについての、これ等の意見を終るにあたつて、私は偶然に宗教上の汚

れを招いた場合、並びに或る一人が公共の祭祀の規則に関して罪を犯したと判断された場
合には、特別な儀典がそのために為されたのは言ふまでもない事である事を一言する。
起原の上から、浄めの式と関聯して、神道の種々な禁慾的な行ひがある。神道は必らず
しも本来禁慾的な宗教ではない。則ち神々に肉と酒とを捧げる位である。そしてその定め
たる克己の形は、たまたま古来の慣習と普通の品位とが要する位の程度のものに過ぎない
が、それにも拘らず、信者の中には、特別な場合に、非常な峻厳な事を行ふものもある
-峻厳とはその内に冷水浴の事が多く包蔵されて居るのである。熱心なる礼拝者が、裡
体で、冬の最中に氷の如くに冷い滝の下に立つて、神に祈るといふやうな事は決して珍ら
しい事ではない……。併しこの神道の禁慾主義の尤も不思議な点は、今なほ辺陬の地方〓
行はれて居る慣習に依つてよく解る。この慣習に依ると、社会の組合は年毎にその市民の
一人を選び、其者をして他のものに代つて、全然身を神々に捧げさすのである。その献身
の期間、此仲間の代表者は、その家族から分かれ、婦人に近づかず、戯れ、慰みの場所を
避け、神の火を以て料理された食物のみを食ひ、酒を禁じ、一日幾囘も新鮮な冷い水の中
に浴し、或る時間の間特別な祈祷をあげ、或る夜には徹宵祈願をしなければならないの
ある。そのものが特殊の時期の間、上記のやうな禁慾と浄めの務を果たし終ると、それけ
宗教上自由の身となり、つづいて別の人がそれに代つて選ばれる。それでその地方の繁紗
はその代表が、定められたる務を正確に守るに依ると考へられて居り、若し何か公共の不
幸が起る事があれば、その代表者が誓を破つたのではないかと疑はれる。昔は共同の不幸
の起つた場合、代表者は殺されたものである。私が此慣習を始めて聞いたのは、美保関の
小さな町に於てであつたが、その地方の代表はichinen gannushi『一年願主』one-yea
god-niaster.と呼ばれて居り(ガンヌシならば願主と考へられるが、ゴツド・マスタなれば
神主である、暫くそのままにして置く)、その代表となつて贖ひをする期間は十二箇月で
ある。私の聞いた処に依ると、この務に選ばれるものは、通例年長者であつて-青年は
滅多に選ばれないさうである。古代にあつてはこの代表者は『禁慾者』といふ意味をもつ
た名を以て呼ばれて居た。この慣習に関する説話は、日本についての支那の記録の内にあ
つて、それは日本の有史以前に始まつた事であるといふ。
凡そ祖先礼拝の永続的の形をもつたものは、一種或は多種の筮トの方法をもつて居るが
神道もこの一般の法に洩れない。筮トが古代の日本に於て、嘗てギリシヤ人及びロオマ人

の間にもつて居たやうに、公式上重要なものとなつて居たかどうか、それは今疑問となっ
て居る。併し支那の星占ひ、魔法、身上判断等の伝来したより余程以前に、日本人はいス
いろな種類の筮トを行つて居た、それは昔の詩歌、記録、奉祭等に依つて証明される。五
吾はまた大きな祭祀に伴なつて、官庁の筮ト者の事の記されたのを見る。筮トには、骨に
依つたのもあり、鳥に依つたのや、米、大麦の粥に依つたの、足跡、地に立てられた棒に
依り、また公道で通り行く人の話を聴く事に依るのもある。これ等の筮卜の古い方法は殆
どすべて-恐らくすべてであらうか-なほ人々の間に一般に用ひられて居る。併し
番古い公式の筮卜は、鹿若しくは他の動物の肩胛骨を焦がし、それに依つて生ずる焦げス
音を聞き別ける事に依つてなされた。後になつては亀の甲良が同じ目的のために用ひられ
た。筮卜者は特に皇室に附属して居たらしい。本居(宜長)は十八世紀の後半に、其時代
になほ行はれて居た筮卜を以て、皇室の仕事の一部として、それに就いて語つて居る。〓
く『時の終りに至るまで、御門は日の女神の子である。御門の心意は、日の女神と、思〓
に於ても、感情に於ても全く一致して居る。御門は決して新しい工夫を探さない。併し神
代から始まつた先例に従つて治めて行く。そして若し疑はしい事があれば、大なる女神の
心意を明らかにしてくれる筮トにその決定を求める』と
註筮卜のこの形に関して、サトウ氏は、ヂンギス汗の時代に、モンゴオル人に依つてそれが行はれ、金
日なほ韃靴のカアギス族に依つて行はれて居ると云つて居る-これは古い日本の種族が孰れにその起〓
を有するやに関しての非常に興味ある事実である。
右の公式の筮卜の例については、アストン氏の『日本紀』の訳第一巻、一五七、一八九、二二七、二一
九、二三七頁を見よ。
少くとも有史時代になつては、筮卜はあまり戦時に用ひられたとは思はれない-確〓
それがギリシヤ及びロオマの軍隊に依つて用ひられたやうには用ひられなかつたらしい
口本の最大なる将軍-秀吉、信長の如き人-は前兆に関しては、全く不信心であつた
恐らく日本人は、その長い戦史の初期に於て、経験に依り、前兆に従つて兵を動かした将
軍は、前兆の如きものを眼中に置かなかつた戦ひに巧みな敵に対する場合、常に甚だしい
不利の位置に立つ事を知つたに相違ないのである
人々の間に行はれた筮卜の古い形の内にあつて、今日なほ残つて居り、家族の間に尤も
普通に行はれて居るのは、乾いた米を以てする筮トである。公式には支那の筮トがなほ成
んに行はれて居る。併し日本の身上判断者は、支那の書物を参照する前に、必らず神道の
神々を呼び起こし、自分の客を迎へる室には、神道の神壇を置いて居るのを見るが、これ

は頗る興味ある事である。
吾々は日本に於ける祖先礼拝の発達が、古いヨオロツパに於ける祖先礼拝の発達と著し
い類似を示して居る事-特に公式の祭祀に、義務的な浄めの儀式を伴なふ事に関して、
著しい類似をもつて居る事を見た。
併しながら神道は、吾々が常にギリシヤ、ロオマの古の生活と聯関さして見る所のもの
よりも、まだ発達の後れて居る祖先礼拝の状態を表はして居るやうに思はれる。そしてそ
の要求する強制は、比較的に遥かに厳格であつたやうに考へられる。個人なる礼拝者の生
存は、家族や社会に対する関係ばかりでなく、無生物に対する関係に依つてすら定められ
て居た。人の仕事がなんであつたにせよ、何れかの神がその仕事を監視して居た。どんな
道具を人が用ふるとしても、その道具は、その仕事の神を祭る仲間のもののために定めら
れて居るやうな伝統的の用ひ方をしなければならなかつた。又大工はその大工の神を崇め
るやうにその仕事をなし、-鍜冶工は鞴の神をあがめるやうにその日々の仕事を果たし
-農夫はまたその居住に関し、地の神、食物の神、案山子の神並びに木の霊に敬意を表
する事を忘れないやうにする事が必要であつた。一家の器具すら神聖であつ
理の道具の神、炉辺、鍋、火鉢の神の現存-若しくは火を清くして置く極度の必要を、
決して忘れてはならないのであつた。職業も仕事と同様、神の守護の下にあつた、則ち
医者、教師、芸術家-それ等は各?その守るべき宗教上の義務を有し、従ふべき特別な
伝統をもつて居た。たとへば学者はその書きものの道具を等閑に扱ふ事は出来ず、またこ
の書きものをした紙を、濫りに用ひてはならなかつた。かくの如き所業は文字の神の意に
悖る事であつた。婦人も亦そのいろいろな仕事に於て、男子と同様宗教的に支配を受けて
居た。たとへば紡績の女や、織女は、織りものの女神、蚕の女神を崇敬しなければならな
かつた。縫ひものをする娘は、針を大事にするやうに教へられ、何処の家でも、針の霊〓
供物をする一定の祭日を守るのであつた。武士の家にあつても、武士はその甲冑と武器と
を神聖なものと考へるやうに命ぜられて居た。甲冑や武器を整然と美しくして置くといふ
のは、一つの義務であつて、それを等閑に附すると、戦の時に不幸を招く事があるかも知
れないのである。それで一定の日に客間の床の間で弓、槍、矢、剣等の前に供物が呈され
るのであつた。庭園も亦神聖であつて、それを処理するには、一定の規則が守られなけれ
ばならなかつた。さうしないと或は樹木や、花卉の神々の怒りにふれることがあるかも知
れないからである。注意深き事、清くする事、塵埃のなき事、それ等は宗教上の義務とし

て到る処で励行されたのである。
……近頃になつて日本人は、その公共の役所、鉄道のステイシヨン、新たに出来た工坦
等を注意して清潔にしないといふ事が往々言はれる。併し外国の材料をもつて、外国の〓
視の下に、外国風に建てられ、国のあらゆる伝統とは反対した建築は、旧式の考へからす
れば、神々に見棄てられた場所と考へられるに相違ない。そしてかくの如き汚れたる周囲
の間に働く僕婢は、自分の周囲に目に見えざる神を感ぜず、敬神の慣習の意味を感ぜず、
人間が尊敬するやうにとの、美しきもの単純なるものの黙々の間にする要求を感じないの
である。

死者の支配

今や神道の倫理は、大体家族の祭祀から出た慣習に、無条件で服従するといふ教の内に、
凡て包含されて居た事が、読者に明瞭になつたであらうと思ふ。倫理は宗教と別なもので
なく、宗教は政府(政事)と異つたものではなかつた。政事といふ言葉が、『祭りの事』
といふ意味をもつて居る。すべて政治の儀式は先づ祈祷と犠牲とを以て始められるので
社会の最高の位から最低の位地に至るまで、各人は伝統の法に服すべきであつた。これじ
従ふのは信心であり、又これに反くのは不信心であつた。そして服従の規則は、各人の属
して居る社会(組合)の意志に依つて、その各個人の上に励行されたのである。古の道徳
は家、社会、並びに高い権威に対しての、行為の規則を精細に遵奉するにあつた。
併し品行の規則は大抵社会に於ける経験の結果をあらはしたものであつて、忠実にそれ
に服従し、而もなほ且つ悪人であるといふ事は、殆ど考へられない事であつた。それ等の
規則は、目に見えざるものに対する畏敬、権威に対する尊敬、両親に対する愛情、妻子じ

対する優情、近隣に対する親切、寄食者に対する親切、労作に於ける勤勉と厳格、習慣上
の節約と清潔とを命じたのであつた。最初道徳は伝統への服従に過ぎなかつたのであるが、
伝統そのものが徐に真の道徳と同一視されるやうになつた。それから生じた社会状態を想
像する事は、素より近代的の思想には少しく困難な事である。吾々の間にあつては宗教上
の倫理と社会上の倫理とは、余程以前に実際別なものとなつて居た。そして社会上の倫理
は、徐に信仰の弱まると共に、宗教上の倫理よりも、遥かに緊急なものとなり、また重更
なものとなつた。吾々は、大抵その生涯にあつて、早晩十誠を守るだけでは不足であり、
社会の慣習を破るよりも、際立てずに十誡の大部分を破る方が、遥かに危険が少い事を知
るに至る。然るに旧日本に於ては、倫理と慣習との間に、-道徳上の要求と社会上の義
務との間に、何等の区別もゆるされては居ないのであつて、慣例は両者を同一視し、まわ
その孰れかの破壊を隠匿する事は不可能であつた-秘密といふ事は存在しなかつたので
あるから。のみならず不文の誡律は十箇条に限られては居なかつた。その数は幾百もあつ
て、その極めて僅の破壊もただに過失としてのみならず、又罪過として罰せられたのであ
つた。普通の人は自分の家にあつても、またその他何処にあつても、自分の欲する通りの
事を行ふ事は出来なかつた。また普通以上の人に至つては、慣例の破壊を叱責するを以て
その務として居る熱心なる自分の部下の監視の下にあつたのである。世間普通の意見の力
に依つて、生活のあらゆる行為を規定し得る宗教は、教義問答(誡律)を要しないのであ
る。
道徳上の慣習は一々皆強制的な慣習ならざるを得ない。併し多くの習慣は、最初はたが
強制の下に苦しみながら作られたものであるが、それがたえず繰返して課せられるので、
容易になり、終には自発的になり、かくて宗教上並びに社会上の権威に依つて、幾代もの
間強制された行為は、やがては本能的になるやうに立ち至つたのである。言ふまでもなく
宗教上の強制が外部からの原因-例へば永く続いた戦争の如きもの-に依つて妨げら
れた処も少くはない。事実旧日本には非常に障害もあつたのである。併しそれにも拘らず
神道の力は驚くべき事を成就した-則ちいろいろの点に於て熱心なる敬嘆を値する一宗
の国民性を発展さし得たのである。その国民性の内に発達し来たつた倫理的感情は、吾?
のとは甚だしく相違して居る、が併しそれは日本の社会的要求に丁度よく適したものであ
つた。この道徳的国民性に対して大和魂(若しくは大和の心)といふ名称が作り出されか
-則ち昔の天皇の居られた処なる古い大和の国の呼び名が、表象的に全国の名に用ひら

れたのである。逐字的とは言へないが、大和魂といふ言葉は『旧日本の精神』と解した方
が却つて正しいかも知れない。
十八世紀及び十九世紀の神道の大学者達が、良心のみが十分なる倫理上の指南車であつ
たと大胆なる断定をなしたのも、その『旧日本の精神』といふ事を考へたからの事である。
彼等は日本人の良心の高い性質を以て、日本人種の神聖なる起原の証拠であると宣言した。
本居は『人間は二柱の創造の神に依つて作られたものであるが故に、自然に自分の為すべ
き事、また為すべからざる事に就いての知識を附与されて居る。故に道徳の方式を以て自
分の心を煩はすのは必要のない事である。若し道徳の方式が必要であつたとすれば、人間
は動物にも劣るであらう-動物はみなその為すべき事に就いての知識を附与されて居る。
ただその程度が人間に劣つて居るのみである……。』と云つた。真淵(賀茂)は疾くに日
本の道徳と支那の道徳との比較を為し、支那の劣つて居る事を言つた。『昔人間の性質の
率直であつた時には、道徳の複雑した方式は必要ではなかつた。悪事も折には行はれると
いふ事は有り得る事である。併し人間の性質の率直は、悪事の隠蔽され、従つてその拡が
つて行くのを妨げたのである。それ故当時にあつては、正邪の教へを説く必要はなかつた
然るに支那の人は、その受けたる教へのあるにも拘らず、心が邪悪であるが故に
部だけを善くして居た。従つてその悪行は大きくなり、為めに社会は乱脈になるやうに〓
つた。日本人は率直であるが故に、教へを俟たずして行ひ得た』と真淵は言つた。本居、
恁ういふ考へを少し異つた風に言つて居る『日本人はその行ふ処、真に道徳にかなつて居
たが故に、道徳上の学理を少しも必要としなかつたのである、道徳の学理に就いての支那
人のやかましい考へは、彼等の実行の乱れた処から生じたものである……。学び且つ行ノ
べき道(倫理上の体系)のないといふ事を知るのは、則ち実は神の道を行ふべき事を知い
て居た事である』と。その後平田は恁う言つて居る『目に見るべからざるものを畏敬する
事を知れ、さすれば悪を行ふ事を止めるに至るべし。汝の心に植ゑつけられたる良心を差
へ、然らば道を離れて、さすらふ事なかるべし』と。
社会学者はこんな道徳上の優越を説くのを笑ふかも知れないが(特に人類が神々の手か
ら離れたばかりの原始時代にあつて、却つて優さつて居たといふ仮定に根拠を置いた意見
として)その内には真実の種子もある。真淵、本居が上記の事を書いた時代は、国民が殆
ど信じられない位微細に亙つた規律に従はせられ、またそれの応用に力を用ひた時代であ
つたのである。而してこの規律なるものは実際驚くべき性格をつくり出したのであつた
-思ひ及ぽせない位な忍耐、否利己的の心、正直、親切、高い勇気を伴なつた温順性等の

性格を作り上げたのであつた。併し如何に発育の犠牲を、その性格が払つたかは、ひとん
進化論者が想像し得るのみである。
これ等神道の大文士等の時代まで、国民が服従せしめられて居たこの規律なるものは、
それ自身独得の不思議な進化論的な歴史をもつて居るといふ事を、ここに言つて置く必更
がある。原始時代にあつても、この規律は同様厳格なものではあつたが、それは遥かに然
一のないものであり、単純なものであり、また細かい組織を欠いたものでもあつた。そー
て社会の発達と、その強国になつたとにつれて、盆?発達し精しいものとなり、終に徳〓
将軍の時代に至つてそれは規則の絶頂に達した。換言すればその支配力は、国家の力の発
達に比例して盆?重くなつて行つたのである-人民の力が、それに堪へるに応じて……
吾々はこの文化の当初から、市民の全生活が、規定されて居たのである事を見た、その職
業も、その結婚も、その父なる権利も、財産を保持し、またそれを処分する権利も、-
すべてそれ等は、宗教的慣習に依つて定められて居たのである。吾々はまた一市民の行色
は、家の内に於けると、外に於けるとを問はず、監視の下にあり、一つの重大なる慣例を
破る事は、そのものの社会上に於ける破滅となつたかも知れないのである事-その場合
そのものは単に社会上の違犯者たるのみならず、また宗教上の違犯者であつた、-前
並び
に組合の神はそのものに対して怒りを抱き、その過を許すといふ事は、仲間全体に対し訓
の報復を招くかも知れないのである事はすでに述べた処である。併しその地方を治めて〓
の中央政府に依つて、如何なる権利がそのものの為めに残されてあつたか、それはなほ廿
後語らなければならない処である-蓋しその政府なるものは、普通の場合、控訴をゆス
さない宗教的専制の第三の形式(宗教上慣習上の次なる意)を代表するものである
古い法律並びに慣習の研究に対する材料がまだ十分に集まらないので、明治以前のあら
める階級の状態に関する十分な知識は吾々には得られない。併しこの方面に就いての沢山
の有盆なる著作は、アメリカの学者に依つて成されて居る。たとへばヰグモア教授及び
モンズ博士の勢作は、徳川時代に於ける民衆の法律状態に関して多くの知識を与へる文書
上の証拠を提供して居る。徳川時代は私の言つた通り、尤も規約に念を入れた時代であっ
た。人民が如何なる程度まで干渉を受けて居たかは、彼等の遵奉した奢侈禁制法の性質と
その数とからよく推断され得る。旧日本に於ける奢侈禁制法は恐らく西洋の法律の歴史に
もある記録のいづれよりも、その数とその細かさに於て勝さつて居る。一家の祭祀が家庭
に於ける人の行為を厳格に定めた通りに、また組合が其義務の標準を固く励行したやうに

-丁度同様に厳格にまた固く、国家の統治者は、個人が-男も、女も、子供も-ど
んな服装をなすべきか、どんな工合に坐るべきか、歩くべきか、語るべきか、働くべきか、
食ふべきか、また飲むべきかを規定した。〓楽も労役と同様に用捨なく規定されて居た。
日本社会のあらゆる階級は奢侈禁制の規約の下にあつた-規定の程度は時代の異るに
つれて異つて居るが、而もこの種の(奢侈禁制の)法律は極古い時代から出来て居たらし
い。紀元六八一年に天武天皇がすべての階級の衣服を定めたといふ記事がある-『親
より下民に至るまで、階級に従つて、頭飾り及び帯の着用並びにあらゆる色ある織物の着
用を』定めたといふ事である。僧尼の着用すべき衣服及びその色は、すでに紀元六七九年
に出された勅令に依つて定められて居た。後になつてこの種の規定は、非常にその数を〓
し、また細目に亙つた。併しそれから一千年の後則ち徳川の治世になつて、この奢侈禁制
法は著しい発達をなした、その性質は百姓に適用されたその規定に依つて最もよく現はさ
れてゐる。百姓の生活は細目に至るまで法律に依つて定められて居た-その住居の大い
て、形、価格から、下つて食事の際に於ける料理の数や種類の如き微細な事に至るまで宝
められて居た。たとへば百石の収入ある百姓は(百石の収入とは一年九十磅から百磅の〓
入である)六丈の長さの家を建てる事を得べく、それ以上は許されなかつた、なほ家に味
の間のある室をつくる事を禁じられて居た。また特別の許可あるにあらざれば、屋根に互
を用ふる事をゆるされて居なかつた。その家族のものは何人も絹服を着る事を許されず
その娘が、絹を着用する資格のある人と結婚をする場合、その花婿は結婚式の際絹を着田
してはならぬといふのであつた。如上の百姓の娘又は息の結婚には僅に三種の料理が許さ
れたのみで、婚礼の客に出す汁、魚。口取りの質並びに量も、法律で極められて居た。同
様に婚礼の贈物の数も極まつて居り、酒、干物等の贈物の価も定められ、花嫁に呈する事
をゆるされて居た一本の扇子の質さへ極まつて居た。如何なる時にも、百姓はその友に高
価な贈物をする事をゆるされない。葬式の際には百姓も客に或る種の粗末な食事を呈する
事をゆるされた。併し酒が出される場合、それは盃をもつてされず、汁椀でのみすべき事
になつて居た-(この規定は多分特に神道の葬式に関しての事であらう)子供の誕生の
場合、祖父母は(慣習に従つて)只だ四つの贈物をする事をゆるされて居た-『木綿の
赤児の衣服一着』もその内に入つて、而も贈物の価は定められて居た。男子の祝の折には
(五月の節句か)祖父母を交へての全家族からの子供への贈物は、法律に依つて『紙の旗
一旅』及び『玩具の槍二本』に限られて居た……。財産五十石と算定された百姓は、長サ
四丈五尺以上の家を建てる事を禁じられて居た。その娘の結婚に於ける贈物の帯の代価は

五十銭を超えてはならなかつた、そして結婚の宴には一種以上の汁を出してはならなかつ
た……。財産二十石と算定されて居た百姓は、長さ三丈六尺以上の家を建てる事をゆるさ
れず、またそれを建てるに〓、檜の如き上等な木材を用ふる事もゆるされなかつた。その
屋根はまた竹葺(竹の皮か或は笹の葉か)若しくは藁に限り、床上に畳を用ふるといふ慰
安を厳禁されて居た。その娘の結婚の折の宴には、魚その他の焼物を出す事を禁じられて
居た。その家族の女達は皮の草鞋をはく事を許されず、藁で造つた草鞋若しくは下駄をは
くのみで、その鼻緒も木綿で拵へたものに限られて居た。女達はなほ絹製の髪紐並びに鼈
甲の髪飾りをつける事を禁じられて、木の櫛若しくは骨の櫛-象牙のではない-を許
されて居た。男は足袋をはく事を禁じられ、その草鞋は竹でつくられたものであつた。そ
れ等のものは又日傘則ち紙の傘を用ふる事を禁じられて居た-。十石と算定された百姓
は長さ三丈以上の家を建てる事を禁じられて居た。その家の女達は笹の葉の鼻緒のついか
草鞋を用ひなければならなかつた。その子息若しくは娘の結婚には只だ一個の贈物が許さ
れた-夜具則ち蒲団を入れる長持のみである。その子の誕生にも只だ一個の贈物だけが
ゆるされた、則ち男の子ならば玩具の槍一本、女の子ならば紙の人形若しくは土の人形
個を……。自分の土地をもつて居ないこれよりも一段身分の低い百姓、所謂水呑百
〓のに関しては、食物、服装等に就いて、一段厳重に制限されて居たことは、言ふまで
ほいことである。たとへばそれ等のものは結婚の贈物として、夜具蒲団を入れる長持を。
ことさへも許されなかつた。併し恁ういふ屈辱的複雑な制限に関しての適当な考へを得
んと欲するならば、ヰグモア教授の公刊した文書を読むのが一番良い、それは主として次
・のやうな条項から成つて居るのである。-
註一アストン氏の『日本紀』の翻訳第二巻三四三、三四八、三五〇頁参照
註二草轄若しくは下駄には竹をもつて造つたのもある、併しここに言ふのは竹の草の意である。
訳者能第一草誌の意が不可解である。ここに言ふサンダルは或は草履であらうか、それが竹則ちバン
ウで出来て居るとはどういふ事か、更にバンプウ・グラスとあるのは笹の葉か竹の皮ででもあらうか。
:衣裳の襟及び神口には絹を用ふるもよし、また絹或は縮緬の帯を用ふるもよし-
し公儀に於ては許されず……』
『二十石以下の列にある家族は、武田椀及び日光膳を用ふべし』……〔この二品は漆製
品の一番廉価なものである」
『大百姓或は組頭は傘を用ふる事を得、但し小百姓、小作人等は鶏と藁傘(優頭笠)の

みを用ふべし……』
ヰグモア教授に依つて公刊されたこの文書は、ただ舞鶴の大名の出した規定のみである
が、これと同様細かくまた面倒な規定は全国を通じて励行されたらしい。出雲に於ては、
明治以前、各種の階級のものに、着用すべき衣服の原料を規定したのみならず、その色並
びにその型の意匠まで規定した奢侈禁制法のあつた事を私は知つて居た。出雲では家の大
いさと共に室の広さまで法律に依つて定められて居た、-また建物及び籬の高さ、窓の
数、建築の材料も同様で……。ただに住居の広さ、家具の価のみならず、また衣服の地質
い至るまでも-ただに結婚の支度の費用のみならず、また結婚の宴の性質、食物を入い
る器の質までを、ただに婦人の髪につける飾りの種類のみならず、また履物の鼻緒の材料
"に至るまで-ただに友人に贈る贈物の価のみならず、子供に与へる極低価の玩具の性質
や価格までを、規定するやうな法律に、どうして人間が忍んで服し得たのであるか、西洋
の人にはとても了解が出来ない。而して社会の特殊な構造は、組合の意志に依つて、かノ
の如き奢侈禁制法の励行を可能ならしめたのである、則ち人民自らがそれを強制するのふ
むなきに至らしめられたのである。すでに言つた通り、各組合(村邑)は、組
軒、或はそれ以上の家の一団を作つて居た。そして組を構成する家々の主人は、その内か
ら組頭なるものを選び、上の官憲に対して直接に責任を負はした。組はその内の人々の〓
れの行跡に対しても責任をもつて居た。そしてその一人は、結局他のものに対して責任を
もつて居たのである。前にのべた文書の一に恁う書いてある『組の各員はその仲間の人々
の行為をよく監視して居なくてはならぬ。相当な理由なくしてこれ等の規定を破るものが
あれば、そのものは罰せらるべく、またそのものの組は責任を負はせらるべし』と。子他
に紙の人形一個以上を与へたといふ、大変な犯罪に対しても責任を負はせられたのである
……。併し吾々は昔のギリシヤ及びロオマの社会にあつても、これと同種の法律が、沢山
にあつたといふ事を、記憶しなければならない。スパルタの法律は、女が髪の毛を結ぶそ
の結ひ方を規定した。アゼンスの法律は女の衣裳の数をきめた。昔、ロオマでは、女が〓
を飲む事を禁じた。ギリシヤのミレタス及びマツシリアの都にも、同様な法律があつた
ロオヅ及びビザンテイウムでは、市民は髯を剃る事を禁じられ、スパルタではまた市民が
口髯を生やす事を禁じられて居た。(私は結婚の宴の価並びにその饗宴に招かれる客人の
数を規定したやや後代のロオマの法律の事を言ふ必要はあるまいと思ふ、何となればこの
法律は主として奢侈を禁ずるためであつたから)日本の奢侈禁制法、特にその百姓の上〓

被らされたものに依つて、起される驚異の感は、その性質の如何に依つてといふよりも、
その如何にも無遠慮に微細に亙つて居る事、-細目に亙つて兇猛であるといふ事に依つ
て、頷かれる次第である。
人間の生活が法律に依つてその極微の点まで定められて居た場合-履物、帽子の性質
妻の髪の留針の価、子供の人形の代価に至るまでも-言論の自由がゆるされて居たとは
到底考へられ得まい。それは素より存在しなかつた、そしてどれほど迄言語が規定されて
居たかは、口語を研究した人々に依つてのみ想像され得るのである。社会の族長的組織は
言語の慣習的組織の内に-代名詞、名詞、動詞の規定の内に-前接辞、後接辞に依つ
て形容詞に加へられる差等の内に、よく反映されて居た。衣裳、食事、生活の風を定めな
と同じく、用捨なく正確に、すべての言葉の言ひあらはし方は消極的にも積極的にも規定
されて居た-併し消極的よりも多く積極的にさうであつた。言つてはならない事につい
ての例は少く、言ふべき事を定めた規則は無数にあつた-選択すべき言葉、用ふべき語
法の如きは沢山にあつた。若い時からの訓練はこの点に就いての注意を強くした。各人は
上長に対してものを言ふ時には、或る種の動詞、名詞、代名詞のみを用ふべき事、また同
等のもの或は目下のものに向つて語る時にのみ、或る言葉が許されると云つた
学ばなければならなかつた。無教育のものと雖も、この事に就いては多少学ぶべき義務が
あつた。然るに教育はこの言語上の複雑した作法の仕組みをよく教へたもので、数年間〓
練習すれば、何人たりともそれを自由に用ひ得たのであつた。上流の階級にあつては、フ
の作法が殆ど考へ及ばない位に複雑になつて居た。言語に文法上から一寸変化を加へると
それに依つて言ひかけられた人を非常にあがめ、言ひかけた人の謙退の意を表する事にな
るのであるが、さういふ事は極古くから一般に行はれて居たに相違ない、併しその後支那
勢力の下にあつて、恁ういふ互に都合よく釣り合ひをとる語法は極度に増加した。御門そ
の人から-御門も他の人には用ふる事を許されて居ない人代名詞を用ふる、若しくは小
くとも代名詞的表白を用ふる-下つて社会のあらゆる階級を通じ、その各階級は、みた
その階級独得の『吾』といふ言葉を別々にもつて居る。『汝』若しくは『あなた』といゝ
言葉に相応する用語で、今日もなほ用ひられて居るのが十六種ある、併し以前はもつと沢
山にあつた、単数の二人称で子供や、学生や、使用人に言ひかけるのみに用ひられて居ス
のが八種もある。親族関係を示す名詞の敬称並びに〓下した形も、同様に数多く且ついっ
いろの階級がある、『父』といふ事を示すに用ひられて居る文字が九種、母といふことを
示すのも九種、『妻』には十一種、『子息』にも十一種、『娘』に九種、『夫』に九種あ

る。就中動詞の規則は、作法の必要から、始ど簡単な記述では、その考へを云ひがたい程
に複雑になつて居た……。十九歳或は二十歳にもなれば、子供の時から注意されて訓練さ
れて居たものは、上流社会に必要な動詞の用法をすべて知り得たであらう。併しそれよb
も進んだ上流の対話の作法に精通するには、研究と経験とのさらに幾年かが要せられたの
である。位階と階級とのたえず増加するに伴なつて、それに応ずるいろいろな言語の形式
が生じて来た。男なり、女なり、孰れにしてもその話しを聞けば、そのものの如何なる階
級に属して居るかを断定する事が出来た。口語と同様に、文語も厳密な慣例に依つて定め
られて居た。女の用ひた言語の様式は、男の用ひたのとは異つて居た。男女両性の異つか
る修養から生ずる言語上の作法に於ける相違は、その結果として、書翰の特別な文体を作
り出した-則ちそれは『婦人の用語』で今日なほ用ひられて居るのてある。この用語の
男女に依つての相違は、書翰の上にのみ限られて居るのではない。階級に依つて相違すっ
のであるが、対話の上にも婦人の用語といふものがある。今日でも普通の対話に於て、殉
育ある婦人は、男の用ひない言語や語句を使ふ。侍の女子は封建時代にあつては、特別な
表白の様式をもつて居た。今日でも古い家庭の修養に従つて育てられた婦人の言葉を聞い
て、その婦人が侍の家庭のものであるか、どうかを判断する事が出来る位である。
註社会学者は、勿論かくの如き事実が、パアシヴアル・ロヱルの『東洋の精神』"scul of the east"の
内に面白く論じてある代名詞の用法の節約といふ事と決して矛盾するものでない事を了解するであらう
極度の服従のある社会に於ては『人代名詞の用を避けるといふ事がある。』もつともハアバアト・スペ
サアがこの法を説明する為めに指摘して居るやうに、かくの如き社会(極度の服従のある社会)に於て〓
そ、ものを言ひかけるに用ふる代名詞の様式に、尤も精細な区別が見られるのでありはするが、如上の事
もあるのである。
勿論対話の事項も態度も制限を受けて居た。そして言語の自由に関する制限の性質は、
動作の自由の上に加へられた制限の性質から推断される次第である。動作は非常に細かく
少しの容赦もなく規定されて居た。それは単に男女とか、階級とかに依つて変化する無数
の程度を有する敬礼に関しての事のみならず-また顔の表情、笑ひ方、息の仕方、坐6
方、立ち方、歩き方、起き方等に関しての事であつた。人はみな幼少の頃から、表情と行
状との、この作法の訓練を受けた。上長の前にあつて、様子若しくは身振りに依つて、非
痛若しくは苦痛の感をあらはす事が、どういふ時期に始めて不敬の標となるものか、吾々
には解らないが、この点について尤も完全なる自己抑制が、有史以前の時代から励行され

乙居たといふ事を信ずるだけの理由はある。併し行状に関しての極めて細かい法規は、〓
に受動的にそれに服従するといふ事以上を要めたのであるが、それは徐に-恐らく一却
は支那の教への下に、発達したものであつた。その要めた処は、単に怒りや苦痛の感を外
面の表情にあらはしてはならないといふのみならず、その人の顔並びに態度は却つて反対
の感を示すやうにしなければならないと云ふのである。不承不承の服従は悪るい事であり
単なる自動的従順では不十分であつた、服従の真実の程度は、楽しさうな微笑に依り、〓
た快い声の調子に依つて示されなければならないのであつた。が、その微笑にも亦規定が
あつた。微笑の性質についても注意しなければならぬ、たとへば上長に対してものを言と
に際し、奥歯の見えるやうな微笑をするのは非常に失礼な事であつた。武家階級にあつて
は、この種の動作の法規は少しも容赦する処なく励行された。侍の婦人はスパルタの婦人
のやうに、自分の夫若しくは子息が戦死した事を聞いても、喜びの様子を示すやうに要め
られて居た。さういふ事情の下にあつて、少しでも自然の感情を出す事は、重大な礼節上
の破壊であつた。あらゆる階級に於ける動作は厳しく規則を以て定められ、為めに今日に
於てさへ、人々の態度は-る処に昔の規律の如何なるものであつたかを示して居るのであ
る尤も不思議な事は、この昔の態度は、それが習練して得られたといふよりも、自然〓
人に備はつて居たやうに思はれ、訓練に依つて為されたといふよりも、本能的であるや
に見えるといふ事である。お辞儀-頭を下げ、また神々に祈祷をする時に行はれる静か
に音を出して息を内へ引く事-人を迎へまたは別かれる時、床の上に両手を置くその位
置-客の前で、坐り、立ち上がり、また歩くその仕方-ものを受け取り又は捧げるそ
の様子-すべて恁ういふ普通の行為も、只だ教へただけでは、出来さうにも思はれない
やうな、一見自然らしい魅力をもつて居る。これは一〓高い作法になるといよいよさうな
る、-則ち修養ある階級に於ける昔の訓練から生ずる精巧な作法に於ては左様である-
-特に婦人に依つてそれが示された場合には。吾々は、さういふ態度を習得する能力は遺
伝に依る処著しいと思はなければならない-規律の下にあつた人種の過去の経験に依つ
てのみ作られ得たものであると考へなければならない
上品といふ事に関してかくの如き規律が、一般の人民に取つて、どういふ風な意味をも
つて居たかといふ事は、家康が粗暴な事を為した三階級(農、工、商)の何人をも〓害し
て宜いといふ権利を、侍に与へたその条例から推測する事が出来る。但し注意すべき事は、
家康が『粗暴』いふ字の意味を注意して限定して居る事である、粗暴なものに就いての
日本語は『慮外もの』を意味する-それ故死を値するやうな犯罪をなしたといふのには、

意想外、則ち『慮外な』行を為したといふ事が要件であつた、言ひかへれば、定められた
る作法に反いたといふ事が要件であつたのである-
" the samurai are the masters of the four classes.agriculturists, artizans, and merchants may no
behave in a rude manner towards samurai. the term for a rude man is 'other-than-expected fellow';
and a san urai is not to be interfered with in cutting down a fellow who has bhaved t him in a
manner o ler than is expectcd. the samurai are grouped into direct retainers, second ry retainers,
and nobles and retainers of high and ow grade; but the same line of conduct is equally allowable t
them all towards an other-than-expected fellow."-〔 art.45
士者四民の司農工商之輩対士不可致無礼之働無礼者今云慮外者也対士慮外いたす者は士
於誅之不妨之士又直臣陪臣上下君臣之品有於慮外者其筋可為同前事(第四十五条
併しながら家康が〓害の新しい特権を作つたと考へるのは少し無理である。恐らく家市
は永くすでに行はれて居た武家の権利を律令として確定したに過ぎないのである。上長に
対する下級の行為についての厳格な規則は、武家の権力の勃興以前に疾く用捨なく励行さ
れて居たと考へられる。第五世紀の終り頃に雄略天皇が、その侍臣の、葉をかけられた
に拘らず、恐れて黙つて居たといふ過失のために、それを〓したといふ事を聞いて居る)
なほこの天皇は一杯の酒をもつて来た官女を打ち倒したといふ事、〓びにその婦人が非常
な落ち着きをもつて居て、慈悲を求める一句の歌を即興をもつてうたひ出したので、首を
刎ねられるのを免れたといふ事も聞いて居る。この婦人の過失といふのは、酒杯をもつて
来る時、その内に木の葉の落ち込んだのを気づかずに居たといふに過ぎなかつたのである
-恐らくそれは宮中の習慣で、その中に息の入らないやうにして、杯をもつて行かなけ
ればならなかつた為め、気がつかなかつたのであらう。また天皇や位の高い貴族は神々の
やうな奉仕を受けて居たので、そんな風にして杯を捧げられたのである。雄略天皇には、
些細な過失のために、人を〓す風のあつたのは事実である、併し今のべたやうな場合に於
ける過失は、長く定められて居た礼節を破壊するものと考へられたのである
恐らく支那の刑法の入つて来た前にも後にも-所謂明清の法典で、将軍の下に、そり
に依つて国は治められて居たのであるが-国民の全部は文字通り筈の下にあつたのであ
る。普通の人民は極めて些細な罪のために残酷な筈刑の罰を受けた。重大な犯罪に至つて

は、苛責して殺すのが普通の刑罰であつた、その甚だしい野蛮な或は野蛮に近い刑罰に至
つては、吾が中世紀に行はれたやうなものもあつた-火刑、十字架、八裂き、生きなが
ら油で〓ると云つたやうな類であつた。村民の生活を規定した文書には、法律上の規律の
厳しさを示すやうなものがない。組帳に、かくかくの行為は罰せらるべしとあるその宣言
は、古の法典を知らない読者には別に何の恐ろしさをも思はせないであらう。事実日本の
法律上の文書の内にある『罰』といふ文字は、些少の罰金から、上は炮烙の刑に至るまで
の、すべての刑をいふのである……。家康の時代に至るまで、争ひを鎮圧するために用ひ
られた厳罰の証拠は、一六一三年に日本へ来たカピテン・サリスの不思議な手紙の内に〓
られる。艦長は恁う書いた『七月の一日に、吾々の仲間の内の二人が互に争を始め、野外
に行きさうになつて(則ち決闘を演じさうになつて)結局吾々のすべてのものを危険に陥
れた。といふのは、怒つて刀を抜くものは、よしそれに依つて別に何等の害をも為さなか
つたとは言へ、そのものは直に切り裂かれる、そして少しの害でも為せば、自分が死刑〓
処せられるのみならず、またそのものの全一族が同じ刑に処せられるのである……』『〓
り裂かれる』といふ事の文字上の意味を、艦長はその同じ手紙の内に、自分の目撃した死
刑の事を語つて、その説明をして居る-
『八日に三人の日本人が死刑に処せられた、則ち男二人女一人。理由は恁うである。
-女は甚だ宜ろしからざるものであつたが、(その夫は旅行して家に居なかつたので)一
人の男を時を定めて自分の許に来るやうに極めた。後に来た男は前の男を知らなかつたが
その定められた時刻より早く来たので、第一の男を見、怒つて、刀をぬき、ひどく二人を
傷つけた-男の背筋を二つに切るほどに傷つけた。『然るに第一の者も自分のあかりを
立てるために、刀を取つて、第二の者を切つた。往来ではこの争を知つて、三人の者を据
へ、これを別処に置き、国王フオイン(松浦公法印の事)にその事を知らし、人を以て王
の意向を伺はした(それは国王の意志に依つて、人は死刑に処せられたのであつたから)、
王は直に三人の首を切るやうにとの命を発した。それが行はれると、見て居た各人は(多
くのものが見て居たが)その死体の上に自分の刀の鋭さを試みて見るためにやつて来た。
為めにそれ等の人々の立ち去るまでに、三人は切れ切れに小さく人間の手程の大きさに切
られてしまつた。-がそれでもまだそのままにはして置かれず、その切れ切れの屍を積
み重ね、人々は刀の一打ちを以て、その幾個を切り得るかを試みるのであつた。その上で
切れぎれの身体は棄てられ禽鳥の食ふにまかせられてしまつた』……。

言ふまでもなく、この場合、死刑は、争をしたといふ犯罪よりも、もつと重大な理由の
ために命ぜられたのである、併し争ひが固く禁じられ、厳しく罰せられたのは事実である
下級の『慮外もの』を切り棄てる特権をもつて居たが、武家階級そのものも、そのもつ
て居た特権よりも遥かに酷しい規律に従はなければならなかつた。人の機嫌を害つたやこ
な言葉或は顔附に対する罰、若しくは務を果たす際に陥つたる些細な過失に対する罰は
則ち死刑となる事もあつた。大抵の場合、侍は自分から自分に死刑を加へる事をゆるされ
て居た。則ち己を〓す権利は、特権と考へられて居たのである。併し短刀を深く左の脇腹
に刺し、それからその刀身を徐に且つ確かりと右の方へ引き、腸を悉く切り去るといふの
は、普通の磔刑、則ち両脇を〓き通される罰と同じく確に残虐なものである
個人の生活の事に関する一切の事柄が、法律に依つて規定されて居たと丁度同様に、個
人の死に関する一切の事柄-個人の棺の性質、埋葬の費用、葬式の順序、墳墓の形等も
規定されて居た。第七世紀に法律が発布されて、何人でも埋葬に不相応な費用をかけてけ
ならぬといふ事になつた。これ等の法律は、位置階級に従つてその葬式の費用を定めたの
であつた。その後の布令は、棺の大きさと材料並びに墳墓の広さをきめた。第八世紀に
王侯より百姓に至るまであらゆる階級のために、葬式の細目が法令を以てきめられた。欲
代になつて、なほ別の法律及び法律の修正が、この問題の上に施された。併しいつも葬式
の事に就いては、一般に立派にするといふ傾向があつたらしい-この傾向は甚だ強かつ
たので、幾代の間も奢侈禁制法の行はれたに拘らず、今日なほ社会の危険として存在して
居る。これは死者に対する義務に就いての信仰、並びにその信仰から生じた、一家を貧困
に陥らしても、霊を重んじ、霊を悦ばさうとの願望のある事を考への内に置いて見れば、
容易に了解される事である。
以上すでに述べた処の法律は、近代人の考へには、多くは暴政と見えるに相違ない。規
定の内には吾々から見れば、異様に残酷と考へられるものもある。のみならず、かくの如
き法律慣習の義務を避け免れる道は一つもないのである。それを果たし得なかつたものは
死ぬか或は流浪の身となるより外に道はなかつた。有無を言はぬ服従のみが生存の条件で
あつた。かくの如き規定の傾向は、自然精神上並びに道徳上の意見の相違を抑へ、個性を
麻痺せしめ、一定不変の型にはまつた性格を作るにあつた。而してその実際の結果として、

かくの如きものが得られたのである。今日に至るまで、日本人の考へは、みな依つて以て
その祖先の考へが抑へつけられ制限されて居た、その古い型の跡を示して居る。さういふ
型をつくるに与つて力のあつた-むしろ抑圧の下にさういふ型を結晶さした法律の事を
知らなくては、日本人の心理を了解する事は不可能である
併しながらまた一方から言へば、この冷酷鉄の如き規律の倫理上に於ける効果は、言ふ
までもなく勝れたものであつた。則ちこれはつぎつぎ代々のものをして祖先の倹約を実行
せしめたが、その強制は日本の非常な貧困といふ点から考へて正当な事とされたのである。
この強制は生活費を引き下げ、それをして西洋人の考へから言つた必要欠くべからざるも
のといふ程度よりも、遥かに下らしめたのであつた。かくしてそれは節制、質素、経済の
念を養ひ、清潔と、作法と、強健とを励行した。而も-異様な事実と考へられるが-
それは人民を不幸に陥れはしなかつた。人民は自分達の困難のあつたに拘らず、世界を羊
しく見た。事実昔の生活の幸福は、古い日本の芸術の内に反映されて居た。それは丁度ゼ
リシヤ生活の楽しさが、その名も知れない画家の手になつた花瓶の意匠の間から、吾々)
向つてなほ笑顔を呈して居るのと同じである。
而してその説明は難しくはない。五々はこの強制が只だ外から働かされた
際内部から維持されたものである事を記憶しなければならない。日本人の規律は自ら進ん
で課したものであつた。人民は徐に自分自身の社会状態を作り出したのである、そして注
律はその状態を保持したのである、則ち彼等日本人は、その法律を以て出来得る限り最上
なるものと信じて居たのである。彼等はその法律が自分自身の道徳上の経験に立脚して居
たといふ立派な理由から、それを出来得る限り最上のものと信じて居たのである。そして
彼等はさういふ信仰をもつて居たが故に、大いにそれを忍び得たのである。宗教に依つて
のみ、人々はかくの如き規律を受け、なほ且つ去勢者、臆病者に堕する事なくして居られ
得たのである、日本人は未だ曽て去勢者臆病者には堕ちなかつた。克己服従を強いた所の
伝統は、また勇気を養ひ快活ならん事を強いたのであつた。統治者の権力は無制限であつ
た。それはすべての死者の権力が統治者を支持して居たからである。ハアバアト・スペン
サアは言つて居る『法律はその成文なると、不成文なるとを問はず、生ける者の上に於け
る死者の統治を公式を以て示したものである。過去の時代がその性質を後に伝へ-身豊
上にも道徳上にも--かくて現代の上に有して居るその力に加へて-また過去の時代が、
習慣や、生活の様式を後に伝へて以て現代の上に及ぼすその力に加へて-なほ一つのカ
がある。それは過去の時代が、口伝に依り或は文書に依つて残されたる、公共の行為に対

するその規定に依つて働きを為す力である……。余はこれ等の真実を力説する』と-な
ほ又スペンサアは恁う附加して言つて居る、-『それ等が黙々の内に祖先礼拝を包含し
て居る事を示すために』と。人文の歴史中の他の法律にして、旧日本の法律以上に、ス。
ンサアのこの説の真なる事を示すものはあるまい。日本の法律は尤も明らかに『生ける者
の上に及ぼす死者の支配を公式に示したものである』而して死者の手は重かつた。それは
今日なほ生けるものの上に重くかかつて居る

仏教の渡来

日本の古代の宗教が、あらゆる他の敵対異国の信仰の移入に対して反対を示した。その
反対の如何なるものであつたかは、今や明らかに解つた事であらうと思ふ。家族が祖先礼
拝の上に基礎を置き、村邑が祖先礼拝に依つて治められ、氏族又は部族団体も祖先礼拝に
依つて支配せられ、又最高の支配者が、他のあらゆる祭祀を一つの共通な伝統の中に結合
する所の祖先祭祀の、高い神官であり又同時に神であるとすれば、根本的に神道に反対す
る如何なる宗教の宣布も、社会組織全体に対する一つの攻撃と見倣されるのは当然の事で
なければならない。これ等の事情を考へて見れば、仏教が、初期の幾つかの闘争の後(〓
の一つは流血の戦ひであつたが)、第二の国民的信仰として受け入れられたのは不思議に
思はれるかも知れない。併し仏教の根本義は本質的に神道の信条と相容れないものではあ
るが、仏教は、印度、支那、朝鮮、その他隣接諸国に於て、如何にしたら執拗な祖先礼拝
を支持してゐる諸国民の精神的必要に合致し得られるかを知つて居たのである。然らざり

ば、頑固な祖先礼拝は疾うの昔に仏教の潰滅を果たしてゐたであらう、と云ふのはその広
大な幾多の征服は凡て祖先礼拝の人種の間に行はれたものであつたからである。印度に〓
ても、支那に於ても、朝鮮に於ても、-又暹羅に於ても、緬甸に於ても、安南に於ても
-仏教は祖先礼拝を駆逐しようとは力めなかつたのである。何処でも仏教は自分を社会
上の習慣の敵としてでなく、友として受け入れさせた。日本でもそれは大陸諸国でその発
展を確実にしたと同じ政策を採つたのである。それで日本の宗教状態について、多少でも
明確な観念を得ようと思ふならば、この事実を心に止めて置かなければならない。
日本の書物で現存して居る最も古いものは-恐らく神道の祭典(祝詞)に関するもの
を除けば-第八世紀以来のものであるから、祖先礼拝以外に宗教の形式のなかつた古い
時代の社会状態は、臆測に依つてそれを知るの他はない。支那朝鮮の影響が全然無かつた
事を想像して始めて、吾々は所謂神代に存した物の状態の漠然たる考をつくり得るのでな
る、-そして何れの時代にこれ等支那朝鮮の影響が働き始めたかと云ふ事を決定するの
は困難な事である。儒教は仏教に先んずる事可成り前であつたらしい。そしてその発展は
組織力として、遥かに急速てあつた。仏教は、紀元五五二年頃、始めて朝鮮から伝つて来
た。然しその伝道はあまり多くの功果をあげなかつた。第八世紀の終り頃に、日本の政治
の全体の組織は、儒教の影響を受けて、支那式に改められた。然し第九世紀に入らぬ中に
仏教は事実全国に拡がり始めたのであつた。そして結局それは国民生活を蔽ひ、あらゆヲ
国民思想にその色彩を与へた。而も尚ほ、古代の祖先祭祀の異常な保守思想-他と融ム
他と融合
する事を阻むその固有の力-は、一八七一年の仏教廃止の際に、この二つの宗教が容易
に分かれたと云ふ事で例証される。凡そ千年の間も、文字通りに仏教に圧倒された後、神
道は忽ちにその昔の素朴に〓り、その最も古い奉祭の不変の形を再建したのである
併し神道を併呑せんとした仏教の企ては一時は殆ど成功したやうに思はれた。この併呑
の方法は、八〇〇年頃、真言宗の有名な宗祖、空海則ち『弘法大師』(一般にかう呼ばれ
てゐる)が考へたものだと云はれてゐる。が、この空海は始めて神道の高い神々は仏の化
身であると称したのであつた。併し、勿論、弘法大師は仏教政策の従来の例に倣つたまで
の事であつた。両部神道の名の下に、この神道と仏教との新しい複合は、帝室の承認と古
持とを獲た。爾後到る処で、この二つの宗教は同一の境内に置かれた-時には同一の建
物の内にさへ置かれ、二つは真に融合したかに見えた。が、その実、真の融和はなかつた

のである-かかる接触の十世紀もつづいた後、再び二つのものは一度も接したことがな
いかの如く手軽に分かれてしまつた。仏教が実際永久的な変化を与へたのは、僅に家庭に
於ける祖先祭祀の形式に於いてであつたが、それでさへ尚ほ根本的なものでなく、一般的
なものでもなかつた。或る地方では、それ等の変化も為されなかつた。そして殆ど到る処
で、人民の大部分は神道の祖先祭祀の形式に従ふ方を選んだ。又仏教に改宗した人の一大
階級も、なほ古い信条をつづいて表明して居た。そして仏式によつて彼等の祖先礼拝を実
行しながら、別に家庭的に古い神々の礼拝を行つて居た。今日日本の大抵の家には、神棚
と仏壇との双方が見受けられるが、二つの祭祀が同一の屋根の下に行はれるのである。・
…然し私がこれ等の事実を記して居るのは、神道の保守的活力を説明するためであつて
決して仏教宣伝の薄弱な事を指示せんとするのではない。勿論、仏教が日本の文化に及〓
した影響は夥しいものであり、深大なものであり、また多様であり、無限でもある。唯
驚くべき事は、永久に神道の息をとめる事の出来なかつたと云ふ点である。多くの著述家
達が不注意に言つてゐる事であるが、神道は公式の宗教として残つてゐるだけで、一般の
宗教となつたものは仏教であると言ふのは、全然誤想である。事実、仏教も神道と同じふ
うに公式の宗教となつた。そして貧民の生活と共に上流階級の生活を支配したのである。
仏教は幾多の天皇を僧侶にし、その皇女を尼にした。仏教は政治家の行動を、法令の性質
を、そして法律の執行を左右した。各村邑に於ける管内の仏教の僧侶は、精神上の教訓者
であると共に、公許の役人であつた。彼は管内の登記簿を預り、且つ地方の重大な事件を
当局に報告して居たのである
註一両部といふ言葉は『二つの部門』若しくは『二つの宗教』の意である。
註二若しその家が仏教徒であれば、祖先礼拝や葬式は原則として仏式である、併し神道の神々は、真宗
に属する家を除けば、大〓の仏教徒の家で祭られてゐる。併し真宗の信奉者でも多くは同じやうに古い宗
教を奉じてゐるやうである、そして彼等は自分の氏神を有つてゐるのである。
学問に対する愛好心を移植した事に依り、儒教は仏教の路を開くに与つて力があつた。
第一世紀頃早くも支那の学者が幾人か日本に居た。併し支那文学の研究が始めて統治階級
の間に、普く行はれるやうになつたのは、第三世紀の終り頃であつた。然し儒教は新宗教
を代表するものではなかつた、則ちそれは日本のと極似た祖先礼拝のうへに基礎を置いた
倫理教の一体系であつた。それが与へんとしたものは一種の社会哲学であつた、-万物
の永遠性の説明であつた。それは孝順の教へに力を添へ且つそれを拡大した。それはすで
に存在した儀式を整頓し、纏つたものに造り上げ、且つそれに依つて、あらゆる政治の道

徳が組織を立てられた。又統治階級の教育に就いても、それは偉大なる勢力となり、現代
に到る迄そのまま続いてゐたのである。その教義は、言葉の最も善い意味で、人道的であ
つた。そしてその統治政策に及ぼした人道的な結果の驚くべき例証は、日本の政治家の最
も賢明なる人-家康-の法律や格言の中に見出だされるのである。
併し仏氏の宗教は、根本的な相違のあるにも拘らず、古いものに自分を合致せしめ得た
多くの新しい信仰と共に、別により広大な人道的な影響-慈愛の新しい教義を、日本に
与へたのである。言葉の最高の意味に於て、それは一つの文化を支へる力であつた。生命
を尊重する事、人間と同様に動物を愛護する義務、現世の働きは来世の状態に結果を有す
る事、自分には覚えのない過誤の必然的な結果としての苦痛に諦めて従ふ義務の事を教・
た他に、それは実際的に日本に支那の産業及び技術を与へた。建築、絵画、彫刻、版画
印字、園芸-要するに、生活を美化する手段となるあらゆる技術産業-は仏教徒の指
導の下に始めて日本に発達したのである。
仏教には多くの形式があり、近代の日本には十二からの主なる仏教の宗派がある、併ー
今爰処では、最も〓括的に、一般的な仏教に就いて話せば足りるであらう。一般的な仏教
は哲学的な仏教と区別されるものであるが、それに就いては次の章で触れる事にする。+
乗仏教は、何時如何なる国でも、多数の信奉者を獲る事が出来なかつた。その特有の教義
涅槃の教への如き-が普通の人に教へ込まれたと想ふのは誤りである。人々に教
込まれたのは只だ極めて素朴な心にも解るやうに、又好かれるやうに説かれた教義の種類
に過ぎない。『人見て、法を説け』と云ふ仏教の諺がある-その意味は教を聴者の能九
に適応させよと云ふのである。日本では、支那でもさうであるが、仏教はその教を、未が
抽象的観念に馴らされてゐない大きな階級の人々の心意の能力に順応させなければならな
かつた。現在でさへ、民衆は涅槃と云ふ言葉の意味をよくは知らない、彼等は宗教の極簡
単な形式だけしか教へられてゐない、これ等の事を考へて見れば、宗派とか教義とかの相
違は考へる必要はないと思ふ
仏教の教が一般民衆の心に及ぼした直接の影響を了解するには、神道には輪〓の教へが
ないと云ふ事を記憶して置かなければならない。前にも云つたやうに、死者の霊魂は、ロ
本の古い考へに従へば、つづいて世の中に存在して居るのである。死者の霊魂は、どうか
して自然の目に見えない力と混じり合ひ、且つ自然の力を通じて働いて居るのである。
切の事がこの霊魂の-善悪両様の-仲介に依つて起るのである。生存中悪るかつたも

のは、死後も尚ほ悪であり、生存中善良であつたものは、死後も善神になる、併しいづれ
にしても両者共に奉祭を受けるのである。仏教の渡来前は、未来で賞罰を受けるといふ里
想はなかつた。何等天国とか地獄とか云ふ観念はなかつた。亡霊や神々の幸福は、生き〓
居る者の礼拝と供物とに懸かつてゐると考へられてゐたのである。
これ等の古い信仰に対して、仏教は僅にそれを敷衍し、説明する事に依つて、それに関
与する事を企てた-それを全然新しい知識の下に解釈する事に依つて。則ち変形は成就
し得た。併し抑圧は出来なかつた。仏教は古い信仰の全体を受け入れたとさへ云つていい
位であつた。この新しい教へは云つた。死者は視界の外に存在を続けると云ふのは真実だ
それは万人皆晩かれ早かれ仏-神の状態-の路に入るべき運命にあるもの故、神にな
つたと考へるのは誤りではないと。仏教は神道の大なる神々を、その性質や位と共に、認
めた-而して言ふ、それは仏陀若しくは菩薩の権化であると、かくて太陽の女神は大日
如来tathagata mahavairokanaと同一に視られ、八幡宮は阿弥陀amitabhaと同一に視らり
た。又仏教は妖魔や悪神の存在をも否定はしなかつた、それ等はpretas(餓鬼)やmar;
y.kas(魔)と同じに視られた、妖魔則ちGobliwに当たる日本の普通の言葉で言ふ、〓
といふ言葉は、今日この同一視された事を想ひ起させる。悪霊に就いては、前世の悪業に
依り自業自得で、永遠の饑餓の圏内に追ひ込まれる運命にあるpretas-餓鬼-とし。
考へらるべきであつた。昔いろいろな悪疫の神-熱病、疱瘡、赤痢、肺病、咳、風邪の
神-に供せられた生費は、仏教の是認する所となつて存続した。併し改宗した者はかか
る害あるものをpretas(餓鬼)と看做し、且つpretasに捧げられるやうな食物の供物の
みを、それ等の神々に供へる事を命ぜられた-それは贖罪のためてはなく、亡霊の苦し
みを救ふ目的のためであつた。この場合は、祖先の霊魂の場合と同じく、読経は寧ろ亡衛
のために唱へられるので、亡霊に向つて唱へられるのではないと仏教は定めたのである
…。読者はロオマの旧教が、同じ条件をつけて、昔のヨオロッパの祖先礼拝を、今尚ほ実
際に存続さしてゐると云ふ事実を想ひ起すであらう。而して西欧諸国の何処でも、農夫達
は尚ほその死者を万霊節の夜に祭つてゐるのであるから、吾々は何処にもその礼拝が絶滅
して居るとは考へ得ないのである。
併し仏教は旧い奉祭を存続した以上の事を為したのである。仏教はその奉祭を更に立派
にものに仕上げた。その教の下に、新しい麗はしい形式の家庭的祭祀が生まれた。そして
近代日本に於ける祖先礼拝の、感動させるやうな詩情は、仏教の伝道者の教化に依つて得
られた事を知る事が出来る。日本の仏教に改宗した者達は、その死者を古い意味での神と

看做す事は止めたけれども、努めてその存在を信じ、尊敬と情愛とを以てそれに呼びかけ
ることはした。pretasの教義が昔の家庭的奉祭を怠る事を恐れる感情に、新しい力を与へ
たと云ふ事は注意に値する。一般に嫌はれたる亡霊は、神道で用ふる言葉の意味での『亜
神』ではないかも知れない、併しながら悪念のある餓鬼は悪神よりも確に恐れられたので
ある-と云ふのは仏教は餓鬼の加害力を凄じいものと定めたからであつた。各種の仏教
の葬式に於て、死者は実際に今でも餓鬼として呼びかけられてゐる-それは憐むべきも
のであるが、又恐るべきものである-それは人間の同情と救済とを大いに要するもので
あるが、併し又霊力に依つて供養者に恩返しをする事の出来るものなのである
仏教の教が特に魅力ある所以のものは、その簡単にして巧みな自然に就いての解釈であ
る。神道が嘗て説明せんとした事もなく、又説明し得なかつた無数の事柄を、仏教は微細
に而も一見矛盾のないやうに解釈したのである。その出生、生命、並びに死の神秘に関す
る幾多の説明は、直に純なる心の慰安となり、よく悪念に対する非難となるのであつた
それは、死者が幸福であるか不幸であるかは、生者が死者に対して注意するか、しないか
に直接由るのではなく、死者が現世に在る時の過去の行ひに由るのであると教へた。そり
は相次いでの再生に関する高い教義を教へんとはしなかつた-人々は到底それを理解す
る事は出来なかつた-只だそれは何人でも理解し得た輪〓の簡単な表象的な教義を教
んとしたのみである。死ぬと云ふ事は、自然に融け〓つて終ふ事ではなく、再び他に生を
まける事であつた。この新しい肉体の性質は、その新しい存在の諸条件と共に、現在の7
の身体に於けるその人の行ひや考への性質によるのである。あらゆる存在の状態や事情は
〓く過去の行為の結果なのである。或る男は今や富貴であり威勢をもつて居る。何故なら
ば前世に於てその男は寛容であり慈愛に富んでゐたからである。又或る男は病を獲、貧困
てある。何故ならば前世で、その男は肉慾に耽り、利己的であつたからてある。或る女は
その夫や子供等と共に幸福に暮らして居る。何故ならばその女は以前の生涯の時、愛ら1
い泉であり、貞淑な配偶者であつたからてある。又一人の女は難儀をし子供がない。何故
るらばその女は前世で嫉妬深い妻であり残酷な母であつたからである。『汝の敵を惜むこ
とは、愚な事であると共に誤れる事である。汝の敵は、彼が汝の友たらんと欲した前世に
がいて、汝が彼に加へた奸計のためにのみ、今や汝の敵たるのである。汝の敵が今汝に加
ふる危害に身を任せよ。それを汝の過去の過誤の償ひとして受けよ……。汝が要らんと然
した乙女を彼女の両親が拒んだとせよ、-他人に与へられたとせよ。併し、他生に於て

何時かは、彼女は約束に依つて汝のものたるべし、而して前に与へた〓約を破り得るので
ある……。汝の子供を失ふ事は苦しい事に相違ない。併しその喪失は前世に於て、汝が同
情を与ふべき場合に、それを拒んだ報いなのである……。災変に遇つて身を害ひ、汝は是
早以前の如く汝の生活の道を得られない。而もこの不幸たるや、正しく前世に於て、何時
か汝が思ふままに肉体上の危害を、人に加へたと云ふ事実によるのである。今や汝自身の
行ひの悪が汝に返つて来たのである。汝の罪を〓いよ、而してその業の現在の苦行に依つ
て償はれん事を祈れ』と仏教の僧は教へる……。かくの如くして人間のあらゆる悲哀は説
明され慰められた。生命は、無限の旅、-その路の後方は過去の闇夜に、その前方は未
来の神秘の中に延びてゐる-その無限の旅の一階段を示すものとしてのみ説明せられた、
-忘れられたる永劫から、今後に存在すべき永劫に迄延びてゐる路の一階段である。〓
して世界それ自身が一旅客の休み場、路傍の一旅宿として考へられるのみであつた
社疑ひもなく読者はどうして仏教がつぎつぎの再生の教を祖先礼拝の思想と妥協させ得たかを怪むであ
らう。人の死ぬのはその再生のためだとすれば、その再生する霊に供物を捧げ、祈祷をする必要が何処に
あらう。この疑問に対するに、死者は大抵直に再生するのではなく、先づ宙字と称する特殊の状態に入ス
ので、死者は百年間この無形の状態にとどまり、その後に再生するのであると彼等は教へを
る仏教の奉仕はそれ故百年に限られて居た。
衆生に涅槃を説く代りに、慈悲の得らるべき事と苦難の避けらるべき事、則ち無量光町
の王たる阿弥陀の楽土と、等活と称する八熱地獄、〓部陀といふ八寒地獄の事を人々に評
いたのである。未来の罰に就いての教へは実に恐ろしいものであつた、私は弱い優しい
経の人にはこの日本の、否、寧ろ支那の地獄に就いての話説を読む事をすすめたくない
併し地獄は極度な悪るいものに対してのみの罰であつて、罰は永遠のものでもなく、悪庁
そのものも終には救はれるのであつた……。天国は善行の報いであつた、如何にもこの報
いはいつまでも残の業の為めに、幾多のつぎつぎの再生を過ぎ通つて行く間延ばされて居
るかも知れない、が併し又一方に、その報いは唯一つの善行に依つて、現世に於て獲られ
るかも知れないのであつた。その他、この最高の報いの時期に達せざる以前にあつて、っ
ぎつぎの再生毎に、その生は聖い道に於ける絶えざる努力に依つてその前の生よりも幸
福にされ得たのである。この有為転変の世の中に於ける状態に関してさへ、徳行の諸?の
結果は決して無視すべからざるものであつた。今日の乞食も明日は大名の御殿に生まれ代
るかもしれず、盲目の按摩も、その次の世では、一国の大臣になるかも知れないのである

報償はいつも功績の量に比例してゐるのであつた。この下界に於て最高の徳を行ふのは困
難なことであつた、従つて大なる報いを獲る事は難いことであつた。併しあらゆる善行に
対して報償は確にあるものであり、而も功績を得られないといふ人は、一人もないのであ
つた。
神道の良心に関する教義-正邪に関する神与の観念-をさへ仏教は否定はしなかつ
た。併しこの良心は、各人の心の内に眠つて居る仏陀の本来の智慧と解せられた-その
智慧なるものは無智に依つて暗くされ、欲望のために塞がれ、業のために縛められてゐる
のであるが、いづれは十分に醒まされ、且つ光明を以て心を溢れさす運命になつて居るも
のである。
あらゆる生物に対し親切なるべき義務と、あらゆる受難に対して憫みをもつべき義務と
に就いての仏の教は、その新宗教が世間一般から受納される前に、すでに国民の慣習風俗
の上に強大な功果を及ぼしたと考へられる。早くすでに六七五年に、天武天皇に依つて
つの訓令が発布された、それは人民に、『牛や、馬や、犬や、猿や、家禽類の肉』を食よ
事を禁じ、又獲物を捕へるに係蹄を用ひ、陥穽を作る事を禁じたものであつた
種類の肉を禁じなかつたと云ふ事は、この天皇が両方の信仰を保持するに熱心であつた事
に依つて恐らく説明されよう、-蓋し絶対の禁制は神道の慣例を破るものであり、正に
神道の伝統と相容れないことであつたらう。併し魚は普通の人の食品の一つとして用ひら
れて居たとしても、この頃から国民の大部分は、その食事の古い習慣をやめて、仏教の数
に従ひ、肉食を断つたと云つて然るべきであらう……この教へはあらゆる生あるものはみ
な、一に帰すといふ教義にその基礎を置いて居るものであつた。仏教はあらゆるこの世の
ヲ象を業の教義に依つて説明した-その義を一般世人の了解に適応するやうに簡単にし
て。あらゆる種類の動物は-鳥類も、爬虫類も、哺乳類も、昆虫類も、魚類も-業の
それぞれ異つた結果を表はしてゐるに過ぎないとしたのである。これ等一々のものの魂魄
の生活は一つであり同じものであり、最下等の動物にも、神性のいくらかの片影は存在し
てゐたのである。蛙も蛇も、鳥も蝙蝠も、牛も馬も、-あらゆるものは何時か過去に於
ては人間の(恐らくは又超人間のであるかも知れぬが)形をもつ特権を有つてゐたのであ
つた。彼等の現在の状態は昔の過失の結果に過ぎなかつたのである。又如何なる人と雖も、
同様な過失のため、後には口のきけない禽獣の状態に堕とされるかもしれないのである-
爬虫類か、魚類か、鳥類か、又は荷を負ふ獣類として生まれかはるかも知れないのであ

る。如何なる動にでも、それを酷使した結果は、その酷使者が同じ獣類となつて再生する
ゃうになり、同じ残酷な扱ひを受けるやうになるかも知れない。〓かれたり刺されたり+
る牛や、鞭うたれたりする馬や、或は殺される鳥が、以前は近親の一人-祖先か、親か
兄弟か、姉妹か、或は子供でなかつたとは、誰れが断言出来たであらう……
註アストン氏『日本紀』の翻訳第二巻三二八頁参照
これ等の事は凡て言葉でのみ教へられたのではなかつた。神道は何等の芸術をも有つて
は居なかつたと云ふことを記憶して置かなければならない、則ちその拝殿は、閑寂であり
装飾一つないものであつた。然るに仏教はそれと一緒に彫刻とか絵画とか装飾とかのあら
ゆる芸術を齎した。黄金の中に微笑む菩薩の御像-仏教の極楽の保護者、又地獄の審判
者、女性の天使及び恐ろしい鬼神の姿等-は未だ何等の芸術と云ふものに馴れてゐなか
つた人々の想像を驚かせたに違ひなかつた。寺院に懸けられてある大きな絵画、その壁や
天井を彩る大壁画は、言葉でするよりも以上によく六生の教へや、未来の賞罰の教理を説
明した。並べて懸けられてある懸物の列の中には、霊魂の審判の王国への旅に於ける
な事件や、種々雑多な地獄のあらゆる恐ろしいことが描かれてあつた。或る者は、何年〓
何年もの間血の滴る手でもつて、死の泉の辺に生えて居るきざきざーた竹の笹葉をむし。
取つてゐなければならぬ不貞な妻の亡魂を描き、或る者は人を誹謗したものが、悪魔の卸
抜きで舌を抜かれて苦しんでゐる様を描き、又或る者は色慾の強い男が、火の女の抱擁か
ら逃れんとしてもがき、又は劔の山の急阪を、狂乱して攀ぢ登らうとしてゐる様を描いた
のであつた。その他、餓鬼の世界の種々な圏内の有様や、饑ゑたる亡魂の苦しみや、又肥
虫類や、獣類の形に生まれ代つたものの苦痛やが描かれてあつた。而もこの初期の絵画の
芸術は-その多くは今尚ほ保存されてゐるが-決して下級な芸術品ではなかつた。吾
吾は、閣魔(yama)則ち死者の審判者の顰蹙した真紅の顔-又はすべての人にその生涯
に於ける非行を反映さして見せると云ふ不思議な鏡の幻影-又は『見る目』といふ婦人
の容貌を表はして、審判席の前にゐる両面に顔のある首の恐ろしい想像、又悪事のあらゆ
る臭ひを嗅ぎ分けると云ふ『嗅ぐ鼻』と云ふ男の幻等が、さういふ事に馴れて居ない人の
想像に及ぽした効果の、どんなものであつたかは殆ど考へる事は出来ない……。親として
の情愛は、描かれて居た子供の亡霊の世界の説話に深く動かされたに違ひない-その小
さな亡霊は、鬼の監督の下に、霊の河の磧で苦難を甞めなけばならないのである……。〓

しこの描かれた恐怖と並んで、一方には慰安が描かれてあつた、-慈悲の白い女神なる
観音の美しい姿-幼児の亡霊の友である地蔵の慈愛深い微笑-光彩陸璃たる虹色の翼
を以て飛躍する天津乙女の魅力などがそれであつた。仏画を描いた人は、単純な想像力の
人に、天の宮殿を開き、又人の希望を、宝玉の樹の園を通つて、天福を享受した魂が、満
の花の内に再生し、天使達にかしづかれてゐる湖水の岸に迄も導いたのである
更に又、神道の宮のやうな簡素な建築物に馴れてゐた人々にとつて、仏教の僧に依つ〓
建てられたこの新しい寺院は、幾多の驚異であつたに相違ない。巨大な立像に守られた〓
大な支那式の門、銅や石の唐獅子や灯籠、振り棒で鳴らされる巨大な吊鐘、広い屋根の蛇
腹の下に群がる竜の形、仏壇の目を射るやうな光彩、読経や、焼香や、異様な支那楽と共
に行はれる儀式-それ等は歓喜と畏敬の念と共に、人々の好奇の念を煽らずには居な。
った。日本に在る初期の仏閣が、今尚ほ西欧人の眼にさへ、最も感銘を与へるものであス
と云ふのは注意に値する事である。大阪に在る四天王寺-それは一度ならず建て直され
たものであるがなほ原型を止めてゐる-は紀元六〇〇年来のものである、が、奈良の近
くに在る法隆寺と云ふ、更に著名な寺院は六〇七年頃の建立である。
勿論、有名な絵画や大きな彫像は寺院にだけしか見られなかつた。併し仏
最も辺鄙の場処に迄仏陀や菩薩の石像を置くに至つた。かくして始めて、今尚ほ路傍の到
る所から旅人に微笑みかけてゐる地蔵の像が出来た-又その三匹の表象的な猿と共に公
道の保護者である庚申の像-それから百姓の馬を保護する馬頭観音の像-その他粗栄
ではあるが印象深きその技術の中に、尚ほ印度の起原を想はせるやうな幾多の像が作ら〓
たのである。次第に墓場は夢みるやうな仏陀や菩薩-石の蓮華の上に坐し、眼を閉ぢて
崇高なる静寂の微笑をたたへてゐる聖なる死者の守護者-で以て群がるやうになつた。
都会は到る処、仏彫師が店を開き、各種の仏教宗派の礼拝する本尊の像を敬虔な家庭に備
へ附けた。そして位牌、則ち仏教に於ける死者の標なる板牌の製造人は、神棚の製造人等
と同じく、その数を増し繁昌したのである。
一方、人民は何れの信条によつてその祖先を礼拝するも自由であつた。そして若し大多
数の人が仏教祭典を選んだとすれば、その選択は仏教が祖先祭祀に与へた特殊な情味ある
魅力から来たものである。細目に至る事以外には、この両祭式は殆ど異つたものではなか
つた。而して古い孝順の思想と、新しい祖先礼拝と一緒になつた仏教の思想との間には、
何等の争ひもなかつたのである。仏教は、死者も読経に依つて救はれ幸福になり得るこ

して亡霊の慰めは多く食物供養に依つて獲られると教へた。亡霊には酒や肉を供へてはな
らなかつた、併し果物や、米や、菓子や、花や、香を以て、それを悦ばす事は至当な事で
あつた。その他、極めて粗末な供物でも、読経の力で、天の神酒や美味に変はらせられた。
併し特にこの新し祖先祭祀が、一般に気受けの良かつた所以のものは、それが古い祭祀
の式には見られなかつた多くの美しい、心に感銘を与へるやうな慣習を包有してゐたと云
ふ事実に依るのであつた。到る処で人々は直に死者の年毎の訪れのために百八つの迎へ火
を焚く事を知つた、-藁で作つた、若しくは野菜などから作つた小さな人形を、霊に供
こそれで牛や馬の役をさせる事を知つた-又先祖の霊魂が海を越え冥土へ還るための
亡霊の船(精霊船)を作る事を覚えた。それから又盆踊り、則ち死者の祭の踊りや、墓〓
白い提灯を懸け、家の門には彩つた提灯をつけ、訪れて来た死者の行き帰りを照らすとい
ふ習慣が作られた。
註一茄子に木の切れを四本つけて足の形としたものが通例牛を表はし、同様に胡瓜に足をつけたのが〓
とされる……。人は昔ギリシヤで犠牲をする場合、異様な動物の代用物の用ひられた事を思ひ起す則ナ
セベスに於けるアポロの礼拝の際、足や角をあらはすため、木切れをさした林檎が羊に代用されて供物・
された事がある。
註二舞踊そのもの-見て極めて不思議に又面白い-は仏教よりも遥かに古いものである。併して
はそれを今述べた三日間続く祭の一つの附属物とした。盆踊りを見た事のない人は日本の踊りの何を意味
するかといふ事を了解し得ない、日本の踊りは通例云ふ踊りとは全然異つたものである、-何とも名状
しがたい古風な変なしかも面白いものである。私は踊り通す農夫を終夜見て居た事が幾度もある。断わつ
て置くが日本の踊り子は踊りはしない、只だ身体の姿勢をかへるのみである。併し百姓は踊るのである。
併し仏教の国民に対する最大の価値は恐らくその教育にあつた。由来神官は教育者では
なかつた。古い時代にあつては、彼等は多く貴族、則ち氏族の宗教上の代表者であつた
故に平民を教育するなどと云ふ観念は彼等には起りもしなかつたのである。然るに仏教は
万人に対して教育の利福を与へた-ただに宗教上の教育のみならず、支那の芸術や学即
についての教育を与へた。寺院はやがて普通の学校となり、若しくは学校が寺院に附属し
て出来た、而してそれぞれ管内の寺で村の子供達は、ほんの名計りの費用で、仏教の教義
漢学の知識、手習ひ、絵画、その他いろいろな事を教へられた。次第に次第に殆ど全国民
の教育が仏教の僧侶の支配の下に置かれるやうになつた、そしてその道徳上の効果は立派
なものであつたのである。武人階級にとつては、素より別に特殊の教育法が存してゐたの
てあるが、併しさむらいの学者は、有名な仏教の僧侶の下にあつてその知識を完うする重

を力めた。又皇室そのものが僧侶の侍講を聘用した。通常の人民にとつては、到る処で仏
教の僧が学校の先生であつた、そしてその宗教上の役目のためからと共に、教師として。
その職業のために、仏僧はさむらいと同格に置かれたのであつた。日本人の性格に、その
最も良い処として残つてゐるものの多くは-その人を惹きつける優雅な点は-仏教へ
訓練の下に発達したものと考へられる
仏教の僧がその教師としての公務に加へて、公共の戸籍吏たる公務を行つたといふ事は
極めて自然な事であつた。所領奉還の時迄、仏教の僧は国中に宗教上並びに公務上の役人
をして居た。彼等は村の記録簿を預り、必要に応じて、出生、死亡、或は系図の証明書を
交付したのであつた。
仏教が日本に及ぼした夥しい文化の影響について少しでも正当な考を獲んとする人には
恐らく非常に沢山の書冊を要するであらう。唯一般的な事実を述べてその影響の諸?の結
果を〓説するのさへ、殆ど不可能である-何故とならば〓要の叙述では、為し遂げらぬ
たその仕事の全体の真相を明らかにし得ないからである。道徳上の力として仏教は、その
力に依り、もつと古い宗教が作り得たよりも、遥かに大きな希望と恐怖とを起さして、権
威にさらに力を与へ、服従といふ事に人を教養したのである。教師として、それは倫理上
に於いても審美上に於いても、日本人の最高のものから最下賤のもの迄を教育した。日六
に於いて芸術といふ名の下に類別されるものは凡て、仏教に依つて移植されたか又は発達
せしめられたものであつた、又神道の祝詞や古詩の断片を除けば、真に文学上の価値を有
つて居る殆どあらゆる日本文学についても、同様な事が云はれ得るのである。仏教は戯曲
詩的作物及び小説、歴史、哲学の高尚なるものを伝へた。日本人の生活の精華はすべて、
仏教の伝へたもので、少くともその〓楽慰安の大部分はさうであつた。今日でさへ、この
国で出来たものの内、興味ある物、又は美しい物にして、幾分でも仏教の力に負ふ処のな
いものは殆どないのである。恐らくこの恩恵の過程を述べる最善にして又最短の方法は、
仏教は支那文化を全部日本に齎した、そして後にそれを日本人の要求に合ふやうに気長に
作り変へて行つたのであると言へば足りるであらう。この古い文化は日本の社会構造の上
に只だ重ねられた計りでなく、うまくそれに適合せしめられ、完全にそれに結合させられ
たので、その継ぎ目、接合線は、殆ど全く跡形を失つたのである」

大乗仏教

この場合哲学的仏教の、〓略の考察が必要になる、-二つの理由があつて。第一の〓
由は、本問題に就いての誤解或は無知識が、日本の知識階級は無神論者であるといふ批講
を可能ならしめたからである。第二の理由は、日本の平民-即ち国民の大部分を占めて
居る人々-が熄滅としての涅槃(事実上から云へば、此の言葉の意味すらも、人民の大
多数には、知られて居ないのであるが)の教義を信仰し、此の教義が、それから生ずると
仮定された闘争に対する無能力を作り出すが故に、人々は諦めて地上から全然消滅する事
を甘んじて居ると、考へて居る人々が多少あるからである。苟も聡明なる人が少しでも旨
而面目に考へたならば、そんな信仰が、野蛮人でも文明人でもの宗教となり得たとは考へら
れない筈である。然るに、多くの西欧人は、何等深く考へる所なくして、かくの如き不可
能の記事を常に容認して居る、故に若し私が、真に大乗仏教の教義が、如何に普通の〓
へとかけ離れて居るかを、読者に示す事が出来たならば、それは真理と常識のために、多
少の仕事をつくした事になるであらうと思ふ。なほこの問題に関して述べた以上の理由
外に、此処に第三のしかも特殊なる一つの理由がある、-即ちこの問題が近世哲学の研
究者にとつて、異常の興味を与へるものの一つであるといふ事である。
話しを進めるに先き立つて、私は諸君に次の事を御注意したい、則ち重要なる多くの経
典は欧洲の各国の国語に翻訳され、且つ未だ翻訳の出来て居ない経典の原文の大部分も、
既に編輯され公刊されて居るのであるから、仏教の形而上学は、日本に於けると同じ様に、
他の如何なる国々に於ても、研究し得ると云ふ事である。日本仏教の原文は、漢文である、
それ故、ただ漢学の出来る人のみが、本問題の細微な特殊の方面に就いて光明を投じ得る
のである。七千巻から成る漢文の仏教の経典は、これを読破することすら、一般には不可
能の業と考へられるのである-よしそれは、日本に於て、〓に成されて居たのではある
が。その上、註釈書や、各宗派のいろいろの解釈書や、後代になつて加はつた教義やらで
経典は混乱に混乱を重ねる有様となつた。日本仏教の複雑は、それこそ測り知られないほ
どで、それを解いて見ようとするものも、大抵は忽ちにその余りに細かしい迷路の中に陥
つて、どうも恁うもならなくなつてしまふ。斯様な事は、今の私の目的として居る処と仙

等の関係もない事である。私は日本の仏教が、他の仏教とどれほど異つて居るかに就いて
何も言ふま、又宗派の区別に関しても全然触れないつもりである。私は高遠な教義に〓
する普通の事実-かかる事実の中から、其の教義の説明に役立つもののみを選択して説
くつもりである。なほ〓槃の問題は重要であるに拘らず、此処では論じない-此の問題
は既に『仏門拾遺』"gleaniugs in bddha-field"の中で、出来るだけ詳しく論じて置いた
から-ただ、私は仏教の形而上学的結論と、現代の西洋思想の結論との、或る程度の類
似点を論述することにとどめる。
英文で書かれた仏教に関する単行本で、今日迄の所一番良いと云はれて居る書物の中で、
故ヘンリイ・クラアク・ヲレン氏は云つてゐる、『私が仏教研究中に経験せる興味の大部
分は、私が智的風物の不思議とでも呼ぶ所のものから生じたものである。すべての思想
議論の様式、仮定されたのみで論議されて居ない推定等は、常に不思議に感ぜられ、日頃
私が馴れてゐたものとは、全くかけ離れてゐたものであるが故に、私は恰も神仙の国を歩
いてゐる様に感じた。東洋の思想と観念とがもつ多分の魅力は、私の考へでは、それが而
洋思想の範疇に合致する処の少いが為めである、と思はれる』……。仏教哲学の異常な騒
味は、これ以上に言ひ現はすことはできない。真にそれは、『智的風物の不思議』であり
内外と上下との顛倒した世界の不思議さであつて、それが従来主として西洋の思想家達の
主なる興味を惹いたのである。併し結局、仏教〓念の中には、西洋の範疇に合致し、或は
殆ど合致せしめ得る〓念の一団がある。蓋し大乗仏教は、一元論の一種である。そして乙
れは、ドイツ及びイギリスの一元論者の科学的学説と一致する教義を、驚くべきほどに含
んでゐるのである。私の考へる所では、此の問題の最も奇妙な部分並びにその特に興味の
深い点は、此等の一致点に依つて表明されて居る、-特に仏教の結論は、何等科学上の
知識の助けを受けることなく、又西洋の思想の知らない精神上の径路に導かれて、到達し
たといふ事実を眼中に置いて見る場合さう考へられる。私は敢て自ら、ハアバアト・スペ
ンサアの学徒と呼んでゐるが、抑も私が仏法の哲学に、ロマンテイツク以上の興味を認め
るやうになつた原因は、私が綜合哲学に親しんでゐたが為めである。抑も仏教も亦進化の
説である、よし吾が科学的進化(同質より異質への進歩の法則)の中心となる大思想は、
現世の生命に関する仏教の教理の内にうまく一致するやうに含まれては居ないとしても。
吾々が考へるやうな進化の道程は、ハツクスレイ教授に従へば、『臼砲から、打ち上げら
れた弾丸の弾道の様な線を描くに相違ない、そして弾道の下り半分も、上り半分と同じも
のであるやうに、進化の道程に於てもその通りである。』と。弾道の最高点は、スペンサ

ア氏が呼ぶ所の平衡点を示す-それは発展の最高点で、衰退の時期のすぐ前にある、併
し仏教の進化に於ては、此の最高点が涅槃なるものの内に没してゐるのである。私が最〓
旨く仏法の地位を説明するには、諸君が弾道線を逆に考へる事を望めば宜いと思ふ、-
則ち無窮から降下し来たつて、地上に触れ、更に再び神秘の中へと上昇する線である……
とは云へ、或る種の仏教思想は、吾々の時代の進化思想と、驚く可き類似点を持つてゐる
のである、而して西洋思想より最も隔絶せる仏法思想さへも、近代科学から借用した例語
と言葉との助けによつて、最も要領良く説明される
註『翻訳仏教』ヘンリイ・クラアク・ヲレン著(一八九六年マサチュウセツツ州、ケムブリツヂ)ハ
バアト大学刊行
思ふに既に述べた理由に因り、涅槃の教義を除いて-大乗仏教の最も著しい教は、次
の如きものであると考へられる
実在は一つ在るのみ。
自覚は真実の我に非らず。
物質とは、行為と思想との力に依りて、創造せられたる現象の総和なり。
一切の客観的並びに主観的存在は、業報に依りて生ずるものなり、-現在は過去の創
造物にして、現在と過去との行為が、相結んで将来の境地を決定する……(換言すれば、
物質の世界と〔有限の〕精神の世界とは、其の進化の道程に於て、厳然たる道徳的秩序を
顕現する)
さて此処で、これ等教義の、近世思想との関係に就いて、これを簡単に考察することは、
無盆な事ではあるまい、-先づ最初の一元論から始めよう、-
形若しくは名を有つて居る一切のものは、-仏、神、人間、及びあらゆる創造物-
太陽、世界、月、一切の目に映ずる宇宙-これ等は皆、変転常なき現象である……。:
アバアト・スペンサアの説に従つて、実体の証左となるものは、其の永久性にあるとすれ
ば、何人もかくの如き考へ方を怪しむものはなからう、此の考へ方は、スペンサアの『第
一原理』の結論たる其の最後の章の叙述と殆ど同じである-
『主観と客観の関係が、吾人に、精神と物質との相対的〓念を、必要と感ぜしむるとは

云へ、前者(精神)も後者(物質)も共に、両者の土台に横たはる未知の実体の標章に過
ぎない』-一八九四年版
仏教に於て、唯一の実体は、絶対と云ふものである、-仏陀を、自由自在無限の存在
として。物質に関しても、将又精神に関しても、仏陀以外に真の存在はない、真の個性〓
なければ、真の人格性もないのである、『我』と云ふも『非我』と云ふも、本質的には決
して異つたものではない。吾々は、つぎの如き、スペンサア氏の立脚地を想起する、即ち
『吾人に示されてある実体が、主観的なりと云ひ、或は客観的なりと云ふも、それは決し
て異るものでなく、二者同一である』と。スペンサア氏はなほ続けて云ふ、『主観と客観
とは、必然的に意識に依つて左様考へられるものではあるが、実際に存在するものとして
は、両者の共働に依つて生ずる意識の中にはあり得ない、主観と客観との対立は、意識が
存在する限り、決して存在を超越し得るものではなく、主観と客観とが結合されて居る其
の究極の実体に就いての知識を不可能ならしめる』と……。私は、大乗仏教の大家と雖も、
スペンサア氏の此の実体変形説の教義を論難する人はなからうと思ふ。仏教も、現象とし
ての現象の現実性を、否定するものではないが、現象の恒久性及び現象が吾々の不完全な
る感覚に訴へる仮象の真実性に対してはこれを否定する。変転常なく、見えるが儘でない
のであるから、現象は幻影の性質を備へて居るものとして考へらる可きである-唯一
恒久性ある実体の不恒久的なる表象として考へらる可きである。併し仏教の立脚地は、不
可知論ではない、それは驚くべき程それとは異つて居るものである、今茲にそれを攷へ↓
見ようと思ふ。スペンサア氏は、意識が存在する限り、吾人は実体を知ることが能きな!
と云ふ-其の所以は、意識の在る限り、吾人は客観と主観との対立を超えることは能さ
ない、而して意識を可能ならしむるものは、実に此の対立であるからである。これに応
て『如何にもそれは、その通りだ、吾々は、意識が存在する限り、唯一の実体を知ること
は能きない。併し、意識を破棄せよ。然らば、実体を認識するに至らむ。精神の幻影を棄
てよ、然らば光明は射し来たらむ』と仏教の哲学者は言ふであらう。此の意識の破棄が
涅槃の意である、-それは吾々か自我と呼ぶ所のものを、尽?く亡くしてしまふことで
ある。自我は盲目である、自我を亡ぼせ、然らば、実体は無限の幻像、無限の平和として
示現せられるであらう。
さて、仏法の哲学に従ふと、現象としての目に見える宇宙とは何であるか、又知覚する

所の意識の本性は何であるかを、尋ねて見なければならない。変転無常とは云へ、現象は
意識の上に印象を与へる、又意識それ自身も、たとへ変転無常とは言へ、存在をもつて星
り、其の知覚たるや、よし欺くものであるとしても、現実の関係に就いての知覚である
茲に仏教は、宇宙も意識も二つながらに、業-遠い遠い過去からの行為と考へとに依っ
て、形成せられた状態の、計量すべからざる複合物-の単なる綜合に過ぎないと答へる
一切の本質、一切の有限の精神(絶対の精神から区別されたる)は行為と考へとの産物で
ある、行為と考へとに依つて、身体の微分子は構成せられる、而して其の微分子の親知力
-科学者に云はせれば、其の微分子の両極性-は無数の死滅せる生命の内に、その形
を成したる諸?の傾向を示してゐる。私は、その問題を取扱つた近代日本の論文を、次〓
掲げる事にしよう。-
『あらゆる有情物の集合的動作は、山や河や国等の種別を生ぜしめた。これ等は、集合
的動作に依つて生じたのであるが故に、綜合成果と呼ばれる。吾人の現在の生は、過去の
行為の反映である。人々は、これ等の反映を、真の自我と観じてゐる。彼等の眼、鼻、耳、
舌、身体は-彼等の庭園、樹木、田畠、住居、下僕、下婢と共に-自己の所有物であ
ると、人々は思つてゐる、然るに、事実それ等は、無数の行為に依り、無限に産出されか
成果に過ぎぬ。万物を、其の究極の過去にさかのぼつて、尋ねて見るとも、吾々は其の始
源を見極めることはできない、故に死と生とに始めなしと云はれてゐる。また、未来の〓
極の涯を尋ねるとも、吾人は遂に其の終端を見る事はできない」
註黒田著『マハアヤアナ哲学〓論』
万物は業に依つて造られると云ふこの教へは-美なるものはすべて功績高き行為若し
くは考への結果を表現し、悪なるものはすべて悪行若しくは悪念の結果を表現する-五
大宗派の承認する所となつた、されば吾々は日本仏教の主要なる教義として、これを容認
して然るべきであらう……。即ち宇宙は業の集合体である、人の心も業の集合体である、
その始めは不可知であり、終りも亦想像することの出来ないものである。茲に〓槃を其の
帰着点とする精神上の進化があるのであるが、吾々は実質と精神との形成が永久に休止す
るといふ、普遍の安息の究極状態に関しては、何等明言する処を聞かない……。而して綜
合哲学(スペンサアの)は、現象の進化に関して、これと極めて類似した立脚地を採つて
居る、即ち進化には始まりなく、認知し得べき終極もない。私は『北米評論』に現はれた

る一批評家に与へたスペンサア氏の答弁を引用する。-
『論者の言ふ、かの「地上に於ける有機的生活の絶対始源」を、余は「容認せざるを得
ず」との意見を、余は明確に否認す。宇宙の進化を肯定する事は、それ自体が、万物の紹
対始源を否定する事となるのである。進化と云ふ言葉を以て解説すれば、万物は、先在よ
る物の上に、不知不識の間に一段一段と積み重ねられた修正の結果であると考へられる、
此の考へ方は、有機的生活のつぎつぎの発展に関して、と同様に又仮設の「有機的生活の
始源」に関しても、全く適用されるものである……。有機的物質は、一朝にして造り出さ
れたものではなくて、段階を経て造られたものであるといふ。此の信念は、化学者の経験
に依つて、十分保証されてゐる」
註『生物学原理』第一巻第四八二頁
勿論、万物の始源と其の終極とに関して、仏法が沈黙を守つて居るのは、単に現象の出
現に限るのであつて、現象の一群の特殊な存在に就いてではないと云ふことは、了解して
置かなければならない。始源と終極との断言出来ないといふ事はこれ即ち永遠の変遷に過
ぎない。その起原である古い印度哲学と同様、仏教は宇宙の交互的顕出と消滅とを教へる
無量の或る時期に於て『十万億土』の全宇宙が消えてしまふ-焼失するか或はその他の
方法で破壊されて-しかしそれは又再び造りかへされるのである。これ等の時期を称・
て『世界の周紀』といふ、そして各周紀は四つの『無辺』に分割されてゐる-併し、〓
処では此の教義の詳細に就いて述べる必要はない。実際興味のある処は、進化の律動を説
くその根本的思想にあるのみである。宇宙の交互的分壊や囘復は、また科学的〓念であり。
進化論の信念から言つても、一般的に容認されたるその信条であるといふことは、読者該
君に注意する迄もないことである。併しながら私は別の理由から、この問題に関するハア
バアト・スペンサアの意見を表明する章句を、次に引用して見よう。-
『吾人が既に説いた如く、明らかに索引と反撥との遍在する共力が、宇宙を一貫して
一切の微細な変化に律動を必要ならしめ、また変化の総和に対しても律動を必要ならしめ
る-かくの如き共力は、或る場合には索引力を優勢ならしめ、宇宙の集中を行ふ涯りな
き一時期を現出し、さらに反撥力を優勢ならしめ、拡散を行ふ涯りなき一時期を現出すス
-かくて交互に進化と離散との時代を現出する。かくの如くして、現代に於て行はれっ

つあるが如き、継続的進化の行はれたる過去の時代に関する〓念が吾々に暗示されるので
ある、而してまた別の同様な進化が行はれる未来の時代も亦暗示される-原理に於ては
常に同一なるも、具像的の結果に於ては同一ならざるものである』-『第一原理』一八
三項
註此の項は第四版から引用したもので、一九〇〇年の決定版には著しく改訂されてある。
更に、スペンサア氏は、此の仮定に包含せられて居る論理的結果を指示してゐる。-
『吾々は当然さう考へるべき理由があるが、若し万物の総和には、進化と離散の交互作
用があるとすれば-又吾々は力の永続性からさう推論せざるを得ないが、若し此の広大
なる律動の何れかの一端への到達が、其の反対の運動の発生するやうな状態を惹き起すと
すれば-さらに、若し吾々が涯りなき過去を掩ひし進化の〓念、及び涯りなき未来を掩
ふであらう進化を、容認するの已むなきに至るとすれば-吾々は、も早や明確な始点と
終点とを持つやうな、或は孤立したやうな、認知し得る天地の創造を考へることはできな
い。さういふ天地は、現在の前後のすべての存在に帰一せしめられるやうになる、
宇宙が示す力は、考への上に何等の制限をも認めない、時間と空間との同じ範疇に入つィ
しまふ』-『第一原理』第一九〇項
註一九〇〇年の決定版中には簡約され多少修正もされた、併し今の場合に於ける説明の便宜上、第四〓
を選んだのである。
以上述べた仏教の立脚地は、人間の意識は転変無常の集合体に過ぎず-永久的実体て
はない、と云ふ意味を十分に示してゐる。恒久の自我と云ふものはない、あらゆる生に通
じて唯一つの永遠の原理があるのみである-最高の仏陀がそれである。近代の日本人は、
此の絶対を、『精神の心髄』と呼んでゐる。近代の日本人なる一人は曰く、『火は薪に依
つて燃え、薪の失せると共に消える。併し火の本質は破壊される事はない……宇宙に在ス
万物は、すべて精神である』と。恁ういふと、この立場は非科学的である、併しかくして
到達した結論に関しては、ワラス氏が殆ど同様のことを言つてゐるし、又『心より成る宝
宙』の教義を説く近代の教師も二三に留まらない事を記憶しなければならない。此の仮記
は『考へ得べからざる』ものである。併し最も真面目な思想家は、一切の現象と不可知の
ものとの関係は、波と海との関係に似て居ると云つた仏教の断定に同意するであらう。

ペンサア氏は云ふ、『あらゆる感情とか思想とか云ふものは、ほんの転変無常のものであ
るから、かかる感情や思想で出来上つてゐる全生活も亦転変無常なものに過ぎない-否
縦令幾分は転変無常でないとしても、生命が過ぎ通つて行くその周囲の物象は、晩かれ旦
かれそれぞれの特性を失ひ行くものであるから-恒久なるものと云ふのは、変はり行く
形相の一切の底にかくれて居る未知の実体を指すのであると云ふことが判かる』と。此虐
に於て、イギリスの哲学者と仏教哲学者とは相一致したわけであるが、其の後忽ちに両者
は相分離する。何となれば、仏教はノステイシズム(神秘可知哲学)であつて、不可知論
ではなく、不可知のものを知らんことを揚言するものであるからである。スペンサア学派
の思想家は、唯一の実体の性質に関して仮定を与へることをなし得ないし、且つ又其の表
現の理由に関しても仮定を与へないのである。スペンサア学派のものは、力、物質、及バ
運動の性質を理解する事に関し、知的無能力者であると云ふことを自ら白状しなければな
らない。その学徒は、一切〓知の要素は、一個の本源なる無差別的本体から展開されたも
のであると云ふ仮説-この仮説に就いては化学が有力に証拠立ててゐる-を容認する
のは理の当然であると考へる。併し彼は其の本源の実体を精神の実体とは決して同一視し
ないし、又精神の実体を完成するに与つて力ある諸?の力の性質を、説明
い。吾々が物質を解するに、単にこれを諸?の力の集合であるとか、又は微分子は力の中
心か、然らざれば力の結節であると解することを、スペンサア氏は既に承認して居るでま
らうが、氏はまだ微分子が力の中心であつて、他の何物でもないと宣言した事はない……
併しドイツ系統の進化論者は、仏教の立場に甚だ近い立場を取つて居るのを見る-則ち
それは宇宙の感性、もつと厳密に云へば、宇宙のやがて発展すべき潜力的感性を意味すス
ものである。ヘツケル其の他のドイツの一元論者は、すべての実体に対してかくの如き立
場をとつて居る。故に彼等は不可知論者ではなくて、ノステイックである。そしてそのノ
ステイツクの哲学たるや、大乗仏教に非常に近いものである。
仏教の説に従へば、仏陀の外に実在するものなく、其の他の一切のものは業に過ぎぬ
一個の生命、一個の自我あるのみ、人間の個性、及び人格と云ふも、畢竟自我の現象に仙
ならぬ。物質は業であり、精神も業である-即ち吾人の知る精神はさうである。業報は
その像を現はす時、集合の一体と質とを表はし、その無形のものを現はす時、性格と傾向
とを表はす。本源的実体-一元論者の『分かつ可からざる原質』に相応するもの-2
五個の要素から成り立つて居り、此の要素は、神秘的に五体の仏陀に合致せしめられ、〓
れが又一体の仏陀の五相に過ぎないとされて居る。此の本源の実体に関する思想は、当然

宇宙を感性あるものと見る思想とに関係を持つて居る。物質は又生きてゐるのである。
さてドイツの一元論者にとつても亦、物質は生命あるものである。ヘツケルは、『微八
子と雖も感覚と意志の元始的なる形をもつて居る-更に適切に云へば、感情(aesthesis.
と向き方tropesis)とをもつて居るものである-即ち、尤も単純なる類の遍在的心霊を
もつて居る。』と云ふ確信の基礎を、細胞生理学の現象の上に置く事を主張して居る。次
にヘッケルの『宇宙の謎』から、ヴオグトや其他の人々に依つて主張される、実体の一元
論的思想を語る章句を引用して掲げて見よう-
"実体に関する二個の基本的形態、秤量し得べき物質とエエテルとは、決して死滅する
ものでなく、単に外来的力に依つてのみ動かされて居る、併しそれ等は(当然、最小の程
度に於てではあるが)感覚と意志とを附与されて居るのである、それ等は凝縮の傾向と
緊張の嫌悪を体験する、即ちそれ等は前者を求め、後者と抗争する』
シユナイダアの説いた極めて有り得べき仮定説-感性は一種の結合の形成と共に始ま
るといふ事-感情は、恰も有機体が無機体から展開し来る如くに、無感情より展開し来
るものであるといふ説は、昔の錬金術師の夢想の復活よりもたよりないものであ
斯様な一元的思想は、物質を観ずるに、完うされたる業とする仏教の教と、驚くばかりた
一するのである、それ故にこれ等両思想は、此処に並べて論ずる価値があるのである。書
教の考察に依れば、一切の物質は有情である-有情即ち感性は事情に従つて変化する
日本の仏教の経文は『岩や石たりとも、仏陀を礼拝することが能きる』と教へる。(ツ・
ル教授一派のドイツの一元論者に依れば、微分子の特性と親和性とは、感情と向き方、〓
b『尤も単純なる心霊』を表はして居る、仏教に於ては、これ等の性質は業から生まれる
-即ち、これ等の性質は先在の状態から生まれた傾向を表はすものである此の両
定設は非常に近似してゐるやうに見える。併し西欧の一元論と東洋の一元論との間には
非常に重大なる相遅がある。西欧の一元論は、微分子の性質を、単に遺伝の一種-無庁
の過去を通じて作用し来たつた偶然の影響の下に、発展したる固執力強き傾向-に帰し
し居る。東洋の一元論は、微分子の歴史を以て、純なる道徳であると云つて居る!仏教に
徒へば、一切の物質は、其の固有の傾向に依り、苦楽、善悪の方に向ふ有情の綜合である
「マハアヤアナ哲学〓論』の著者は恁う云つて居る。『不純の行為は不純の土地を生み、
純なる行動は、宇宙の各方面に、純なる土地をもたらす』と。換言すれば、道徳的行為の
力に俵つて、完成されたる物質は、遂に幸多き世界を建設するに至る、これと反対に、〓

徳なる行為の力によつて、形成されたる物質は、不幸な世界を作るに至るといふのである
一切の実体は、一切の精神の如く、その業を有つて居る。遊星は、人間の如く、行為と思
考との創造力に依りて形成せられる。而して各微分子は、その内に潜んで居る道徳的若し
くは不道徳的なる傾向に従ひ、晩かれ早かれ、其の行く可き場所に落ち着くのである。人
間の行為思想の善悪は、ただにその来世に影響を及ぼすのみならず、無数の幾万年の周紀
の後、再び住まなければならない世界の性質に何等かの影響を与へるのである。勿論、
の壮大な思想は現代の進化哲学中には、何等これに近似するものを有つては居ない。フ
ペンサア氏の立場は、よく知られてゐるが、私は仏教思想と科学思想との対照を強く示す
ために、氏の言葉を引用しなければならない、-
「……吾人は、星雲の凝縮に関しての倫理も、恒星の運動に関しての倫理も、将又遊星
の進化に関しての倫理も有つては居ない、かくの如き考へは無機体とは無関係のものであ
る。又有機体を見ても、倫理が植物の生命の現象に何等関係のある事を認めない、よし生
存競争に於ける成功と失敗とに至らしめるものとして、それを植物の優秀なるものと劣笠
なるものとに帰しはするが、五々は決してそれを、賞讃又は非難の点とは
問題が生ずるのは、動物界に有情が発生してのことである』-『倫理の原則』第二巻三
二六項
これに反して、仏教は、スペンサア氏の言葉を藉りて言へば、『星雲凝縮の倫理』とで
も言つて然るべきものを、事実教へる、-よし仏教の星学では、『星雲凝縮』と云ふま
葉の科学的意味は少しも知らなかつたのでありはするが。勿論、この仮説は、証明反証共
に遠く人智の及ばざるものである。併しそれは宇宙の純なる道徳的秩序を闡明し、人間行
為の瑣事にも、殆ど無限の結果を関係させてゐるのが面白い。古代の仏教の形而上学者が、
近代化学の真実を知つてゐたならば、彼等は驚く程巧みに、その教義を化学的事実の解署
説明に応用したことであつたらうと思ふ。彼等は、微分子の活動の説明にも、分子の親和
の説明にも、エエテル震動の説明にも、業の理論をひつさげて、頗る面白く恐怖すべきほ
どに、これを用ひたであらう……。此処に暗示の世界が在る-最も不思議な暗示の-
蓋し何人でも新宗教を作る試験を、敢てなし得る人若しくは為さんと欲する人、或は少く
とも無機の世界に於ける道徳的秩序といふ考へに基礎を置いた錬金術の広大なる新体系を
作らんとする人に取つては、これは暗示の世界である。

併し大乗仏教に於ける業の形而上学は、微分子の結合に関する錬金術上の仮説よりも、
更に理解し難いものを多くもつて居る。通俗仏教の教へるところに依れば、再生の教義は
至極簡単である-輪〓と同意味で、人は過去に於て、既に何百万遍も生まれて居たので
あり、同様に未来にも亦、多分何百万遍となく再生するであらう-再生する度毎の境遇
は一つに過去の行ひにかかつてゐる。一般人の考へる所に依れば、此の世に肉体を消して、
尚ほ若干期間滞留して後、霊魂は次に生まれる場所へと導かれる。人々は勿論心霊を信じ
て居るのである。併し大乗仏教の教義は、輪廻を否定したり、心霊の存在を否定したり
人格を否定したりして、如上の事は全然その内に見当たらない。再生すべき自我もなけり
ば、輪〓もない-併しそれにも拘らず再生はある!苦しみ若しくは喜ぶ真の『我』はな
い-しかも受けるべき新たなる苦しみ、得らるべき新たなる幸福はある!吾々が自我
-個性的意識-と呼ぶものは、肉体の死と共に分散する、併し生存中に形成せられた当
は、新しい肉体及び新しい意識の組織完成を行ふ。若し生存中に苦しいことがあれば、フ
れは前世の行ひの報いである-併し前世の行為の実行者は、現世の我と同一人ではない
然らば、他人の過失に対して現世の我は責任をもつのであるか?
仏教の形而上学者は、恁う答へる『そは君の疑問の形式が間違つて居る、君は僧性の土
在を仮定して居るが-個性といふものはないからである。君の問ふやうな「現世の我
と云ふ如きそんな個人は、実は無いのである。苦難と云ふは、事実先在した或る一個のぢ
在か、または多くの存在が犯した罪の結果である、併し個性が無いのであるから、他人で
行為に対する責任はない筈である。転変無常の生の連〓の中で、嘗て昔の「我」と現在の
「我」とは、行為と思想とによつて創造されたる一時的の総和を表はして居るのである
そして苦痛は質から生まれ出る事情としての総体に属するものである』と。此の答へは、
全く漠然としてゐる、真の理論を知らうと思へば、非常に困難な事であるが、個性の〓金
を排除しなければならない。連続的に生まれ代るといふことは、普通の意味に於ける輪独
を怠味しない、それは只だ業の自己伝播を意味するのみである。若し生物学上の言葉を猫
りるならば-霊の発芽とでも云ふものに依つて、或る状態の恒久に積み重ねられると子
ふことを意味する。仏教的の説明は、併しこれを譬へれば、一個のラムブの心から他のラ
ムプの心へと燃え移つて行く炎の如きものである。かくして一百のラムプは一個の炎に
つて点される。そしてその間の炎はみな異つて居る、しかも其の本源は同一の炎である
各転変無常の生命の空虚な炎の中に、只だ一つの実体の一部分のみが包蔵されてゐるので

ある.併しそれは輪〓する心霊ではない。生誕の度毎に顔を出すのは、業-性質或は境
遇-のみである。
如何にしてかかる教義が、少しでも道徳上の影響を起こし得るかとは、当然発生すべき
疑問である。未来が私の業に依つて、形成せられるとして、その未来は決して私の現在の
自我とは同一ではないとすれば-また未来の意識が私の業に依つて展開されるとして
その未来が本質的に私とは別の意識であるとすれば、-どうして私は未だ生まれざる人
間の苦痛を、考慮するやうに感じられ得よう。仏教徒は答へて言ふ。『君の疑問は今度〓
亦間違つてゐる。此の教義を理解しようといふには、君は個性の〓念を〓却しなければな
らぬ。そして個人を考へずに、感情と意識とのつぎつぎの各状態は、互に其の次の発芽の
原となり、生存の〓は相互に結合されて居る-其状態を考へなければならぬ。』と……
私は今一つの説明を試みる事にする。一切の人間は、吾々が此の言葉を解する限りでは。
絶えず変化して行くものである。肉体の各構造は、不断の消耗と修理とを受けて居る。〓
つて此の瞬間の君の身体は、其の本質に於て、君の十年以前の身体とは同一でない。生理
上から云つて、君は同一人ではないのである、それにも拘らず、君は同じ苦痛を嘗め、同
じ快楽を味ひ、同一条件に依つて、其の力を制限されて居るのである。君の■
なる分解、如何なる改造が、其の組織の上に行はれようとも、君は十年以前の特性と等し
き、肉体上並びに精神上の特性を持つてゐるのである。君の脳細胞は、分解されたり、一
造されたりして居る、が、しかも尚ほ君は同一情緒を経験し、同一の追憶を囘想し、同
の思想を愚惟する。到る処で、新鮮な実体は、換へられたもとの実体の性質と傾向とをと
つて居る。かくの如き事情の固執してつき纏つて行くのが業に似てゐる。総体は変化して
も、傾向の伝達は残つて居る。-
以上仏教の形而上学の奇異なる世界を除いた、二三の瞥見はこれだけで十分であらう
大乗仏教(多く論議されて、しかも理解さるれこと少き涅槃の教義はこの内にある)が地
象的思念を作る事の殆ど出来ない幾百万人の宗教-宗教的進化の比較的初期に於ける民
衆の宗教となり得なかつた事を、聡明なる諸君に納得せしめるに十分であつたらうと私は
信じる。それは全然人々に理解されなかつた。又今日でも尚ほ人々に、教へられては居な
い。それは形而上学者の宗教であり、学者の宗教であり、哲学的に訓練されたる或る種の
人々にとつてさへも、了解するに困難なる宗教であるがために、それが全然否定の宗教で
あると誤解されたのも無理のない事である。読者諸君は今や個性ある神、霊魂の不滅、〓

後に於ける個性の存続等を否定するからと云つて、其の人を-特にその人が東洋人であ
つた場合-無宗教の人と呼ぶのは当を得た事でないといふ事を了知し得たであらう。宇
宙の道徳的秩序、未来に対する現在の倫理的責任、一々の思想と行為との無量の結果、悪
の究極の絶滅、無限の記憶と無窮の幻想との境界に到達する力、等を信仰する日本の学者
は、偏執か無智なる者の外、これを呼んで無神論者とか唯物論者とかと云ふ事はできない。
日本の宗教と、吾々西洋の宗教との差異は、思想の象徴と様式とに関する限り、如何に深
大であるとしても。両者が到達する道徳的結論は、殆ど同一なるものである。

社会組織

故フイスク教授は、其の著『世界論〓説』の中で、支那、古代埃及、古代アッシリアの
それのやうな社会に就いて、頗る興味深い叙述を試みてゐる。曰く『これ等の諸?の社
が現代ヨオロツパの国家の姿に似てゐたことは、丁度石炭時代の沙羅木が現今の外方生樹
の風態をしてゐたのと同一である、と私は考へるのであるが-かく言ふ場合、私は単に
類推以上の事を語り、発達の径路に関する限りに於ては、実際の同一関係を述べて居るの
である』と。此の説が支那に関して、真実であるとすれば、等しく日本にあてはめても真
実である。古代日本の社会の組織構成は、家族の組織構成-原始時代に於ける族長的家
族の拡大されたものに外ならない。現代西欧の社会も、すべて族長的の状態から発展し来
たつたものである。ギリシヤ、ロオマの古い文化も、より小さい規模の上にではあるが、
これと同様にして建立されたものであつた。併しヨオロツパに於ける族長的家族は、既に
数千年以前に、崩壊し去つて居た、氏族(gens)と種族(curia)とは分散し消滅して〓

た、本来分かれて居た諸階級は、融合するに至り、到る処、社会の全改造が徐に行はれ、
その結果強制的協同に代つて、任意的協同が行はれて来た。産業を主とする型の社会が発
展して、国家的宗教が古代の狭い一地の祭祀に取つて代つた。併し日本の社会は、現代〓
至る迄、一つの凝集した国体とはならず、氏族的状態以上には発達しなかつた。日本の社
会は、宗教上にも行政上にも他と関係をもたない、幾多の氏族団体或は部族団体の団結の
緩い集団たるに止まつてゐた、而して此大集団は、任意的協同に依らず強い強制に依つて
纏められて居たのであつた。明治時代に至るまで、又幾年か其後に及んでさへも、中央政
府の強圧力が薄弱の徴候を見せた際には、社会は分裂して切れ切れに分散する傾向を示し
て居た。吾々は此の社会を、封建制度と呼んでも良からうと思ふ、併しそれは沙羅木が樹
木に似て居るといふ意味に於てのみ、ヨオロツパの封建制度に似てゐると云へるのである
先づ第一に、古代の日本社会の性質を、簡単に考へて見よう。其の起原となる単位は
家ではなくて、族長的家族である-換言すれば、それは同族即ち氏族と云ふもので、同
じ祖先から血統を引いて居るか若しくは共通の祖先礼拝-氏神の祭祀に依つて宗教的い
結び合つて居る幾百或は幾千の人々の団体である。既に前に言つた通り、この種の
家族には二の階級がある、大氏即ち大氏族、小氏即ち小氏族と云ふのである。小氏は大氏
から分派したもので、前者は後者に従属する-それ故、小氏を結合した大氏の一団は
大略、ロオマの種族とか或はギリシヤの種族に比べることが能きる。農奴或は奴隷の大隼
団は、諸?の大氏に附属して居たらしい。そしてこれ等奴隷の数は、極古い時期にあつて
すら、氏族そのものの人数よりも多かつたらしい。これ等従属の階級に与へられたいろい
ろな名は、服役の階級とその種類とを示してゐる。場所或は一地方に所属することを示す
品部、家族に所属することを示す家部、囲ひ地或は領土に所属することを示す民部等があ
るが、それよりももつと一般的なものは『民』と云ふのである。之は昔の意義からすれば
『寄食者』の意であるが、現今では英語のfolkの意味に用ひられて居る。……人民の大
多数が、服役の状態に在り、従つて服役にもいろいろな種類のあつた事は疑を容れない
スペンサア氏は、奴隷制度と農奴制度と云ふ言葉の差異を、通常それに伴なつて居る意味
から、大体に区別することは、決して容易な事ではない事を摘して居る。蓋し特に社会
の初期の状態に在つては、従属階級の実状は、特権と立法との事実に依るのではなくて、
主人の性格と社会の発達の実状とに依るのである。日本に於ける初期の制度を述べるに際
しても、この差別を立てることは頗る困難である。吾々は古代の従属階級の状態に関して、

今尚ほ知る所甚だ少いのである。が、併し当時に在つては実際只だ二個の大階級-多物
の段階に分かたれて居た支配者の寡頭政治と、これ亦多数の段階に分かたれて居た従属的
人民と-が存在して居たと断言して可いと考へる。奴隷は、顔其の他身体の或る部分に
彼等の所有者を示す記号を、文身してゐた。近年に至る迄、この文身の制度は、薩摩地方
に残つてゐたらしい-其処では、記号は主として、手の上に施され、其の他多くの地方
ては、下〓階級の人達は、一般に其の顔面に文身を施されて居たのである。古代にあつて
は、奴隷は家畜の如く売買され、或は其所有主に依つて貢物として献納されたのであつた
-この習慣は、古代の記録の内にたえず記されてあつた。奴隷の団結は認許されなかっ
た、これはロオマ人の間に行はれたconnubiumとcontuberniumとの区別を想ひ起こさせ
る、奴隷なる母と自由の人たる父との間に出来た児達は、矢張り奴隷となされた。第七世
紀に至り、私人の奴隷は国家の財産であると宣告され、当時の大多数の奴隷-殆ど全部
-否、恐らくは全部-が解放された、が、其の全部は工匠か若しくは有盆なる職業い
従事して居た者であつた。次第に自由に解放された一大階級が出来て来たが、併し現代に
至る迄、一般人民の大多数は、農奴に近き状態に置かれてあつたらしい。大多数の者は確
に姓を持つてゐなかつた、之は以前奴隷の境遇に在つた証拠と考へられるのである。真の
奴隷は、其所有主の姓名を以て登録され、少くとも上古にあつては、自分自身の祭祀を持
つてゐなかつたらしい。明治時代以前にあつては、貴族、武士、医者、教師-恐らく二
三の例外はこの外にあつたらしいが-のみが、姓名を名のることを許された。此の問題
に関するなほ一つの奇妙なる事は、故シモンズ博士に依つて示されたものであるが、博十
は隷属階級の頭髪の蓄へ方を述べてゐるのである。足利将軍時代(紀元一三三四年)に至
るまで、貴族、武士、神官、医者を除いて、凡ての階級は、頭髪の大部分を剃り落として
丁髷を着けたが、この頭髪の恰好を奴頭或は奴隷頭と呼んでゐる-この言葉は即ち『奴
隷の頭』の意味で、此習俗の隷属時代に発生したことを示してゐる。
註六四五年代に、この問題に関して光徳天皇は、次に掲げる如き勅令を発布した。-
『男子及び婦人に関する法律は次の如し、自由人たる父母の間に生まれたる児は、其父に属せしむ、自由
人の父が、奴隷なる婦人を娶りて儲けたる児は、其母に属せしむ、自由人の婦人が、奴隷なる男子に嫁し
て儲けたる児は、其父に属せしむ。若しその二人が、二家の奴隷たらば、其児は其母に属せしむ。寺院の
奴隷に生まれたる児は、自由人に対する規則に従はしむ。その他奴隷となりたる者に在りては、奴隷に関
する規則に従つて、取扱はる可きものなり』-アストン訳『日本紀』第二巻、二〇二百

又男女之法者。良男良女共所生子。配其父ニ。若良男娶レ婢所生子。配其母。若良女嫁加
所生子。配ニ其父。若両家奴婢所生子。配ニ其母。若寺家仕丁之子者。如一良人法。若別入奴婢一
者。如奴婢法。-『日本書紀』孝徳天皇紀。
日本の奴隷制度の起原に関しては、多くの学ぶ可き事が残つて居る。つぎつぎに移住が
行はれた証拠があるが、少くとも、極古い日本の移住者の内には、其後に来た侵入者のち
めに、奴隷の状態に陥れられたのもある。なほ朝鮮人支那人の移住者も随分沢山にあつて
其の中には、奴隷よりも遥かに悪るい〓を逃れるために自ら進んで奴隷の服役を望んだ者
もあつたらしい。併し此の問題は、甚だ曖味である。吾々は上古にあつては、奴隷に堕と
されるといふ事が普通の刑罰であつた事、並びに負債を払ふ事の出来ない債務者は債権者
の奴隷となる事、又窃盗は被盗難者の奴隷となるやうに判決された事を聞いて居る。言と
までもなく隷属の状態にも、沢山の相違が在つた。奴隷の惨めな部類に属する者には、家
畜に近いものもあつた。併し、農奴の中には、売買されることが出来ず、或る特殊な仕事
以外には使用する事を許されないものもあつた。これ等のものは主人の血旅で、糊口又:
安全のために、自ら進んで奴隷状態に入つたものであるらしい。彼等と主人との関係は
一オマの食客と其の庇護者との関係を想ひ起こさせる
註六九〇年に、持統天皇の発布した勅令は、父が其子息を奴隷に売却し得ることを制定してゐる、併ー
債務者は単に農奴にのみ売られ得るとされて居る。勅令には恁う書いてある、『一般人民の間に在つて
弟が其兄に依つて、売られたる場合、その弟は自由の人と一緒に置かれ得る、子が其親に依つて売られよ
場合には、その子は奴隷と一緒にされる、債務の利子支払ひのために、奴隷となつた人々は、自由の人・
一緒にされる。それ等の人と奴隷との間に生まれた子は、すべて自由の人と同列にされる』-アスト
訳『日本紀』第二巻、四〇二頁
〓ツロヘカ
若有百姓弟為兄見レ売者。従良。若子為父母見売者。従賤。若准ニ貸倍。没レ賤者。徒
良。其子雖配奴婢一。所生亦皆従良。
今日の処では古代の日本社会に於ける自由にされた人と本来の自由人との間に、明確な
る差別を立てることは困難である。併し支配階級の下位に属する自由な人民は、二大区公
に分かれてゐたことを吾々は見るのである、則ち国造と伴造とがそれである。前者は農ま
であつて、恐らく極古い蒙古の侵入者の後裔らしく、中央政府とは独立して自分等独自の

土地を保有することを許されてゐた、彼等は自分の土地を領有して居たのであるが、貴〓
ではなかつた。伴造は工匠であつて-恐らく其の大部分は朝鮮人若しくは支那人の後裔
て-その氏族は百八十もあつた。彼等は世襲の職業に従事し、其氏族は皇族に属して居
て、皇族のためにその技能を振ふやうにさせられて居た。
本来から云へば、大氏でも小氏でも、みなそれぞれ自己の領土、主長、従属、農奴、如
隷を所有してゐた。主長の職は世襲-原始の族長から直系に依つて、父から其の子へ謹
られるもの-であつた。大氏族の主長は、それに従属する小氏族の主長の上に立ち、其
の権力は宗教と武力との両方に及んだ。但し宗教と政治とが同一のものと考へられて居お
ことは、忘れてはならない。
日本の氏族の全部は、皇別、神別、藩別の三部に分かたれて居た。皇別(『皇室の一門』
は所謂皇族を表はし、日の御神(天照皇大神)の後裔とされてゐる。神別(『神の一門』
は日の御神以外の地上と天上との諸?の神々の後裔とされて居る氏族である。藩別(『外
来の一門』)は多数の人民を代表して居る。斯様な次第であるから、支配階級から見れば
一般人民は本来外国人であると考へられたのである-只だ迎へられて日本人とされて〓
るものと考へられたに過ぎない。或る学者に依れば、藩別と云ふ言葉は、最初支那人か朝
鮮人かの子孫の農奴或は自由にされた人に、与へた名称であつたのださうである。併しヤ
は証明されたわけではない。只だ祖先の如何に依つて、全社会が三階級に分かれてゐた7
と、三階級の中二つは、統治する寡頭政治を作り、又第三階級は則ち『外国』の階級で、
国民の大部分-庶人であつた事だけは事実である。
註フロレンツ博士は、皇別と神別との区別を、二個の武力的支配階級-侵略と移住との二つの相続い
た波浪から生じたもの-の存在に依るものとして居る。皇別は、神武天皇に従属して居たもの、神別は、
神武天皇の降臨以前に、大和の地に定住して居た遥かに古い征服者のことであると。博士の考へる所に依
れば、最初のこれ等の征服者達は、駆逐されなかつたのである。
姓階-かばね若しくは姓-を以てする区分もあつた。(私は『姓階』なる言葉を、
フロレンツ博士に従つて用ひる。博士は日本の古代文明研究者の第一の権威であつて、姓
の意義に就いては『姓階』或は『種族』"Colour "を意味するサンスクリツトのvarnas
意味に等しきものとして居る)日本社会の三大区分に於ける各家族は、孰れかの姓階に属
してゐた、而して各姓階は、最初は或る職業を表はしてゐたものである。姓階は、日本に
於ては、何等確たる発達をしなかつたらしく、古い頃から〓に、かばねは混和せられる傾

向を示して居た。第七世紀の頃に及び、この混和は非常に甚だしくなり、天武天皇は姓の
組織を新たにする必要を感じられ、茲にすべての氏族は、再び八個の新しい姓階に組み重
へられるに至つた。
かくの如きものが日本社会の原始的組織であつた、それ故、この社会は言葉の真の意味
に於ては、決して完成された国家ではなかつたのである。皇帝の称号も、その古い統治者
には、正確に適用されるわけにはゆかない。日本の歴史家の説に反対して、これ等の事管
を明らかにした最初の人は、ドイツの学者フロレンツ博士其の人であつた。博士は上古の
『天皇』なるものは、単に一の氏の世襲的主長-この氏はすべての氏中の最も権力あス
もので、他の多くの氏の上に勢力を振るつてゐた-に過ぎないことを、明らかにした。
『天皇』の権威は、全国土には及ばなかつた。併し一国王でさへないにも拘らず-自公
の族長たる大家族の集団以外に-この主長は三大特権を亨有して居た。第一には、共同
の祖先たる神の前に、各氏を代表するの権利-これは高い神官の特権と権力とを包含ー
てゐる。第二には、対外関係に於て、各氏を代表するの権利、換言せば、主長は全氏族の
名の下に、宣戦媾和の権を有し、従つて最高の武力を行使し得たのである。第三の特権は、
氏族間の争議を解決する権利、一つの氏の主長たる職権の直系の継続者が断絶した場合に
氏族の主長を指名する権利、新しく氏を創立する権利、他氏族の安寧を害するが如き行色
のあつた氏を廃するの権利等である。故にその人は、最高の大司祭であり、最高の軍事司
令官であり、最高の仲裁官であり、最高の奉行であつた。併し未だ最高の国王ではなかつ
た、その権力は、氏族の同意ある場合に限り、行使されたのである。其の後この主長は、
事実上の、或はそれ以上の大汗-僧たる支配者、神王、神の化神-となるに至つたの
てある。然るに、その領土の拡張するに連れて、本来その権威に伴なつて居た機能の一切
を働かすことが、次第々々に困難になつて来た、それでこれ等機能を他に委託した結果、
その世事に於ける統御権は、その宗教的権力が増大するに拘らず、衰亡の悲運に向つたの
であつた。
それ故、極古い日本社会は、普通吾々が用ふる所の封建制度ですらもなかつたので、乙
れは最初は、防禦攻撃のために結合せる氏族-其の各?氏族は、それぞれ独自の宗教を
持つて居た氏族-の統一体であつた。が徐に、一の氏族団体が、富と数との力に依つて、
其の氏族の祭祀を他の全ての氏族の上に及ぼさしめ、其の世襲の主長を最高の大司祭たら
しめるやうな主権を獲得するに至つた。日の御神(天照皇太神)の礼拝は、かくして種族

的祭祀になつた、併し此の礼拝は他の氏族の祭祀の相対的重要性を減〓する事はなかつた
-それは単に彼等に、共同の伝統を与へたのみであつた。その内に、一国家が作り上げ
られたが、氏族は社会の真の単位として存在してゐた、而して明治の現代に至るまでその
崩壊は完うされなかつた-少くとも立法の上からそれを成就し得たと云ふ程には
吾々は、氏族が真に一人の元首の下に統一され、国家の祭祀が制定された時代を、日本
の社会進化の第一期と呼んで然るべきだと思ふ。併しながら社会組織は徳川将軍の時代に
入る迄、其の発達の極致を見る事は能きなかつた、-それ故完全に構成されたものとー
て、これを研究するには自然近代に面を向けなければならない。しかも早くすでに紀元十
七三年に登極したと一般に認められて居る天武天皇の御代に、この社会の将来落ち着く。
き姿の漠然たる輪郭は出来て居たのである。此御代には、仏教は宮廷に於て、強大な勢力
となつたらしい、と云ふのは天武天皇は事実上、菜食主義を人民に強ひられたのであるか
り-これ則ち理論上に於けると共に実際に於ける最高権力を証明したものである。これ
より以前にも社会は身分等級に配列されてゐた-上〓階級の人々は、頭に著けた官職の
冠の形と品質とに依つて、身分を明らかにしてゐた、併し天武天皇は、多くの新しい等紐
を設け、又支那の制度にならつて、全行政部を百八の部門に改造したのであった
日木の社会は、上流のものに関しては、殆ど政教的形式を採り、それを徳川将軍の時代〓
続けさした而して徳川将軍はその根本的組織に、何等重要なる変化を加へることなく
此の制度を強固にしたのである。吾々は日本に於ける社会進化の第一期の終りから、国〓
は実際上、二階級に別かたれて居たと考へて然るべきだと思ふ、則ち貴族と武家との階級
を包含する支配階級と、其の他の一切の者を包含する生産階級との二つである。社会進〓
の第二期の主なる出来事は、武権の勃興であつて、それは皇室の宗教上の権力は其の儘に
して置いたのであつたが、一切の行政的機関を纂奪するに至つた-。(此の問題に就い
ては、次の章に述べる事にする)結局此の武権に依つて結晶せしめられたる社会は、非堂
に複雑な構造となつた-されば外形上は、吾々が普通に了解する意味での大規模の封建
制度に近似してゐるが、併し内実に於ては、これまであつたヨオロツパの封建制度とはふ
く異つたものである。其の差異は、特に日本の幾多の社会(村邑の如き)の宗教的組織に
あるので、この各社会(村邑若しくは組合)はその独自の祭祀と族長的行政とを保留し
内実は根本的に各社会みなそれぞれ分離してゐたのである。国家の祭祀は、伝統に依る結
合であつて、凝集性の上に立つた結合ではなかつた、則ち宗教上の統一は少しもなかつか
りである。仏教は、広く普及されて居たのではあるが、此の事態に何等実際の変化をも前

へはしなかつた、何となれば、この小社会が如何なる仏教の信条を守つて居たとした処で、
真の社会上の結合は、氏神に依る結合であつたからである。故に徳川将軍の治下に於て、
日本の社会が十分の発達を遂げたとしても、なほその社会は武力の強制に依つて結合され
た氏族並びに小氏族の大集団たるに止まつたのである。
此の大集団の元首として、天皇、民族の生ける神が居ました-則ち司祭の皇帝にして
最高の教長であり、世界に於ける最古の王朝を代表して居た。
天皇の次位に立つ者に、公卿即ち古代の貴族-天皇と神との後裔-がある。徳川の
時代には、百五十五家の此の種の高い貴族があつた。これ等の中の一家で、中臣と云ふの
は最高の世襲的司祭の職を司つて居た、そして今でも尚ほ司つてゐる、中臣は天皇の下に
在つて、祖先の祭祀を司る主長である。日本歴史の古代の大氏族の全部-藤原とか、平
とか、源とか云ふ氏族-は何れも公卿であつた、其の後の歴史の大なる摂政或は将軍の
大部分は、公卿か或は公卿の後裔かの何れかであつた。
公卿の次位に立つ者に、武家即ち武人の階級があつた-別名を武夫、ますらを、武十
(これ等の名称は、古文に拠る)といふ-それ等はそれぞれ独自の広い政教組織を持
しゐた。併し大抵の場合、大名と武家の武人との相違は、収入と称号との上に立つ身分の
相違にあつた。彼等はすべて一様に、侍であり、大抵は皇別神別の後裔であつた。古代〓
在つては、武人階級の主領は、単に一時的の総指揮官として、天皇に依つて任命せられか
が、後に至つてこれ等の総指揮官は、権力を横奪して、自分の職権を世襲となし、ロオ一
て用ひたやうな意味の実際のimperatores(大将軍)となつた。彼等の称号たる将軍は、
西欧の読書界にも知られて居る。将軍は二百乃至三百の領域若しくは地方の領主-領
の権力と特権とは、その収入と位階とに従つて相違があつた-を統御して居た。徳川墓
府の治下に在つては、これ等の領主即ち大名は、二百九十二を数へた。これより以前にあ
つては、各領主は各自の領土の上に最高の支配力を働かしたのであつた、ジエジユイトの
伝道師や、古いオランダ、イギリスの貿易商人等が、大名を呼んで『王』と云つたのも
少しも怪しむに足りない。大名の専制は、最初徳川幕府の創始者に依つて阻止された。〓
尿は大名の権力を、甚だしく制限し、多少の例外はあつたが、大名に若し圧制と残酷との
罪が実証された場合、その大名の領土は没収されることにした。家康は、大名の全部を四
大階級に配置した。(一)三家或は御三家即ち『三高家』(若し必要のある場合には、将
事の後継者が此の家族中から選出される)(二)国主『地方の領主』(三)外様『外藩の

領主』(四)譜代『成功のあつた家族』、これは家康に対する忠誠の報酬として、領主或
は其の他のものに取り立てられた家族の名称である。三家には、三氏族即ち三家族があり
国主は十八家あり、外様は八十六、譜代は百七十六あつた。これ等大名の中、最小なるも
のの禄高は米一万石(石は時代に依つて、価値の上に大なる相違があるが、一万石は約一
万磅と云つて宜からう)、また最大な大名である加賀の領主の禄高は、百二万七千石とさ
れて居た。
大きな大名は、大小の家臣を持つてゐたが、これ等の家臣は、又各自訓練された侍即ち
戦士を抱へて居た。この外に、郷士と呼ばれた武人兼農夫の特殊階級があつて、その内に
は小さい大名を凌ぐ程の特権と権力とを持つてゐたものもあつた。この郷士は大抵独立し
た地主であつて、一種の士民であつた、併し郷士の社会上の位置とイギリスの士民の位署
とには幾多の相違点がある。
家康は武人階級を改造した外に、更に二三の新しい小階級を創設した。これ等の中で、
比較的重要なのは、旗本と御家人とである。旗本と云ふ称呼は『軍旗の捧持者』の意味で
其の数凡そ二千を算し、御家人は約五千を算した。これ等武人の二団体は、将軍の特殊な
武力を構成してゐたもので、旗本は多くの収入を有する大きな家臣であり、御家人は所得
の少い家臣で、単に将軍家の御用を直接に務めると云ふだけで、一般武士の上位に立つカ
のであつたに過ぎない……。あらゆる階級の武士の総数は、約二百万を算した。彼等は租
税を免ぜられ、二本の刀劔を佩用するの特権を有した。
以上述べたる所は、簡単な〓説ではあるが、国民を非常に厳酷に支配した貴族と武人と
の階級の大体の制定である。一般庶民の大多数は三階級(姓階と云ふ言葉が、永遠にイン
ドで用ひられたその観念と聯想されなかつたならば、吾々はこれを姓階と呼んで良いかも
知れない)に分かたれてゐた。農夫、職人、商人がそれである。
これ等三階級の中、農夫(百姓)が一番身分が高く、直接武士の次位になつた。実際
武士の多くは、農夫をかねてゐたし、農夫の中には一般武士より遥かに高い位をもつてゐ
るのもあつたので-武人階級と農夫階級との間に境界線を引く事は困難である。恐ら~
百姓(農夫或は農民)と云ふ言葉を、単に農業に依つて生活し、土壌を耕作する者にして、
皇別若しくは神別の後裔でないものに制限すべきであらう。彼等は皇別若しくは神別の後
裔ではないのである……。何れにしても、農民の職業は名誉あるものと考へられてゐた。
農夫の娘は、皇室の女中になることさへあつた-その職分の位置は極めて低いものであ

りはしたが。また農夫の内には、帯刀を許されたものもあつた。日本社会の上代に在つて
は、農夫と戦士との間に、何等の区別もなかつたらしく思はれる。当時の身体の強健な豊
夫は、何時でも戦の間に合ふやうに、戦士としての訓練が施されて居た-この状態は古
いスカンデイナヴイヤの社会と同様である。特殊専門の武人階級が出来た後も、農夫と武
士との区別は、日本の或る部分では曖昧であつた。例へば、薩摩、土佐に於ては、武士は
現代迄、耕作に従事してゐた。又九州武士の優秀な者は、殆どすべて農夫であつて、その
立派な身長や体力は、一般に田園の作業に従事した為めとされて居る。日本の他の部分
たとへば出雲の如き所では、武人は耕作に従ふ事を禁じられ、森林地は所有することを許
されて居たが、田畠を所有する事は許されなかつた。併し処に依つては武士が他の職業-
-商売だとか或は手工だとか-に従事することは、厳しく禁じられて居たが、耕作に〓
事することは許されて居た処もあつた……。いつの時代でも農業に精励する事を堕落と老
へた事は嘗てない。昔の天皇の中には、耕作に興味を寄せられ、親らそれを為された方も
あつた、赤坂離宮の庭内には、今も尚ほ小さい稲田が設けられてある。太古の宗教的伝統
に従ひ、御料地内で出来た稲の初穂は、第九番目の祭-新嘗祭-の日に、収穫の供物
として、天皇親らの御手に依つて刈り取られ、神聖なる祖先の御前に捧げられるのである
註此の祭日に、天皇御手づから、其年の最初の生糸と共に、稲の初穂を、天照皇大神にそなへきせ給・
のである。
農民の次位に、工匠階級(職人)があつて、鍛冶工、大工、織匠、陶工-要するに、
凡ての手工業者がこの内に包含される。これ等の中で、一番高いものは、さうありさうな
事であるが、刀鍛冶である。刀鍛冶は、往々其階級を超えて、遥かに高位に上つた。中に
は守と云ふ高い称号を与へられたものもあり、領土若しくは地方の守と称した、これは大
名の称号で大名が自らそれと同じ守の字を以て記したものである。されば自然彼等は、天
皇とか公卿とか云ふ高貴の庇護を受けたのであつた。後鳥羽天皇が、御自身の鍛冶場に於
て、親ら刀造りに精励されたことは、よく知られて居る事である。現代に至る迄、刀身を
鍜へる期間、宗教上の奉祭が行はれたのである……。
主なる手工業はみな、組合を持つてゐた、そして一般の例として、仕事は世襲的であつ
た。職人の祖先は大抵朝鮮人並びに支那人であつたと想像するに足るに十分な歴史的根拠
がある。

商業階級(あきんど)は、銀行家、商人、店主、諸種の貿易商人等を含み、公儀の上で
は最下級と認められてゐた。金儲けの仕事は、上流階級からは軽蔑されて居た。労働から
生ずる品物を買ひ、それを再び売ることに依り、利盆を上げるといふ一切の手段は、不名
誉なこととされてゐた。武家なる貴族は、当然商売階級を見下げてゐた。そして一般に
武人階級は、普通ないろいろの労働に対して、あまり尊敬をもつて居なかつた。併し古代
の日本に於ては、農夫と職人との職業は軽んぜられて居なくて、商売のみが、不名誉と考
へられて居たらしい-この差別は、一面から云へば道徳的の事であつた。商人階級を、
社会組織の最低位に追ひ下すことは、異様な結果を産んだに違ひない。例へば、米屋は加
何に富んでゐても、その家族が元来他の階級のものであつたといふのでなければ、大工
陶工、船大工-それ等を米屋は雇傭し得た位であるに拘らず-の下位に立つのであっ
た。其の後、商人は其の子孫以外の多くの他の人々を包含し、かくて実際上商人階級それ
自身が救はれる事になつた
国民の四大階級-武士、農夫、工匠、商人(これ等を指示するに、漢字の頭文字だけ
を取り、簡単に呼んで、士農工商と云ふ)の中で-後の三階級は、平民『庶民』の称県
の下に、一括されてゐる。平民はすべて、武士に従属し、武士は平民が不敬な事をした
合、斬り捨てる権利をもつて居た。併し実際は平民が真の国民であつた。国家の富を生み
出し、歳入を作り出し、租税を負担し、貴族武人僧侶を支持して居たものは実に平民であ
つた。僧侶に就いて言へば、仏法(神道も同様で)の僧侶は別の階級を作つては居たが、
その位は平民と並ぶのでなく、武士と等しかつた
平民の三階級の外に、平民の最下級のものの以下にあつて、到底上進の望みのない大き
な一階級があつたが、それ等のものは日本人としては扱はれず、また殆ど人間としてすら
待遇されない程であつた。公儀上それ等のものは、種属的に張里と呼ばれ、動物を数へる
に用ひられる特別な呼び方でもつて、一匹、二匹、三匹と数へられて居た。現今でさへも、
一般にそれ等は人間(ひと)として取扱はれず、『物』(もの)とされて居た。イギリの
読者(主として、ミツトフオド氏の今尚ほ比類なき名著作とされて居る『古代日本物語』
の読者にとつては)彼等は穢多として知られてゐる、併し彼等の称呼は、其の職業に依つ
て、それぞれ異つてゐた。彼等は(インドで云ふ)非人であつた。日本の文人等は、明確
な根拠に基づいて、張里が日本民族に属することを否定してゐる。これ等姓階以外の様々
な部族は、法律上認許されて居たその独占の職業に従つて居り、その住んで居た地方の特

権に従つて、或は井戸掘りであり、庭園の掃除人であり、或は藁細工人であり、草鞋作り
でもあつた。その内の或る階級は、公儀で拷問人と死刑執行吏とに使用され、また或るも
のは、夜番に雇はれ、さらに又墓掘りに用ひられたのもあつた。併し穢多の大部分は、柔
皮工と、鞣皮仕上げの仕事に従事するものであつた。動物を撲殺し其の皮を〓ぎ、各種の
鞣皮を作り、靴や、鐙皮や太鼓の面皮を作る権利は彼等独得のものであつた-太鼓の面
皮作りは、国内十万の社寺にそれが使用されて居るので、利得の多い職業であつた。穢多
はまたその独得の法律を有し、生〓与奪の権を行使する主長を戴いてゐた。彼等は常に町
の近隣や郊外に住んでゐたが、常に自分達だけの別の部落をなして居た。彼等の町に入ス
のは、其の商品を売るためか、或は仕入をするために、限られて居たが、履物の店以外に
は、いづれの店へ入る事も許されて居なかつた。唄をうたふのを職業とすることは許され
て居たが、人家に立ち入ることは禁じられて居た-それ故彼等は単に街路や庭内のみで
音楽を奏し。唄をうたふことを得たのである。自家世襲の職業以外には、如何なる職業に
も、従事することを厳しく禁じられて居た。商業階級の最下等のものと穢多との間には
インドの伝統上の姓階制度から生じた区別の様に、越える事の出来ない檣壁があつた、耐
会上の偏見に依つて、穢多部茨が他の日本の町から隔絶された有様は、城壁や門に
猶太人の町が他のヨオロツパの町から隔離されて居たのに似てゐる。何等かの職掌を帯び
て已むを得ない限り、日本人は一切、穢多部落に入つて行くことを、夢想だもしなかつか
……。美しい小さな港なる美保の関で、私は穢多部落を見たが、それは、湾に沿うた三ロ
月形の町の一端を成してゐた。美保の関は、たしかに日本に於ける最古の町の一であるか
ら、それに附属してゐる穢多村も亦非常に古いに違ひない。今日と雖も尚ほ美保の関に住
む日本の人は、其の部落が他の町に連結されてゐるに拘らず、其処を通つて行かうとはし
ない、子供も決して此の標もない境界を越える事なく、犬すらも、此の偏見線を越さうと
はしない。それにも拘らず、部落は清潔で建物もよく-庭園、浴場、並びに独得の寺院
があつて、行き届いた日本の村落を見るやうである。併し恐らく一千年の間、これ等の速
続した両社会の住民の間には、何等の友情もなかつた……。今日では誰れもこれ等社会外
の人民の歴史に就いて知るものはなく、彼等の社会的破門の原因は永く忘れられて居た
註或る地方では今なほこれが掟となつて居る。
固有の穢多の他に、非人-この言葉は『人間にあらざる者』と云ふ意味である-
呼ばれる最下級民があつた。此の称呼の下に包含せられる者は、職業的な、托鉢僧、流-

て歩く唄ひ人、俳優、或る種の醜業婦、世間から排斥された者等であつた。非人には、そ
の特別な頭があり、またその仲間だけの法律があつた。日本の社会から排斥された者は、
誰れでも非人に加はることが能きたが、併しそれは世間普通の人に別かれを告げた事にか
るのであつた。政府も利口で、非人を迫害するには至らなかつた。非人の漂浪的生活は、
それに依つていろいろな苦難を免れる道となつた。微罪の犯人や正当な生業を営むことの
できない人々を、非人の群に駆りやることが能きる限り、それ等のものを牢獄に繋いだり、
其の他の途を講ずることは不要であつた。矯正することのできない者、無頼漢、乞〓人笠
は一種の訓練の下に置かれるので、実際政府の認めない社会に消えてしまふのである。非
人を斬ることは、殺人とは考へられないので、単に科料に処せられたのみであつた。
読者は今や、古代の日本社会の状態に関して、大略正確な観念を抱き得た事であらうと
思ふ。併し其の社会の制度は、私が示し得るよりも、遥かに複雑なものであつた-非告
に複雑で、此の問題を詳細に論ずるには、数巻の書を必要とする位である。他に適当な名
称がないので、今尚ほ吾々が封建の日本と呼ぶ所のこの社会は、一と度十分に発展したな
らば、これは三重組織に著しく近接してゐる、軍国型の二重複合社会の特色を、多分
してゐるものである。勿論、著しき特色は、真の宗教上の政教政治がないといふ事である
-是は政府は決して宗教と分離しないといふ事実に依るのである。嘗て仏教の方に中
政権から全く離れて、宗教上の政教政治を樹立しようとする傾向があつたのであるが、〓
の途上に二個の致命的な障害があつた。第一は、仏教そのものの状態であつて-仏教が
多くの宗派に分裂して居て、甲乙の宗派が互に反目して居た為めであつた。第二の障害は
武家氏族の執拗なる敵意で、直接間接に、自己の政策に干渉する力を有するが如き宗教の
力を、嫉視した為めであつた。外来の宗教が、行動の世界に於ても、〓り難き勢力ある7
とを、証明し始めるや、残忍なる手段が選ばれ、第十六世紀に於て、信長に依つて行はれ
た恐る可き僧侶の虐〓が、日本に於ける仏教の政治的希望を、終熄せしめたのであつた
それを外にして社会の編成は、軍国型のあらゆる古代文化の構成に似てゐた-一切の
行動は、積極的にも消極的にも規定されて居た。一家は個人を支配し、五家族の集団は一
家族を支配し、組合は此の集団を支配し、領主は組合を支配し、将軍は領主を支配して早
た。二百万の武士は、生産者階級の全体に対し、生殺与奪の権を有し、大名はこれ等の武
士に対し、同様の権を有し、将軍は又大名を支配してゐた。事実は必らずしもさうではな
かつたが、名目の上では、将軍は天皇に隷属してゐた、武力的なる横奪は、重き責任の白

然の状態を擾乱し、位置を転換せしめた。然しながら、政府の此の位置の転換に依つて、
貴族から下民に至る迄、規律ある訓練が行きとどいた。生産者階級の中には、無数の結〓
-各種の組合があつた、併しこれ等は専制主義の中に於ける専制主義-共産制の専制
主義であつて、各人は他の人々の意志に依つて統御されて居た、そして企業は、商業にせ
よ産業にせよ、組合以外に於ては不可能であつた……。個人が組合に束縛される次第は即
に述べた通りであるが-その個人は組合の許可なくしては、その組合を去る事は出来ず
組合以外のものとは結婚する事も出来なかつた。吾々は又外国人と云ふのは、古代のギリ
シヤ、ロオマで云つたやうな意味に於ける外国人-換言すれば、敵a hostis-であへ
た事、並びに単に宗教的にその許しを得ることに依つてのみ、他の組合へ加入することが
能きた事をのべた。それ故、排外的な点では、日本の社会状態は古いヨオロツパの社会状
態に似てゐた、併しその軍国的な点は、むしろアジヤの諸大帝国の状態に似てゐた
勿論、かくの如き社会は、近代の西方文化の如何なる形態にも、何等共通な点をもつて
居ない。かくの如きは氏族の集団の一大集塊であつて、二重政府の下に、漠然と結合しか
もので、その武力を有する元首が万能の力を振ひ、宗教上の元首はただ礼拝の的-祭祖
の生きたる象徴-たるに過ぎなかつたのである。然しながら此の組織は、外形上から云
へば、吾々の呼んで封建制度と云ふ所のものに、近似してゐるとも云へよう、其の構造は
-僧侶的政教政治を除けば-むしろ古代のエヂプト若しくはペルウの社会に似てゐた
最高位の人は、吾々の使用する言葉の意味で云ふ皇帝と云ふのではなく、-諸?の王を
支配する王或は天の代理者と云ふのでもない-それは神の化身、民族の神、太陽から生
〓出でたるいんか(ペルウの王族)である。此の神なる人物を取り囲んで、種族の者が豊
意を捧げて並んでゐるのである-併しそれと共に、各部族は又各自の祖先の祭祀を行つ
てゐるのである、そしてこれ等の部族を形成する氏族、これ等の氏族を形成する組合、7
れ等の組合を形成する大家族等も、亦それぞれ各自の祭祀をもつてゐる、かくてこれ等祭
祀の集団から、習慣と法律とが生まれたのである。併し何処でも、習慣と法律とは其の起
原を異にして居るが故に両者には多少の相違がある、只だ共通なる一事は、-これ等習
慣法律は、絶対恭謙な服従を要め、公私の生活のあらゆる細目に亙つて規定を為す所がま
つた点である。個性は強制に依つて全然抑圧された。そして強制は、主として内部から発
生し来たつたもので、外部からすすめられたものではなかつた-各個人の生活は、他の
人々の意志に依つて定められ、自由な行動、自由な言論、若しくは自由な思想と云ふも一

は、全然問題外とされて居た。これは古いギリシヤ社会の社会主義的専制とも比較の出来
ない程に更に酷しいもので、最も恐るべき種類の武断的専制と宗教的共産主義とが合体し
たものである。個人は刑罰に関する外は、法律上に存在しない者であつた、そして農奴い
せよ、自由の人にせよ、全生産者の階級は、無慙にも最も苛酷なる奴隷的屈従を強ひられ
て居たのであつた。
普通の聡明をもつて居る現代人にして、かくの如き境遇に堪へて生活し得たと(家康い
依つて士分に取り立てられた、イギリス人なる水先案内ヰリアム・アダムスの場合に於け
のが如く、或る有力なる主権者の庇護のない限り)信ずる事は困難である、精神上、肉体
上、不断の多様なる制肘は、それ自身〓に死である……。現今、日本人の組織に対する異
常なる能力に就いて、並びに西欧でいふ代議政体に、日本人が適当してゐる証拠としての
日本人の『民主主義的精神』に就いて論述する者は、現実の外観を誤解してゐるものであ
る。実際は、日本人が自治体組織に対して異常なる能力を有すると云ふことは、近代の民
主主義政体の如何なるものにも、不適当であると云ふ事の尤も有力なる証拠となるのであ
る。皮相的に見れば、日本の社会組織と、近代アメリカの地方自治体、或はイギリス植民
地の自治体との差異は、些々たるものらしく思はれる、そして吾々は日本社会の完全なる
自治的訓練に、敬服するも当然と思はれる。併し両者の真の差別は、根本的であり、莫大
てある-幾千年の歳月に依つてのみ測られる程に。其の差異は、強制的共同と自由共同
との差別である-宗教の最古なる形に基づく共産制の専制主義の形と、無制限なる個人
的自由競争の権利と共に〓度の発展を遂げたる産業組織の聯合の形との差異である
吾々が西欧文明の中に於ける、共産主義或は社会主義と呼ぶ所のものは、民主主義の宝
全なる形に近づかむとする憧憬を表はす近代的の発達であると云ふのは全く世俗の誤謬で
ある。実際、これ等の運動は逆〓り-人間社会の原始状態への逆〓り-を表はしてゐ
るのである。古代の専制主義のあらゆる形の中に、人民が自治を営む能力のあつた事を吾
吾は明確に認める。それは古のギリシヤ、ロオマに於けると等しく、古代エヂプト及び、
ルウに於ても顕はされて居る所であり、今日ではヒンヅウ及び支那の社会にも見られ、〓
シヤム、アンナンの村落に於ても、日本に於けると同様に研究し得られることと思ふ。そ
れは宗教上の共産主義的専制主義の意である、-人格を蹂躙し、企業を禁止し、競争を
公共の罪悪とする最高の社会的暴虐である。かくの如き自治にも、それ相応の長所があっ
て、それは日本が諸外国から孤立の状態で居る事を得た限りは、日本人の生活の要求に〓
然適合したものであつた。併し社会の倫理上の伝統が、同胞を犠牲にして個人の利盆を

計る事を禁ずるが如き社会は、社会の自治が個人の最大の自由と、最大範囲の競争的企業
とを是認するが如き社会に対して、産業的生存競争をしなければならなくなつたやうな場
合には、非常な不利な位置に堕ちると云ふ事は明白なことである。
吾々は、精神上及び肉体上に於て、不断の一般的強圧を受けた結果は、何もかも単一無
味の状態-全生活の表現に於ける陰気な統一と単調-をもたらすことを想像する。併
しかくの如き単調は、組合の生活に関してのみあつた事で、民族の生活に関しては存在し
なかつたのである。最も不思議な変化が、古代のギリシヤ文明の特徴となつたやうに、こ
れは日本の此の奇妙な文明の特徴ともなつて居る、而も其由来した理由に至つては二者同
「である。祖先礼拝に依つて支配された、あらゆる族長的文化に於て、絶対的同一性と
般的統一とに向ふ一切の傾向は、そのものの全体としての特質に依つて阻止されるのであ
る、蓋し全体なるものは決して単一に判を捺したやうにはならないものであるからである
其の全体なる綜合体の各単位、それを構成する小専制の集合中の一々の専制は、他に対し
甚だしく猜疑の眼を以て、それ自身の伝統と習慣とを守り、自足して居る。恁ういふ事情
から早晩、無数の様々なる細目、芸術上産業上建築上機械上の細目の変化が生まれ出て来
る。日本に於ては、かかる分化と専門化とは、かくの如くして維持せられた、そ
吾は全国を探しても、習慣と産業と生産手段とが、明確に同一であるといふ村落を、二〇
と見出すことは出来ないのである……。恐らく漁村の習俗は、私が説かんとすることの是
良の例証である。諸所の海辺に於て、各種の漁民部落は、網と小舟の建造に就いて、各白
伝来の方法をもち、各自独得の使用方法を採つて居る。一八九六年の大海嘯に際して、露
死する者三万人、漂失した海浜の村落二十を算した時に、生残者のために神戸其の他の冬
地に於て、巨額の金員が集められた。好意をもつて居た外国人達は、各地方で作られた冬
くの網と小舟とを買ひ取つて、被害地へ送り、漁船と漁業の道具の欠乏を補給しようとし
たのであつた。所がこれ等の寄与物は、全然異種の小舟や網を用ふることに馴れた北方地
方の人々には、何等の役に立たないことが解つた。のみならず、更に其の後に判明した7
とであるが、各小村毎に漁業の道具が異つてゐて、各自その独得なものが必要であつたの
である……。さてかくの如く漁民村落の生活に表はれた風俗習慣の差異は、他のいろいろ
な手工業や職業に於て、同様に表はれてゐる。家の建方、屋根の葺方は、殆ど地方毎に異
"てゐる。農業園芸の方法、井戸の掘方、織物の織方、漆器陶器の作方、瓦の焼方、皆〓
つてゐる。殆ど主要な各町各村は何等かの特産物を誇りとし、其の産出地の名称を産物
に冠した、又其の産物は他所の製品とは相違するものであつた……。祖先の祭祀が、かよ

る産業の地方的特殊の趣を、保存発展せしめたことは疑ふまでもない、手工の祖先即ち知
合の守護神は、自己の子孫または自己を礼拝する者共の作物が、その独得の性質を維持す
るやうにと、希望してゐるのだと考へられたのである。個人の企図が、組合の統制に依つ
て制肘されることはあつたが、地方的産物の特殊な趣は、その祭祀の相違に依つて、増淮
されたのであつた。家族の保守的な考へ若しくは組合の保守的な考へは、その地方の経験
から思ひつかれた小さい改良或は小さい修正は、これを黙許したのであるが、多分迷信か
ら来たのでもあらうか、変つた経験に依る結果を受け入れることに就いては、非常に用心
してこれを防いだのである。
今尚ほ、日本人自身にとつて、自国内の旅行の少からぬ楽みは、地方の産物に見る奇い
な相違を研究する楽みである、-新奇なもの、意外なもの、想像もしなかつたものを〓
つける喜びである。朝鮮或は支那から、もと借り来たつた古代の日本の芸術若しくは産善
は、無数の地方的祭祀の影響を受けて、奇妙な形態を、保存し且つ発展させたと考へられ

武権の勃興

信頼するに足る日本歴史の殆ど全部は、一つの広大な〓話の内に収められて居る、則ち
武権の興廃といふ事の内に収められる……。日本の歴史は紀元前六六〇年から五八五年〓
の間統治して、百二十七歳の寿齢を保つたとされて居る神武天皇の登極と共に始まると、
普通に云ひならはしてゐる。神武皇帝以前は、神代であつた-神話の時代である。併し
神武天皇の即位以後一千年間の、信頼するに足る歴史は伝はつてゐない、そして此の一千
年の期間の年代記は、お伽噺を去る事遠くないものと考へなければならない。この年代記
には、事実の記録もありはするが、事実譚と神話とが互によく織りまぜられて居て、両者
を区別して見ることは困難である。例へば、紀元二〇二年に、神功皇后が朝鮮を征伐した
と云はれる伝説があるが、そんな征伐のなかつた事は可なり十分に証明された。後代の記
録は、上代のよりも、幾分か神話的ではない。第十五代目の統治者、応仁天皇の御宇に、
朝鮮からの移住民のあつたといふ事は事実に基づいた伝説であるし、尚ほ其後の日本に払

ける古い漢文研究の伝説も亦事実に基づいたものである、さらに第五世紀の全部を通じて
行はれたらしく思はれる社会動乱の状態に就いての漠然たる記録も同様である。仏教は笠
六世紀の中葉に伝へられた、そして此の新しい信条に対して為された神道一派の激しい反
抗と、聖徳太子-推古天皇の摂政にして、仏教の偉大なる建設者-の祈祷に依り、四
提婆王(善霊で、阿修羅王に対するもの)の助けの下に、仏教の奇蹟的勝利を博した事管
とに就いては、記録が残つて居る。推古天皇(紀元五九三年から六二八年迄)の御宇に〓
て仏教の基礎の確立すると共に、漸く信を置くに足る歴史の時代が始まつた、時は、神武
天皇から数へて、三十三代目の日本の天子の御世であつた
註日本アジヤ協会の訳文中、アストン氏の論文『日本古代史』を見よ。
併し第七世紀以前の一切の事は、仮作物語のやうに霧に包まれて、吾々は判然と其の丘
相を掲むことはできないが、それでも初代から三十三代目迄の天皇及び女帝の御代の社会
状態に関する半神話的の記録から、吾々は多くの事を推論し得るのである。上代のみかい
の生活は、極めて質素で、その臣下と殆ど選ぶ処がなかつたらしい。神道学者の真淵の言
ふ処に依れば、天子も泥の壁と小石で貰いた屋根のある小屋の中に住み給ひ、大麻の着物
を被て、野葡萄の蔓を絡ませた木製の鞘に納めた刀を佩き、人民の間を自由に歩きまはら
れ、猟に出られる時には、自分で弓矢を携へられたといふことである。併し社会が発達し
て其の富力と権力とを増大するにつれて、此の古の簡素はなくなり、支那の習俗儀礼が、
漸時輸入されるに及んで、大変革が生じて来た。推古天皇は支那宮廷の儀礼を取り入れ
貴族に対し、始めて支那の位階を適用せしめた。支那の贅沢品は、支那の学問と共にやが
て宮廷に見られるやうになり、爾来天皇の権威は次第々々に直接に働きをする事が少くな
つた。新しい儀礼に拘はるやうになつて、万機を親裁することは以前よりも遥かに困難と
なつたに相違ない。そして精力絶倫の統治者の場合に於てさへも、多少代理者に依つて、
事を行はせるといふ誘惑の、強くなつて来た事も有りさうな事である。何れにしても、政
府の真の行政は、此の頃から、代理者-代理者はすべて藤原と呼ぶ大公卿氏族の人々で
あつた-の掌中に移り始めた。
この氏族は最高の世襲的僧職を包有し、天孫の栄を誇つて居り、古代貴族の大半を占め
てゐた。全部で百五十五家族ある公卿の中から九十五家族はこれに属してゐた-この
中には五摂家なるものも入つて居たが、この五摂家の内から天皇は伝統上、皇后を選ぶ事
になつて居たのである。其の藤原の歴史上の名称は、桓武天皇(紀元七八二年-八〇六

年)の御代に始まつたので、桓武天皇は中臣鎌足の名誉を表彰するために、此の名を与へ
られたのである。併し此の氏族は、以前から永い間宮廷に於て、最高の地位を占めてゐた
のであつた。第七世紀の末葉から、行政上の権力は〓ね此の氏族の掌中に移つてしまつた
其の後関白即ち摂政の職が制定され、近代に至る迄、それが此の家に世襲的の職権とし〓
残つて居た-幾代かの後、中臣鎌足の子孫の手からは、その実験が失はれてしまつた後
までも。併しながら殆ど五世紀の間、藤原氏は日本の真の摂政たる地位を保ち、出来得ス
限りその位置の利を専にしてゐた。すべての文官職は、藤原氏の男子の掌中に帰し、天皇
の后妃や寵姫は、すべて藤原氏の女人であつた。政府の全権は、かくして此の氏族の手に
委ねられ、天皇の大権はなくなつてしまつた。のみならず天皇の継承は、全然藤原氏の手
に依つて行はれ、在位の期間すら、藤原氏の政策に左右せられて居たのであつた。年少の
天皇に退位を強ひ、退位後は仏教の僧侶となられたる事が得策と考へられた-次いで選
ばれた後継者は往々ほんの幼児に過ぎないと言ふ有様で、二歳にして帝位に登り、四歳〓
して退位された天皇の例があるかと思へば、五歳にしてみかどの位に就き、或は十歳にし
て即位した例も数多ある。併しながら、王位の宗教的尊厳は依然として減少される事なく
むしろ増大したのであつた。みかどが政策と儀礼とのために、一般人民の視界から遠ざか
れば遠ざかるほど、其の離隔と隔絶とは、盆?尊貴な伝統的な畏敬の念を強くすることと
なつた。西蔵のラマ僧の如く、生ける神なる天子は、民衆には見えないやうにされて居た
かくして天顔を拝する者は死ぬと云ふ信仰が徐々に起つて来たのであつた…か。藤原氏は
自己の政権を確保するために、かかる専横な手段を弄することを以てさへ飽き足らず、年
少の天子の性格を惰弱にするがために、腐敗に赴かせるいろいろな奢侈を宮中に行はしか
と伝へられてゐる。さうしなければ天皇は古代からの帝位の権威を振ふ力を示される恐り
があつたからである。
此の纂奪-武権勃興の準備となつたこの纂奪-は、恐らく正当に解釈されてゐなか
つたと思はれる。古代ヨオロツパのすべての族長的社会の歴史は、社会進化の上のこれと
同一の形相を説明して居るのである。両者の発展の或る期間に於て、吾々は同様な事実-
-僧侶としての国王たる君主から一切の政権が〓奪され、しかもその王はただ宗教的尊厳
を保つやうにさせられて居る事-を認めるのである。藤原氏の政略を、単なる野心、並
びに単なる纂奪の政策と判断するのは誤りである。藤原氏はその天孫を主張して居た宗教
的貴族であつた、-宗教と政治とが同一視された社会の氏族の長であり、この社会に対
するその関係は、ユウパトリデイeupatridae(ギリシヤの古い貴族で立法の特権をもつて

居たもの)が古代アゼンスの社会に対する関係に等しかつた。みかどはもと、氏族の主長
の大多数の同意に依り、最高の長官、軍事司令官、並びに宗教上の教長となつたものであ
る、-この氏族の主長が、各自の家来に対する関係は、恰も『天皇』が社会全体に対す
る関係と同じものであつた。併し統治者の大権が、国民の発展に伴なつて増大するや、〓
来聯合して其の大権を擁護するに力めた者も、それを危険とするやうになつて来た。こフ
に於て彼等は、天皇の宗教上の優越権はその儘にして、その政治上並びに法律上の権威を
〓奪しようと意を決した。アゼンスに於ても、スパルタに於ても、又ロオマに於ても、〓
他古代ヨオロクパの何処に於ても、これと同一な理由から、宗教上の元老に依つて、同
な政策が行はれたのであつた。ロオマ上代の国王の歴史はド・クウランジュ氏の解釈に〓
へば、僧侶なる統治者と宗教上の貴族との間に醸成された反抗の性質を、尤もよく語るも
のであると、併しこれと同一の事実は、あらゆるギリシヤの社会にも行はれ、同様の結果
を生じた。何処でも、古の王は、政治上の権力を奪はれて居た。併し宗教上の尊厳と特権
とに至つてはこれを保持することを得た。彼等は、統治者でなくなつた後までも最高の僧
侶ではあつたのである。これは日本でも同様であつた。私は日本の史家が将来に於て、現
代社会学の立場から観察して、藤原時代の物語に就き、全然新しい解釈を与へるであらら
と想像して居る。免に角、天皇の大権を削減するに就いては、宗教上の貴族は、野心か。
それを行つたと共に、保守的の警戒からそれを断行したに相違ないといふ事は殆ど疑ひを
容れる余地はない。法律と慣習とに改変を加へた天皇も多くあつた-古代貴族の大部分
からは、殆ど好意を以て迎へられなかつた改変を、又今日では、ラテン語でなければ書く
事の出来ないやうな慰みをした天皇もあつた。また孝徳天皇の如き『神の化身』であり
また古代の信仰上の主長でありながら『神の道を軽視し』生国玉の御社の神木を伐り倒〓
た天皇もあつた。孝徳天皇は、仏教に対する信心のあるにも拘らず(恐らく実際その信心
のあるが為めにかも知れぬが)尤も賢明にして又尤も善良なる君主の一人であつた。併し
その『神の道を軽視する』天皇の一例となつたといふ事は、僧侶的氏族をして重大な考晴
をめぐらさしめたに相違ない……。尚ほこの他にも、注意すべき重要なる事実がある。汝
世紀の間に、正統なる皇室は、氏から全然分離するに至つた、而して他の各単位とは独立
して居たこの全能力のあつた一単位は、それ自体の内に、貴族的特権と既定の制度とに対
して重大なる危険をもつて居るものと考へられた。すべての氏族の慣習を破壊し、氏族の
特権を廃棄し得る権力ある全能なる神王の個人的性格と意思とは、余りに重大な事を起よ
かも知れない。一方に、氏族の族長的統治の支配下に在つては、すべての者が一様に安入

であつた。何となれば氏族の族長的統治はその内の一族が他族を犠牲に供して、自ら茲
しき力を振はんとするあらゆる傾向を阻止することが出来たのであるから。併し皇室の〓
祀-すべての権威と特権との伝統的本源-は、明白な理由から、これに一指だも触れ
る事は出来なかつた。則ち宗教貴族が、真の権力を自己の掌中に収め得たのは、皇室の〓
祀を維持し、それを鞏固にする事によつてのみなされたのであつた。事実彼等は真の実権
を、殆ど五世紀間掌握しつづけて居たのである。
併しながら、日本に於ける摂政の歴史は、世襲的権威は常にまた何処に於ても、その権
威の代理者に依つて取つて代はられるものであるといふ、普通の法則を充分に説明してぽ
る。藤原氏も終には、政略上から取り入れ且つ行はして居た奢侈の犠牲となつたと考へ?
れる。藤原氏は単なる宮廷の貴族に堕し、軍事方面の事は全然これを武家に委任して、内
政の方面以外には、何等直接の権威を行使する努力をしなかつた。第八世紀に及んで支〓
の方式に従つて、文武の組織が区別され、ここに大なる武人階級が現出して、急速に其の
権力を拡大するに至つた。正統の武家氏族の中で、最も有力なるものは、源氏と平氏とて
あつた。藤原氏は、戦争に関する一切の重要事項の処理を、これ等二氏に代理せしめ、其
の結果、やがて其の高い地位と勢力とを失ふに至つた。武家が強大になつて政府の権能を
制肘し得るやうになるや-これは第十一世紀の中葉のことであるが-藤原氏の一族は
多くの摂政の下に数世紀の間、要職を擅にしてはゐたが、其の主権は既に過去のものとな
つてしまつた。
併し武家も、その仲間同志で激しい争闘をした上でなければ、自分等の野心を実現する
ことはできなかつた、-これが日本歴史中の、最も長く又最も激しかつた戦役である
源氏も平氏も何れも皆公卿であつて、皇室の末裔であつた。両家の争闘の初期に於ては、
平氏がすべて優勢であつた。如何なる権力と雖も、平氏が敵なる氏族を撲滅するのを妨げ
ることはできないと考へられた。併し運命は遂に源氏の方に向つて来て、一一八五年壇の
浦に於ける有名な海戦で、平氏は滅亡してしまつた
その時から源氏の摂政むしろ将軍の治世が始まつた。『将軍』と云ふ称号は、ロオマの
兵語イムペラトルの如く、もとは単に総司令官の意味であつたと、私は別の処で述べた7
とがあつた。然るに今やそれは、文武両様の主権者-国王中の国王-たる二重の資格
に於て、事実上最高の統治者の称号となつたのである。源氏が権力を獲得した時から、〓
事政治の歴史-武権優越の長い歴史-は実際に始まつた、爾来下つて明治の現代にぶ

る迄、日本は実際に二人の皇帝を戴いてゐた。即ち一方に天皇或は神の化身は、種族の〓
教を代表し、今一つの真の大元帥は、行政上の諸権を行使してゐた。併し誰れも強力に依
つて、少くともあらゆる権威の源である日嗣ぎの御位を侵さんと冀ふ者はなかつた。摂弘
則ち将軍もその御位の前には頭を下げた。神性は纂奪さる可くもなかつたのである
併し壇の浦の戦の後にも、平和はつづいて来なかつた。源平両家の大争闘に依つて始ま
つた氏族の戦ひは、さらに五世紀間も、不規則な間隔を置いては、続いて行はれ、国家は
四分五裂の有様になつた。のみならず源氏も高価な犠牲を払つて獲得した最高権を、永く
独占し得なかつた。北条氏の一族にその政権を代理せしめたので、彼等は、丁度藤原氏が
平氏に其の位置を奪はれた如く、北条氏のために取つて代はられてしまつた。源氏の将軍
にして実際上の政権を執つたものは、僅に三人のみであつた。第十三世紀を通じて、否共
の後も尚ほ少時は、北条氏が此の国を治めた、而して注意すべき事は、これ等の摂政は、
決して将軍の名称を名のらず、単に将軍の代理職なりと称してゐた事である。かくして〓
氏が鎌倉に一種の宮廷をもつて居たのであるから、一見三頭政治があつたわけである。併
しそれ等は単に影の中に消えてしまひ、『影法師将軍』或は『傀儡将軍』と云ふ意味深い
称呼で記憶されてゐる。併しながら、北条氏の行政は、異常な才幹と絶倫なる精力の人々
に依つて行はれたので、決して影の如き空虚なものではなかつた。天皇にせよ、将軍にせ
よ、復等のために用捨なく、譲位追放に処せられた。将軍職の無力であつた事は、七代目
の北条執権職が、七代目の将軍の職を免ずる時、将軍を其の家に送りとどけるに当つて、
輛の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事実から推断し得られよう。にも拘らず、北条氏は、
四雲の将軍晴を一三三三年まて、そのままにつづけさせた。其の手段に不謹慎な点がある
にせよ、これ等の執権が有能の統治者であつたことは、一二八一年のキユブライ汗の有名
なる侵略-の如き大事変に際して、救国の任に堪ふるの実力を示した事に依つて知られ
る。国家の大社に捧げられた祈願に答へて、敵艦隊を打ち沈めたと伝へられる幸運な大風
(神風)に助けられて、北条氏は此の侵入者を駆逐することができた。併し北条氏も、内
〓を鎮定するには成功しなかつた-特に騒がしい仏教の僧侶に依つて起こされた乱には
〓成功であつた。第十三世紀に、仏教は発達して一大武力となつた、-不思議にもヨま
ロツバ中世紀の戦闘教会に似て居る、僧兵、戦闘僧正の時代とでも云ふのである。仏教の
僧院は、武装した人々で一杯になつて居た城塞と化した。仏教の脅威は一度ならず、宮廷
の聖い離隔した処まで恐怖をもち込んだ。源氏一統の先見の明をもつて居た創設者なる戯
朝は、当初仏教に軍事的傾向のあるのを看取し、すべての僧侶が武器を携へ、若しくは武

装した家人を養ふことを厳禁して、かくの如き軍事的傾向を阻止しようと企てた。然るに
彼の後継者達は何れも、かくの如き禁令を励行することを怠つたので、其の結果仏教の武
力的勢力は、非常に急速に発達し、為めに機敏なる北条氏と雖もこれに対抗し得るや否
や頗るその実力に就いて疑ひを抱いたのであつた。結局此の勢力は、北条氏に非常な煩〓
を与へることになつた。第九十六代のみかど後醍醐天皇は、北条氏の専横に反抗するの勇
気を振ひ起こし、又仏教の僧兵は天皇に味方をした。天皇は脆くも敗れ、隠岐の島に逐は
れ給うた。併し天皇の大義は、やがて永年執権の専制に憤激して居た有力なる領主達に依
つて、擁護せられた。これ等の領主達は勢力を集め、逐はれた天皇を取りかへして旧に復
し、力を協はせて執権の首府たる鎌倉に、必死の攻撃を試みた。鎌倉は襲撃され焼焼され
た。そして北条氏の最後の統治者は、勇敢に防戦したが遂に及ばず、腹〓き切つて果てた
かくの如くして、将軍政治と執権職とは共に一三三三年に滅亡した
かくして一時、行政上の全権はみかどの手に復帰した。天皇御自身にとつても、又日太
の国にとつても、不幸なことには、後醍醐天皇の性格が、余りに弱きに過ぎたため、此の
得難き大事な機会を有利に用ふることができなかつた。天皇は、御子を将軍に任命して、
すでに無くなつた将軍職を再興した。天皇は、優柔不断で、忠義と勇気とによつて、自八
を旧の位に復さしめてくれた人々の功績を無視し、かへつて愚かにも、当然恐れて然るバ
き人々の勢力を強大にするやうな事をした。其の結果として、日本歴史中の、最も重大な
る政治的危機、即ち皇室そのものの分裂を招致したのであつた
北条執権の傍若無人な専制は、かくの如き事件の起り得べき道を作つたものであつた
第十三世紀の晩年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廃帝が居られた。されば〓
位継承の争ひを招致するのは容易な事であつた。そしてこの事は、後醍醐天皇が不覚にも
特別の恩寵を与へられた二心ある武将足利尊氏に依つて果たされたのであつた。足利は既
に後醍醐天皇の復位を助けるために北条に反き、次いで彼は政権を握らんがためには後醍
醐天皇の御信任をさへ裏切らんとしてゐたのである。天皇がこの奸計に気づかれた時は〓
に遅かつた。そして軍隊を足利に向け給うたがそれは敗られてしまつた。それからなほ鉛
争のあつた後、足利は首都を占有し、後醍醐天皇を二た度流謫し、その仲違ひの天皇を立
て、新しい将軍職を設立した。ここにて始めて、皇室の二派は、それぞれ有力な領主達
に支持せられて、継承権を争つた。後醍醐天皇を尚ほ実際の代表者とした一派は、歴史上

南朝として知られ、それを日本の歴史家は唯一の正統派としてゐる。他の方は北朝と呼ば
れ、京都にあつて足利一族の勢力に依つて支持せられてゐた、一方、後醍醐天皇は、仏務
の僧院に難を避けられ帝国の国璽を保持して居られた……。爾後五十六年間、日本は二方
のみかどを戴いてゐたのである。その結果として生じた乱脈は、国家の保全を危からしめ
たのであつた。孰れの天皇が正しい権利を有つて居られたかを決定する事は、人民にとい
て、容易な事ではなかつたであらう。それ迄は天皇の一身は国家の神性を代表し、宮廷は
国家の宗教の宮と考へられてゐたのである、それ故、足利の纂奪者に依つて始められたこ
の分裂は、現社会が依つて以て建立されたる全伝統の破壊に外ならなかつた。混乱は盆ゝ
甚だしく、危険は愈?増し来たつて、終には足利氏自身も驚いてしまつたのである。こ
に於て足利一族はこの苦境を切り抜けんとして、南朝の五代のみかど、後亀山天皇を説き
奉り、国璽を時の北朝のみかど、後小松天皇に譲り給ふやうにと願つた。これが一三九一
年に実行されて、後亀山天皇は退帝としての称号を贈られ、後小松天皇が正統の天皇とし
て国民から認められる事になつた。然し北朝の他の四人の天皇の御名は、尚ほ公儀の表か
らは除かれてゐる。
足利将軍は、かくしてこの非常な危機を〓し得たのである。然し、一五七三年迄続いた
この武力主宰の時代は、尚ほ日本歴史に於ける最も暗黒な時代たることを免れなかつた
足利氏は十五人の統治者を置いて国政に当たらしめたが、その中には有能な士も多くある
た。彼等は産業を奨励し、文芸の発達に務めた。然し平和をもたらす事は出来なかつた。
争ひが後から後からと起つた、そして領主達は将軍の命に服せず、互に干戈を交じへた
首都は乱れて、恐怖の状を呈し、宮廷の貴族達は逃れ出て、自分達を保護して呉れる力の
ある大名の許に走らなければならぬ程になつた。盗賊は全国到る処に出没し、海賊は海を
脅かした。将軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた。終には農
業も商工業も、有力な領主の領土以外では存在しなくなつてしまつた。各地方は荒廃し、
饑饉と地震と疫病との恐怖は、絶え間なき戦乱の惨苦に加へられた。貧困の一般であつか
事は、後土御門として歴史に知られてゐる天皇-天津日嗣の第百二代なる-が一五〇
○年に崩御された時、大葬費が支出されなかつたため、その御遺骸が四十日も、宮廷のス
口に止め置かれてゐたと云ふ事実から、最もよく想像される事と思ふ。一五七三年迄、,
の惨状はつづいた。そして将軍職はその間に無力無能に堕落してしまつた。その時一人の
強健な武将が起つて、足利家を亡ぼし、支配の権を握つた。この纂奪者は織田信長で、こ
の纂奪は非常に要求されて居たものであつた。若しこの纂奪が起こらなかつたなら、日本

は遂に平和時代に入らなかつたであらうと思はれる。
何となれば、五世紀以来平和と云ふものはなかつたからである。天皇も、執権も、将軍
も、全国にその統治を確立する事は出事なかつたのである。何処かで、終始氏族同志は万
に戦争をして居た。第十六世紀の頃には、一身の安全なるものは、僅に、保護を与へる代
償として自分の欲する処を行ひ得るやうな有力な武将の、その保護の下にあつてのみ得ら
れるのであつた。皇位継承の問題-第十四世紀の間殆ど帝国を砕破した-は無法な党
派に依つて何時再び起こらぬものでもなかつた。そしてその結果は恐らく文化を滅ぼし。
国民を強ひてもとの野蛮な状態に〓すのであつた。この時程日本の将来が暗黒であつた時
はなかつたのであるが、その時〓然織田信長が帝国に於ける最強者として顕はれ、これ〓
一人の頭首に服従したもののうちの尤も恐るべき軍隊の主将となつたのである。信長は神
道の神官の末裔であるが、何よりも先づ愛国者であつた。彼は将軍の名称などはほしがら
なかつたし、又それを受けもしなかつた。彼の望みはこの国を救ふ事であつた。彼は、〓
の希望を達するには、何うしてもあらゆる封建的の力を一つの支配の下に集中し、法律を
強制する他はないと考へた。この集中をなし遂げる方法と手段とを探し求めた結果、彼は
先づ最初に除かなければならない障害の一つは仏教の戦闘力-北条執権の下に発達した
封建的仏教、特に強大なる真宗、天台宗に依つて代表されるそれ-に依つて創られた随
害であることを察知した。この両宗派は既に信長の敵に助けを与へて居たのであるから、
争ひの口寝を得るのは容易な事であつた。それで彼は先づ天台宗を相手として向つた。〓
争は猛烈な勢ひを以て行はれ、比叡山の僧院なる城塞は襲撃せられ全滅せしめられ、僧但
は尽?く皆その門徒と共に刄にかけられた-女子供に至る迄も少しの慈悲も加へられな
かつた。元来信長の性質は残忍ではなかつた。然しその政策は厳酷であつた。そして、加
何なる場合に、又何故に強烈な攻撃を加ふべきかを知つて居た。この虐〓以前に於ける天
台宗の強大であつた事は、比叡山で焼かれた僧院の数が三千もあつたと云ふ事実を以て相
像し得られるであらう。大阪に本山を有つてゐる東本願寺の真宗派も、それに劣らず勢
があつた、そして今の大阪城の立つて居る所を占めてゐたその僧院は、国中最強の城塞の
一つであつた。信長は幾年か待つて居たが、それはただ攻撃の準備をするためであつた。
僧兵はよく防戦した、この包囲中に五万の生命が失はれたと言はれて居る。しかも天皇〓
らの御仲裁が、確にこの要塞の襲撃と城壁内の人々の〓戮とをとどめ得たのであつた。エ
呈に対する尊崇の念から、信長は真宗僧侶の生命を助ける事を承諾し、彼等僧侶は只だ所
有を没収せられ、分散せしめられただけで済んだが、その勢力は爾来永久に砕かれたので

あつた。仏教をかく有功に挫き果たしたので、信長はその注意を互に相争つて居る氏族の
方に向ける事が出来た。この国民がこれ迄生んだ最大の武将等-秀吉及び家康-の古
持を得て、彼は更に進んで平和と秩序とを敷かうとした。そして彼の雄図が正に成らんと
した時、一人の家臣の復仇的謀反のため、彼は一五八二年に敢へなく最期を遂げた、
その血管に平氏の血を有つてゐた信長は、根本的に貴族であつて、行政に就いては、そ
の大宗族の有して居た才能を継承し、外交のあらゆる伝統を体得してゐた。彼のための復
仇者であり且つは後継者であつた秀吉は、信長とは全く異つた型の武人であつた、彼は
農夫の子であつたが、その鋭敏と勇気と、自然に備つた武芸の技と、戦争の掛け引きに対
する生まれながらの才能とを以て、その高位をかち得た訓練を経ざる天才であつた。信長
の雄図に対して、彼は常に同情をもつて居り、そして実際その雄図を遂行した-彼に〓
白の位を授け給うた天皇の名に於て、南北に亙つて全国を平定したのである。かくして〓
国の平和は一時打立てられた。然るに秀吉が集め且つ訓練した大武力はやがて制御し難い
ものとなる徴候を現はし始めた。ここに於て彼は彼等に仕事を与へんがために、朝鮮に対
し理由なき戦ひを宣し、それに依つて支那征服を果たさんと希望した。朝鮮との戦争は
五九二年に始まり、一五九八年迄不満足な状態で長引き、その年に終に彼は歿したのであ
る。彼は正に不世出の偉大なる武人である事を示したが、最良なる統治者の一人ではなか
つた。朝鮮征討も、若し彼が自分親ら、その事に当つたならば、もつといい結果が獲らい
たかも知れないのである。事実は、その戦争は両国の力を消耗せしめただけであつた。ヲ
して日本は奈良の『耳塚』-それは外国の〓された者の頭を塩漬けにして、それから切
り取つた三万対の耳を、大仏の御堂の境内に埋めて、その場所を明示したものである-
を除けば、海外に高価を払つて得た勝利として、他に殆ど示すべきものを有つて居なかっ
たのである
次いで権力の位置のなくなつた場所へ入つて行つたものは、日本に生まれた最大の偉人
-徳川家康であつた。家康は源氏の嫡流で、何処までも貴族の人であつた。秀吉を一〓
敗つた事もあつた程で、武人として彼は秀吉に劣つては居なかつた、-然し彼は武人以
上の人物であつた。則ち彼は達観の経世家であり、絶倫の外交家であり、更に学者とも言
はるべき人であつた。冷静に、慎重で、権謀あり、-疑ひ深くしかも寛容に、-厳〓
にしてしかも情味あり-その天才の広く且つ多様なるは、ジユリアス・シイザアに対〓
するも敢て劣るとは言はれなかつた。信長や秀吉が為さんと欲して為し得なかつた処を
家康は迅速に完成した。『異国にさまよふ亡霊となるやうに』-則ち祀られざる霊魂の

状態で-朝鮮に軍隊を残して置かないやうにといふ、秀吉臨終の命令を果たした後、家
康は自分の支配権に抗議するために結束した諸侯の同盟に面を向けなければならなかつた
関ケ原の激戦は、彼を全国の元首とした。それで直に彼は、自分の権力を鞏固にし、武権
政府の全機関を、微細に亘つて完成すべき手段を講じた。将軍として、彼は大名制度を改
道し、封地の大部分を、自分の信頼し得る者の間に分かち、新しい武権階級を設け、且つ
大藩主の勢力を、殆ど謀反の出来ないやうに秩序を定めてこれを平均した。後には大名達
は自分の他意なき所行に対しては保証をさへ差し出す事を要求された。則ち大名は一年由
の或る期間を、将軍の首都で過ごし、その残りの期間は人質として、その家族を残して置
かなければならなかつた。行政全体が簡潔にして賢明なる企画の上に建て直された。事実
家康の法律は彼が非凡な立法家であつた事を証明して居る。ここに日本歴史上始めて国民
は完成されたのである-少くとも社会的単位の特質が、それを可能ならしめた限りに払
て、完成されたのである。この江戸の建設者の勧告した事は代々の後継者の従ふ所となり
又一八六七年迄続いた徳川将軍家は、国に十五人の武権の主君を与へたが、その下に日本
は二百五十年の間、平和と繁栄とを享有し得たのである。そして社会はかくしてその独得
の型の最大限度迄発展する事が出来たのである。産業や芸術は新しく驚くべき程に発達し、
文学は立派な後盾を得たのであつた。国家の祭祀は大事に支持され、第十四世紀に国を殆
ど危殆に〓せしめたかの皇位継承の争ひの、再び起こる事を防ぐためには、あらゆる慎〓
な注意がとられたのである。
註江戸に義務的在住(参勤)の期間はすべての大名に対して同一ではなかつた。或る場合にはその義務
は六箇月に及び、また或る場合には一年置きに首府に居る事もあつた。
吾人の見た如く、日本に於ける武力的統治の歴史は、信頼するに足る歴史の始ど全期問
を包含して、近代に迄至り、国民的完成の第二期を以て終つて居るのである。最初の第
期は、諸氏族が初めて最大なる氏族の主長の指導を受け容れた時に始まつた、-爾後)
の主長は天皇として、最高の司祭として、最高の審判者として、最高の司令官として、日
つ又最高の長官として尊敬されて居た。この族長的王国の下にあつた最初の完成の出来る
まで、どれ程の時日が要せられたか、それは解らない、併し二頭政治の下にあつた後の完
成が、優に一千年以上を占めてゐたことは既に述べた通りである……。今や注意すべき〓
常な事実は、これ等の世紀を通じて、皇室の祭祀はみかどの敵すらも大事にこれを守つて
来たと云ふことである。みかどは、国民的信仰の唯一の正統なる統治者であり、天子則ち

「天の子息』-天皇則ち『天の王』である。騒乱の各時代を通じて、日の子孫は国民的
体拝の的であり、又其の宮殿は、国民的信仰の神社であつた。偉大なる武将は、或は天自
の意思を制肘した場合もあつた、併しそれにも拘らず、彼等は自分自身を神の化身の礼〓
者であり、奴隷であるとしてゐた。そして法令を以て宗教を悉?く廃棄してしまはうとい
ふやうなことを考へる者もなかつたと同様に、皇位を占奪しようといふやうな事を考へる
ものもなかつたのである。ただ一度、足利将軍の専横なる愚挙に依り、宮廷の祭祀は甚だ
しく阻害されたこともあつた。そして皇室の分裂から起つた社会上の地震は、纂奪者等を
して、その過失の如何に大なるかを思ひ至らしめた……。万世一系の皇位、皇室礼拝の連
綿たる継続のみが、家康をしてすらも、社会の融和し難き諸単位を纏めて、鞏固にする事
を得せしめたのであつた。
ハアバアト・スペンサアは、社会学の徒に次の事を認めるやうに教へた、則ち宗教的お
王朝は異常な永続性を有つてゐる。それは変化に抵抗する異常な力を有つてゐるからであ
る。然るに武力的王朝は、その永続性が主権者の個性に拠るので、特に崩れ易いのである
と。日本皇室の偉大なる永続性は、単に武力的支配を代表する幾多の幕府や執権府の歴由
と対照して、この説を最も著しく説明してゐる。二千五百年を振り返つて見る時、吾々は
皇位継承の連綿たるを辿り、終に過去の神秘の中にその姿を没するに至るのを見るのであ
る。茲に吾々は宗教的保守主義の本来の特質てある、あらゆる変化に抵抗する絶大な力
証拠を見る次第である。それと共に一方に、幕府や執権府の歴史は、何等宗教的基礎を右
たず、従つて何等宗教的凝集力を有たない制度の、崩壊に至る傾向をもつて居る事を証冊
して居る。藤原氏の統治の、他に比較して著しく継続した事は、藤原氏は武力的と云ふよ
りも、寧ろ宗教的貴族であつたと云ふ事実に依つて説明され得るであらう。家康が工夫し
た驚異すべき武力的構造すらも、異国の侵入がその避くべからざる崩壊を早めた以前、』
に衰退し始めてゐたのである

忠義の宗教

『社会学原理」の著者は曰ふ、『武権専制の社会は、自分等のその社会の勝利を以て、
行動の最高目的とする一種の愛国心を有する必要がある。彼等は権力者への服従心の源泉
てある忠義の心を収攪して居る必要がある、-而して、彼等の従順なるがためには、妙
等は充分なる信仰を有たなければならぬ』と。日本人の歴史は鞏固にこの真理を例証し
ゐるものである。いづれの他の人民の間にあつても、忠義の念が、この国民以上に感銘を
与へるやうな且つ異常な形を採つた事は未だ曽てない事である、又いづれの他の人民の四
にあつても、その服従心がこれ以上の信仰を以て培はれた事はない、-信仰とは祖先の
祭祀から出た信仰である。
読者はお解りの事と思ふ、如何にして孝道の教へ-服従に就いての家族的な宗教なる
孝道-が社会の進化と共に拡がり、且つ頓てそれが分かれて社会の要求した政治的服声
並びに戦将が要めた軍事的服従-その服従はただに従順の意のみでなく、情をこめたる
従順であり-責任の感のみてなく、本分を守るといふ情である-となるかを了解さ
に事であらう。その起原から考へて、かくの如き本分を守るといふ服従はその本質上宗断
的である、そして忠義の感に表はれた場合、それは尚ほ宗教的性質を有つてゐる-一五
ク自己献身の宗教の不断の表明となつてゐる。忠義の感は早く武人の歴史の中に発達して
居て、吾々は最古の日本の年代記の中に、その感動すべき例を見るのである。吾々はま
恐るべき話を知つて居る-自己犠牲の話を
家臣はその天孫である領主から総てのもの-理論上計りてなく実際に、則ち持物、
庭、自由及び生命を-貰つて居た。これ等の物の一部又は全部を、家臣は領主のために
は、要求に応じて苦情を言はずに、提供しなければならなかつた。而して領主に対する道
なは、自家の祖先に対する義務と同様。主人が死んでもなくなるものではなかつた。両
の亡霊がその生きて居る子供達に依つて食物を供へられる通りに、領主の霊魂も、その在
出中直接その服従して仕へてゐた人々に依つて礼拝を以て奉仕されるべきてあつた。統治
者の霊魂が、何等従者を伴なはずして、只だ一人影の世界に入つて行く事は、許すべから
ざる事であつた。少くともその生存中仕へてゐた者の幾人かは、死んでその人に従はな

ればならなかつた。かくの如くして上古の時代には生費の習慣-初めは義務的に、後い
は任意的に行つた-が起つたのである。前章にも述べた通り、日本では生費なるものが
大きな葬式には欠くべからざるものであつた、それは第一世紀頃迄残つてゐたが、その百
から始めて焼いた粘土の人の形(埴輪)なるものが公然の犠牲に代つたのである。この差
務的殉死、則ち死を以てその主君に従ふと云ふ事が廃止されて後も、自己の意志から出か
殉死なるものは、第十六世紀に至るまで存続し、それが武権に伴なふ風俗となつた事は
既に述べた所である。大名が死んだ時には、十五人や二十人の家臣が腹を切る位の事は普
通の事であつた。家康はこの自殺の習慣を禁止しようとした。その事は彼の有名な遺訓の
第七十六条に次のやうに述べられてゐる-
主人死而其臣及殉死事非無古例其聊以無其理君子已誹作桶直臣は勿論陪臣以下迄堅可
制之若違背せは却非忠信之士其跡没収して犯法者の鑑たらしむへき事
家康の命令はその家臣の間に殉死の風をなくさしたが、その死後にはつづいて行はれた
むしろ複活した。一六六四年、将軍家は訓令を発して、何人を問はず殉死をなした者の家〓
族は罰せられる旨を闡明し、実際将軍はそれに熱心であつた。則ちこの訓令を右衛門之丘
衛なるものが侵して、その主奥平忠正の死に際し切腹した時、政府は直にこの自〓者の一
族の土地を没収し、その二人の子息を死刑に処し、他の者を流罪にした。現在の明治の〓
にさへ殉死は屡?行はれはしたが、徳川幕府の決断的な態度は、大体に於てその実行を〓
止し得たのである、それで後には最も忠烈な家臣も、宗教を通じてその犠牲を行ふことを
通則としてゐたのであつた。則ちはらきりを為さずに、家臣はその君主の死に際して頭を
剃り、仏門に入るやうになつたのである
殉死の風は日本の忠義の念の只だ一面を表はしたものに過ぎない。殉死の他に、よしみ
れ以上とは言はれないまでも、それと同様に意義の深い風習があつた。-例へば、殉〓
としてではなくて、武士の教訓の伝統から要められた自己に被らす処罰としての武人一流
の自〓の習慣の如きがそれである。処罰の上の自殺としての、はらきりを禁ずる明白なる
理由から成る立法上の法令はなかつた。かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事で
あつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から伝来したものであるかも知
れない。古代の日本人は縊死に依つて、自〓を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の

証明する所である。腹切を一つの風習として又特権として始めたのは武人階級であつた。
以前は、敗軍の将や、包囲軍の強襲にあつた城塞の守将は、敵の手に落ちるのを避けるか
めに自尽した、-それは現在に至る迄残つてゐた習慣である。武士に死刑の辱を受けさ
をる代りに切腹する事を許した武人の慣習は、第十五世紀の終り頃に、一般に行はれる〓
うになつたと考へられる。爾後武士は一言の命令で自〓するのが、当然の本分となつた。
武士は総てこの規律的な法律に従はせられ、地方の領主と雖もこれを免れる事は出来なか
った。そして武士たるものの家族では、子供等は男女共に、自分一身の名誉のためか、武
は君の意志でその要求のあつた場合、何時でも自殺の出来るやうに、その方法を訓へられ
てゐた……私は言つて置くが、婦人ははらきりでなく、自害をした-委しく言へばただ
一〓きで動脈を断ち切るやうに短刀で咽喉を〓く事である……切腹(はらきり)の
の儀式の
評細の事に就いては、それに関する日本文をミツトフオド氏が翻訳したものに依つて充分
〓く知れ亙つてゐる故、私はその事に触れる必要はあるまい。ただ記憶すべき重大な事管
は、武士(さむらひ)たる者の男子や婦人に、何時でも劔を以て自〓の出来るやうに、心
がけてゐる事を要求したのは名誉と忠義の心とのためであると云ふ事である。武士に取へ
ては、あらゆる破約(有意的にせよ無意的にせよ)、難かしい使命を果たし得なかつた事、
見苦しい過失、否、君主から不機嫌な一瞥を受けただけでも、はらきり、則ち好んで難ふ
しく言へば、漢語で言ふ切腹の充分なる理由になつた。高い位の家臣の間では、君主の〓
行に対して、それを正しくする、あらゆる手段が尽きた時、切腹に依つて諫めると云ふ車
が、矢張り一つの本分であつた-その雄壮な風習は、事実に基づいた幾多の人気ある〓
曲の主題となつて居る。武士階級の結婚した婦人の場合は-直接に関係あるのはそのま
に対してであつて、君主に対してではないが-戦時に於て名誉を維持する手段として、
大抵は自害の方法を取つた。尤も時には、夫の死後その霊に貞節を誓ふために為された事
もあつたが。処女達の場合に於ても同様であつた。その理由に至つては異る所がありはー
たが、-武士の娘達は往々貴族の家庭に召使として入つたものであるが、その家での〓
酷な陰謀は容易に娘達の自〓を招致し、若しくは又君主の奥方に対する忠義の念が自〓を
要める事もあつた。召使としての武士の娘は、普通の武士が領主に対すると同じやうに、
親しくその奥方に忠節を尽くさなければならなかつた。されば日本の封建時代には幾多の
雄壮な女が居る次第である
註日本の道学者盆軒は恁ういふ事を書いた、『女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服従すべし』

極古い時代には死罪に処せられた役人の妻たるものは、自殺するのが習慣となつて居か
らしい-古代の年代記にはその例が沢山ある。併しこの風習は恐らく幾分古代の法律い
依つて説明される、則ちその法律は、事件とは関係なくして、罪人の家族は、その罪に対
して、罪人自身と同じ責任を有するものとしてゐたからである。併し又夫を失つた妻が
失望のためではなくて、他界まで夫に従ひ、生存中と同じやうに夫に仕へようとする願ひ
から、自〓をするのは、また正に極めて当然な事であつた。死んだ夫に対する旧い義務の
観念をあらはす女の自殺の例は、最近にもあつた事である。かくの如き自〓は尚ほ昔の〓
建時代の規則に従つて為される-この場合女は白装束をする。最近の支那との戦争の時
に、この種の驚くべき自殺が一つ東京に起つた、その犠牲者は戦死した浅田中尉の妻でょ
つた。彼女は僅二十一歳であつた。彼女は自分の夫の死を聞くや、直に自分の死の用意い
かかった-昔の慣例に従つて親戚の者に別離の状を書き、身の〓はりの始末をつけ、定
中を綺麗に掃除して、それから彼女は死の装束を身につけ、客室の床間に向つて筵を敷き
夫の写真を床間に飾つて、その前に供物をあげた。用意が万端整ふと、彼女は写真の前に
坐つて、短刀を取りあげ、そして見事な一〓きを以て、咽喉の動脈を断つたのである
名誉を維持するために自殺するといふ義務の他に、武士の女子にとつては、道徳上の抗
議として自〓をする義務があつた。〓に述べた如く、最高なる家臣の間には、君主の非行
に対する諫告として、あらゆる説得の手段もその効果のなかつた時、はらきりを行ふ事は
一つの道徳上の義務であると考へられてゐた。さむらひの婦人-自分の夫を、封建的〓
意味での君主と思へと訓へられてゐる-の間では、夫の不名誉な行ひに対して、忠言ぬ
諫告をしてもそれを夫が聴き入れない場合、自分の本分を表白するために自害する事は、
一種の道徳的義務とされてゐたのである。かくの如き犠牲を奨励する所の妻たる者の義務
に就いての理想は今尚ほ残つてゐて、道徳上の非行を叱責するために生命を惜しげもなく
投げ出した例は、最近に於ても一つならず挙げられる。一八九二年、長野県に於ける地方
選挙の時に起つたものは、恐らく最も感動を与へる例であらう。石島といふ名のある物持
ちの選挙人が、或る候補者の選挙に立派に助力すると公約した後、寝返りして反対党の候
補者を援助した。この約束の破棄を聞くや、石島の妻は、白装束に身をかため、昔のさ〓
らひの仕方に従つて自害し果てたのである。この剛気な婦人の墓は、尚ほその地方の人達
に依つて花を以て飾られて居り、その墓石の前には香の煙が絶えない。
命令に依つて自らを殺す事-忠義なさむらひの夢にも疑はなかつた一つの義務-

同じく十分に一般から認められてゐた尚ほ一つの義務、則ち君主のために自分の小児や妻
や家を犠牲にすると云ふ事に比べれば、遥かに容易な事と考へられたらしい。然るに日本
の有名な悲劇には、大名の家臣や一族のものが為したかかる犠牲に関する事件-主君の
子供を救ふために自分の子供を殺した男や女-に関したものが多い。且つ多くは封建の
歴史に根拠を有つたこれ等の、劇的作物には、事実が誇張されてゐることだらうと考へる
べき理由は一つもない。勿論、これ等の事件は劇の場面に適するやうに、仕組みをかへ
〓大されては居る。併し昔の社会を示した、大体の光景は、過去の現実よりも寧ろ陰惨で
ないのである。人々は今尚ほ此の種の悲劇を好む、そしてそれ等の戯曲文学に就いての外
国の批評家は、流血の所だけを指摘し、それを血腥い場面を好む国民の性質として-
の人種が本来もつて居る残忍性の証拠として-これを解釈するのを常とする。併し私
考へる所では、この昔の悲劇を好むと云ふ事は、寧ろ外国の批評家が何時も努めて無視せ
んとする所のもの-この人民の深い宗教的性向-の証拠なのである。これ等の芝居は
伺ほ喜ばれてゐる-それはその芝居の恐ろしさの為めでなく、その道徳的教訓の為めで
ある-犠牲と勇気との義務、則ち忠義の宗教の表現の為めである。それ等の芝居は則ち
最高の理想に対する封建社会の犠牲殉難の精神を表はして居るのである
社その適例として東京の長谷川に依つて出版された見事な絵入の戯曲『寺小屋』の翻訳を見よ。
この封建社会を通じて、忠義に関するこの同じ精神は、いろいろな形で表白されて居た
さ、らひがその領主に対する如く、弟子はその親方に対して、番頭はその店の主人に対〓
てと云ふ風にである。到る処に信任があつた。何故なら到る処に、主人と召使の間の相五
の義務といふ同じ感情があつたからである。いづれの商売も何れの職業も忠義の宗教を有
つてゐた-則ち、一方では、必要の場合絶対的の服従と犠牲とを要求し、他の一方では
親切と扶助とを要求した。而して死者の支配がすべてのものの上にあつたのである
親或は君主を〓害したものに復讐をするといふ社会上の責任は、この親又は君主のた〓
に死ぬといふ義務と同様に、その起原の古いものであつた。確定した社会がまだ出来なか
つた時代に於てさへ、この義務の存して居たことは認められる。日本最古の年代記には、
復讐の義務の例が沢山にある。儒教はより以上にこの義務を確認した-則ち人にその君
主、親、若しくは兄弟を〓した者と『同じ天の下に』生きて居る事を禁じ、且つ近親若し
くはその他の関係の等級を定め、その等級の内にあるものに取つては、復讐の義務が避く
べからざる事とされて居たのであつた。儒教は早くから日本の支配階級の道徳となり、〓

近に至る迄さうであつた事は記憶して置くべき処である。儒教の全組織は祖先礼拝の上〓
立てられ、殆ど孝道の教への拡大完成に他ならぬものであつた事は、私のすでに他の条下
で述べた処である。それ故この教へは日本の道徳の実際と完全に一致したものである。ロ
本に武権が発達したにつれて、復讐に関する支那の法典は遍く認められるやうになり、〓
世に至つては法律上からも慣習上からも支持されるやうになつた。家康自身もそれを支共
した-仇討をしようとする者は、先づ届書を書いて地方の刑事法廷にそれを差し出し〓
置くといふ事だけを条件として。この事に関する個条の原文は興味あるものである-
王父之怨寇は為報酬之共不可戴天聖賢も許之有此翻者は記決断所帳面究年月可合
遂其志然共重敵討は堅可禁止之但帳外之族は狼藉同然刑宥可依其品事
註若しくは偽善的狼族hypocritical wolvesといふ-詳しく言へば、正当な復讐といふ口実を以て自
分の罪悪を免れんと欲する野獣の如き殺害人の意。(この翻訳はラウダア氏の手になるもの)
両親でも近親の者でも、君主でも師匠でも、そのために何人かが復仇してやるべきであ
つた。随分多数の有名な小説や戯曲は、婦人に依つて為された復の題目を扱つてゐる、
そして又実際被害者の家族の中に、その義務を果たすべき男子の無かつた場合には、婦人
や又は子供迄もが、復仇者となつた例は往々あつた事である。弟子もその主人のために復
讐をした、又刎頸の友人同志も、互ひのために復讐してやらなければならなかつた
何故に復讐の義務が肉身の親族の範囲に限られてゐなかつたかと云ふ事は、勿論、その
社会の特殊な組織から説明され得るのである。吾々の〓に見た如く、その族長的家族は
種の宗教的団体であり、また家族の結び目は自然の愛情から出た結び目でなく、祭祀に依
る結び目であつたといふ事は、〓に言つた処である。又一家の組合(小社会)に対する関
係、組合の氏族に対する関係、並びに氏族の部族に対する関係は、同様に宗教的関係であ
つた事も既に述べた処である。この必然な結果として、古い復讐の慣習は、血縁責任であ
ると共に、家族、組合及び部族の祭祀から生ずる責任に依つて定められ、更に支那道徳の
移入、武権状態の発展と共に、義務としての復讐の思想は、広い範囲に及んだのである。
養子や義兄弟と雖も、その責任の点では実子や血縁の兄弟と同じであつた。又師匠はその
弟子に対して、父と子との関係に立つてゐた。自分の実の親を打つ事は、死に値する罪で
あつた。その師匠を打つ事も、法律の前では、同じ罪とされてゐた。この師匠が父として
の尊敬を受くる資格に就いての思想は、支那伝来のものであつた。則ち孝道の義務を『精

神上の父』へ拡大したものである。この他にもかかる拡大があつた、そして日本にせよ支
那にせよ、すべてこれ等の事の起原は、等しく祖先礼拝にまで溯られるのである。
さて、日本の古い風俗を取扱つたいづれの書物でも、未だ正当に主張せられた事のない
のは、敵討(かたきうち)は本来宗教的意義を有つてゐると云ふ事である。古い社会に於
て成立して居た仇討のあらゆる慣習が、宗教に起原して居るといふ事は、勿論、よく知ら
れてゐる、併し日本の仇討に対しては、その宗教上の性質を、現時に至る迄変はる事なく
保持してゐたと云ふ事実の点に於て、それが特殊な興味をもつて居るのである。かたき
ちは真に死者への一種の慰安贖罪の行為であるが、それは仇討が果たされた場合の儀式ー
敵の首を慰安贖罪の供物として、仇を討つて貰つた人の墓の上に置く事-に依つて証
明される。この儀式の中の最も感動を与へる特徴の一つは、以前に行はれた事であるが
仇討をして貰つた人の亡霊に向つて為される報告であつた。時にはそれは只だ口づから話
しかけられるだけであつたが、また時にはそれが文筆を以て書かれ、その文書が墓の上に
残された事もあつた
吾が読者で、ミツトフオド氏の非常に面白い『旧日本の話』や、その『四十七士』の実
話の翻訳を知らない人は恐らく無いであらう。併し果たして多くの人々は、吉良上野之令
の断られた首を洗ふ事の意義、又は故藩主のために復讐する機会を長い間待ち覗つて居た
勇敢なる人々が、彼に捧げた報告の意義を認めて居るか、どうか、私は疑ひを抱いて居る
ものである。この報告、それを私はミツトフオド氏の訳文から引用するが、この報告は浅
野侯の墓前に供へられたものである。それは泉岳寺と云ふ寺に今尚ほ保存されてゐる-
元禄十五壬午の年十二月十五日、只今面々名〓申す通大石内蔵
助を始て御足軽寺坂吉右衛門迄、都合四十七人進死臣等、謹奉告亡
君之尊霊、去年三月十四日尊君刄傷吉良上野介殿之御事、私共不奉"
存其仔細、然所尊君者御生害、上野介殿は御存命、御公裁之上は、
我等共如斯之企非尊君之御心、而却而御怒り奉恐入候得共我等共に
君之食禄申、共に天不戴之義難黙止、共に不可蹈地之文無恥不可申、
然故饗請て可被下之無主、昼夜感泣仕候上無御座候、縦恥を抱へ空
相果候とも、於泉下可申上詞無之候、同前可奉継御意趣奉存候より
以来、今日を相待申事一日三秋之思に御座候、四十七人之輩赴雨蹈
雪、一日二日漸一食仕候、老衰之者病身のもの数々近死申候へども、

蜻螂頼臂之笑を相招き、弥々尊君之御恥辱を相遺可申かと奉存候・
共、不得止昨夜半申合、上野介殿御宅え推参仕、則上野介殿御供由
し、是迄参上仕候、此小脇指は先年尊君御秘蔵、我等に被下置候、
唯今返献仕候、御墓の下御尊霊於有之者、再御手を被下遂給御鬱憤
右之段、四十七人の者共一同に謹而申上候敬白、
これで見ると、浅野侯は恰も眼前に居るかの如く話しかけられてゐるのが解るであらう
敵の首は綺麗に洗はれたもので、それは生きた上長の行ふ首実験の時の規則に依つたもの
である。その首は墓前に九寸五分の劒、則ち短刀と共に供へられる、その短刀はもと浅野
侯が幕府の命令で切腹(はらきり)をした時用ひられたものであり、又その後大石内蔵之
助が吉良上野之介の首を切る時に用ひたものなのである、-そして浅野侯の霊はその武
器を取つて、その首を打ち、その亡霊の怒りの苦痛を永久に晴らさせようと云ふのである
それから全部が切腹(はらきり)を宣告され、四十七人の家臣は死を以てその主君に従ひ
その墓前に葬られるのである。一同の墓前には、憧憬する参詣人の供へる香の煙が二百年
間も、毎日たえないのである。
註四十七士の墓に参詣人が名札を置いて行くといふ風が長く行はれて居た。私が最近に泉岳
た時には、墓の周囲の地面は参詣人の名札で白くなつて居た。
この忠義に関する物語を充分に呑み込むには、日本に住み、古い日本の生活の真の精神
を感じ得るやうにならなければならない、併しそれに関するミツトフオド氏の翻訳や、信
頼し得る文書の訳文を読む人は、誰れでも感動せずには居られない事を告白するであらう
この報告文は特に感動を与へる-その中に表はれて居る情誼や信義のために、又現世以
外に及ぶ義務の感のために感動を与へられる。復讐と云ふ事が如何に近代の我が倫理に依
つて非難されるに相違ないとしても、君主のための復讐に関する日本の古い物語には、尊
い方面がある、そしてそれ等の物語は、普通の復讐とは関係のない、あるものの表現-
報恩、克己、死に面するの勇気、及び目に見えざるものに就いての信仰の発露-に依(
て吾々の胸を衝つのである。而してこれは、勿論、吾々が、意識して居るにせよ、意識し
ないにせよ、その宗教的な性質に動かされたと云ふ事である。単なる個人的復讐-何か
一個人の被害に対する執念深い意趣返し-は吾々の道徳的感情を傷つける、則ち吾々は
かくの如き復讐心を燃やす情緒は、単に野獣的なもの-人間が下等な動物生活の方向を
共有して居る事を示すもの-であると考へるやうに訓へられて来た。併し死せる主人に

対する報恩や義務の感情から為す所の〓人の物語には、吾々の高い道徳的共鳴に-吾々
の非利己心、曲げられぬ真心、変はらぬ情誼に就いての力及び美の感覚に-訴へしめ得
る事情があると云つて宜いのである。而して四十七士の物語はこの種の一つである……。
併し覚えて置かなければならぬ事がある、殉死(じゆんし)切腹(はらきり)敵討(か
たきうち)といふこの三つの恐ろしい慣習のうちに、その最高の表現を得て居る旧日本の
忠義の宗教は、その範囲が狭いといふ事である。それは社会の組織そのものによつて制限
せられてゐたのである。国民は、そのいろいろな集団を一貫して、到る処、性質を同じう
する所の義務の観念によつて支配されてゐたのではあるが、各個人のその義務の範囲は、
その人の属してゐる氏族団体以外には及ばなかつたのである。自分の主君のためならば、
家臣たるものは、いつでも死ぬだけの心がけはしてゐた、併しその者は、自分が特に将雷
の旗下に属してゐるのでない限り、幕府に対しても、同様に自分を犠牲にしなければなら
ぬとは感じて居なかつたのである。その祖国、その国、その世界は、僅にその主君の領地
内に限られてゐたのである。その領地の外では、その者は一個の漂泊者であり得たのでか
つた、-則ち主君のない武士(さむらひ)を浪人(らうにん)則ち『浪の人といつた。
かくの如き状態に於ては、国王や国を愛する気持ちと一致するところの大きな
-これが則ち昔のせまい意味に於てでなく、近代的な意味に於ける愛国心であるが-
は十分に発展する事は出来なかつた。何か共通的な危機、何か全民族に対する危険、-
例へば蒙古人の企図した日本征服の如き-が一時的に真の愛国的感情を喚起し得た事は
あらう、併しさうでない限り、此の感情はあまり発達の機会をもつては居なかつた。伊熱
の祭祀はなるほど、氏族若しくは部族礼拝と異つた国民の宗教を表はしたものであつた、
併し何人もその第一の義務は、自分の領主に対してである事を信ずるやうに教へられてゐ
たのである。人はよく二人の主人に仕へる事は出来ない、しかも封建政府は実際少しでも
さういふ方に向ふ傾向を抑圧したのであつた。領主なるものは全く個人の心身を領有して
居たので、領主に対する義務の外に、国民に対する義務の観念の如きは、家臣たる者の心
の中に明らかに示される時もなければ機会も無かつたのである。例へば、普通の武士(さ
むらひ)に取つて、天皇の命令は法律ではなかつた、則ち武士は自分の大名の法律以外に
何等の法律をも認めては居なかつたのである。大名に至つては、彼は事情によつて天皇の
命令に従つても従はなくてもよかつたのである。則ちその直接の上長は将軍であつた、そ
して大名は神として天津大君と、人間としての天津大君との間に、巧みな区別を設けざる

を得なかつたのである。武権の究極の集中以前には、天皇のために自分を犠牲にした領主
の例も多くあつた、併し天皇の意志に反して、領主が公然謀叛を起こした場合の方が遥か
に多かつた。徳川の治下にあつては、天皇の命令に従ふか、抵抗しようかといふ問題は
将軍の態度一つに掛かつてゐた。そして如何なる大名も京都の宮廷に服従して、江戸の宜
廷に不順を示すやうな危険をおかすものは一人も居なかつた。少くとも幕府が崩壊する〓
ではさうであつた。家光の時代には、大名の江戸への途上、皇居に近づく事を厳禁されて
ゐた、-天皇の命令に応ずる場合に於てさへも。その上又彼等は御門(みかど)に直訴
する事を禁じられてゐた。幕府の政策は、京都の宮廷と大名との間の直接の交渉を全く妨
げるにあつた。此の政策は二百年の間陰謀を防いだ、併しそれは愛国心の発達をも妨げた
のである
而してこの理由こそ、日本が遂に西欧侵入の意ひもかけなかつた危機に直面した時、六
名制度の廃止が尤も重要な事と感じられた所以なのである。絶大の危機は、社会の諸単位
が統一的行動をなし得る一つの調和せる大衆に融合すべき事、-氏族及び部族的集団は
永久に解体さるべき事、-あらゆる権威は直に国民的宗教の代表者に集中すべき事-
天津大君に服従する義務が、直に又永久に、地方の領主への服従なる封建的義務に取つて
代はるべき事、-等を要求したのである。戦争の一千年間に依つて作られて来たこの忠
義の宗教は、容易に放擲される事は出来ないものであつた、則ち適当にこれを利用すれば
それは計量すべからざるほどな価値ある国家の重宝となるであらう-一人の賢明な人が
一個の賢明なる目的に、これを向けたならば、奇蹟をも演出し得る道徳力たり得るのであ
る。維新もそれを破滅せしむる事は出来なかつた、併しそれは方向を変へ形を変へる事は
出来た。それ故、それは高い目的に向けられ、-大いなる必要に向つて拡大されて-
それは信任と義務の新しい国民的感情となつた、則ち近代的なる愛国の感となつたのであ
る。三十年間に、いかなる驚異をそれが果たしたか、世界は今やそれを認めざるを得ない、
なほそれ以上如何なる事を果たし得るか、それは今後を待つて知るべきである。少くとも
只だ一事は確である-則ち日本の将来は、昔を通じて死者の古い宗教から発展し来たつ
た、此の新しい忠義の宗教の支持の上に拠らなければならないといふ事である

ジェジュイト教徒の禍

第十六世紀の後半は歴史の上で最も興味ある時期である-それには三つの理由がある
第一にこの時代は、かの偉大なる首将、信長、秀吉、家康など-一民族が只だ最高の危
機に際してのみ産するやうに思はれる型の人々-それ等の人の産みだされるためには
無数の年代から生じて来る最高な各種の適合性を要するのみならず、又いろいろな事情
境遇の尋常ならざる結合を要する型の人々-の出現を見たからである。第二に、この時
期が全く重要な時代となつてゐるのは、この時代に古代の社会組織が、初めて完全に完成
されたからである-則ちあらゆる氏族的支配が、一の中央の武権政府の下に一定の形を
なして統一されたのである。なほ最後に、この時期が特殊の興味のあるといふのは、日木
を基督教化しようといふ最初の計画の一事件が-ジエジユイト教派の権力の興亡の物語
-丁度この時代に属してゐるからである。
この一挿話の社会学的意義は重大である。蓋し、第十二世紀に於ける皇室の分裂を除け
ば、日本の保全を脅したうちでの最大の危険は、ポルトガルのジエジユイト教徒によつて
基督教の伝へられたことであつた。日本は残忍な手段によつて、無数の損害と幾万といよ
生命との犠牲を払つて僅に助かつたのであつた
この新奇な不穏な要素が、ザビエ及びその宗徒によつて伝へられたのは、信長が権力隼
中に努力する以前の大擾乱の時期に於てであつた。ザビエは一五四九年に鹿児島に上陸し
一五八一年の頃には、ジエジユイト教徒等は国中に二百有余の教会を持つて居た。この車
実だけでも、この新しい宗教の伝播が、非常に急速であつたことを充分に示してゐる。さ
ればこの新宗教は全帝国に亙つて拡がる運命をもつて居たやうに思はれたのであつた。
五八五年に、日本の宗教上の使節がロオマに迎へられ、又その時には、殆ど十一人の大名
-ジエジユイト教徒はそれ等の大名を『王』と称したが、それも必らずしも不当とは言
はれないが-が基督教に改宗してゐるた。これ等の大名の中には極めて有力な領主も幾
人かはあつた。この新しい信仰は亦一般人民の間にも急速に侵入して居り、厳密な意味で
言つて、『人気を得て』行つた。
信長が権力を獲得するや、彼はいろいろの方法でジエジユイト教徒を優遇した、-
れは彼が基督教徒にならうとは、夢にも想はなかつたのであるから、素より彼等の信条に

同情があつた為めではなくて、彼等の勢力が仏教徒に対する戦に於て自分の役に立つだ〓
うと考へたからである。ジエジユイト教徒自身のやうに、信長は自分の目的を遂行するた
めには如何なる手段をとる事も躊躇しなかつた。征服王ヰリアム以上に無慈悲で、彼は白
分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反対した時、容赦なく二人を〓害してしまつた。胃
なる政治上の理由から、外国の僧侶達に与へた援助と保護とは、彼等をしてその権力を発
展せしめて、為めにやがて彼信長をしてそれを後悔せしめるに至つた。グビンス氏はその
『支那及び日本への基督教伝播論』の中で、『伊吹艾』といふ日本の書物からこの問題〓
関する興味ある抜萃を引用してゐる-
『信長はキリスト教の入来を許可した、彼の以前の政策を今や後悔し始めた。それ故彼
はその家臣を集会させてそれに向つて言つた-「これ等布教師が人民に金銭を与へ〓
その宗派に加入する事をすすめるそのやり方が私の気に入らぬ。若し吾々が南蛮寺〔『南
方野蛮人の寺』-とかうポルトガル人の教会が呼ばれてゐたのである〕を打ち毀しお
ならば如何であらうか、お前方はどう考へるか」と尋ねた。これに対して前田徳善院が
答へた、-「南蛮寺を打毀つことは今日ではもう手遅れで御座ります。今日この宗務
の勢力を阻止しようと骨折るのは、大海の潮流を阻まうと試みるやうなもので。公家、
大名小名共は、この宗教に帰依して居ります。若し我が君が今日この宗教を絶滅
といふならば、騒乱が必らずや我が君御自身の家臣の間に生ずるといふ憂が御座ります
それ故私の考へでは、南蛮寺破毀の意向を打棄てらる?こと然るべしと存じます」と
信長はその結果、彼の基督教に関する以前のやり方をいたく悔いて、如何にせばこれを
根絶し得るかと思案し始めたのである』
信長……心の内には後悔し給ひけるとや……或時諸臣参会之砌宣ふは我取立し南蛮寺
の事色々あやしき説有殊に宗門に入者には金銀を遣すとの事……何共合点の行ぬ事也…
…向後此宗門を破却し寺を打潰し伴天連等を本国へ追帰さんと思ふ也かた??いか?と
宣へば前田徳善院進み出て被申けるは南蛮寺の事只今御潰被成候には御手延て候最早都
は申に不及近国まで弘まり殊に公家武家御旗本の大小名并無座に居合す御家人の内にも
此宗門に入候人多し若今破めつの儀被仰出候はゞ一揆発り御大事に及び候はん先暫く時
節を御見合被成可然と被及ければ信長打ちうなづき我一生の不覚也此上宜敷思案もあら
ば無遠慮可申との事に而各退出被致ける。『伊吹艾
一五八六年に於ける信長の暗〓は、異教黙認の時期を延長したのかも知れない。彼の後

犠者秀吉は外国僧侶の勢力を以て危険なものであると断定はしたが、その時は、武権を焦
中して、国中に平和を招致しようといふ大問題に専心して居たのであつた。然るに南部の
諸国に於けるジエジユイト教徒の狂暴な偏執は、既に自ら多くの敵を作り出し、この新信
条の残忍な行為に対し、復讐をしようとする程な熱意をそれ等敵に起こさせるに至つた
吾々は布教の歴史中に、改宗した大名が仏教徒の幾千といふ寺院を焼き、無数の芸術作品
を破毀し、仏門の僧侶を〓戮した記事を読んで居る、-そして吾々は又ジエジユイト派
の文人がこれ等の宗教戦を以て、神聖なる熱心の証拠であるとて賞讃してゐるのを知つて
居る。最初、この外来の信仰は只だ人を説得するのみであつた、然るに後には、信長の将
励の下に権力を得てからは、強制的に、又兇暴になつて来た。それに対する一種の反動は
信長の死後凡そ一年にして起こり始めた。一五八七年に秀吉は京都、大阪、堺等に於けス
伝道教会を破壊して、ジエジユイト教徒を首府から逐ひ払つた、又その翌年彼は彼等に平
戸の港に集合して、日本から退去の用意をするやうに命じた。彼等は自分等が既に強大〓
なつて居たから、この命令に従はないで宜いと考へ、日本を去らずに、諸国に分散して。
幾多キリスト教徒の大名の保護の下に身を寄せた。秀吉は恐らく事件をその上進めること
の不得策な事を考へたのであらう、又キリスト教の僧侶達も平穏を守り公然と説教するこ
とをやめた。そして彼等の隠忍は、一五九一年までは彼等に甚だ利盆ある事であつた。
るにその年に、スペインのフランシスカン派の教徒が到著したことは事情を一変させるに
至つた。これ等のフランシスカン派の教徒達は、フイリツピン諸島からの使節の列に加は
つて到著し、キリスト教を説教しないといふ条件で、国内に留まる許可を得たのであつた。
然るに彼等はその約束を破り、無謀な挙に出たので、為めに秀吉の憤怒を喚起した。秀吉
は範例を示さうと決心した、そして一五九七年に、彼は六人のフランシスカン派の者と
三人のジエジユト教徒と、其他数人のキリスト教徒を長崎に拘引して、其処で磔刑に処
した。大太閤の外来信条に対するこの態度は、その信条に対する反動を促進する結果とな
つた-その反動は〓に諸国に於て現はれ始めてゐたのである。然るに一五九八年に於け
る秀吉の死は、ジエジユイト教徒等に更に幸運の来る希望を抱かしめた彼の後継者、即
ち冷静深慮の家康は、彼等に希望を抱かしめ、京都、大阪、その他に於て、その布教を復
興することさへも許可した。彼は関ケ原の戦によつて決定される事になつて居た大争闘の
準備をして居た、-彼はキリスト教徒の要素が分裂して居た事を知つてゐた、-その
頭目達の或る者は彼の味方であり、又或る者は彼の敵の味方である事を知つて居た、-
それでキリスト教に対し抑圧政策をとるには時機が悪るかつたと考へられる。然し一六〇

六年に権力を堅固に建立してしまつた後、家康は布教事業をそれ以上続行することを禁止
し、且つ外来宗教を採用したる者共は、それを抛棄すべきことを宣言する布告を発して
初めてキリスト教に断乎たる反対を為す事を声明したが、それにも拘らず布教は続けて行
はれた-最早只だジエジユイト教派の者によつてのみでなく、ドミニカン派の者及びフ
ランシスカン派の者によつても行はれた。当時帝国内に於けるキリスト教徒の数は、非堂
な誇張ではあるが、殆ど二百万人に近かつたといふことである。併し家康は一六一四年に
では、抑圧に就いて何等厳重なる手段をとらなかつたし、又取らせもしなかつたが-こ
の時から大迫害が始まつたと云つて然るべきである。これより以前には独立の大名によつ
て行はれた地方的な迫害だけがあつたのに過ぎない-中央政府によつて行はれたのでは
なくて。例へば九州に於ける地方的な迫害は、当時権力の絶頂にあつたジエジユイト教派
の偏執に対する自然の結果で、その時には実に改宗した大名が仏寺を焼き、仏門の僧侶達
を虐殺したのであつた、そしてこれ等の迫害は本来の宗教がジエジユイト教派の煽動のな
め最も烈しく迫害された地方-例へば豊後、大村、肥後などの如き地方-では最も残
酷であつた。然るに一六一四年以来-この時には日本の全六十四州の中で、僅八箇国だ
けがキリスト教の入らないで残つて居た処である-外来信仰の禁圧が政府の事業
た、そして迫害は組織的に又中絶せずに行はれて、遂にキリスト教のあらゆる外面に表は
れたる跡は消失するに至つたのであつた。
それ故、布教の運命は家康とその次の後継者によつて実際に決定された、そしてこれが
特に家康の注意を与へた仕事であつた。三人の大首将達はみな、時機の遅速はあつたが、
この外来の布教に疑念を抱くやうになつたのであつた、併しただ家康一人がその布教が若
さ起こした社会問題を処理する時と能力とをもつて居たのである。秀吉さへも広きに及ぶ
厳格な手段を採つて、現在の政治上の難問を〓れさすのを恐れて居たのであつた。家康〓
永い間躊躇して居たのである。その躊躇した理由は無論複雑であり、又主としてそれは外
交上の理由からであつた。彼は決して燥急に実行せんとする人でもなく、又決して何等か
の偏見に依つて動かされる人でもなかつた、又彼を臆病だと仮定する事は、吾々が彼の性
格に就いて知つてゐる総ての事と矛盾する事である。勿論、彼は、誇張であつたにしても
一百万以上の帰依者があると云ひ得る宗教を根絶することは決して容易な仕事ではなく
それには非常なる困難が伴なふといふことを認めたに違ひない。不要な災害を起こさすと
いふことは彼の性質に反する事であつた、彼は常に人情深く、庶民の友であることを示し

てゐた。併し彼は何よりも第一に経世家であり愛国者であつた。そして彼にとつての主要
な問題は、外来信条と日本に於ける政治的社会的状熊との関係は、将来如何なるものであ
らうかといふ事であつたに相違ない。この問題は長い時日と気長な調査を要した。そして
彼はそれに出来る限りのあらゆる注意を与へたらしい。それで最後に彼はロオマ・キリス
ト教が重大な政治的危険を作すものであり、その根絶は避くべからざる必要事であると決
断したのである。彼と彼の後継者等が、キリスト教に向つて励行した厳重な法則が-
の法規は二百有余年の間確実に守られた-この信条を完全に根絶やすことの出来なかつ
たといふ事実は、その信条が如何に深く根を張つて居たかを証明するものである。表面上
キリスト教のあらゆる痕跡は、日本人の眼から消えてなくなつた、併し一八六五年に或る
組合が長崎附近で発見されたが、この組合はロオマ教の礼拝式の伝統を秘密にその一派の
間に保存して居り、未だに宗教上の事に関しては、ポルトガルとラテンの言葉を使用して
ゐたものであつた。
家康-今までに現はれた中での最も機敏な、そして又最も人情の深い経世家の一人で
ある-のこの決断を正当に評価するには、日本人の見地からして、彼をしてかくの如き
行動をとるの已むなきに至らしめた、その根本となつて居る証拠の性質を考へて
が必要である。日本に於けるジエジユイト派の陰謀に就いて、彼は充分に承知して居た〓
相違ない、-その陰謀の中には家康の身を危くするやうなものも少からずあつたので-
-併し彼はこのやうな陰謀が発生するといふ単なる事実よりも、その陰謀の究極の目的と
実際は、如何になるかといふ、その結果をむしろ考慮したらしいのである。宗教的陰謀は
仏教徒の間にあつても普通の事であつた。そしてそれが国家の政策、若しくは公共の秩序
を妨害した場合は別として、さうでない限りそれは武力的政府の注意を惹くことは殆どな
かつたのである。併し政府を顛覆すること及び宗派を以て一国を占有することを、その目
的とする宗教的陰謀は、これは重大な考慮を要する事である。信長はこの種の陰謀の危険
なることに就いて厳しい教訓を仏教に与へた。家康はジエジユイト教派の陰謀が、最も大
きな野心を包蔵した政治上の目的をもつてゐると断じた。併し彼は信長よりも遥かに隠忍
して居た。一六〇三年には、彼は日本の諸州を悉く彼の威力の下に帰せしめた。併し彼は
爾後十一年を経過するまでは、その最終の布告を発しなかつた。その布告は、外国の僧侶
達は政府の管理を掌中に収めて、日本国の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に
明言したのであつた。-

『切支丹の徒は日本に来り、日本の政府を変へ、国土の領有を獲ようとするために
ただに貨物の交易に彼等の商船を遣はすばかりでなく、悪法を播布し、正しき教へを
打倒さうと熱望してゐる。これこそ大災難を起こす萠芽であつて打潰さなければなら
ぬ……
『日本は神々及び仏の国である、日本は神々を崇め仏を敬ふ……伴天連の徒は神々の
道を信仰せずして真の法を罵る、-正しき行ひに背いて善を害ふ……彼等は真に神
神及び仏の敵である……若し之が速に禁ぜられずば、国家の安全は確に今後危険とな
らう、又若しその時局を処理するの衝に当たつてゐる者共が、この害悪を抑止しなけ
れば、彼等は天の怒に身を曝す事にならう。
爰吉利支丹之徒党、適来於日本、非啻渡商船而通資財、〓欲弘邪法惑正宗、以改域中之政号作
己有、是大〓之萠也、不可有不可有不制矣、日本者神国仏国、而尊神敬仏……彼伴天運徒党、〓
反件政令、嫌疑神道、誹謗正法、残義損善……実神仏敵也、急不禁、後世必有国家之患、殊司
号令不制之、却蒙天譴矣、日本国之内、寸土尺地、無所措寺足、速掃攘之、強有違命者、可刑〓
之、……一天四海宜承知、莫違失矣。
『これ等の者は(布教師のこと)即刻一掃されなければならぬ、かくして日本国内には
彼等のためにその足をおくべき寸土もないやうしなければならぬ、そして又若し彼等が7
の命令に服することを拒むならば、彼等はその罪を蒙るであらう……一天四海もこれを聴
かん、宜しく従ふべし』
註一伴天連とはポルトガル語のパドレ(padre)の転訛であつて、宗派を問はず、総てロオマ旧教の僧侶
に今日でも使用されて居る名称である。
註二右の全宣言はかなり長いもので、サトウ氏によつて翻訳されたものであるが、日本アジヤ協会記事
"Transaction of the asiatic Sccicty in japan"第六巻第一部の内にある。
この文書の中に伴天連に対して為された二つの明確な非難があるといふことが観られる。
-宗教に装を藉りて、政府を横領しようといふ考へをもつた政治的陰謀、それから神道
と仏教といふ日本固有の礼拝の式に対する異説抑圧に就いての非難である。この異説抑厭
はジエジユイト教派自身の書きものによつて充分に証明されて居る。陰謀の非難に至つて
は少しく証明し難い。併し機会が与へられたならば、ロオマ旧教の諸教団が、既に改宗し
た大名の領地に於て、地方政府を管理することが出来たやうに、正しくその通りに中央政
府全体を管理せんと企てるであらうとは、道理を弁へたものにして誰れが疑ふことが出来

たであらうか。その上この布告が発せられた時には、いろいろな事を耳にして居て、家康
はロオマ旧教に就いて、恐らく最も悪るい意見をもつて居たに相違ない。これは確と言つ
て宜からう、-則ちアメリカに於けるスペインの征服、西印度人種絶滅の話、ネザアニ
ンドに於ける迫害、並びに其他の各所に於ける宗教審問の事に就いての話、フイリツプ第
二世のイギリス征服の計画と、二囘に亙る大艦隊の失敗の話などを聞いて居たに相違ない。
この布告は一六一四年に発せられた。而して家康は夙に一六〇〇年に、以上の事柄の二三
を知る機会を得たのであつた。則ちその年にイギリス人の水先案内、ヰリアム・アダムフ
がオランダの船を託されて日本に到著した。アダムスは一五九八年にこの多事な航海に上
つたのであつた、-即ちそれはスペインの最初の大艦隊敗北後十年、第二囘艦隊全滅後
一年の事であつた。彼は偉大なエリザベス女王-まだ存生中であつた-の赫々たる時
代を見た人であつた、-彼は多分ハワアド、セイマア、ドレイク、ホオキンズ、フロビ
シヤア、それから一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル等を見てゐたのであ
る。何となればこのヰリアム・アダムスといふ男は、ケントの人であつて、『女王陛下の
船の船長と水先案内を勤めた……』人であつたからである。今述べたこのオランダの商盤
は九州に到着すると同時に捕獲された。そしてアダムスとその乗組員は、豊後の大名により
つて監禁され、その事実は家康に報告された。是等新教徒なる船乗り達の到来は、ポルト
ガルのジエジユイト教徒によつて重大事件と考へられた。蓋し、ジエジユイト教徒は、
のやうな異端者達、日本の統治者との会見の結果を恐れるべき、特別な理由をもつて〓
たのである。然るに家康も亦たまたまこの事件を重大視した。そして彼は大阪なる彼の許
にアダムスを送るべきことを命じた。この事に就いてのジエジユイト教徒の悪意を蔵した
懸念は、家康の透徹力ある観察を遁れなかつた。アダムス自身の筆述に従つて見ると-
アダムスは決して虚偽を言ふのではなかつた-彼等は再三船乗り達を殺してしまはうと
力めたのであつた、そして彼等は豊後に於て該船の乗組員中の二人の無頼漢を脅して、偽
証をさせ得たのであつた。アダムスは次のやうに誌した、『ジエジユイト教徒達とポルト
ガルの人達とは、私と余の者を中傷する多くの証拠を皇帝(家康のこと)に向つて呈し、
吾々は諸国から来た窃盗であり、又盗賊であると言ひ、若し吾々を生かして置けば、殿下
と国土の御為めにならぬに相違あるまいと言つた』と。然るに家康は恐らく彼をなきもの
にしてしまはうといふジエジユイト教徒の熱心の為めに、却つてアダムスの方に多くの好
意を持つやうに傾いてゐたらしいのである-なきものにするとはアダムスの言ふとこる
に従ふと、『十字架につける〔磔刑に処する〕事』で-これは『我が国の絞刑のやうに

日本に於ける裁判の風習』なのである。アダムスは云つて居る、家康は彼等に答へた、即
ち『吾々(アダムス等)は彼や彼の国土の何人に対しても、未だ危害や損害を蒙らした7
とはなかつた。それ故吾々を〓す事は道理と正義とに反した事である』と……。それから
ジエジユイト教徒が正に最も恐れてゐた事が起こるやうになつた-彼等が恐嚇、讒謗
並びに出来る限りの陰謀を以て、防止せんと努めてしかもその効のなかつた事-則ち〓
康と異端者アダムスとの会見が起こることになつたのである。『そのやうなわけで私が仙
(家康)の御前に出ると直ぐに』と彼は誌した『彼は吾々が何処の国の者であるかと尋ぬ
た。それで私はあらゆる事を彼に答へた。それは、国々の間の戦争と平和といふ事に関〓
て、彼は余す処なく総ての事を尋ねたからであるが、その委細の事を此処に記しては、ょ
まりに冗長になる恐れがある。そしてその時に私は、良く待遇されたのではあるが、一〓
私に仕へる為めに一緒に来た海員の一人と共に私は入牢を申しつけられた』アダムスの他
の手紙に依つて、この会見がひきつづき夜にまで及び、且つ家康の質問は、特に政治と宗
教とに関係してゐたらしく察しられるのである。アダムスは云つて居る、『彼は我が国が
戦争をしてゐるかと尋ねた。私はスペインとポルトガルとを相手にして戦つてゐると答
た-他の総ての諸国とは平和にしてゐるから。更に彼は私が何を信仰してゐるかを尋ね
た。私は、天と地とを造つた神様を信じてゐると言つた。彼は宗教関係の色々な他の質問
と、その他の多くの事に就いて尋ねた、例へばどんな路を通つて日本に来たかといふや?
な。私は全世界の海図を持つてゐたので、マゼラン海峡の直路を彼に示した。彼はそれい
驚いて私が嘘をいふと思つた。このやうに、次から次へと話がつづき、私は深更までも砒
の許に居た』……この両人は互に一見して双方好きになつたのらしい。家康に就いてアド
ムスは特に恁う言つて居る、『彼は私を凝と見て、驚く程好意を持つたやうに思はれた」
と、二日たつて家康は再びアダムスを招いて、特にジエジユイト教徒が隠さうとして居る
事柄に就いて彼に微細に亙つて質問した。『彼は我が国とスペイン或はポルトガルとの戦
争と、その理由とに就いて又尋ねた。それを私はすつかり了解の出来るやうに説明したが
彼はそれを喜んで聞いた、とさう私には考へられた。最後に私は再び監禁を受けることを
命ぜられたが、然し私の宿所は前よりもよくなつた』……アダムスはその後殆ど六週間の
間家康に再会しなかつたが、それからまた招きの使を受けて三度事こまかに尋問を受け
た。その結果は自由の身となつて恩顧を得た。爾後、時を置いて、家康は彼を招くを常と
した。そして程なく吾々は彼が『幾何学の二三の点と、数学の理解とその他のいろいろの
事とを合はせて』此の大経世家に教へてゐるといふことを聞くのである……。家康は彼〓

多くの贈物並びに充分の禄を与へて、深海航行用の船を二三建造するやうに彼に委任した
かくして此の一水先案内は一人の侍に取り立てられ、そして所領を与へられた。彼は恁う
書いた、『皇帝の御役に使はれたので、彼は私に対して、イングランドの貴族のやうに、
丁度私の奴隷、若しくは召使たるべき八九十人の農夫をつけて禄を私に与へた。かくの加
き事、或は同様な先例は嘗てこの国では、如何なる外国人にも与へられた事のなかつた車
てある』と。……アダムスが家康に対して勢力のあつたといふ証明は、イギリス商館の〓
ャブテイン・コックの通信によつて得られる、コツクは一六一四年に彼に関して次のやこ
に書いて故国へ送つた、『実を言へば皇帝は彼を甚だ尊重してゐる。そして彼はいつでも
入殿して、諸王や諸公子が退座させられてゐる時でも、彼と話しする事を得た』と。イぎ
リス人が平戸に商館を建設することを許されたのは、この勢力によつたのである。第十レ
世紀の物語の中で、この白面のイギリス人なる水先案内の話程不思議なのはない、-
分を扶ける者とては唯だ率直な正直と常識との外なにもなく-しかも日本のあらゆる統
治者の中での、最も偉大な又最も機敏な人の、かくの如き格別の恩顧に与るまで登つたと
いふ。併しながら、アダムスは遂にイギリスへ帰る事を許されなかつた、-多分彼のま
仕が、それを失ふことの出来ない程貴重なものと考へられたからであらうか。彼は自ら
の手紙の中で、家康は、イギリスに再び帰るといふ権のほかは、彼の願つたものは、何
でも決して拒絶しなかつた。彼があまり屡?それを求めた時、この[老皇帝』は黙した〓
何も云はなかつたと言つて居る
註一『日毎にポルトガル人は吾々に対して裁判官と人民の怒を煽ることを盛んにした。そして吾々の仙
間の中二人は裏切者となつて、自ら王(大名)に仕へた、それはポルトガル人によつてその生命を保証〓
れたため、何事も彼等と一緒に共謀するやうになつたからである。その一人は名をギルバアト・ド・〓
ニングといつて、彼の母はミツドルボロに住まつてゐる、又彼は自らこの船に於ける貨物一切の商人でま
ると称して居た。今一人はジョン・アベルスン・ヴアン・オウオタアと云つた。此等の裏切者達は貨物・
彼等の手に入れるために、あらゆる種類の方法を講じ、吾々の航海中に起つた総てのことを彼等に知らー
た。吾々の到着後九日経つて、此国の大王(家康)は私に彼の許まで来るやうにと言つて来た』-中
アム・アダムスのその妻にあてた手紙。
註二『神様の思召で世間の人の眼には不思議に思はれるに相違ないやうな事が起こるやうになつた、伺
となればエスパニヤとポルトガルとは私の不倶戴天の悪むべき敵であつたのである、然るに今彼等は此由
しい惨めな者なる私に求めなければならいのであるから、そしてポルトガルもエスパニヤも彼等の商談
の一切を私の手を通してしなければならないからである』-一六一三年一月十二日附のアダムスの手紙、
註三彼は彼を殺さうと求めた人々にまでも好意を持つてゐる。アダムスは恁う言つた『私は彼の気に入

り、私の言つた事に彼は何でも反対しなかつた。私の以前の敵達はそれを不思議がつてゐた、そして今と
なつて彼等は私がエスパニヤ人とポルトガル人に対してなしたやうな友誼を彼等に対してもつやうに私に
懇願しなければならなかつた、悪に報ゆるに善を以てするといふやうにして。それで私の生活を得るため
に時を費やすには、私には最初非常な労働と困難とを要した、併し神様は私の労働に報いを授け給うた』
このアダムスの通信は、家康が宗教と政治とに関する外国の事情に就いての、直接の知
識を得るためには、如何なる方法をとる事も辞さなかつた事を証明してゐる。又日本国内
の事情に関しては、凡そ古来の最も完全なる探偵制度を、彼は意の儘に用ふることが出来
たのである。そして事実彼はその時あつた事はみな知つて居たのである。しかも彼はすで
に述べた通り、彼の布告を発するまでに十四年を待つたのであつた。秀吉の布告は、事実
一六〇六年に彼によつて復活された。然しそれは特にキリスト教の公の説教に関係した事
であつた。そして伝道師等が外面上法律に服して居た限り、彼は自分の領地の内に、彼等
をそのまま許して置いたのであつた。迫害は他所では行はれてゐたが、それと共に秘密な
布教も亦行はれてゐて、伝道師等は尚ほ希望をつなぐことが出来たのであつた。併し嵐の
前の沈滞のやうに、空中には何となく脅威があつた。キアプテイン・サリスは一六一三年
に日本から手紙を送つて、極めて暗示的な感傷的な一事件を記してゐる。彼は
『私はやや上流の多くの婦人に、私の船室に入つてもよいといふ許を与へた。この室には
ヴイナスが、その子息のキユウピツドをつれてゐる絵が、大きな額縁に嵌められて、幾公
だらしない飾り方で懸かつてゐた。彼等は之をマリヤとその子であると思つて、ひれ伏し
非常な信仰を表はして、それを礼拝した。そして私に向つて囁くやうに(信徒でなかつお
仲間の誰れ彼れに聞こえないやうに)自分達はキリスト教徒であると云つた、之によつて
吾々は彼等がポルトガルのジエジユイト派によつて改宗させられたキリスト教徒である7
とを知つた』と……家康が初めて強圧手段を採つた時には、それはジエジユイト派に対1
てではなく、もつと無法な或る教団に向つて為されたのであつた、-アダムスの通信で
解つた処に依れば。彼は云つて居る『一六一二年に、フランシスカン派のあらゆる教派が
平定されてゐる。ジエジユイト派は特権を持つてゐる、……長崎に居るので、この長崎だ
けが総ての宗派の意のままに任せられて居る処である、他の場所ではそれ程に許されては
居ない……』と。ロオマ旧教はこのフランシスカン派の事件の後、更に二年の恩典を与・
られたのであつた。
何故に家康がその遺訓及び他の個所でこの宗教を『虚偽腐敗の宗教』と呼んだかといふ
ことは考へて見なければならない。極東の見地からすれば、公平な調査の後に、彼は殆じ

それ以外の断定を下すことは出来なかつた。この宗教は日本の社会が依つて以て建立され
〓居たその基礎たるあらゆる信仰と伝統に根本的に反対して居たのである。日本の国家は
一人の神たる王をその頭に戴く宗教団体の集合であつた、-総てのこれ等の団体の慣参
は宗教的法律の力を持つて居り、倫理とは慣習に服従することであつた、又孝道は社会の
秩序の基礎であつて、忠義の念それ自身が孝道から出たものであつた。然るにこの西欧の
竹条は、夫はその両親を去つて、その妻に附随すべしと教へたのであつて、余程よく見た
処で、孝道を以て劣等な徳であるとなしたのである。その宣言する処は、両親、主人、統
消者に対する義務は、その従順がロオマ教の教に反対する行動とならない限りに於てのみ
義務であり、又従順の最高の義務は、京都に在す天子なる主権者に対してではなく、ロ
マにゐる法王に対してであるといふのであつた。神々と仏とはポルトガルとスペインから
来たこれ等の伝道師達によつて悪魔と呼ばれたのではなかつたらうか。このやうな教義は、
如何に巧みに彼等の弁解者によつて説明されたとしても、確に国を攪乱するものであつた。
その上に、社会上の力としての信条の価値なるものは、その成果から判断されるべきもの
てある。然るにヨオロツパに於けるこの信条は、擾乱、戦乱、迫害、残酷なる蛮行等の紹
えざる原因であつた。日本でも、この信条は大擾乱を醸し、政治的陰謀を阿動し、殆ど量
るべからざる災害を起した。将来政治上の面倒が生じた場合、その教は、子は両親に対し
て、妻は夫に対して、臣は領主に対して、領主は将軍に対して、従順ならざる事を以て
正当と認めるであらう。政府の最高の義務は今や社会的秩序を強制して、平和と安全の〓
態を維持する事であつた。実際この平和と安全の状態がなければ、国家は長年来の争闘に
よる疲弊から決して囘復する事は出来なかつたのである。然るにこの外来の宗教が、秩
の土台を攻撃し、これを顛覆する事に専心してゐる間は、平和は決してあり得なかつた…
…。家康が彼の有名な布告を発した時には、かくの如き確信が充分彼の心の中に出来てふ
たに相違ない。彼がそれ程長く時を待つて居たといふのが、ただ不思議な位である
何事も中途半端にして置く事をしなかつた家康が、キリスト教が有為な日本人の指揮者
を一人も持たなくなつてしまふまで待つてゐたといふ事は、恐らくさう有りさうな事であ
る。一六一一年に彼は佐渡の島(囚徒の働いて居る鉱山地)に於けるキリスト教徒陰謀の
報告をうけた。この島の支配者、大久保なるものは、誘はれてキリスト教を信じ、且つっ
の計画が成功すれば、日本の統治者にされる筈であつた。併しそれでも家康は時機を待っ
て居た。一六一四年に至つては、キリスト教は最早希望を失つて、それを指揮する人とー
て大久保をさへもなくした。第十六世紀に改宗した大名は、或は死し、或は領地を取り上

げられ、或は配流された。キリスト教徒の偉大な武将達は処刑されてしまつた。重きを〓
くに足るべき改宗者の内の残つて居るものは、監視の下に置かれて、実際に手足を出し得
なかつたのである。
外国の僧侶達と内地人なる伝道師達とは、一六一四年の宣言の直後にも残酷に取扱はれ
ほしなかつた。彼等の中、凡そ三百人は船に乗せられて外国に送られた、-政治及び〓
教に関した陰謀の疑ひをうけた幾多の日本人、例へば以前の明石の大名なる高山の如きと
共に、この者はジエジユイト派の文士によつて『ジヤスト・ウコンドノ』と呼ばれ、又同
様な理由から前に秀吉によつて領地を取り上げられ、職を免ぜられてゐたものである。〓
康は不必要な厳重な例を置きはしなかつた。併しこれよりも厳しい法令が、一六一五年い
起つた事件につづいて出された、-かの布告発布の直ぐ後の年である。秀吉の子息、〓
頼が、保護を託されて居た家康によつて取つて代はられた-日本にとつて幸な事である
が。家康は彼のあらゆる面倒を見てやつた、併し彼を許して日本国の政府を導いて行かせ
る意図は、家康に少しもなかつた、-二十三歳の若者には殆ど出来ない仕事であつたか
り。秀頼が関与したと伝へられて居る色々な政治上の陰謀があつたに拘らず、家康は彼い
沢山の歳入と日本に於ける最強の城塞と、-秀吉の天才が殆ど難攻不落にしたかの堂々
たる大阪城-を所有させて置いた。秀頼はその父に似ず、ジエジユイト教徒を愛し、大
阪城を以てこの『虚偽腐敗の宗派』の帰依者を容れる避難所たらしめた。大阪城で危険な
陰謀が支度中であるとの政府の間牒の報告があつたので、家康は一撃を加へる決心をした
而して彼は手厳しく打撃を加へた。必死の防禦をなしたに拘らず、この大城塞は襲撃をう
けて、焼き打ちされた、-秀頼は炎中に身を亡つてしまつた。十万人の生命が、この句
囲で失はれたといふことである。アダムスは秀頼の運命と彼の謀叛の結果に就いて次のや
うに奇しくも書いて居る-
『彼は皇帝と戦争をした……ジエジユイト教徒等とフランシスカンの教団の僧侶達とは
奇蹟と実験との恵を受けるに相違ないと秀頼を信じさせて、この戦ひに加はつた、併し結
局それは反対の結果になつた。何となれば老皇帝は彼に向つて直に、海陸より自分の軍兵
を準備して、彼の居る城を囲んだのであつた、かくて敵味方に莫大な損害はあつたが、併
し最後には城壁を打壊して、火を城にかけ、そして彼をその中で焼き〓した。かくの如く
にして戦争は終つた。処で、皇帝はジエジユイト教徒とフランシスカン派の者共が、彼の
敵と共に城内に居つて、今尚ほ時々彼に反抗すると聞いて、総てのロオマ教の者に国外に
退去するやうに命じた-教会は破壊され、焼き払はれてしまつた。この事は老皇帝健在

の間つづいて行はれた。が、今やこの年、即ち一六一六年に老皇帝は死去した。彼の子息
が代つて統治したが、彼は彼の父よりも以上に熱烈にロオマの宗教に反対してゐる、何と
なれば彼は彼のあらゆる領土に亙つて、彼の臣民は一人たりとも、ロオマ教のキリスト教
徒たる事を禁じ、これを犯すものは死刑に処せられるとしたからである、このロオマ教の
宗派を彼は出来得る限りの方法で防止するために、異国の商人は何人たりとも、いづれの
大都市にも逗留してはならないと禁止したのであつた』……
ここに子息といふのは秀忠の事であるが、秀忠は一六一七年に布令を出して、ロオマ教
の僧侶やフランシスカンの僧侶が日本で見つかつた場合には、これを死刑に処すと定めた
-この布令は日本から追放された多くの僧侶達が、秘密に帰つて来、また他の僧侶は色
色な仮面の下に居残つて、布教をして居たといふ事実から、刺戟されて出されたものであ
つた。かくして、帝国内のあらゆる市町村落に於て、ロオマ派のキリスト教を根絶するな
めの手段が取られた。いづれの組合もその中に外来の信条に属する人が居れば、それに対
して、責任を負はされた。そして特別な役人、即ち切支丹奉行と云ふ審問者が、この禁制
の宗教を奉する者を捜索して、これを処罰するために任命された。即座に取消したキリ〓
ト教徒は罰せられなかつたが、只だ監視をうけさせられた、拷問をかけても取消す事を
んだ者共は、奴隷の地位に貶とされるとか、さもなけれが死刑に処せられた。或る地方パ
は非常な残虐が行はれ、あらゆる形式の拷問が、取消しを強ひるために用ひられた。併〓
殊更残酷な迫害の挿話は、地方の支配者即ち役人達の個人的の兇猛に依つて生じたもので
ある事は、先づ確な事である、-例へば竹中采女守の場合のやうなのがそれで、彼はフ
の長崎に於ける彼の権勢の濫用と、迫害を以て金銭誅求の手段としたのとで、政府から〓
腹を行ふやうに強ひられたのである。然しそれはさうであるとして、この迫害が遂に有匡
の大名領内に於けるキリスト教徒の叛乱を惹起する刺戟となつたか、若しくはそれを起フ
す助けとなつたのであつた、-これは歴史上では島原の乱として記憶されてゐる。一六
三六年に、一群の農夫等が、彼等の領主-有馬及び唐津の大名(両地方共に改宗した地
方である)-の暴政により絶望に駆られて、武器をとつて起ち、その近隣の日本の寺院
を悉く焼き払ひ、宗教戦を宣言した。その旗は十字架をつけて居り、その指揮者は改宗し
た侍であつた。キリスト教の避難者達が間もなく日本のあらゆる部分から来て彼等の仲問
に加はつて、遂にその数は三万乃至四万人に膨張した。島原半島の沿岸で、彼等は原とい
ふ場所で、主人の居なくなつた城を占有し、其処に自ら立て籠もつた。地方の官憲はこの
暴動に敵する事が出来なかつた、そして叛逆人等は自ら防守し得たのみでなく、それ以上

に出たので、遂に十六万以上を算する政府の兵力が、彼等に向つて送り出されるに至つた
百二日の勇敢なる防戦の後、城は一六三八年に襲撃されて、防戦者達はその妻子と共に
刄の露と消えてしまつた。公にはこの事件が百姓一揆として取扱はれた。そしてそれに対
して責任があるとされた人々は、厳重に罰せられた、-島原(有馬)の領主は更に切腹
を行ふやうに宣告された。日本の歴史家達は、この一揆がキリスト教徒によつて最初計書
され、指導されたのであつて、彼等キリスト教徒は長崎を占領し、九州を征服して、外国
の武力的援助を求めて、政変を強ひようと目論んでゐたのだと述べて居る、-ジエジユ
イト派の文士は何等陰謀のなかつたことを我々に信じさせようとして居る。只だ一つ確な
事は、革命的な要求がキリスト教徒の要素に向つてなされ、それが盛んに応答され、驚ノ
べき結果を生じたといふことである。九州沿岸に於ける一つの鞏固な城が、三万乃至四万
のキリスト教徒によつて支持された事は、重大な危険を構成するものであつた、-こ
は有利な一点で、この点から日本へのスペインの侵入が企てられ、且つ多少そのうまく行
く機会もあり得たと云つて然るべき程な処なのである。政府はこの危険を認めて、従つ〓
圧倒的な兵力を島原へ派遣したと考へられるのである。そして若し外国の援助がこの叛乱
に送られ得たとすれば、その結果は長期に亙る内乱となつたかも知れないのである。大が
かりな殺戮に至つては、それは日本の法律を励行したことを表はしたに過ぎない、又領
に対して叛乱を起こした百姓の罰は、如何なる事情の下にあつたとしても、死刑である
更にかくの如き虐殺政策に関して言へば、それは信長もこれよりも少い理由でありながら、
比叡山の天台宗徒を絶滅さしたことを記憶して置くべきであらう。吾々が島原で亡びた勇
者を気の毒に思ひ、彼等がその統治者の兇猛な残虐に対してなした叛乱に同情を表するの
は、いづれから言つても理由ある事と思ふ。併しただ公明なる事実として、日本の政治的
見地から、全体の事件を考慮することが必要であると思ふ。
註これらの布告が、一として新教徒のキリスト教に対して向けられなかつたといふことは、心に留めて
おかなければならない、オランダ人はこの布令の意味では、キリスト教徒とは考へられて居なかつたので
ある、又イギリス人も同様であつた。次に示す代表的な村から得た抜萃、組帳則ち組合の取締法は、ロオ
マ旧教の改宗者則ち信者の、その組合中に居ることに関して、すべての団体に課せられた責任を示してゐ
る、-
『毎年、最初の月と第三の月との間で吾々は宗門帳を更める。若し吾々が禁制の宗門に属してゐる者の
居るのを知るならば、直に代官にそれを通ずるものである、……召使、労働者共は、キリスト教徒でない
といふ事を宣明した証文を主人に差し出すべきである。嘗てキリスト教徒であつたが、それを取り消した

者に関しては-若しこのやうな者が村に来、また去る事があれば、吾々はそれを申出ることを約する』
-ヰグモア教授の『旧日本に於ける土地所有権及び地方制度所見』professor wigurore's "notes on ian
Tenure and Local institution in old japan"-参照
オランダ人は船舶と大砲とを以てこの叛乱を潰滅さす助けをしたといふので非難された、
彼等は自分等独自の考へから、勝手に四百二十六発の大砲を城内に打ち込んだといふ。併
しながら、今まで残つて居る平戸のオランダ商館の通信は無論、彼等が脅嚇されて、斯様
な行動をとるの已むなきに至らしめられたのである事を証明して居る。兎に角、彼等の行
動に就いて、これに只だ宗教上の非難を加へるには充分な理由がない-よしその行動は
人道上の見地からは充分に非難されるとしても。蓋し叛徒の大部分が、たまたまネザラン
ドの男女を異端者として生きながら焚殺した処の宗教を信じて居るのであるから、この叛
乱を鎮圧して居る日本の官憲を助ける事を拒絶するわけには行かなかつたのであらう。茲
する処このオランダ人達の親族のものが少からず、かのスペインの猛将アルヴアの虐殺を
逞うした日に〓された事があるのではあるまいか、恐らくそんな事も原因となつて、この
砲撃が行はれたのかも知れない。若しポルトガル人並びにスペイン人の僧侶にして、日木
の政府を乗取る事が出来たならば、日本に於けるイギリス人とオランダ人とは、みなどん
な目に遇つたであらうか、それは明らかに解つて居た筈であるが。
島原の虐殺を以て、ポルトガルとスペインの布教に関する実際の歴史は終りを告げて居
る。この事件の後に、キリスト教は、徐に着々と、又執念深く踏み潰されてしまつて、日
に触れる限りは存在を失つてしまつた。キリスト教の容認され、若しくは半ば容認されて
居たのは、僅に六十五年間であつて、その伝播と崩壊との全歴史は、前後殆ど九十年に亙
つて居る。殆どあらゆる階級の人々、即ち王侯から貧民に至るまで、その為めに苦難を受
けた、何千といふ人々がその為めに拷問を受けた-その拷問の恐ろしさは、多数の人々
を無盆な殉教に送つたかのジエジユイト教徒等中の三人までもが、苦痛にたえずその信仰
を否認せざるを得なくなつた程甚だしいものであつた、-又やさしい婦人達には、火刑
を宣告されて、少し何とか言葉を用ひたならば、自分の子と共に救はれたであらうに、さ
ういふ言葉を発するよりも、むしろその幼な児を抱いて火中に投じたのもあつた。しか〓
数千の人々がその為めに無盆に死んだこの宗教は、害悪以外何物をも日本に齎しはしなか
つた、擾乱、迫害、叛乱、政治上の難局、及び戦争等を起こしたのみである。社会の保護
と保持とのために、言語に尽くせざる程の代価を払つて発展さした人民の美徳、-彼等

の克己、彼等の信仰、彼等の忠誠、彼等の不撓の精神と勇気、-さへもこの暗い信条に
よつて乱され、方向をあやまられ、その社会を破壊する為めに用ふる力にしてしまつた。
若しその破壊がなし遂げられ得たならば、そして新ロオマ旧教の帝国といふやうなものが、
その廃墟の上に建立されたならば、その帝国の力は、僧侶の暴政、審問制度の拡大、良心
の自由と人類の進歩とに反対する永久なるジエジユイト派の戦乱といふものを、盆?拡張
するために使用されたであらう。吾々はこの無慈悲な信仰の犠牲者を憐んで、彼等の役に
立たない勇気を当然賞讃して然るべきであらう、しかも誰れが彼等の主義の、失敗に帰し
た事を遺憾に思ひ得るであらうか……宗教的偏執以外の別な立脚地から見、単にその結果
によつて判断すれば、日本をキリスト教化しようとしたジエジユイト派の努力は、人道に
反する罪悪、蹂躙の労働、只だ地震、海嘯、火山の爆発等に、-それが惹き起こした不
幸と破壊の理由から、-のみ比較し得べき災難であると考へざるを得ない。
註フランシスコ・カツソラ、ペドロ・マルクエツ、ジウゼツペ・キアラの三人。その中二人は-多分
強制の下にであらう-日本の婦人と結婚した。彼等の後の物語に就いては、日本亜細亜協会記事"tran
-sactions of the asiatic society of Japan"のサトウ氏の一文を見よ。
孤立政策-日本を世界の他の国々から鎖ざしてしまふ政策-秀忠に依つて採用され、
その後継者達によつて維持された処のそれは、宗教的陰謀が鼓吹した恐怖の念を充分に云
すものである。オランダの商人を除いて、すべての外国人等がこの国から追放されたばか
りでなく、ポルトガル人やスペイン人との混血児も亦すべて追放され、日本の家族は彼等
を養子にするとか、隠すとかを禁じられ、これを犯した家族は、その一族悉?く処罰され
る事になつた。一六三六年に、二百八十七人の混血児が、マカオに向けて送り出された。
混血児の通訳として働くその能力が特に恐れられたのも尤もな事である、然しこの布令の
発せられた当時、人種的〓悪の念が、宗教的敵愾心によつて甚だしく起こされたといふの
も殆ど疑ふことは出来ない。島原の〓話があつてから後、すべての西欧の外人は、例外な
く、明らかに疑惑の念を以て見られたのであつた。ポルトガルとスペインの商人達は、オ
ランダ人と入れ代つた(イギリスの商館は数年前に〓に閉〓されて居たので)併しオラ
ダ人の場合でも非常な警戒は加へられた。彼等はその平戸に於ける形勝の地を棄てて、こ
の商館を出島に移すやうに強ひられた、-出島とは僅長さ六百尺、幅、二百四十尺の小
さな島である。其処で彼等は、囚人のやうに絶えず監視されてゐた。彼等は人民の間に出
てゆくことを許されなかつた。又如何なる人と雖も、許可なくして彼等を訪れることは出
来ず、又如何な婦人も、醜業婦は別として、如何なる事情があつても、彼等の保留地へ入

ることは許されなかつた。併し彼等はこの国の貿易を独占して居た。そしてオランダ人の
根気強さは、二百有余年の間、利得のために、これ等の状態を堪へ忍んだのであつた。+
ランダ商館と支那人とによつて維持された以外、諸外国との通商は、全然禁止された。如
何なる日本人でも、日本を去ることは斬罪であつた、又秘にうまくこの国を抜け去り得な
人も、その帰国するや、死刑に処せられた。この法律の目的は、布教上の訓練のために、
ジエジユイト教派によつて、海外に送られた日本人が、普通の人を装つて、日本に帰つて
来るのを防止するにあつた。長い航海をなし得る船を建造することも亦禁じられ、政府に
よつて定められた大きさを超える一切の船は、破壊された。展望台が異国の商船を見張る
ために、沿岸に置かれた。そして日本の港に入らんとするヨオロツパの船は、如何なる船
でも、オランダ商会の船を除けば、襲撃されて打ち壊されたのであつた。
註併し支那の商人はオランダの商人より以上の自由をゆるされて居た。
ポルトガル人の伝道によつて最初に得られた大成功に就いてはなほ考慮すべき処がある。
日本の社会史に就いて、吾々は現在比較的無智なのであるから、キリスト教徒の一と芝居
の全部を了解する事は容易でない。ジエジユイト教派の伝道の記録は沢山にある、併し
れと同時代の日本の年代記が、この伝道に就いて与へる知識は甚だ乏しい、-これは多
分キリスト教の問題に関する一切の書物のみならず、キリスト教徒とか外国とかいふ語の
入つてゐる書物は、みなこれを禁止する布告が、第十七世紀中に発布された為めであらう
ジエジユイト教徒の本が説明して居ない事、そして若しさういふ事が許されるとしたなら
は、寧ろ吾々が日本の歴史家達に説明を期待して居る事は、祖先礼拝の土台の上に建設さ
れ、外来の侵入に抵抗する巨大な能力を明らかにもつて居る。日本の社会が、どうしてジ
エジユイト教派の勢力によつて、これほど急速に侵入され、更に一部分は瓦解されるに至
つたのであらうかといふ事である。あらゆる疑問の中で、日本の証拠によつて私が答へて
費ひたいと思ふ疑問は次のことである、曰く如何なる程度まで、伝道師達は祖先の祭祀を
妨げたかといふ、その事である。これは重要な問題である。支那に於ては、ジエジユイト
教徒等は改宗の勧誘に抵抗する力が祖先礼拝にあることを早くも認めた。そして彼等は仙
等の以前に仏教徒も多分為さざるを得なかつたやうに、機敏にもそれを黙認することに怒
めた。若し法王権が彼等の方策に支持を与へたならば、ジエジユイト教派は支那の歴史を
「変し得たであらう。然るに他の宗教団は猛烈にこの妥協に反対したので、その機会は逸
してしまつた。其処で、どれ程まで祖先の祭祀拝が、日本に於けるポルトガルの伝道師等

によつて黙認されたかは、社会学上の研究に取つて甚だ興味のある事である。勿論、最豆
の祭祀は、明白な理由からして、そのままにして置かれた。一家の祭祀が当時に於て、今
日それが新教とロオマ旧教との伝道師によつて等しく攻撃されてゐると同じやうに、執今
深く攻撃されたと想像するのは困難である、-例へば、改宗者達が、彼等の祖先の位曲
を棄ててしまふとか、破壊するとかいふやうに、強ひられたとは想像し難い。なほそれと
共に一方に於て、ずつと貧困な改宗者達の多く-召使やその他の一般庶民-が一家の
祖先祭祀を持つてゐたかどうかに就いて、吾々は今でも疑ひをもつて居る。無頼漢の階級
はその中に多数の改宗者を出して居るが、それ等は勿論、この点に於て考慮の中に置く心
要はない。この問題を公平に判断せんとするならば、第十六世紀に於ける平民の宗教的状
態に就いて知らなければならない事がまだ沢山にある。兎に角、如何なる方法が採られか
にしろ、初期の伝道の成功は驚くべきものであつた。彼等の伝道の事業は、日本の社会組
織の特殊な性質のために、頭から始める必要があつた。臣下はその領主の許可によつて
初めてその信条を変へることが出来たのである。処が最初からこの許可は自由に与へらぬ
たのであつた。或る場合には人民が新宗教を採ることは、彼等の自由であると、公然告〓
を受けた事もあつた。又或る場合には、改宗した領主が新宗教を採るやうに人民に命令を
下した事もある。或はこの外国の宗教は最初仏教の新しい種類だと考へ違ひされたらしく
もある。そして一五五二年に、ポルトガルの布教団に与へた今日まで残つて居る山口に於
ける公の許可の中で、彼等は『仏の法』を-仏法紹隆の為め-説教しても宜しいとい
ふ許可が(その許可には大道寺といふ一宇の寺をもそのうちに入れてあつたやうに見える
が)異国人達に向つてなされたといふことを、日本の文字が明らかに述べてゐる。原文は
サア・アアネスト・サトウによつて次のやうに翻訳されてゐて、氏はそれをそのまま復写
にして出して居る、-
〓〓郡道野
〓功城朝〓忘〓
す創〓満望
〓所裁状如〓

註この文書のラテン及びポルトガルの翻訳に寧ろその偽造訳の中には、仏法を説くといふ事に就いては
一言も云つてない、又日本の文書には少しも載つてゐない事が沢山附加されてゐる、サトウ氏のこの文書
並びにその偽訳に関する説明に就いては、日本亜細亜協会記事、第八巻第二部trarsaction of the asiatic
Society of jaran" vol. VI[, part Ii"を見よ。(訳者曰、八巻とあれど実は七巻なり)
若しこの過誤(或は欺偽)が山口に於て起こり得たとすれば、それが亦他の場所でも祀
つたらうと想像するのも当然である。外面上ロオマ教の儀式は、普通に行はれて居る仏教
の儀式に似てゐた。人々はその勤行、法衣、数珠、平伏、立像、梵鐘、香等の形式に於て
それ等が自分達の日頃見馴れて居るものである事を認めた。処女と聖徒達は、御光をさし
た菩薩と仏陀に似てゐると見られた、天使と悪魔とは直に天人並びに鬼と同一視されたの
である。仏法の儀式に於て一般の想像を喜ばした一切のものは、僅ばかり異つただけの形
式で、ジエジユイト教派に渡され、彼等によつて教会や礼拝堂として、神聖な場所とされ
たその寺院に於て見る事が出来たのであつた。この二つの信仰を、実際に二分してゐる底
知れぬ深淵は、普通の人には認められ得なかつたが、併し外面上の類似は直ぐに認められ
た。更に又、人の心を惹くやうな二三の新奇なものもあつた。例へばジエジユイト教徒達
は人々の注意を惹く目的から、自分達の教会内で、いつも奇蹟劇を演じたらしい……。供
しあらゆる種類の外観上の目を喜ばすものとか、仏教との外観上の類似とかは、この新宗
教の伝播を只だ援助し得たに過ぎなくて、それ等はその布教の急速な進歩を説明するには
足らないのである。
強制といふ事は幾分その説明になるかも知れない-改宗した大名がその臣下に及ぼー
に強制が。地方の住民は強い脅迫を受けて、改宗した領主の宗教に追従して行つたといこ
事である。そして幾百-恐らくは幾千の人々は、単に忠義の習慣から、みな同じ事を行
つたに相違ない。かういふ場合、どういふ種類の説得法を、教派のものが大名に対して用
ひたか、それを考究して見るのは価値のある事である。伝道事業に対する一大助力は、ポ
ルトガルの商業にあつた事-特に鉄砲及び弾薬の商事にあつた事を吾々は知つて居る
秀吉の権力獲得に先き立ち、国情の騒乱して居た際には、この商売は地方の領主と宗教上
の協商をするに有力なる賄賂であつた。鉄砲を用ひ得た大名は、さういふ武器をもつて居
ない競争の位置にある領主に対して幾分有利である、そしてさういふ商売を独占し得る領
主は、その近隣のものを犠牲に供して、自分の権力を増大する事を得たのである。それて
説教をする特権を得るために、この商売が実際提供された、時にはその特権以上のものを
要求し、それの得られた事もあつた。一五七二年にポルトガル人は、その教会への贈物と

して、長崎の全市をさへ敢て要求するといふ大それた事を申出した-その市の上に於け
る司法権と共に、そしてそれを拒絶すれば、他処に行つて根城を据ゑると云つて威嚇した
大名の大村は最初異議を唱へたが、遂には譲歩した。かくして長崎はキリスト教徒の領地
となり、直接に教会に依つて支配された。さうすると忽ちに師父等は、其の地方の宗教の
上に猛烈な攻撃を加へて、自分等の信条の特徴を出し始めた。則ち彼等は仏教の寺、神宮
寺に火を放ち、その火災を以て『神の怒り』だと言ひふらした、-この一事の後、改宝
者の熱意に依つて、長崎市内及び附近の凡そ八十箇所の寺が焼かれた。長崎の領地内にあ
つては、仏教は全滅させられた-その僧侶は迫害され逐はれてしまつた。豊後の国に於
てはジエジユイト教派の仏教迫害は、これよりも遥かに猛烈で、広大な規模に依つて行は
れた。その支配して居た大名大友宗麟宗近はその領土内の仏寺を尽?く打ち壊したのみな
らず(伝ふる処に依るとその数三千に及ぶといふ)多数の仏僧を〓害した。彦山の僧侶達
は暴君宗麟の死を祈願したと云はれたのであるが、この山の大伽藍の破壊のために、宗麟
は意地悪るくも(一五七六年の)五月六日-仏陀誕生の祭日を選んだといふ事である
無条件の服従にならされて居た従順な人民の上に及ぼす領主の強制は、幾分伝道成功の
第一歩を説明するに足りるであらう、併しそれにしても、尚ほ幾多の説明しがたい事が残
つて居る、例へば後年の秘密伝道の成功、迫害の下にあつた改宗者の熱心と勇気、反対な
信仰の進展に対する、祖先祭祀を守る主なる人々の長い間の冷静等がそれである……。
リスト教が初めてロオマ帝国を一貫して拡がり始めた際には、祖先の宗教なるものは滅び
て地に墜ち、社会の構造はその原形を失つて居り、キリスト教に対し、立派な抵抗を実際
なし得る何等宗教的保守主義なる者はなかつたのである。然るに第十六世紀十七世紀の日
本に於ては、祖先の宗教は遥かに強い勢を以て活躍して居り、社会はまだ不完全なるその
完成の第二期に入つたのみであつた。ジエジユイト教への改宗は、昔の信仰を既に失つて
居た人民の間になされたのではなく、世界中の最も深刻に宗教的なまた保守的な社会の一
に於てなされたのである。かくの如き社会に入つて来たキリスト教は、その種類の如何な
るものたるを問はず、社会の構造上の崩壊を起こさずには居まい-少くとも地方的性質
の崩壊を。かくの如き崩壊がどれほど拡大し透徹して居たか、それは吾々の知る処ではな
い、また吾々は、この危険に当面して、本来の宗教的本能の長い間の惰性は、どうしたの
であるか、それに就いての適当な説明はない。
併し少くともこの問題の上に傍証を投ずると思はれるやうな歴史上の事実は多少ある一
リツキに依つて基礎を定められた支那に於けるジエジユイト教派の政策は、改宗者をして

自由にその祖先の祭式を行はしめたのであつた。この政策が継続された間は伝道も隆盛で
あつた。然るにこの妥協の結果として、不和が生じた時、事件はロオマに具申された。法
王インノセント第十世は、一六四五年に上諭を出して、異説禁止を決定した。そのためパ
ユジユイト教の伝道は、実際支那に於ては滅亡した。法王インノセントの決定は、その羽
年法王アレクサンダア第八世の上諭によつて取消された。併し祖先礼拝のこの問題に就い
ては、繰り返し繰り返し論評が起こされ、終に一六九三年に法王クレメント第九世が断然
如何なる形を以てしても、改宗者の、祖先の祭式を行ふ事を禁ずるに至つた……。爾来極
東に於けるあらゆる伝道の一切の努力も、キリスト教の主旨を進める事は出来なくなつた
その社会学上の理由は明瞭である。
こんなわけで一六四五年までは、祖先の祭祀は、支那に於けるジエジユイト教派に依つ
て黙認され、有望の効果があつた事を吾々は見たが、さてそれで日本に於ても、第十六卅
紀の後半の間は、支那に於けると同様な黙認政策が採られたのかも知れない。日本の伝造
は一五四九年に始まり、その歴史は一六三八年の島原の虐殺を以て終つて居る-祖先礼
拝の黙認を禁じた第一囘の法王決定の前、約七年である。ジエジユイト教派の伝道事業は
あらゆる反対のあつたに拘らず、確実に隆盛に赴いたが、頓て考慮の足りない、しかも極
めて固陋な熱狂者のために妨げられるに至つた。抑も一五八五年にグレゴリイ第十三世に
依つて発布され、更に一六〇〇年にクレメント第三世に依つて確定された上諭に依り、〓
エジユイト教のみが日本で伝道事業を行ふやうに公認されたが、この特権がフランシスカ
ン派の熱心のために無視されるに至つて、始めて日本政府との葛藤が起つたのであつた
一五九三年に秀吉が、フランシスカン派の僧侶六人を死刑に処した事はすでに言つた処で
ある。それから一六〇八年に、ポオル第五世が、ロオマ旧教のあらゆる教団の伝道師に、
日本で仕事をする事を許した上諭を発した事は、恐らくジエジユイト教派の破滅を招致し
たのであらう。記憶すべき事は、家康は一六一二年にフランシスカン派を鎮圧した事で
-これはフランシスカン派の、秀吉から得た体験も、少しも彼等に教へる処のなかつか
証拠である。大体に言つて見れば、ドミニカン教派とフランシスカン教派とは、ジエジコ
イト教徒(この派を彼等両派は卑怯だとして排斥した)が賢くもそのままにして手を触れ
ずに置いた事柄に、無謀にもたづさはり、そのたづさはつた事が、結局伝道事業の避くべ
からざる破滅を早めたのであつたらしく考へられる。
吾々は第十七世紀の初めに当つて、日本に果たして百万のキリスト教信者があつたか
それに就いて当然疑を抱く、それよりも遥かに事実らしい六十万と言ふ方が頷かれる。信

教自由の今の時代に於て、総ての外国伝道師の団体が、その努力を結合し、その事業を玄
持するに莫大な金額を年々消費して居るのであるが、しかも彼等は、信頼し得べき〓算に
依ると、前のポルトガルの伝道師等の得たと言ふ成功の僅に五分の一を得たのみであつた
なるほど第十六世紀のジエジユイト教派は、幾多の領主に依つて、その地方の全人民の上
に極めて力ある強制を行ひ得たのではあつた、併し近代の伝道は、強制力の如何はしい価
値よりも遥かに勝さる、教育上、財政上、並びに立法上の長所をもつて居る、しかもその
齎し得た結果の小なることは説明を要するであらう。がその説明は難しくはない。蓋し〓
もなく祖先の祭祀を攻撃する事は、当然社会の組織を攻撃する事になる。而して日本の社
会は本能的に倫理上の根拠の上に加へられた、かくの如き攻撃に抵抗するのである。何と
なればこの日本の社会は、紀元第二世紀三世紀にロオマの社会が示したやうな、それほど
の状態にすらも達して居たと想像するのは間違ひであるからで、むしろこの日本社会は
キリスト降誕前幾世紀の古にあつたギリシヤ、ラテンの社会の状態に似て居たのである
鉄道、電信、正確な近代の武器、各種の近代の応用化学等の輸入も、まだ事物の根本的科
序を変更するには足らなかつた。表面上の事物の崩壊は急速に進行し、新しい構造が出来
かけて居る。併し社会の状態は、南欧に於ける、キリスト教輸入の余程以前にあつた状能
にとどまつて居るのである。
凡そ宗教の各種は多少不朽の真理を保有しては居るが、進化論者はその宗教を分類しな
ければならない。進化論者は一神教の信仰を以て、人間思想の進歩上、多神教的信条よb
も著しく進歩したものを代表して居ると考へざるを得ないのである。一神教とは無数の儒
を信ずる幾多の信仰を、一つの目に見えざる全能力といふ大きな広い考へに融合さし拡士
したものの意である。なほ心理学的進化論の立脚地から言へば、進化論者は勿論汎神教を
以て、一神教よりも進んだものであるとなし、さらに不可知論を以て、一神汎神の両者ト
りも進んだものであると考へざるを得ないのである。併しながら信条の価値は、当然関係
的のものである、而してその価値如何は、或る教養ある一階級の智的発達にそれが適応す
るといふ事に依つて定められるのでなく、全社会-その宗教がこの社会の道徳上の体験
を具体的に示して居る-その社会に対する大きな情緒的関係に依つて決せられるのであ
る。また別の社会に対するその信条の価値は、その社会の倫理上の実験に適応するその力
に依らざるを得ないのである。吾々はロオマ旧教が、その一神的〓念の唯一の力に依つて
原始的な祖先礼拝よりも、一段進んだものである事を容認し得るのである。併しこのロナ

マ旧教は、支那或は日本の文化が到達して居なかつた社会状態にのみ適応して居たのであ
つた-その社会の状態といふのは、古代の家族が分解し、孝道の宗教が忘却されてしま
つた社会を言ふのである。インドの宗教は遥かに巧妙な、また比較する事の出来ない程人
情味のあるものであつて、それはロヨラ(ジエジユイト教の)に先き立つ事一千年も前に、
伝道上の成功の秘訣を心得て居たが、それとは異つてジエジユイト派の宗教は、日本の社
会状態に適応する事を知らなかつた。それでその適応不能の事実のため、伝道の運命は早
くすでに決定されて居たのであつた。異説禁止、陰謀、野蛮な迫害等の行はれた事-
エジユイト教徒のあらゆる欺瞞及び残虐-それ等は只だかくの如き適応不能の表現との
み考へられて然るべきであらう。それと共に家康及びその後継者の採つた圧抑政策は、社
会学上から見れば、最大な危険を国家的に知覚したといふに過ぎない事になる。則ち外国
宗教の勝利は、社会の全崩壊、帝国の外国支配への服従を、包蔵して居るといふ事が認め
られたのである。
少くとも美術家も、社会学者も、この伝道の失敗を遺憾とする事はない。彼等の伝道の
絶滅は、日本の社会をして、その型の極致にまで発展するを得せしめ、かくて近代人の眼
に、日本美術の驚くべき世界を保存し、なほ伝統、信仰、及び慣習の更に驚くべ
保存するを得せしめたのである。若しロオマ旧教が勝利を博したならば、すべて斯様なも
のを一掃し去つて、消滅さした事であらう。美術家達の伝道師に対する自然の反抗心は
その伝道師が常に用捨なき破壊者であり、又破壊者ならざるを得なかつたといふ事実に依
つても察しられる。何処に於ても、凡そ美術の発達なるものは、何等かの形を以て、宗釣
と関係して居る、そして人民の美術が、その人民の信仰を反映して居る限り、その美術は
それ等の信仰を敵とするものに取つては厭ふべきものであらう。仏教起原の日本美術は、
特に宗教上の暗示を与へる美術である-単に絵画彫刻に関してのみならず、なほ装飾そ
の他殆ど一切の審美的趣味をもつ所産に関してさうである。日本人の樹木、花卉、庭園の
美を悦ぶ心、自然及び自然の声に対する愛好心にすらも-要するに生のあらゆる詩情に
も、多少宗教の感情が結ばれて居る。ジエジユイト教徒並びにその同盟者が、少しの狐疑
する処もなく、すべてそれ等の感、その微細の点に至るまで、これを無くしてしまはうと
した事は、殆ど確実な事であると考へられる。よし又彼等教徒はこの異様な美の世界の意
義-再びくりかへし若しくは囘復する事の出来ない民族の体験の結果である-を了解
し、これを感じ得たとしても、彼等は抹〓、滅却のその仕事をするに、一刻も躊躇した事

ではあるまいと思ふ。なるほど今日もその驚くべき美術の世界は、西欧の産業主義のため
に、正に取りかへしのつかないやうに破壊されかかつて居る。併し産業上の影響は、用拾
なく働きはするが、熱狂的ではない、そしてその破壊はそれほど猛烈に急速に行はれるの
でもないのであるから、その美の段々薄らいで行く話は、記録に残され、将来の人文の〓
盆となる事であらう。

封建の完成

日本の文明がその発達の極限に達したのは、徳川幕府の末期-現今の政体にうつる直
ぐ前の期間-であつて、それ以上の発展は社会の改造に拠るの他不可能であつた。此字
成の状態は、以前から存在して居た状態を強くし、明確にすることを、主に現はしたもの
で、基本的変化としては殆ど何もないのである。協同の古来の強制的制度が以前よりも
〓強められ、儀式的因習のあらゆる細微な条件が、以前よりも容赦なく厳正に固執された
是より先き立つた時代には、此時に比して遥かに苛酷な処はあつたが、併しこれほど自由
の欠如した時代は未だ曽て無かつた。併しながら斯く制限を増大した結果にも道徳的の価
値が無い訳ではなかつた。個人の自由が個人の利盆となり得る時代は、まだ遥かに遠かっ
た。そして徳川の統治の父の如き強制は、国民性に於て最も目に附くものの多くを発達さ
せまたそれを強める助けをした。幾百年の戦乱は、これ以前には、其国民性のもつと微妙
な諸性質を修養する機会を余り与へなかつた。其諸?の性質とは爛雅、飾り気のない温情、

後に至つて日本人の生活に実に稀代の魅力を与へた生に就いての喜である。併し昌平二百
年の鎖国の間に、此の人間味のある天性の優雅にして魅力に富んだ方面が開発される機会
を得たのである、そして法律習慣のいろいろな制限はまたその開発を促進せしめ、且つこ
れに奇異な形態を与へた、-たとへば園丁の倦む事を知らぬ技術が、菊花を百千の風変
りな美しい形に進化させるやうなものであつた。……圧迫を蒙つた一般の社会的傾向は
窮屈に向つたけれども、抑制は道徳的及び美的の修養に対する余地を特殊の方面に残した
此社会状態を了解するには、其法律的方面に於ける統治者の父の如き統治の性質を考察
する事が必要であらう。近代人の想像からすれば、昔の日本の法律は堪へ難い程厳酷な〓
のと思はれるのは尤もな次第であるが、併し彼等の行政は、実際我等西洋の法律のそれ程
に妥協性のないものではない。其上、最上級から最下級まで、あらゆる階級を重く圧して
は居たけれども、法律上の重荷は、負担者の各自の力に相応するやうにされて居た、則ち
法の適用は社会的階級が下れば下るに従つて漸次寛大になつて居たのである。少くとも即
論上では、上古から貧乏人や不幸者は憐憫を受ける資格があると考へられて居り、それ笠
に対しては能ふ限りの慈悲を示す義務が、日本の現存の最古の法典なる聖徳太子の法律に
も主張されてある。併し斯様な差別の最も著しい例は、家康の遺訓に現はれて居る、此の
遺訓は、社会が既に余程発達して、その諸制度も余程確立し、あらゆるその東縛も厳重に
なつた時代の正義に就いての〓念をあらはして居る者である。『民は国の本なり』(遺訓位
十五条)と道破した此の峻厳にして而も賢明な統治者は、賤民に対する取扱ひを寛仁にす
べきことを命じた。彼は、たとへ如何に高位に在るものでも、大名が法を破つて『民の〓
となる」(遺訓第十一条)者があれば、其の領地を没収して是を罰する事を規定した。〓
の立法者の人道的精神は、犯罪に関する彼の法令、たとへば、彼が姦通の問題を取扱ふ坦
合の如きものに最も強く示されて居る-姦通は祖先祭祀を基礎とする社会には当然最も
重大な犯罪であるが、遺訓の第五十条
農工商之妻密に他夫と通乱ニ人倫者は当夫不及ニ訴出双方可
詠之誅一人而不誅一人当夫之〓与ニ不義人同し然共若
又不誅して於訴出は誅共不誅共可任ニ当夫之願一陰限
によつて、恥を受けた夫は不義者を〓す古
行体之人民非可〓之科至ニ裁許者尤可有斟酌事
来の権利を認可された、-併し、若し彼が不義者の一人だけを殺すならば、彼は相手の
いづれの者とも同罪と見做さるべきものであるといふ条項が附随して居た。若し犯人が裁
判を受ける事になると、平民の場合には特にその事件を寛大に処置すべき事を家康は勧め
て居る。彼は人間の性質は元来弱い者である事を述べて、若年で単純な心の者の中には、
相方が性質上堕落して居ない時ですら、一時の激情の余りに愚行に走る場合もある事を云
つて居る。併し次の条項第五十一条に、彼は上流階級の男女が同様の罪を犯した場合には

何等の慈悲をも示すべきではないと命じて居る。彼は宣言して居る、『是等のものは、現
存の規定を犯すことによつて世を騒がせるが如き事はせぬ程に心得のある人々である。故
に斯かる人々が、不義不貞をはたらいて法を破る時は、容赦も相談も無く直に是を罰すバ
武門仕給之男女如例式濫に不
きものである。農、工、商の場合は是の場合と同じからず』
可混雑〓有犯法戯撰私淫は
速可処罪科非可為
斟酌与農工商不同事
事〕……全法典に亙つて、武士階級の場合に法の束縛を固くし、下〓吐
級の為めには、是を緩くする此の傾向は一様に現はれて居る。家康は不要な処罰を力を入
れて非とした。そして刑罰を屡?行ふ事は民の非行の証拠に非らずして、官吏の非行の諧
拠であると主張した。彼の法典の第九十一条は将軍に関してすら此の事を斯く明らかに掲
死して居る、『皇国に刑罰処刑が夥多なる時は、武士の統治者が不徳にして堕落せる証拠
〔五穀不熟は天子政道之不明也国家多ニ刑戮は将軍武
である。』一
一……彼は権威ある大名の残酷或は含
徳之不肖と知て事々省ニ我身不可令ニ怠慢事
婪から、農民と貧民とを保護する為めに特殊な法令を案出した。大大名が江戸に参勤する
譜代外様諸家之十
途中、『泊に於て狼藉に及ぶ事』或は『武勲を笠に僣越の振舞をなす事』
大夫参勤交代駅路
の行列堅守作法分限之外不可華麗又〓
〓〕を厳禁した。是等の大大名の公の行為は言ふに及ばず、
嗇にして専驕武威不可悩旅館之人夫
其の私行さへも同じく幕府の監督の下にあつて、彼等は不道徳の為めに実際処罰される事
さへあつた。彼等の間の放埓に関して、立法者は、『これは叛逆とは公言せられ得ずとする
るも』、それが下〓階級に対する悪例を創める程度に準じて判決し処罰すべきもの(第八
十八条)と規定した。真の叛逆に就いては容赦は無かつた、此の問題に関する法律は峻器
を極めて例外或は緩和を許さなかつた。遺訓の第五十三条はこれが最高の犯罪として認ぬ
られた事を証するのである、『主を殺す臣下の罪は原則上天皇に対する大逆人の罪と同じ
彼の三親九族、最も遠縁の者に至る迄枝葉を悉?く断絶して是を根絶すべし、主を弑し
臣獄君之罪科其理朝
のでなく只だ主に向つて手を挙げただけの臣下の罪でも同断である』。
敵に均し其従類巻属所
縁之者に至迄刈根截葉べし縦雖不弑室
〕併し下〓階級の間に法を行ふ事に関してあらゆる制限
頼対主人於致手抗は同科たるべき声
を行ふ精神は、此凄まじい法令とは甚だしく反対して居る。贋造、放火、毒殺は実に火刑
或は磔刑を正当とする罪であつた。併し普通の罪の場合には、事情の許す限り寛恕するや
うに内命を授けられて居た。法典の第七十三条に云ふ、『下級の者に関する微細の点に就
至ニ下賤方偶之細事一
いては漢の高祖の広大な慈悲を学べ』と。
更にまた、刑事廷及び民
可傚漢高之寛仁事
評定決断所の奉行
事廷の奉行はただ、『慈善と慈悲とで著名な廉直高潔な武士の階級』から一
人は政道の亀鑑な
り是にあつる者は委撰ニ人
〓〕のみ選む事とされた。あらゆる奉行は絶えず厳密な監督の下に置か
品清潔仁愛成者可申付
れた。そして彼等の行為は幕府の密偵が規則正しくこれを報告した。

註一則ち直に死罪にする事。
註二身持放埓の場合には大名すら処罰せられる規定であつたけれども、家康はあらゆる悪行を法に照ら
して抑圧する事が当を得たものとは信じて居なかつた。此の問題に関して遺訓の第七十三条に示してある
処は不思議に近代的な調子がある、曰く『游女夜発之淫局は国府の附虫として君子詩及諸典に記す不
可レ無レ之者也痛制レ之も却而乱統不義之者日日出て不遑刑伐』と、併し多くの城下ではかういふ家
に決して許可されなかつた-これは恐らく、かかる城下には厳較な規律の下に維持すべき多数の軍隊が
居た為めであらう。
穂川の立法の今一つの人道的方面は、男女両性の関係に関するその訓諭である。蓄妾は
祖先祭祀の継続に関する理由の為めに、武士階級には黙許されて居たけれども、家康は単
に利己的理由の為めに、此の特権を恣にする事を極めて非難した。『愚昧無識な人間は怯
婦の為めに真の妻を閑却し、かくして最も重要な関係を乱す……此の程度までに堕落した
人は信実或は真面目を欠く武士として常に知られるべきである』。
愚者は昧之為愛妾蔑本
妻乱大倫溺之者は非
忠信之士と。
兼而可知事
可知事」輿論によつて非とされて居た寡居は-仏教の僧侶の場合に於ける他-〓
様に法典も是を非とした。『人十六歳以後は独棲すべからず。凡そ人たらん者は結婚を自
然の第一法則と認む』。
男女居室人之大倫也拾六歳以上独居すべからず求媒灼而可」
結一婚姻之礼子孫相続する時は各先祖之開顔人人天理之本也
子なき人は
養子する事を強要された。そして遺訓の第四十七条は、男子無き者が、養子せずして死ん
無実子無養子して相果
だ場合、その財産は『親族縁者に顧慮する処なく没収すべき者』、
る者は親疎に拘はらず没収
け〕なる事を制定した。勿論此の法律は祖先祭祀の擁護の為めに設けられたもので、
れを断絶する事なく継続するのが各人の至上の義務と思はれた。併し養子に関する幕府の
制規は、各人が困難なく法律上の要求を充たす事を得せしめた
懇々人道を教へ、道徳の壊敗を抑制し、独身を禁じ、祖先祭祀を厳格に維持した此の法
典が、ジエジユイト伝道師の根絶の時に制定された事を考へて見ると、幕府が宗教の自由
に関して取つた位置は、吾人には不思議な自由の一と見えるのである。第三十一条に宣三
する処は、『貴賤共に、虚偽腐敗の宗派(ロオマ旧教)に関する他、現時まで行はれ来た
つた宗教上の教義に関しては、彼等みな自身の好む処に従つて随意である。宗門の争は・
有来宗門邪宝
迄此の国の害毒及び不幸となつた、故に固くこれを抑圧しなければならぬ』
之外上下同可:
任其意総而宗論は古来天
……。併し此の条項の外見上の寛大は誤解してはならぬ、家族
下之不吉也堅可令ニ停止事、
の宗教に関して、かく厳峻なる法令を作つた立法者は、如何なる日本人も外国の信仰の為
めに、自己の種族の信仰を自由に棄ててよいと公言する人では無かつた。家康の真の位署
を了解するには、遺訓の全部を注意して読まなければならぬ、-それは単にかうである、

則ち、何人も彼の祖先祭祀に加へて、国家によつて許容された宗教を採用するのは自由で
あつた、といふのである。家康、自身も浄土宗の信者で、一般仏教に同情を持つて居た。
研し彼は何よりも先づ神道信者で、法典の第三条は義務の第一のものとして神を尊奉すべ
)て居る。-『心を清くすべし、而して身体の存せん限り神の尊崇を怠る勿
尊崇神祇〓磨心
れ』。〔
彼が祖先祭祀を仏教以上に置いたことは遺訓の第五十二条の本文
ガ一生涯不可怠事
に依つて明白である、その中に彼は他の種類の宗教を信仰するの故に、国家の信仰を等閑
に附するに至ることのなきやう宣言して居る。此の本文は特に興味深いものである
『自他受身神国者儒釈仙道等の外国之教を以先之専之則暫閣我主人忠を他人之
主に励むかことしこれ失本之理にあらずや』
勿論将軍は、古の諸神の後裔から、その権威を受けて居ると公言しながら、これ等の諸
神を疑ふ自由の権利を公言しては矛盾を生ずる訳である、彼の職責上の宗教上の義務は何
等の妥協をも許さなかつた。併し遺訓の内にあらはれて居るやうな、彼の意見に伴なつて
居る興味は、遺訓はただ彼の後継者にのみ〓読せしめてこれを導く為めのものであつて
公のものではなく、堅く私的の文書であつた事実に存するのである。全体として見れば、
彼の宗教的位置は現存日本の自由主義の為政家の位置と余程よく似て居る-第一の宗致
的義務は、日本種族の古来の信仰たる祖先祭祀なり、といふ愛国的確信を、条件として見
備した仏教ならば、其の長所は何なりとも尊敬するといふ精神である……。家康は仏教に
就いて愛着を有つて居た。併し此の点に於ても彼は何等狭量を示しては居なかつた。彼は
その遺訓に『我が子孫は常に浄土宗を信ずべし』とは書いたけれども、彼は天台宗の叡山
の僧正で、彼の教師の一人であつたものを大いに尊敬して、此僧の為めに天台宗の大僧正
の位置のみならず、僧侶が至り得る最高の位階を授けてやつた。その上将軍は叡山に赴い
て国家繁栄の為めに祈願を籠めた事もあつた。
帝国の大部分を含む天領の内にあつては、普通の刑法の執行は、人道的であり、処罰は、
普通の人の場合には、多くは其時の事情に依つたと信ずべき充分な理由がある。不要の厳
峻は、高等の武家法度では一の犯罪であつた。此高等の武家法度は、かかる場合、位官に
は何等の区別をもしなかつた。例へば、百姓一揆の張本人等は死罪に処せられるのである
が、領主の圧制が因をなして一揆を起こすに至らしめた場合、其領主は領地の一半或は〓
部を奪はれるか、位を落とされるか、或は恐らくは切腹を命ぜられるのである。日本の法
律の研究の結果として、最初此問題に光明を与へたヰグモア教授は、昔の法律運用方の精

神に就いて立派な評論を吾人に与へてくれた。氏は、法の執行は近代の意味に於て『個人
を認めない』やうな事は決してなかつた事、少くとも一般の人民の為めには、小犯罪の場
合融通の利かない法律は存在して居なかつた事を指摘して居る。法を枉げぬと云ふアング
ロオ・サクソンの観念は、偏頗なく火の如き容赦なき司直の観念である。法を破る者は何
人たるを問はず、恰も火中に手を入れる者が苦痛を受けるが如く、正に確実に、其結果を
受けなければならないのである。然るに古代の日本の法律の執行に於ては、犯罪の事情、
犯人の理解力、教育程度、犯行以前の素行、動機、彼が受け忍んだ苦痛、彼の受けたる憤
怒の原因等、あらゆるものを酌量したのである。そして最後の判決は、法律上の制定或は
先例によるといふよりも、寧ろ道徳上の常識によつて決せられたのである。友人親族は、
犯人の為めに上告し、彼等の力に及ぶ限りの正直な方法で、彼を助ける事を許された。芸
し或る者が寃罪を蒙つて、吟味の上その潔白が分かつたならば、彼は温言を以て慰藉され
るのみならず、恐らく実質上の報償を受けるのである、そして、重大な吟味の終りには、
奉行は犯罪を罰するのみならず、他方に善行を褒賞するのが例であつたやうである……
一方起訴は役人の方からなるべく止めさせるやうにした。組合の仲裁で落着させ得るもの
或は妥協を附け得るものは、如何なる事件でも、なるべく法廷に持ち込まぬやうに、
限り手を尽くした。そして人民は法廷を出来る限り最後の手段としてのみ考へるやうに教
へられた。
註次に掲げるものは、有名な奉行大岡忠亮が、名高い刑事の吟味をした終りに下したといふ宣告の抜萃
である、『武蔵屋長兵衛及び後藤半四郎、其方共の行ひは尤も高い賞讃を受ける値がある。その褒美とー
て各?に銀十両づつを賜はる……。たみ、其方の兄弟を助けたる事も賞むべき事である、それに対して、
其方は金五貫文頂戴出来る。長八の娘こう、其方は両親に従順なれば、それにつき銀五両を褒美として浩
はされる』……。(デニングの『曩日の日本』"dening's Japan in days of yore"を見よ)親孝行、〓
気、慈仁等の著しいものに褒美を与へる昔の風は、よし今日法廷で行ふ事は出来ないとしても、地方の政
府では行はれて居る。その褒美は僅ではあるが、それが受領者に与へる公の名誉に至つては莫大である。
徳川の統治の一般の性質は、上述の事実から或る程度迄は推測が出来る。二百五十年間
平和を強ひ産業を奨励した此統治は、如何なる意味に於ても、恐怖時代ではなかつたので
ある。国民の文化はあらゆる手段を尽くして抑圧され、切り剪まれ、刈り込まれたけれど
も、同時にそれは養育され、洗煉され、力を強められた。此永い平和は帝国中に、以前に
は決して存在しなかつたもの-即ち、一般に行き渡つた安固の感じ-を確立した。個
人は法律と習慣とでそれ迄よりも以上に束縛された、が、併し彼はまた一方に保護もされ

たのである、則ち個人は其の束縛が許す限りの程度まで心配なく行動し得た。個人は仲間
の為めに強制されたけれども、一方又仲間は彼を助けて元気よく其の強制に堪へる事を得
せしめた。義務を遂行し、組合の生活の重荷を支へて行く為めに、各人は相互に助け合つ
た。それ故に世態は、一般の繁栄の為めになるのみならず、一般の幸福の為めになつたの
である。当時にあつては、生存の為めの苦闘努力といふものは無かつた、-少くとも吾
吾近代人の考へるやうな意味に於ては無かつた。生活の要求は容易に満足させられた。あ
らゆる人は自己の為めに供給を受け、或は保護を与へる主人を有つて居た。競争は抑圧さ
れ若しくは止めさせられた。種類の如何を問はず最高の努力をもする必要はなかつた-
如何なる能力をも強調させる必要もなかつた。其上、努力して得んとするものも殆どなか
つた。或は全然なかつた。人民の大多数に取つては獲得すべき獲物がなかつたのである。
位階や収入は固定し、職業は世襲的であつた。そして任意に金銭を使用せんとする富者の
権利を制限した規定のために、富を蓄積せんとする世人の願は阻碍され或は麻痺させられ
てしまつた。大大名と雖も-将軍自身さへも-自分の欲するままを行ふ事は出来なか
つた。普通の人-農夫、工人、商人-は如何なる者と雖も、自分の欲するやうな家を
建てる事も、又自分の好む通りに、それを造作する事も出来ず、また嗜好上買ひ度いと田
ふやうな贅、沢品を買ふ訳にも行かなかつた。かういふ方面に耽ける事を望んだ大分限の平
民は、自分より上の階級の習慣を模倣し、或はその特権を僣取するのは法度である事を
直ぐに思ひ知る様な目に遇はされたのである。彼は或る種類の者を自家用に注文して作ら
せる訳にも行かなかつた。美的趣味を満足させる為めに贅沢品を作り出した工匠又は美術
家は、下〓の人々からの委託を引受ける心持ちは殆どもつて居なかつた、彼等は公卿や大
名の為めに仕事をしたのであつて、自分等の愛護者(公卿大名)の不興を買ふやうな危険
は殆ど出来なかつた。あらゆる人の快楽は、社会に於けるその者の地位によつて、大抵は
定められて居た。そして下級から上級に移るのは、容易な事ではなかつた。異常な人は、
大官顕貴の恩顧を身に受けて、時にはさういふ事をする事も出来た。併しかかる出世には
多大の危険が伴なつて居た。而して平民の取つた最も賢明な政策は、自己の位置に満足し
て落着いて居て、法律が許す限りの範囲に於て、人生の幸福を得ようと試みる事であつた
個人の野心はかく抑圧され、生活費は吾々西洋人の考へで必要額だと思はれるよりも遥
かに最小限度まで減少させられた為めに、奢侈禁制の規定があつたにも拘らず、文化の武
る形式に対しては、非常に好都合な状態が実際確立された。生活の単調に対する慰藉を求
める為めに、国民の心は余儀なく〓楽か研学かどちらかに向ふやうにされたのであつた。

徳川の政策は文学と美術の方面に想像を半ば縦にする余地を与へて置いた-美術といつ
ても下級のものではあるが、かくして抑圧されて居た個性は、是等二方面のうちに発揚の
手段を見出し、空想は創造的になつた。が、斯の如き種類の知的耽縦にさへも幾分危険の
量は伴なつて居た。そして此の危険を冒していろいろの事が実際行はれた。併しながら美
的趣味は抵抗の最も少い方面を選んで進んで行つた。観察は、日常生活の興味の上に-
窓から見得る、或は庭園中で研究される出来事の上に-種々の季節に自然があらはす目
馴れた事象の上に、-樹木、花卉、魚鳥の上に、-昆虫とその習慣の上に、-あら
ゆる種類の詳細、纎細な些事、面白い珍らしい事物の上に集中した。日本人種特有の天才
が今猶ほ西洋の蒐集家を悦ばせる奇態な骨董品の大多数を製産したのも当時であつた。書
家、牙彫師、装飾家は、小さい仙女の絵画、絶妙な奇古のもの、金属とエナメルと金蒔絵
の、奇蹟とも思はれる程の極小美術品を、製出するのには、殆ど何の制限も受けずに気儘
にまかせられた。かくの如き小事に於ては、彼等は束縛を受けずに、感情の上に自由を得
たのである。そしてその自由の結果が、今日ヨオロツパとアメリカの博物館で珍重されて
居るのである。美術の多数が(殆どすべてが支那伝来のものであるが)徳川時代以前に茎
しく発達したのは事実である。併しそれ等が美的の満足を普通の人の鑑賞し得る範囲内に
置いたああいふ廉価な形を採り始めたのは其の時の事であつた。奢侈禁制の法、或は節倹
を奨励する統治は、高価な製産品の使用と所有に対しては猶ほ適用され得たであらう。併
し形を賞翫して楽しむ事には適用され得ないのである。而して紙で造られたにせよ、或は
象牙細工にせよ、粘土にせよ、黄金にせよ、美しきものはいつも文化をすすめる一つの
である。紀元前四世紀に於ける希臘の一都市では、あらゆる家庭道具が、もつとも些細な
品に至るまで、意匠の点では美術品であつたといふ事である。そしてそれとは全然別種で。
又西洋人の眼にはもつと目馴れない風ではあるけれども、日本の家庭のあらゆる道具の場
合にも同様な事実を見るのである。青銅の蝋燭立、真鍮の燭台、鉄鍋、紙行灯、竹簾、木
枕、木盆等は、教育ある人の眼には、西洋の安物には全然見られない美と用途適合の感じ
を与へるであらう。此の美の感じが日常生活に於てあらゆるものに滲み込み始めたのは特
に徳川時代の間であつた。それからまた〓絵の技術も発達した、また現今富裕な好事家が
極めて熱心に蒐集して居るあの驚くべき色刷木版画(如何なる時代或は如何なる国に於て
も決して製作され得なかつた程に美麗なもの)が作られ始めた。文学も亦美術の如く、昨
だ上流階級の楽しみだけではなくなつた、それは非常に多数の通俗の形式を発達させた。
此の時代は通俗小説の時代、廉価本の時代、通俗劇の時代、老幼の為めの物語の時代であ

つた……。吾々は徳川時代を以て此の国民の長い一生のうちで最も幸福な時代であつたと
称し得るかも知れない。文学上及び美的の事に喚起された一般の興味を考への内に入れな
いとしても、人口と富との増加のみを見ても其の事実を証明するに足るであらう。それは
大衆の享楽時代であつた。また一般の修養と社会的文雅の時代であつた。
慣習は社会の頂上から下方に拡がつた。徳川時代の間に、以前には上流社会にのみ流行
して居た種々の〓楽や芸事が一般のものとなつた。是等のうちの三つは高尚な程度の文雅
をあらはす種類のものであつた、即ち、歌合せ、茶の湯、及び生花の複雑した技術がそり
である。すべてこれ等は徳川時代よりも余程以前に日本の社会に入つて来たものであつた
-歌合せの流行の如きは、日本の信ずるに足る歴史が始まつた時と時代を同じうして居
るに違ひない。併しかかる〓楽や芸事が国民的となつたのは、徳川幕府の下であつた。こ
の時から茶の湯が全国に亙つて女子教育の一特性となつた。茶の湯の難かしい特性は、冬
数の絵の助を藉りてのみ説明が出来る、そしてその技術を卒業するには多年の練習と実習
が必要である。しかも此の術の全体も細目も、共に一個の茶碗で茶を立て、それを客に薦
める事を意味するに他ならないのである。併しながらそれは実際の美術である-極め一
極めて
秀美な美術である。実際に茶を立てる事は、それだけでは何でもない事である、その極に
て重大な要件は、その動作を出来るだけ極めて完全な、極めて丁寧な、極めて優雅な、極
めて魅力のある方法で行ふ事である。炭のつぎ方から茶の薦め方に至る迄-あらゆる事
を至上の礼法に従つて行はなければならぬ。充分にこれに通暁するには、大きな忍耐のみ
ならず生来の優雅な態度が必要である。故に茶の湯を習ふ事は、今猶ほ礼儀、克己、優雅
の練習-挙止の訓練であると思はれて居る……。生花の技術も矢張りこれに劣らずこみ
入つたものである。流派は沢山あるけれども、各流の目的は、ただ出来るだけ美しい方法
で葉と花の枝を見せ、『自然』自身の、不規則にしてしかも雅致ある趣を、くづさずに見
せる事だけである。此の技術も亦習得に多年を要する。そしてその修業は美的価値のみな
らず、一種の道徳的価値を有つて居る
礼法が極度まで習練され-典雅慇懃があらゆる階級に、流行としてのみでなく、一の
技術として普及したのもまた此の時代の事であつた。武を尚んだあらゆる文明社会には。
礼儀が上代に在つても既に国民の一特質となつて居る、そして日本人の間には、その古代
の言語が証明する如く、有史以前に普通の義務となつて居たに違ひない。此の問題に関す
る公規は、日本の仏教の創設者にして摂政であつた聖徳太子によつて、第七世紀の頃、既

以礼為本。其治民之本、要在乎
に作られて居た。太子は宣言して曰く、『群卿百寮、以礼為本。其治民之本、要在〓
礼。上不礼而下非斉。下無礼以必有罪。是以君臣有礼、位次不乱、百姓有礼、国
家自治』と。これと同様な古代の支那の教への幾分かが、千年の後に家康の遺訓中に反撫
して居るのが見える。『国を治むるの術は、君礼を以つて臣を遇するにあり。これに違へ
ば則ち身獄せられ国亡と知るべし』、(遺訓第二十三条)と吾々は武家政治の結果、礼法が
あらゆる階級に厳重に行はれたことは既に述べた、何となれば家康より少くとも十世紀以
前に、国民は劔刄の下で礼儀の訓練を受けたのであつたからである。併し徳川幕府の下〓
は、礼儀が実際上一般人民の特性となり-最下〓の者すら彼等の日々の諸関係に於て
行為の一法則としてこれを尊守するやうになつたのであつた。上流階級の間では、それが
人生に於ける美の技術となつた。当時貴金属で美術的な製作をする事を鼓吹したあらゆる
趣味、優雅、形式墨守は、言語動作のあらゆる詳細な事をも同様に鼓吹した。礼儀作法は
一種の道徳的及び美的の研究であり、実に完全無比の域に達して人為的な点が悉?く消滅
してしまつた程であつた。優雅と魅力とは習慣となり-人間の原質の世襲的性質となっ
たやうに思はれる、-事実少くとも女性の場合には確にさうなつたのであつた
註若しくは『儀式』といふ、ここに用ひられた漢語は紳土に相応しい公明な行為に関する一切を意味す。
アストン氏の翻訳(氏の『日本紀』の翻訳第二巻一三〇頁を見よ)
蓋し、日本の最も驚くべき美的産物は、象牙細工でも、青銅器でもなく、陶器でも、〓
劒でもなく、驚歎に値する金箔或は漆細工でもなくて-その婦人であると人の言つた事
があるが、これはまことに至言である。世界到る処、女は男が作つたものだといふ言葉に
半ば真理が籠もつて居るといふ事を承認した上で、吾々は、他のいづれの国の女よりも、
日本の女の場合に此の言葉が特に真実であると云つて然るべきであらう。勿論此の婦人を
作り上げるには数千年かかつたのである、併し私が今述べて居る此の時代に至つて、始め
て其の仕事が充分になり、完成を見たのである。此の道徳的創造物に当面しては、批評も
気息を止めなければならない。何となれば其処には、利己心と争闘とを第一とするやうな
世界に持つて行つても適合しない。道徳的魅力といふ欠点を外にしては、他に唯だ一つの
欠点もないからである。今茲に吾々が称讃の辞を捧げて居るのは道徳的美術家-西洋の
理想家が到底達し得ない一理想の実現者に対してである。一つの道徳的存在として、日本
の婦人は日本の男子と同種族に属するとは思はれないとは、如何に屡?断言された事であ
らう。遺伝は性によつて制限されて居るといふ事を考へると、此の断定にも理由がある。
日本の婦人は日本の男子とは道徳的には異種類の人である。今後十万年の間には斯様な型

の婦人が恐らく此の世界に再現する事はなからう、産業的文明の状態は斯様な婦人の存在
を許さないであらう。近代の方針で形成された如何なる社会にも、かくの如き型は到底創
造され得なかつた事であらう、また競争的争闘が取る非道徳的の形式が、吾人には今迄に
既に日常茶飯事と思はれるやうになつてしまつたやうな社会に於ても、到底創造され得な
い事であらう。唯だ異常な規定と統治の下にある一社会-あらゆる自我主張が抑圧され
自己犠牲が一般の義務となつた一社会-個性が生垣のやうに刈り込まれて、内からのみ
芽を出し花咲く事を許されて、決して外からすることを許されない一社会-一言にして
云へば、唯だ祖先礼拝に基礎を置く一社会のみがそれを産出する事を得たのであらう。こ
れが吾々の二十世紀の人道と共通な何物をも有つて居ないのは、猶ほ古代ギリシヤの瓶に
描かれた生活がそれを有たないのと同様である-恐らくそれよりも遥かに少いかも知れ
ない。その魅力は消滅した世界の魅力である-近代の言語が生まれない以前に、我が〓
洋では絶滅してしまつた種類の花の香りのやうに形容に絶して、不思議で、誘惑的な魅力
である。それをうまく移植する事は不可能である。外国の太陽の下では、その形は全然呈
つた何物かに立ち〓り、その色は褪せ、その芳香は消えてしまふ。この日本婦人を知らん
とするには、その本国に行くより外に道はない。貞淑にして飽くまでも無私に、小児のや
うな敬虔と信頼の純情を有ち、如何にして周囲を幸福にすべきかといふあらゆる方法を
極めて如才なく知覚する、彼女の道徳的存在を、理解し珍重し得る奇異な社会に用をなさ
んが為めに、昔の教育によつて準備され完成された日本の婦人を知らうとするには、彼〓
の本国に行くより他にすべはないのである。
私は今まで日本の婦人の道徳的魅力に就いてのみ話して来た。若しそれ見慣れない外国
人の眼が彼女の肉体的魅力を識別するには時がかかるのである。我が西洋の標準に従ふと
此の人種には美が存在するとは云はれない、-或は、美は未だこれまで発達させられな
かつたと云はうか?西洋の美的標準を満足させる顔面の角度を探しても得られない。あの
肉体上の雅美の好例-力の節約の表現-ギリシヤ語の意味に於ての『優雅』と呼ぶ声
のもの-にさへ出会ふ事は稀である。然も顔と姿の両者の魅力-大なる魅力-がな
る、幼年時代の魅力-その眼鼻立のあらゆるものが、まだ軟らかな漠然たる輪郭を有っ
て居る、(或るフランスの画家がいつも使つた言葉を藉りると艶けしである)幼年時代ー
-手足がまだ充分に伸びきらない幼年時代-讃嘆すべき小さい手足を有つた軽快と華奢
がある、眼はアリアン人種のものとは似もつかず、そして襞筋が別種の拵へ方になつて居
る、その眼ぶたの不思議さで、最初吾々を驚かす。併しそれ等には実に人を魅了する様な

のが屡?ある。そして西洋の画家は、その眼ぶたの線の特殊な種々の美を描き出す為めに、
日本や支那の美術によつて工夫された優雅な条件を翫賞しない訳には行かないのである
西洋の標準によつては美しいとは云へないとしても、日本の婦人は、正直に云つて、可舞
らしいと云はなければならない-縹緻のよい子供のやうに可愛いのである。そして西注
の意味で優美である事は稀だとしても、彼女は少くともその独得な風で、較べもののない
位優美な者である、彼女のあらゆる動作、身振り、表情は皆独自の東洋風に従つて完全な
ものである、-出来るだけ最も気安い、最も優美な、最もしとやかな、遣り方で与へら
れる眼なざしである。古来の習慣によつて、彼女は街上にその優美を誇示する事を許され
て居ない。彼女は下駄の音軽く、歩んで行く時に、足を内輪にして、特殊な畏縮するやう
な風に歩かなければならぬ。併し彼女が自由にその美しさを見せる事の出来る家居の折の
彼女を注目する事-彼女が家事を行ふ有様、接客の有様、花を生ける有様、或は子供笠
と遊ぶ有様を見るだけで-理解する頭があり、学ばんとする心を有つて居る人には、〓
れにでも極東の美的観念を了解せしむるよすがを与へるのである……併し、然らば彼女け
一つの人為的製産品ではないのか、-東洋文明の強制的産物ではないのかと問ふ人がま
るかも知れない。私は『然り』とも『否』とも二様に答へ度いのである。あらゆる人格が
人為的産物であるといふのとただ同じ進化的の意味で、彼女は一の人為的産物である、従
つて彼女を形成する為めには幾千年の歳月がかかつて居るのである。が一方また、彼女は
境遇が許せば、いつでも真の自己を現はすやうに-或は、語を代へて云へば、気持ちよ
く自然の儘であるやうに特に訓練されて居るのであるから、人為的の型とは云へないので
ある。女性の古風な教育は、本質的に女らしいあらゆる性質を発達せしめ、反対の性質を
抑圧する為めに向けられたのであつた。温情、柔順、同情、心の優しさ、高雅-これ笠
のもの及び他の属性が、教養を積んで終に比類なき花と咲くやうになつたのである。『義
き美しき乙女たれ、また賢からんと望むもよし、ひねもす、気高き事を行ひて、只だそり
を夢にのみ見る勿れ』-キングズリの此の言葉は、彼女の訓練に於ける中心観念を実際
に具体化して居るのである。かかる訓練のみで形作られた存在には、勿論社会が保護を加
へなければならぬ。そして昔の日本の社会はその保護を加へたのであつた。例外は其の規
則に何等の影響をも与へなかつた。私の云はんと欲するところは、彼女は情緒的礼儀の武
る制限内で、極めて安全に純粋に彼女自身を発揮し得たといふ事である。人生に於ける彼
女の成功は、温良、従順、温情によつて、愛情を贏ち得るその自力に依つたのである、ー
-愛情といふのも、単に夫のそればかりではなく、夫の両親、祖父母、義兄弟、義姉妹の

愛情で、-約言すれば自己の生家でない一家の、あらゆる人々の愛情である。即ちこの
事に成功するには天使の如き善心と忍耐とが必要であつた。事実日本の婦人は少くとも仏
教での天使の理想を実現したのである。ただ他人の為めにのみ働き、ただ他人の為めにの
み考へ、ただ他人を楽しくすることをしてのみ幸福を感じて居る一の生存-不親切をな
し得ず、利己的であり得ず、正義に就いて自己が受け継いだ観念と反対な行為をなし得ぬ
一の生存-しかも此の柔和温順にも拘らず、何時たりとも自己の生命を投げ出すことを
辞せず、義務の為めには万事を犠牲にすることを辞さない生存、斯くの如きが則ち日本婦
人の性格であつた。此の子供のやうな精神のうちに、温良と力と、優しい気持ちと勇気と
が結合されて居るのは極めて不思議な事だと思はれるかも知れない-併しこれを説明す
るには手間はかからないのである。妻としての愛情、或は親としての愛情、或は母として
の愛情よりも、彼女の心に一段強く宿つて居たもの-如何なる婦人らしい情緒よりも際
立つて強く宿つて居たものは、彼女の大きな信仰から生まれた道徳的確信であつた。此の
宗教的性質をもつた性格は、西洋に在つては唯だ修道院の陰の内にのみ見られ得るのであ
つて、其処ではあらゆる他のものを犠牲にしてそれを養成したのである。この故に日本の
婦人は慈恵団の尼僧に較べられて来たのであつた。併し日本の婦人は慈恵団の尼僧より〓
遥かに遥かに以上のものでなければならなかつた-嫁であり、妻であり、母であり、み
の上この三重の役目の多種多様な義務を非難なく遂行しなければならなかつた。彼女は寓
ろギリシヤ型の高尚な婦人-アンテイゴオネ、或はアルセステイスに較べてよいかも知
れぬ。昔の訓練によつて、作られたやうな日本婦人にあつては、生活の各動作は信仰の動
作であつた。彼女の生存は一種の宗教であつた、彼女の家庭は一の神社であり、彼女の言
葉や思想はみな祖先祭祀の法律によつて定められたのである……。此の驚異すべき型は、
確に消滅する運命にはなつて居るけれどもまだ絶滅した訳ではない。彼女の心臓の各鼓動
が義務であり、彼女の血の各滴が道徳的感情であるやうに、さういふやうに神々と人間と
への奉仕の為めに形作られた人間は、地獄の中の天使と同じく、競争的利己主義の将来の
世界に於てはその処を得ないものであらう。

神道の復活

徳川幕府の徐々たる衰微の諸?の原因をたづねると、徳川以前の代々の幕府の衰微を招
致したそれ等と相似た処を見るのである、日本民族は、徳川幕府の統治が始めた長い泰平
時代の間に堕落し、幕府の強力な建立者達は、継ぐにだんだんと纎弱なる人々を以てせら
れた。併しながら家康が敏捷に工夫して、家光が更に完成した行政機関は、頗るよく出来
て居たので、幕府の敵も、外国人の侵入が不意に彼等を助けるまでは、一襲撃を以てよく
これを斃し得る機会を見出し得なかつた。幕府の最も危険な敵は、薩摩と長州の二大藩で
あつた。家康は或る点以上には彼等の勢を〓ぐ事を敢て為し得なかつた。若し此の二藩を
滅ぼさうとしても、其の危険は実に重大なものであつたらしい、また一方、これ等二藩の
同盟はその当時一時は政治的に極めて重要な事柄であつたのである。彼はこれ等の手に負
へない同盟の間に、彼が信頼し得る大名を置いて、勢力の安全な均衡を保存する手段を町
つた、-信頼といふのは、第一には利害に基づき、第二には親族関係を元としたもので
ある。併し彼は、幕府の危険は薩長から来るかも知れないといふ事をいつも感じて居た。
そして彼は或は事実となるかも知れない、斯様な敵を相手にする際に採るべき政策に就!
て子孫に注意深い指図を残した。彼は自己の仕事が完全でない事-其の建造物中の或フ
かけ離れた処にある塊が、他の部分に適当に緊め合はされて居なかつた事を感じた。彼は
完全で永久な凝集をなすには、社会の材料が未だ充分に進化して居なかつたし、又、まが
充分に形を成して居なかつたばかりの故で、結合の方面により以上の事を為し得なかつた
それを成就する為めには、諸藩を解散する事が必要であつた。併し家康は其の事情の下で
人間の先見が安全に企てる事を許し得たあらゆる手段を尽くした、而して彼の驚くべき組
織の弱点に就いては、彼自身よりも以上に鋭く自覚して居たものは何人もなかつた。
二百年余も薩長二藩は心ならずも徳川の統治の掟に従つて居た。そして他にも一朝機会
があれば薩長と同盟しようと覗つて居た数藩があつた。彼等は幕府の下風に立つて圧迫を
甘受するを快しとせず、その覊軛を破壊する機会をうかがつて居た。しかもそのうちこの
機会は徐々として彼等の為めに造られつつあつた、-それは何等政治上の変化に依つて
ではなくて、日本の文学者の辛抱強い労力によつてであつた。これ等のうちの三人-ロ
本が今迄に生んだ最大の学者-が、彼等の知的の労働によつて、幕府の廃止に対して特

に道程を準備したのである。彼等は神道学者であつて、外国の観念と外国の信仰の長い圧
制に対する、-則ち支那の文学と哲学と官僚主義とに対する、-また、仏教といふ外
国の宗教が教育に及ぼした優勢な影響に対する、-日本人固有の保守的精神の当然な反
動を代表して居た。すべてこれ等のものに対するに、彼等は日本の古来の文学と、古代の
詩歌と、古代の祭祀と、神道の初期の伝統と儀式とを以てした。これ等の顕著な三人は加
茂真淵(一六九七-一七六九)、本居宣長(一七三〇-一八〇一)、及び平田篤胤(一七
七六-一八四三)であつて、これ等の人の努力の結果、仏教の顛覆と、一八七一年の神道
の大復活が生ずるに至つたのである。
これ等の学者達が行つた知的の革命は、長い泰平の時代の間に在つてのみ準備され得た
ものであらう、また統治階級の人々の保護と愛顧とを蒙つて居る人々によつてのみ準備さ
れ得たものであらう。神道学者の労力を可能ならしめたさういふ奨励と援助とを文学に初
めて与へたのは、不思議な行きがかりであるが、徳川家自身であつた。家康は学問を愛好
し、後に静岡に隠退して余生を古書と写本の蒐集に専にした。彼はその国学書を第八子屋
張侯に遺し、漢籍を他の一子紀州侯に遺した。尾張侯は日本の古代文学に関する著書数種
を編した人である。家康の子孫は文学を愛するその性質を受け継いだ、孫の一人で第二廿
水戸侯であつた光圀(一六二二-一七〇〇)は、いろいろな学者の援助を得て、『大日十
史』二百四十巻を編纂した。これは日本で始めての重要な歴史である。彼はまた宮廷の作
法の典礼に関する五百巻の一書を編し、此の素晴らしい著作の出版費に宛てる為めに、句
年凡そ三万磅に当たる金額を、自己の歳入から取り除けて置いた……。群書の蒐集家たス
斯くの如き大諸侯の恩顧を受けて、新派の文学者が漸次に擡頭して来たが、これ等は支那
文学を離れて日本の古典の研究に志した人々であつた。彼等は古代の詩集や年代記を再版
し、豊富な註釈を施して神聖なる記録を再刊した。彼等は宗教、歴史、及び言語の諸問題
に関する書籍全部を著作し、文法及び辞書を作り、作歌法に関し、一般に行はれる誤謬に
関し、神の性質に関し、政治に関し、古代の風俗習慣に関して論文を著した……。此の新
しい学問の基礎は、神道の神官であつた荷田春満及び真淵が築いたものである。
学間の擁護者たる貴族等は、自己が奨励したかくの如き研究が、如何なる結果を生ずス
日能性を有つて居るかといふ事に就いては、夢にも思ひ及ばなかつた、が併し古代の記録
の研究、日本文学の研究、古代の政治及び宗教状態の研究の結果、人々は自ら、それまで
に本来の国学を殆ど圧倒してしまつた外国文学が及ぼした影響の歴史を考へるやうにな。

たと同時に、祖先の神々の宗教を圧倒し去つた外国の信仰の歴史をもまた考へるやうにな
つた。支那の倫理、支那の儀式、支那の仏教は、古代の信仰を第二次の信仰に-殆ど迷
信の状態に-陥れてしまつた。新派の学者の一人は叫んだ、『神道の神々は仏教の奴僕
となつてしまつた!』と。併しこれ等の神道の神々は此の人種の祖先であつた、-天皇
や親王方の祖先であつた、-従つてそれ等の低下は皇室の伝統の低下を包含しない訳に
は行かなかつた。実際〓に天子は太古から受承した権利と特権とを奪はれてしまつたのみ
ならず、歳入をも奪はれてしまつた、多くの天皇は廃帝とされたり、追放されたり、〓辱
されたりした。本来の神々が仏教の神々よりも、劣等な者として承認されたのと丁度同じ
やうに、神の子孫である今生きて居る天皇なる方々は、武力を用ゐて纂奪した者の寄食者
としてのみ統治する事を許されて居た。神聖な法律によつて、此の皇土は悉?く『天子」
に属して居たのである、しかも宮室は折々大窮乏に陥る事があつた。そして御門の御料〓
宛てられた歳入は、皇室の窮乏を救ふには不充分な事があつた。総てかういふ事は確に間
違つた事であつた。幕府は実際平和を確立し繁栄の基をつくつて居た、併しそれが武力を
以て皇室の権利を纂奪したのに原由して居る事を誰れが忘れ得ようか。唯だ天子をその古
来の権勢の位置に復する事により、将軍を彼等の本来の従属の状態に貶する事によつての
み、国民の最善の利害は実際よくなり得たのである…….
総てかういふ事が考へられ、感ぜられ、強く暗示された。併しその総てが公然と明言さ
れた訳ではなかつた。武力政治を纂奪と公言する事は、破滅の源となるであらう。神道の
学者達は実際危険区域まで接近したけれども、彼等の時代の政治と気分とが許すと思はれ
るだけを敢てしたのみであつた。併し十八世紀の末には強力なる一派が現はれて、古代の
宗教を国法によつて復活させる事と、御門を最上権に復帰させる事と、武権の根絶は望む
べからずとするも、少くともこれを抑圧する事を説いた。併し幕府が恐慌を感じ、大学者
篤胤を首都から追ひ、彼にそれ以上の著述を禁じて不安を公表したのは、やうやく一八四
一年に至つてからの事であつた。其の後幾何もなくして篤胤は死んだ。併し彼は四十年間
自説を唱道する事を得て、著書の発行されたものは数百巻に及んだ、そして彼を殿とし日
つ最大の神学者とするその一派は、既に多大の影響を世人に与へて居た。薩長土肥の、〓
強御し難き大名等は、機を覗ひ待つて居た。彼等は自身の政策に資する此の新思想の価値
を認め、新神道主義を奨励した、彼等は自分等が徳川の支配からの〓出を希望し得る時等
の到来した事を感じた。そして彼等の機会は、提督ペリイの艦隊の日本到来と共に終に訪
れたのであつた。

当時の出来事は、人のよく知る処で、此処に絮説する必要は全然ない。幕府が恐怖して、
合衆国及び他の諸強国と通商を開き、又外国貿易を行ふ為めに、実際に諸港を開く事を余
儀なくされた後に、国中に非常な不満が起こり、武権政治を敵視するものは、出来得る限
り国民を煽動したとだけ言へば足りる。その中幕府は、外国の侵入に抵抗する事の不可能
を自ら確知し、西洋諸国の力に就いて、かなり充分に知る事を得た。朝廷は知る処はなか
つたが、幕府はこの外国の事に就いての報知を朝廷になす事を当然恐れた。西洋の侵略に
抵抗する事の不可能を承認する事は、即ち徳川家の滅亡を招致する事となるのであらう。
併しまた一方これに抵抗する事は、帝国の滅亡を招く事とならう。此の時に方つて幕府の
敵は、攘夷を命ずるやうに朝廷を説得した。そして此の命令-それは充分に承認された
権威の源から発出する、本質的なる一の宗教的命令であつた事を記憶して置かなければな
らぬが、-此の命令は武権政治を重大な板挟みの状態に置いたのである。此処に於てそ
れは力で成就し得なかつた事を政策で成就しようと試みた、併し幕府が外国人の居住者の
退去を商議して居る間に、長州侯が幾多の外国船に発砲した為めに、事態は急転して危権
に逼つてしまつた。此行動は下ノ関の砲撃と、三百万弗の償金問題を起こした。将軍家茂
はこの敵対行為を罰せんが為めに、長州侯を征討しようと企てた、併し此の企ては只だ武
権政府の薄弱を証する種となつたのみであつた。家茂は此の敗戦の後幾許もなくして死に、
彼の後継者一橋卿は、何事をも行ふ機会を得なかつた-つまり幕府の薄弱が今や明白に
なつた為め、敵は勢を得て一挙幕府を倒さうと謀つたからである。敵は朝廷を圧迫して
幕府廃止の宣言をさせた、そこで幕府は法令によつて廃されてしまつた。一橋卿はこれに
服従し、徳川の代は此処に終つてしまつた-幕臣中幕府に忠節を尽くす念の厚かつた〓
は、是を再起せんとして、到底敵し難き優勢に対抗して、爾後二年間戦つた。一八六七年
に全行政が再び組織され、文武の最大権が御門に復帰した。其の後直に神道の祭祀は、宜
命を以てその当初の単純に復帰し、国教と宣言され、仏教は扶持を奪はれた。かくして帝
国は古代の制度を再び建設し、文学者の一派の望みは皆実現したやうに思はれた-処が
茲にただ一つさうでないものがあつた……。
上掲の文学者仲間の与党は、新神道派の大創設者が夢想したよりも遥かに極端に進まん
とした事を私は述べ度いのである。後のかかる熱心家等は、幕府の廃止と、皇室の勢権の
復活と、祖先祭祀の復活とだけでは満足しなかつた。彼等はあらゆる社会が、太古の単繍
質朴に復帰する事を欲し、あらゆる外国の影響を逃れん事を望み、国定の儀式、将来の盗
育、将来の文学、倫理、法律が、純日本のものたらん事を望んだ。彼等は仏教の扶持を奮

ふ事を以て満足せずして、仏教を全然抑圧する為めに猛烈な提議をもなした。-併しす
べてこれは、社会を野蛮状態に退歩せしむる方法をあらはしたと考へ得べきてあらう。太
学者達は仏教とあらゆる漢学とを廃棄すべしとは決して提議しなかつた、彼等は唯だ古来
の宗教と文化とを先づ重んずべき事を主張したのである。併し新文学派は一千年の経験の
似壊に等しい事を望んだのであつた。幸にも、幕府を倒した藩士等は、過去と将来とに帥
いて別の見方をしたのである。彼等は国家の存在が危機に瀕して居るのを悟つた。そして
外国の圧迫に抵抗するのは到底望みのない事を悟つた。薩摩は一八六三年に鹿児島の砲撃
を受け、長州は一八六四年に下ノ関を砲撃された。西洋の力に対抗し得る唯一の機会は、
西洋の科学を根気よく研究する事によるのであらうといふ事は明らかであつた、そして☆
国の存続は社会の欧化に依るのであつた。一八七一年には藩を廃し、一八七三年には基督
教禁止の法令が撤廃された。一八七六年には帯刀を禁じた。武力団体としての武士は禁止
された、そして爾後は四民の平等たる事を宣せられた。新法典の編纂、新陸海軍の編成
新警察制度の設定が行はれ、教育の新制度が政府の費用で創められ、新憲法の制定が約ま
れた。終に一八九一年に、(厳格に云へば)最初の日本議会が召集された。その時には、
法律が作り出し得る限り、日本の社会の全輪郭がヨオロツパの型を取つて作りかへられた
国民は完成の第三期に見事に入つたのであつた。藩は法律上解体せしめられ、家族は最且
社会の法律上の単位ではなくなり、新憲法によつて個人が認められるに至つた
吾人が或る広大な政治的急変をその細目-運動の諸要素、直接の因果の連絡、強大な
人格の諸影響、個人の行動を強要する諸条件-に於てのみ考案すると、-その変化は
優秀な精神を有つた数人の仕事が齎した勝利のやうに見え勝ちである。則ち吾人は恐らく
これ等の人々自身が、その時代の産物であつた事を忘れ、かかる急速なる変化は、皆個人
の知的活動を代表すると同時に、同じく国民的本能或は種族の本能の働を必らず代表して
居るものである事を忘れて居るのである。明治維新の出来事は、危険に当面して、かかる
本能が活動した事、-環境の〓然の変化に対する内部の諸関係のそれによく対応した車
-を不思議に説明して居る。国民は新絛件の前には、昔の政治的制度も無力である事を
知つた、そして国民はその制度を変改した。彼等は武権的組織の、国を防禦するに足らな
い事を知つた、そしてその組織を改造した。予想せざる必要条件と当面しては、彼等の〓
育制度も無用な事を知つた、そこで彼等はその制度を変更し-同時に仏教の力を切り剪
んでしまつた。若しさうしなかつたなら、仏教は要求された新発達に重大な反対を提出し

たかも知れなかつたのである。そして最大危険に瀕したその時に、国民の本能は、それが
最もよく倚頼し得た道徳上の経験に直に立ち〓つた、-その経験といふのは、何等の疑
念をも〓まない従順な宗教である処の祖先祭祀の内に、具現して居たものであつた。神〓
の伝統に倚頼して、人々は太古の神々の後裔なる彼等の統治者の周囲に参集し、抑へる事
の出来ない信仰の熱心を以てその意志を待つた。天皇の命令を厳守する事によつてのみそ
の危険は避け得られるであらう、-それ以外には決してこれを避け得る方法は無かつた。
これが国民的確信であつた。而して天皇の命令といふのは、単に国民は学問に精励して、
能う限り、その敵と智力上、比肩し得るやうに努力すべしといふ事であつた。この命令〓
如何に誠実に遵奉されたか-此の種族の古来の道徳上の訓練が、この危急存亡の秋に営
つて如何によく国民の役に立つたかは-私が云ふ必要は殆どない。日本は自ら獲得した
力の権利で、近代の文明国に伍したのである、-則ち、その新軍事組織によつて恐るべ
さものとなり、実際的科学の方面に於ける成功によつて尊敬すべきものとなつたのである
そして三十年の間に此の驚くべき自己の進歩を遂げた力は、正に日本がその祖先の宗教ち
る古い祖先祭祀から得た道徳的習慣に依つたのである。此の手柄を公平に測らんとするい
は、日本が学校に通学し始めた時には、日本は如何なる近代のヨオロツパの国よりも、小
くとも二千七百年だけは進化の点で、若かつた事を考へなければならないのである…
ハアバアト・スペンサアは、宗教の諸制度の社会に対する大なる価値は、彼等が集団に
対して凝着力を与ふるに力ある事、-慣習に対する従順を強ひ、如何なるものたるを問
はず、分解の要素となるものを供給する虞のある革新に反対して、統治を強める事にあス
と説いて居る。換言すれば、社会学的の立場から見て、宗教の価値は、其保守主義に存す
るのである。日本の国家的宗教は、仏教の圧倒的勢力に抵抗し得なかつたので、薄弱であ
つたのだといふ事を、著書中に主張した人が沢山あるが、私は、日本の全社会史がこれに
反証を挙げて居ると考へない訳には行かないのである。神道学者が自ら承認して居る通り
仏教は長い時代の間、殆ど全く神道を併呑してしまつたやうにも見え、又仏教を信じて祖
先の祭祀を等閑にし蔑視した天皇もあつたにせよ、また一千年の間仏教が国民の教育を指
導しても居たけれども、神道は其のうちでも極めて活気に富んで存続して居たのであつて
為めにそれは終に其敵を倒す事を得たのみならず、国を外国の支配とならぬ様に救ふ事さ
へもなし得たのであつた。神道の復活を目して、為政家の一群が空想した政策が、偶?幸
運にも実現したより以上の事ではないと断言するのは、此復活を起こさしめるに至つたょ

らゆる過程を無視する事である。国民の感情がそれを歓迎しなかつたならば、かくの如き
変化は単なる法令によつて行はれる事は出来なかつたであらう……。其上、以前の仏教の
優勢に関して記憶すべき三箇条の重要な事実がある。(一)仏教は祭儀の形式を修正しか
のみで祖先祭祀を保守した事、(二)仏教は氏神の祭祀に取つて代つたのでなく、却つて
それを支持した事、(三)仏教は皇室の祭祀に決して容啄しなかつた事である。さてこれ
等三種の祖先礼拝の形式-家庭的、社会的、国家的形式-は神道に於て極めて肝要な
るすべての者を構成して居る。古代の信仰の要素も、仏教の長い圧迫の下にありながら
ったりとも決して弱められなかつた。況んや壊さられる事などは全く無かつたのである。
肩道は現今国教ではない、神道の管長等の要求によつて、それは一宗教として公式に区
別されてすら居ないのである。国家政策の明白な理由から、恁う極められたのである。,
の重大なる仕事を完成してから、神道は自ら譲位した。民族の感情に対し、義務の感情い
対し、忠義の熱情と、愛国心とに対して訴へらる?凡ゆるそれ等の伝統を代表して、神着
は今猶ほ一の巨大な力、またも国家の危急存亡の秋が来る場合に、これに訴ふれば、必ら
ず効験のある一の力として残つて居る。

遺風

或る仏寺の庭に数百年を経た幾本かの老樹がある-異常な形に矯められ刈り込まれか
樹である。竜に象どつたもの、塔の形のもの、船のもの、傘のものいろいろとある。これ
等の樹の一本がその自然の傾向にまかせられたと想像すれば、それは、それ程長い間有つ
て居た奇異な形を終には失ふであらう、併し、新しい葉は最初は最も抵抗の少い方向にの
み開くであらうから、可なり長い間輪郭には変化がないであらう、即ち、当初鋏と刈り込
み小刀とで定められた制限内にのみ開くであらう。丁度此の樹のやうに、劔と法律とで昔
の日本の社会は剪み込まれ刈り込まれ、曲げつけられ束縛されて居た。そして明治時代の
改造の後、-廃藩と武士階級の廃止の後-それは、植木屋が此の樹木の手入れを止め
てしまつたと仮定した場合のやうに、なほ其以前の形を維持して居たのである。封建の〓
律の覊絆を〓し、武権統治の鋏から逃れたけれども、社会組織の大半は、其古昔の様子を
保存し、その稀有な光景は西洋の観察者を困惑させ喜悦させ又欺瞞したのである。此処い

は実際珍らしく、美しい、奇怪な、極めて神秘な-彼等が他処で見た、珍奇で心を惹き
附ける処の何物にも全然似ない〓魅の国があつた。それは基督以後の十九世紀の世界では
なくて、基督以前の幾百年の世界であつた。併し此事実-驚異中の驚異であるが-ょ
世界から認められずに居た、そして今日に至つても猶ほ大〓の人が認めずに居るのである
三十年以前、表面的変化がまだ起らなかつた時代に、此の驚愕すべき神仙の国に入つて
その生活の珍らしい光景-到る処に行き亙つて居る都びた有様、笑顔を見せながら黙々
たる群集、辛抱強く悠々迫らず行つて居る労働、艱苦と争闘を知らぬ生活を観る特権を〓
つた人々は実際幸福であつた、いや今でさへ、外国の影響の為めにまだ余り変化を受けて
居ない片田舎には、昔の生活の魅力がまだたゆたひ残つて居て、人を驚かせるのである
そして普通の旅人はそれがどういふ事であるかよく了解出来ないのである。すべての人が
丁寧で、誰れも喧嘩をせず、皆微笑を浮かべて、苦痛と悲みの影も見せず、新設の警察は
無聊に苦しんで居る。これ等は道徳的に西洋人よりも遥かに優秀な人間たる事を証するふ
うに見えるであらう。併し訓練を経た社会学者には、それは或る難かしい事を示すもので
のらう、或る非常に恐るべきものを暗示するであらう。それは、此の社会が巨大な強制の
下に型に入れられた事と、此の強制力は確に数千年間阻絶されずに行はれたものなる事を
彼に証するであらう。彼は道徳と習慣とが未だ分離せずに居るのと、各人の行為が、他
人々の意志によつて制限を加へられた事とを直に認めるであらう。彼はかかる社会的還境
の中では個性は発達し得なかつた事-即ち、個人が如何に優秀でも、個人はその確立を
敢て為し得なかつた事、また何たるを問はず、すべて競争は許され得なかつた事を知るで
あらう。此の生活の外面的魅力-その温柔さ、夢のそれの如き微笑せる沈黙、-は死
者の統治の意味である事を彼は了解するであらう。彼はそれ等の心と彼自身の時代の心と
の間に、思想の近似も、感情の共通性も、何等の同情も存在し得ない事-両者を分離す
る深淵は何万哩といふ里程では測られ得ないで、何千年といふ年数でのみ測られ得る事、
-心理上の間隔は遊星から遊星への距離の如く、何等到達の望もないものである事を認
めるであらう。併しこれを知つたからと云つて、彼は恐らく事物の真の魅力に対して盲日
にはならないであらう、-また確にさうなつてはならないのである。此の太古の生活の
美を感得しないのは、あらゆる美に対する自身の不感を証する事になるのである。西洋の
学者や詩人が非常な憧憬の的として〓るあのギリシヤの世界は、多くの方面に於て、これ
と同種類の世界にちがひなかつた、その人民の日々の心的状態は、如何なる近代人の心も
これに共に与かるを得ないであらう。

敷百年間、かくも驚異すべく刈り込まれ、そして大切にされた此の大きな社会の樹が、
その風変りな形を今や失ひつつあるのであるから、原の意匠のどれ程多くが、今猶ほ辿り
得られるか検べて見ようと思ふ
近代日本が、訪問の旅客の熟視に向つてあらはす、個人的活動のあらゆる外面の光景の
下にあつて、古昔の諸状態は、どれ程観察してもそれを明らかにし得ない程度迄に、実際
固執されて残つて居るのである。記憶し得ない程に古い祭祀は今も猶ほ国中を支配して居
る。今も猶ほ一家族の法律、組合の法律、及び(随分不規則な風ではあるが)氏族(藩.
の法律が人生のあらゆる行動を支配して居る。私が云つて居るのは、成文法ではなくて
祖先礼拝から出て居る幾多の義務を有つた昔の非成文の宗教的法律である。多くの変化〓
ーそして、賢明な人々の意見に依ると余りに多くの変化-が民事法の上に行はれた。併
し『政府の法律は七日限り』といふ古の諺は、あわただしい改革に関する民衆の感情をあ
らはして居る。死者の法律である古の法律は、幾百万人がそれによつて行動し、それによ
つて考へることを寧ろ欲するものである。昔の社会的諸集団は公命で廃止されたのではあ
るけれども、これに相当する異つた集団は、本能的に田舎の地方一帯に形造られた。那
上では個人は自由であるが、実際では彼はその祖先と殆ど劣らず束縛されて居る。習慣の
違背に対する罰は廃止されたが、然も社会の意見は昔のやうな服従を強ふる事を得る。法
律施行が、人民の感情と、根柢の久しい慣例とを直に変化させてしまふ事は、何処の国で
も出来ない事である、-特に日本人の如きかかる固定した性格の国民の間では最も不〓
能である。現今でも若い人々は気儘に結婚し得ず、家族の認可なくしては、彼等の資助や
努力を投資する事を得ず、また如何なる方法によつても家族の権威を無視して、一身の白
由を得る事は不可能であるそれは丁度幕府時代に、彼等の祖先に自由がなかつたのと同
様である。併し私は彼等が自由を得ない方が、今日ではよからうと思ふ、其故は、何人も
まだ自身の活動と自身の時と、自身の財産とを、全然自分の自由にして居る訳ではない
からである。
個人は今や登録されて、法律に対し直接に責任ある者となり、一方に全家族がその一目
の行為に対する古の責任から免れるやうになりはしたが、家族は矢張りその族長的組織と、
その特殊な祭祀とを保留して居て、今猶ほ実際上社会の単位となつて居る。近代の立法家
が此の家庭の宗教を保護したのは賢明な遣り方であつた、此時に於てその束縛を弱くする

事は、国民の道徳的生活の基礎を弱める事であつた、-社会的組織の最も根柢深き建造
物中に崩潰を〓入する事であつた新法典は家を継承して家長となつた者が其家を廃する
事を禁止して居る、その者は祭祀を廃棄する事を許されて居ないのである。すべて一の家
族の法律上の仮定相続人は、養子或は夫として他家に入る事は出来ない、また彼は自身の
独立の家族を作る為めに、親の家を出る事は出来ない。異常な場合に適応して行く為めに
規定が設けられはしたが、併し如何なる個人も、立派な充分な理由なくしては、祖先祭祀
が課するそれ等の伝統的義務から〓する事を得ないのである。養子に就いては、新法律は、
養子は養父母よりも年少なるべしといふ簡単な条件で、何人と雖も成年のものには、養子
をする事を許可し、家族の宗教を保守するために、新たなこの条件をつけて古の精神を維
持して居る。新離婚法は子の無いといふ計りで妻を離別する事は許さない(そしてかかる
原因での離婚は、日本人の感情で既に長い間非難されて居たのであつた)、併し養子に対
して与へられた便宜の為めに、此の改革は祖先祭祀の継続を危険に陥れるといふ事はなか
つた。法律が今猶ほ祖先礼拝を保護して居る方法の一例として面白いのは、或る家族の最
後の代表者が老寡婦であつて、しかも子の無い場合、其の婦人は嗣子無くして居る事を許
されないといふ事実である。その婦人は若し出来れば、男子を養子にしなければならぬし
若し貧困の故とか、或は他の理由でそれが出来なければ、地方の有司はその婦人の為め〓
子息を世話してやるのである-即ち、家族の礼拝を維持して行く為めに男子の嗣子を世
話してやるのである。かかる官憲の干渉は西洋人には圧制的に思はれるかも知れない。〓
しそれは単に親としての事であつて、東洋の信仰が、今猶ほ最大の不幸と思ふもの-宗
の祭祀(家)を断絶させる事-を避けさす為めに、子に死なれた者を保護する目的で作
られた昔の規定の続行をあらはして居るのである……。他の点では近代の法典は、前時代
の一向知らなかつた個人の自由を許して居る。併し普通の人は、普通の意見に反対する法
律上の権利の要求を企てる事は夢想だもしないであらう。家族と公共的の感情は、今猶ほ
法律よりも有力である。日本の新聞は、屡?結婚の妨害や夫婦仲を裂いた事から起こる悲
劇を掲載して居る、そして是等の悲劇は、大抵の青年は、法律に訴へれば或は好結果を稈
るかも知れない場合にも、家族の決定に反対して、我意を通すよりも、寧ろ自殺をさへ選
ぶ場合があるといふ事実の力強い証明となるのである
註此の意味は、法律上ではその家族と絶縁する訳には行かないが、別居は随意といふのである。家族が
段々に崩潰する傾向をもつて居るのは、近年になつて生じ来たつた一の習慣を見れば明らかである、-
それは特に東京に多いが、結婚の条件として、婿の親と同居する事を新婦に強制せざる事を要求する習〓

である。此の習慣は猶ほ或る階級のみに限られて、反対論が盛んである。結婚の際に、親とは別居して独
立の世帯を始める若い人も中々多い、-法律上、親の家にいつまでも属して居るのは勿論であるけれど
も……。かうした場合には祭祀はどうするか、といふ疑問が恐らく起こるであらうが、祭祀は親の家に残
つて、親が死んだ場合には、先祖の位牌は別居した子息の手に渡るのである。
強制を加へる社会上の形式は、大都会では明白に現はれる事が比較上少い、併し到る処
でそれは或る程度までは続いて居る、そして農業地方では、それは実に盛んなものである
新状態と旧状態との間には、自己の地方の圧迫に堪へない者は、其の土地から逃げ出る事
が今は出来るが、五十年前には、それが出来なかつたといふ差異がある。併し逃れる事は
逃れても、矢張り殆ど同種類の服従の状態に入るのである。併しながら、近時の此の行動
の自由は、充分に利用されて居た、毎年幾千の人々が都会に群らがつて行く、又他の幾千
の人々は一地方から他の地方へと渡り歩いて、甲の地に一年とか一季節とか仕事をして、
それから他に遷つて行く、併しこれとても変化の経験を得るよりも、殆ど他に望む事も出
来ないのである。移民も亦大規模に行はれて来た、併し、少くとも移住者の普通階級の者
にとつては、移住の利盆は、主として本国に居るよりも高い賃金を得る機会のあるとい〓
事にあるのである。日本の海外移住者の団体は家庭計画に基づいて組織を立てて居る。こ
して個々の移住者は、カナダでも、布哇でも、フイリツピン群島でも、その故郷に於けス
と同様の団体の強制の下に立つて居るのである。外国に於ては、かかる強制は、社会組紐
が保証して与へる援助と保護とによつて償はれてあまりある事は言を俟たない。併し本国
に在つて動揺せる精神のものが断えず増加して行くに伴なひ、また日本人の海外移民の経
験が断えず広がり行くと共に、強制的に共同作用を奨励する団体の力は、近き将来に著し
く薄弱にされる事が必らずありさうに思はれるのである
社恐らく、其の団体の祭祀に関する点だけは例外である。家族の祭祀は矢張り共に移されて行く。家族
を連れて海外に行く移民は、先祖の位牌も共に持つて行くのである。移民の団体中に、その団体として一
尓祀がどれ位確立されたか、私はまだ知る事を得ない。併し或る植民地に『氏神』が無いのは、金銭上の
困難の為めに神社を建造する事も、資格ある役員を扶持する事も出来ないといふ事実で、全く説明がつし
りである。たとへば、台湾では、日本移民の家庭では、各家族の祖先祭祀は行はれて居るけれども、『氏
〓』はまだ設定されて居ないのである。併し、政府は既に数多の重要な神社を建設した。そして、日本4
の人口が増加して来て、是等の神社の幾つかを氏神にする理由が出来れば、恐らくさうするだらうといふ
話を聞いた。
種族即ち氏族(藩)の法律は如何といへば、それは行政界及び、あらゆる政治の内に、

殆ど全能力をもつて残つて居るといふ程度までに残存して居る。投票者、官吏、立法者は
西洋人の用ふる言葉の意味で、主義原則に従つては居ないのである、彼等は人に従ひ、〓
令に従ふ。行為のかういふ方面に於ては、命令違犯の罰は、重大なるのみならず果てしが
ない、唯だ一つかうした罪を犯せば、いろいろな力が何年も何年も続々己の身に仇をする
事になるかも知れない、-理窟でも行かず、仮借もなく、盲目的に、自然の力-風や
潮のやうな力-に似た重さと固執とを以て、それが身に振りかかつて来るのである。〓
近十五年間の日本の政治史は、氏族(藩)の歴史を幾分か心得なくては、一向不可解なも
のである。政党の首領は、藩の党派と其の傍系の歴史とに充分通暁して居れば、驚くべき
仕事を成就する事が出来る、そして外国人の居住者でさへも、日本の生活の長い経験を有
つて居て、藩の利害を基礎として推し進んで行けば、官辺に非常なる真の権力を振ふ事が
出来たのである。併し普通の外国人には、日本の現代の政治は渾沌状態で、支離滅裂で、
とても考へられない変転と見えるに違ひない。実際の処は、大抵の事は、外形こそ変つて
居るが、『幾時代も以前に定められた通りに皆』其のままに残つて居るのである。-〓
気と電気の時代の急速なのにつれて変化は一〓迅速になり、其結果は一〓不明瞭にはな。
たけれども。
現在の日本政治家の最大人物伊藤侯爵は、集団を作り、同藩の者が集合する政治生活の
傾向が、憲政政治の効果を挙ぐるのに最も重大な障碍を与へる事を夙に看破した。彼は
此の傾向は、藩の利害よりも重い大事、最上の犠牲を払ふ価値ある重大事によつてのみ、
これを破る事が出来ると了解した。彼はそれ故に、あらゆる党員が、国家の利害の為めに
は、藩の利害も、党派の利害も、一身上の利害も、或は他の凡ての利害をも顧みぬ事を誓
った一党を組織した。一九〇三年に敵党の内閣と衝〓した際、此の党派は内閣に対する犯
恨を抑制して、反つてその敵に勢力を維持させた程の大手柄を立てた、併しこれを行つて
居る間に大きな断片は多く離れ去つた。国民性と同一視されて居る集団の傾向、藩の感情
は、実に深いものであるが如く、伊藤侯の政策の終局の成功は、今猶ほ疑はしきものと者
へられなければならぬ。唯だ一の国家的危険-即ち戦争の危険-のみがあらゆる党派
を一緒に結合する事、あらゆる意志を一の如く働かせる事を僅に為し得たのであつた
政治のみならず、近代生活の殆どすべての局面は、昔の社会の崩潰が根本的と言はんト
り、寧ろ表面的であつた証左を与へて居る。解散された建造物は、原形とは外観の姿ここ
異つて居るが、併し内部は同じ設計に基づいて、再び結晶させられた。何故かといふに、
実際行はれた解散は、ただ集塊の分離をあらはしたのであつて、実質が独立した単位に〓

裂した事をあらはした訳ではなかつたからである、そしてこれ等の集塊は再び粘着して、
ただ集塊としてのみ、つづいて働きをなしたのである。個人の行動の独立は、西洋の意味
ては、今猶ほ考へ得られないのである。最下級以上の各階級の個人は、なほ強制者であり
又被強制者たらざるを得ないのである。固体の中の原子のやうに、彼は震動する事は出来
る。併し彼の震動の軌道は固定して居る。彼は昔のそれとは余り異つて居ない方法で、行
動しなければならず、また掣肘を受けなければならないのである
〓肘を受ける事に就いては、普通の人は三種の圧迫の下にある、彼の長上の意志がその
例として挙げられる、上からの圧迫。彼の仲間や同等階級のものの共通の意志が代表する
周囲からの圧迫。彼の下級者の一般感情が代表する下からの圧迫がそれである。そして〓
の最後の強制とても、必らずしもその恐ろしさが少いのではないのである
第一種の圧迫-権威によつて代表されたもの-に対する個人の抵抗は、とても考ハ
及ぶ事すらも出来ない、何となれば長上者は一藩、一階級、或る種類の極めて多様な要妻
から成る一の力を代表して居るからである、そして現在の世態では、誰れも唯だ一人では
一の団結に向つて争ふ事は出来ないのである。たとへば不正に抵抗するには、彼は豊富な
援助を得なければならないのであるが、その場合彼の抵抗は個人の行動をあらはしては〓
ないのである
第二種の圧迫-仲間の強制-に抵抗する事は、破滅、即ち社会的団体の一部を作ス
権利の喪失である。
下〓階級の共通の感情にその形を表はして居る第三種の圧迫に対する抵抗は、其の事情
に従つて、小は一瞬時の苦悩から、大は〓然の死までの、殆どあらゆる結果に出会ふのて
ある。
如何なる社会の形の内にも、これ等三種の圧迫は、或る程度までその働きを為して居る
併し日本の社会に於ては、世襲的の傾向と、伝統的感情のために、その力は恐ろしいもの
になつ居る。
かくして、あらゆる方面で、個人は集合的の意見の圧制に当面する、一団体の単位とし
ての他、個人が安全に行動する事は不可能である。第一種の圧制は、命令に対する無限の
服従を強要して、彼から道徳上の自由を奪ふのである、第二種の圧制は、彼自身の利盆と
なるやうな最上の方法で、最上の能力を用ふる権利を彼に拒む事がある(即ち、自由競争

の権利を彼に拒むのである)。第三種の圧迫は、他人の行動を指導する際に、伝統に従ひ、
新工夫を避け、彼より下〓階級のものが、悦んで受け容れる様子のないものは、縦令如何
に利盆にならうとも、何等の変化をも施さぬ事を彼に強制する。
これ等は、普通の事情の下で、堅固不動を作るに力あり、保守をすすめるに与つて力あ
る社会状態である、そしてそれ等は死者の意志を代表して居るのである。それ等は好戦の
国家には欠くべからざるものであり、その国家の力を作るものである、それ等は強大な軍
隊の創造と維持とに便宜を与へる。併しそれ等は未来の国際的競争に於て、-到底比肩
し得ない程に応化力に富み、しかも精神の力の遥かに高い諸?の社会を敵としての、産対
的生存競争に於て、成功を見んとするには、好都合の状態ではないのである

近代の抑圧

近代の日本を漠然とでも理解せんとするには、前章に記した三種の社会的強制の結果を
個人の精力及び技能に於ける制限として考へて見る事が必要であらう。此の三つは凡て去
の宗教的責任の遺物を代表して居るものである。私は順序を反対にして下からの圧迫を初
めに論じようと思ふ。
日本に於ける真の力は、上から働いて来るのでなくして、下から働いて来るのだといゝ
事を、外国の観察者は屡?断言した。此の断言には幾分の真理もあるが、尽?く真理を書
破したものではない、状態は余りに複雑して居て、一般的の叙述では、とても説明し尽く
し得るものではない。高位のものの権威は、常に下からの抵抗を受ける傾向がある為めに
多少抑制されたといふ事は否認すべからざる点である……。たとへば、農民は彼等の生狂
に課せられたあらゆる屈辱的規定のあつたにも拘らず、日本の歴史に於ては、彼等は如〓

なる時代にあつても、過度の圧迫に備へる手段を全然奪はれて居たといふ訳ではなかつた
彼等は自村の法律を作る事と、彼等の納税の可能額を見積もる事と、苛税誅求に対しては
-上役人を通じて-抗議する事とを許されて居た。彼等は出来るだけの額を払はせし
れた、併し彼等は破産にも餓死の憂き目にも会はなかつた、そして彼等の所有物は、家附
きの財産の売却或は譲渡を禁ずる法律によつて、彼等の為めに大抵安全にされて居た。か
くの如きは少くとも一般の通則であつた。併しながら極度の残酷を以て所領の農民を取〓
ひながら、しかも苦情や抗議が上司に達する事を妨害する方法を知つて居た悪大名もあっ
た。かかる圧制の結果は殆ど一揆ときまつて居た、そして圧制者は此の騒動の罪を問はれ
て処罰された。理論上では否定されて居たが、圧制に対して謀叛する農民の権利は。実際
上には尊重されて居た。乱民は罰せられたが、圧制者も亦同様に罰せられた。大名は新た
な課税或は強制的労働に関しては、領内の農民の事情をも考慮するやうに余儀なくさせら
れた。平民は武権階級(士族)に服従させられたけれども、大都市に於ては、工商は強力
な組合を作る事が出来て、それによつて武士の圧制を阻止し得た。何処でも普通の方面〓
行はれた権威に対して、一般人民は恭敬を尽くしたと同時に、他の方面に於て行はれた権
威に対しては、何等躊躇する処なくこれを無視した。
宗教と統治、道徳と慣習とが実際上同一物であつた社会が、有司に対する抵抗の著しい
例を出したのは、奇と云へば奇であるかも知れないが、併し宗教上の事実それ自身が説〓
を与へて居るのである。極太古の時代から、権威に盲従するのが、あらゆる普通の事情い
於ては、一般の義務であるといふ確信が人民の心に堅く根づいて居た。併し此確信に今
つの確信が結合して居た、-即ち、権威に抵抗するのも(最上の治者たる天皇の神聖か
権威を除いて)非常な場合には同様にまた一の義務であるといふ確信があつた、そして外
観上反対したこれ等二つの確信は、実際上では矛盾したものではなかつた。統治が慣例に
従つて居る限りは、-その命令が、縦令如何に苛酷であつても、感情や伝統と衝〓しか
い限りは、-人民は其統治を宗教的と考へ、絶対的に服従して居た。併し統治者が無
分別な残酷の精神或は貪婪の精神で、道徳的慣例の破棄を敢てする時は、-その時には
人民は自発的殉難のあらゆる熱意を籠めて、それに抵抗するのを、宗教的義務と感じたと
云つても差支ない。あらゆる種類の地方的圧制に取つての危険区域は、慣例から離れる事
てあつた。摂政や皇族の行為さへ、彼等の臣下の輿論により、また或る種類の専断な行為
は、暗〓を招く虞れがあるといふ事を知つて居る事に依り、大いに抑制されたのであつた
臣下の感情を尊敬する事は、昔から日本の統治者にとつて必要な政策であつた、-一

必要な圧迫によつて惹起される危険のみならず、従属者が自己の努力が正当に考慮される
事を確信する時のみ、職務が充分に行はれる事、並びに〓然に不必要な変化を行つて、彼
等の不利を起こさせるやうな事のないといふ事を認めた事が、遥かに多くこの政策の原困
をなして居た。此の古来の政策は、今猶ほ日本の施政の特性をなして居る、そして高位の
権威者が集団の意見を尊敬する事は、外国の観察者を驚かせ困惑させる。外国の観察者は。
従属者の群がもつて居る感情の上の保守的の力が、西洋人が考へて、社会の進歩に対して
欠く可からざるものとする規律ある状態に、全く反対して居るに拘らず、それでうまく行
つて居る事のみを認める。昔の日本に於て一地方の統治者が、其人民の行為に対して責任
を持たせられて居たやうに、今日、新日本に於ても、一つの役所を監督して居る各官吏は
事務の円滑な運転に対して責任があるとされて居る。併しこれは、官吏が事務の能率に対
してのみ責任があるといふ訳ではないので、官吏はまた自己の部下、或は少くとも彼の部
下の多数のものの意志を、満足させ得なかつたといふ事に対しても、同様に責任を問は〓
る事を意味するのである。若し彼等の大臣、知事、社長、支配人、課長、監督が此多数の
者の気に入らなければ、其事実は行政上の無資格の証拠と考へられるのである……。恐と
く教育界は責任に就いての此古来の観念の最も奇異な例を与へて居る。学生の騒動は、学
生が制し難いものではなくして、監督者或は教師が自己の仕事を心得ないからだと普通に
想像されて居る。それ故学校の校長は、その統治が学生の多数に満足を与へるとの条件〓
のみ自分の位置を保つて居るのである。高等の官立学校では、各教授講師はその講義の〓
功に対して責任を負はせられる。他の方面に於てその才能は、縦令優秀であらうとも、〓
生の気に入る事の不得手な官立学校の教師は、誰れか有力な保護者が、その為めに調停し
て呉れなければ、簡単な辞令で免職させられてしまふであらう。其人の努力は世人の承認
して居る優秀の標準では(官辺では)判断されないであらうし、-彼等の真価で決しγ
評価されないであらう、彼等は普通の人の心に映じた直接の結果に従つてのみ考量される
であらう。殆ど到る処に昔のこの責任の制度は維持されて居る。国務大臣は、民衆の感情
によつて、彼の施政の結果に対して責任を負はせられるのみならず、同様に、彼の省内に
疑獄や面倒が起こる時は、彼がそれを防ぎ得たか否かの問題には関係なく、それに就い〓
責任を負はせられるのである。それ故に、極度に究極の力が下方にあるといふ事が真実で
ある。最高官吏は或る方面に彼の一個の意志を働かせれば必らず咎を受けるのである、乙
して、今の処暫くは、彼の力が斯く抑制されて居るのは、恐らく却つてよい事であらう
註(此の政策は西洋のものとは極めて相違せる道徳的状態を確に仮定してかかるもので)、西洋の読素

には不当なものと見えるかも知れないけれども、新規定の下では、それは恐らく一時は此上なく良いも一
であつたらう。教育制度に〓然行はれた非常な変化を考へて見ると、二十年前には、教師が其の教授を〓
徒に好まれるやうにする技能のみに、恐らく教師の直接価値が認められた事であらう。また若し教師が生
徒の平均能力より以上に、或は以下に教へようとすれば、或はまた、新知識を〓望しながら、其の習得の
方法を知らない者に歓迎されないやうな教授をすれば、生徒は自己の意志で教師の無経験を正す事が出来
たのである。
上から下へ、社会のあらゆる階級を通じて、上例と同様な責任の制度、及び個人の意志
の遂行に関する同様な制限が、種々な形の下に固着して居る。家庭内部の状熊も、此の点
に於て官省内の状態と余り異つては居ない、例へば如何なる家庭の主人も、彼自身の奴登
或は寄食者にさへも、或る定まつた制限以外に、自分の意志を強ふる事は出来ないのであ
る。立派な婢僕たるものは、好意からでも、金銭のためでも、如何なる事があつても、誘
はれて伝統的の習慣に背〓する事はしない、そして婢僕の価値は、かかる不屈の心によい
て証せられるといふ昔からの意見は、数世紀の経験から正当とされて居る。一般人民の圃
情はまだ保守的である、そして表面的の更新に対する外観上の熱心は、生活の実際の事害
を少しも指示するものでない。流行も、礼式も、家の内部も、街上の光景も、習慣も、方
法も、生活のすべての外観も変化した、併し昔ながらの社会組織は、これ等の表面の変化
の下に固く執つて動かないで居る、そして国民性は、明治のあらゆる変化にも殆ど影響さ
れずに居る。
個人が服従させられて居る強制の第二種-団体的強制、即ち共同生活の強制-は、
競争権の実際上の抑圧となるのであるから、近き将来に於て有害なものとなる恐れがあス
……。日本のいづれの都市の日常生活も、大衆が集団的に考へ、集団的に行動し続けて居
る事を無数に示して居る。併し此の事実に就いて吾々に目馴れた、力ある例証を引かうと
すれば、車屋則ち人力車曳きの規定に勝さるものはない。その条項によると、同方向に一
台の人力車が走る場合、後車が前車を駆け抜く事を禁じてある。旦那持ちの車夫-力と
速さの点で特に選ばれ、その体力を極度に使ふ事を期待されて居る者-の為めに例外が
作られてあるが、これは止むを得ずして作つて居るのである。併し何万人といふ振りの車
夫の間には、若くて活気のある者が、老年で弱い者を追ひ抜く事を得ず、また不必要に遅
遅として怠惰な者をも追ひ抜く訳にゆかない規定がある。自己の優れた力を利用して競争
を〓ふるのは、職業上の違犯であつて、必らず報いを受けるのである。今達者な車夫を傭

つて足の続く限り駆けさせるとする、彼は素晴らしい勢で跳躍しながら駆け続けて行くが、
偶?出来る限り愚図々々歩いて居るやうな弱い車夫か、或は怠けものかに追ひ附く事があ
る。すると達者な車夫は跳びはねて追ひ越す事はせずして、忽ち遅い車の後に止まつて殆
ど歩くやうな緩慢な速力になつてしまふ。強壮で快速なものが、薄弱で遅々たる者を待つ
規定の為めに、かくして半時間も或はそれ以上も遅れる事になるかも知れないっ他を追〓
抜く事を敢てする車夫に対しては弱者は怒つて苦情をつける、そして其の言葉の背後に潜
んで居る考へは斯んな風に現はされ得るものである。『これは規則に外づれて居る事ぢや
ないか-お前の仲間の利盆にならないやうな事をして居るのはお前にも解つて居るだ~
うぢやないか!車屋職業は随分つらい職業なんだ、我が身の為めばかり考へる競争を止さ
せる規定がなけりや、己達はもつとつらい目を見なけりや生きて行けなくなるんだ!』〓
論かかる規定は世上一般の職業の利害に如何なる結果を及ぽすかを考慮して作られたもの
てはないのである。さて、車屋の此の道徳の規定は、種々の変つた形で、日本の労働者の
各階級に今迄常に課せられて来た『特別なる認可なくしては同輩を凌駕すべからず』と!
ふ不文律の範例を示すと云つても間違ひではない……。出世の道は才能あるもののためい
開かれる、-併しながら競争は禁ぜられる、といふわけである。
勿論自由競争に対する近代の社会的抑圧は、古代の社会を支配して居た利他主義的精神
の復活と拡張とを現はすもので、-何等固定した習慣を単に継続する事ではない。封〓
時代には車屋は無かつた、併しあらゆる工匠や労働者は組合或は仲間を作つて居た、そー
てこれ等の組合が維持した規律は、単に個人の利盆の為めに企図されたものとしての競争
を禁止したのであつた。これと同様な或は殆ど同様な組織の形は、今日工匠や労働者によ
つて維持されて居る。そして熟練した労働に対する組合外の傭主の関係も、昔の共同生活
主義的の遣り方で、其の組合又は仲間によつて定められて居る……。例へば立派な家を建
てようとする人があるとすると、その人はその目的の為めに仕事に熟練した非常に恰悧な
階級を相手にする事となるであらう。何となれば日本の大工は、殆ど工匠に伍すると共に、
また美術家とも伍し得るかも知れないからである。建築は建築会社に依頼する場合もあら
うが、併し一般の通則として大工の親方に依頼する方がよい。此の親方といふのは建築〓
師と請負師と大工とを一身に兼ねて居る人である。依頼人はどんな事があつても自分で職
人を選択したり傭つたりする事は出来ない、これは組合の規定で禁じてあるからである
依頼人はただ〓約をする事が出来るのみである。そして親方は、自分の設計が承認を経れ
ば、余の事は皆引受けて遣るのである-材料の買ひ入れも、運搬も-大工、左官、石

師、畳屋、建具屋、金物屋、石工、錠前屋、硝子屋の傭ひ入れまでもやる。各親方は彼自
身の大工組合なるものより遥かに以上を代表して居るからである。彼は家の建築と家の浩
作とに関するあらゆる方面に子分をもつて居るので、依頼者は彼の要求と特権とに干渉し
ようとする事などは夢にも試みてはならない……。彼は〓約に従つてその家を建てるが、
研しそれは偶?関係の第一歩たるに過ぎない。一度彼に依頼した以上、其の依頼者は、ヤ
派な充分な理由がなければ、一生の間破棄するを得ない約束を実際に彼と結んだのである
後に依頼者の家のどの部分に何事が起こらうとも-壁、床、天井、屋根、土台のいづれ
たるとを問はず-依頼者は彼に修繕の事を相談しなければならぬので、他人には誰れ〓
も決して相談してはならないのである。例へば屋根に雨洩りが出来たとしても、極間近の
瓦師とか錻力屋を呼ぶ訳には行かない、若し漆喰に罅が入つても、自分から左官屋を呼ぶ
訳には行かないのである。その家を建てた人が、其の家の状態には責任を有つて居るので、
親方は其の責任を飽くまで大切にして居る、彼以外には左官、屋根屋、錻力屋を呼ぶ権利
はないのである。若し依頼者がその権利を妨害すれば、依頼者は何か不愉快な意外な事に
出遇ふかも知れない。若しその権利を厭うて法律に訴へれば、其の後は、どんなに償金を
出した処で、大工も瓦屋も左官も其の家には来なくなる、和解は何時でも出来るが、併し
組合は必要もないのに、法律に訴へた事を面白く思はないであらう。そしてこれ等の職人
組合はいつも、誠実に仕事をするので、仲直りをするのが結局良い事になる
また庭造りの仕事を取つて見る。先づ綺麗な庭を造り度くて、立派な推薦のある庭師を
傭ふとする。彼は庭を造り、依頼者はその賃銭を払ふ。併し此の庭師は実際一の仲間を〓
表して居るのである。そして彼を傭つた訳で、彼でも、或は彼が属する庭師組合の他の組
合員でも、依頼者がその庭を所有して居る限りは、絶えずよく気を附けて呉れる事が極ま
つて居るのである。季節の変はる度に彼はその庭に来て、万事を整頓して呉れる、生垣も
刈り込んで呉れる、果樹にも鋏を入れる、垣根を修繕する、蔓物の恰好を直して呉れる。
花物に手を入れる、-夏ならば、か弱い灌木にひどく日の当たらないやうに紙の日除け
を立てる、霜の時節ならば、藁で小さな霜除けをして呉れる、-彼は極めて僅の報酬で、
凡百の有盆な器用な事をして呉れる。併しながら、若し此の男の出入を止めて、他の者に
代はらせようとしても、充分な理由の無い限りは、とても駄目である。元の関係が相互の
承諾上で解かれた事が確に分からなければ、どんなに金を出しても、他の庭師は来て呉れ
ないのである。若し依頼者の方に苦情をつける立派な理由があれば、仲人が入つて其の車
は落着する。そして組合の方から、依頼者に、先き先きの迷惑のないやうに計らつて呉ぬ

る。併し依頼者がただ他の者を傭ひ度いからと言つて、理由もなく前の庭師の出入を止め
る訳には行かないのである。
上記の諸例は今猶ほ幾百の形で、維持されて居る昔の社会組織の特性を示すに足るであ
りう。此の共同主義は、集団の間に於ける以外には、競争を抑制した、併しそれは良い仕
事をなし得た。そして職人の為めに安楽な生活状態を得させたものであつた。欠乏といゝ
ゃうな事の無い、そして今猶ほ決定されて居ない原因の為めに、重大な圧迫を生ずる数字
上の水平線下に、一般の人々がいつも止まつて居たやうに思はれる、さうした鎖国の時代
に在つては、これは最上の制度であつた……。今一つの興味あるものが残存して居るが、
それは年季奉公の現存状態である、-これもまた族長組織に原由した状態で、競争に対
して種の制限を課したものであつた。旧制度の下にあつては、奉公は大抵は無給でやつ
たものであつた。商売見習ひの為めに商家に奉公にやられた子供、或は親方の下に附けら
れた徒弟等は、彼等の保護者によつて、食事も、宿も、衣服も、教育さへも受けて居たの
てあつて、望みによつては、生涯その家に居てよかつたのである。併し彼等は、主人の〓
事か商売かを習得して、自身の商売か或は仕事場を管理する事が、充分に出来るまでは、
給料は貰へなかつた。これ等の状態は今猶ほ商業の中心地では著しく行はれて居る-高
人や親方は、今では小僧或は徒弟を通学させる必要は余り無いけれども。大商店の多数は
経験を積んだ者にのみ給料を払ふ。他の雇人は彼等の年季が終はる迄、訓練され世話を
けるのみである。年季が明けると彼等の中の最も有能なのは、熟練家として再び傭はれ
他の者は主人の助力を得て、独立で商売を始める。同様に、徒弟の年季が尽きると、彼は
職人として再び傭ひ入れられるかも知れない、或は常傭の口を見附けるかも知れないが、
親方は矢張り彼の為めに助力して遣るのである。主人と傭人との間のこれ等の親子兄弟的
の関係は、生活を愉快にし、労働を元気好くする助けとなつて居る。であるから今後これ
等の関係が消滅する時には、あらゆる生産品の質に大いに影響する処があるであらう
普通の家庭に奉公する場合も、族長制度は殆ど想像も出来ない程度迄に今猶ほ行はれて
居る。そして此の問題は通り一遍に書いてしまふ訳には行かないのである。私は特に婦人
の奉公に就いて述べ度いのである。昔の習慣によると、下女はその主人に対して主に責任
がある訳で〓なく、自分の家族に対して責任があるのである。彼女の奉公の条件はその嘗
人の家族と取り極めなければならない。そしてその家族は娘の善行を誓約するのである。
通例、しかとした娘は給料を貰ふ為めに家庭の奉公を求めるのではなく(今では給料を捕

〓習情になつて居るが)、また生活の為めてもなくて、主に嫁入の準備をする為めに奉公
をするのである。而して此の準備は、彼女の未来の夫の家庭の一貝として、よく適応し
有く為めであると同時に、彼女自身の家庭の名誉となる為めに希望するのである。最も好
下女は田含泉であつて、被等は時とすると極若いうちに奉公に出される。雨親は注意
一振が斯く秦公に出る家庭を選ぶ、彼等は娘が礼儀作法を見習ふ事の出来る家である事
野に希望する-それ故昔の礼儀に従つて物事のきまりの附いて居る家を〓むのである
書良な娘は傭女としてよりも、寧ろ手助けとして取扱はれる事を望む-親切な思ひやり
をして貴ひ、信用を受け、好かれ度いと期待して居る。古鳳な家庭では、下女は貸際さう
〓取表ひを受けて居る、そしてその関係は短いものてない、-三年あら瓦年まてが
の契勅年限である。併し十一二て奉公に出されると、其の娘は恐らく八九年は動め続
けるであらう。給金の外に、彼女は、主人から年に二度、仕着せの衣服と、身に若はる必
要品を貴ふ事になつて居る、又敷日の休みを取る事にもなつて居る。彼女が受ける給金
り金の貰ひなりて、段々と立派な支度も出来るやうになるわけである。何か非常な不運に
れる会はない限りは、娘の親は娘の給金を要求するやうな事は為ないが、併し娘はいつま
両親には服従する事になつて居る。そして嫁入口の為めに家に呼び〓される場合には、砂
女は帰らなければならない。彼女の奉公の期間には、雇主は娘の家族の奉仕をも気儘に求
める事が出来るのである。娘の面倒を見て居るからと言つて、主人の方から別に恩を売ヲ
事はしなくとも、何か恩がへしは必らずされるであらう。若し下女が百姓の娘ならば、〓
菜、果物、果樹、庭木、若しくは他の田舎の物産を、慣例で定まつて居る折々に主家に持
つて来るであらう、-若し両親が工人階級のものならば、感謝のしるしとして、多分何
か立派な細工物を持つて来るであらう。親の有難く思ふ点は、娘が貰ふ給金や着物ではな
くて、娘の受ける実際的教育と、一時的の主家の養子として、娘を道徳上にも物質上にも
面倒を見て呉れた点である。傭主は又親がかうやつて気を附けて来る返しとして、娘の嫁
入支度に何物かを添加してやる事もあらう。それで、此の関係は全然両家族の関係で、
個人同志のものでない事が分かるであらう。そしてそれは永久の一関係なのである。かく
の如き関係は、封建時代に於ては、幾代も通じて続く事があり得たのである。
今日猶ほ残存して居るこれ等の事が例示する族長的状態は、生活を容易に且つ愉快によ
る助けとなつた。唯だ近代的見地からそれ等の状態に批難を加へる事は出来る。それ等に
就いて下し得る批難の最も悪るい点は、その道徳的価値が主に保守的であつて、新方面〓

於ける努力を抑圧する傾向のあつた事である。併しそれ等が今猶ほ続いて行はれて居る時
では、日本の生活のその昔の面白味の幾分を保留して居る。そしてそれ等が消滅した処で
は、その魅力は永久に消失してしまつたのである
今一つ考察しなければならない抑圧の第三の種類がある、-即ち、官辺の権威を以て
個人の上に働かされる抑圧てある。これはまた種々なる古い遺風を吾々に示して居るが、
これも暗黒方面と共に光明方面を有つて居る
吾々は既に、個人は昔の法律によつて課せられた大〓の義務から合法的に免れたといゝ
事を述べた。個人は最早特別の職に従事する義務はなくなつてしまつた、個人は旅行すス
事も出来る。自分よりも上下いづれの階級の者とも自由に婚姻し得る。宗教をかへる事も
禁じられては居ない。彼は自分の危険さへ意としなければ多くの事を為し得るのである
併し法律上からは、彼が気儘な行ひをしても良い場合でも、家族と社会とからすればさと
は行かないのである。そして昔の感情と習慣との固執は、法律上与へられて居る権利の々
くを無効にして居る。それと全く同じく、個人よりも高い権威の個人に対する関係は、☆
憲の法律があるにも拘らず、昔の抑圧の多くと、昔の強制を少からず維持して居る伝統に
よつて、今猶ほ支配されて居る。理論上では、才力精力の秀でたものは、鰻上りに最高の
位置まで上り得る筈であるが、併し私的生活が今猶ほ昔の共同主義の為めに少からず支〓
されて居るやうに、公的生活も今猶ほ階級或は藩の圧制政治の遺風によつて支配されて〓
る。秀才が他の援助なくして立身したり、高位権勢を得たりする機会は、極めて少い。〓
に集団によつて考へ、集団によつて行動する反対の力に、刄向かつて独立で争ふ事は殆ど
絶望的に違ひないのである。唯だ商業的或は産業的生活のみが、現今では才能ある人々に
対して実際に立派な機会を与へて居る。卑賤から身を起こして官海に成功した極僅少の秀
才は、主に党派の助力或は藩の愛護に依るのである。個人の才能の認知を強ひんが為めい
は、集団が集団に対抗しなければならぬ。独立では、何人と雖も、商業の外には、ただ築
争の力だけで何事かを成就する事は恐らく出来ない事である……。勿論、個人の才能はい
づれの国に於ても、多くの種類の反対に会はなければならぬ事は事実である。また嫉妬の
悪意と階級的偏見の残忍とが、その社会学的価値を有つ事も同様に事実である。それ等は
最も優れた才能の士以外のものの、成功を贏ち得て、それを持続する事を、阻碍する。併
し日本では社会の特殊な組織が、卑賤にして才能ある人の立身を阻む社会的の陰謀に対し
て極度の力を藉し、為めに此の社会的陰謀は国家にとつて極めて有害なものとなつて居る

-何故かといふと、日本の歴史を通じて、現時の如く、階級と位置とを問はず、最高の
俊才の最高の能力を必要とする時代は無いからである
併しかうした事も復興改造の時代には止むを得ない事情である。政府は其夥多の仕事の
うちの唯だ一つの部門に於ても、俊才の功業に対して潤沢に報酬を与へて居ないといふ事
賀は殊に顕著な事である。人が政府の賞讃を得んとして如何に努力した処で、其報酬とし
ては、ただ名誉と辛うじて生活し得るだけの資を得るに過ぎないのである。最も価値のふ
る努力も、最も価値のない努力に対すると同程度位の割合で、報酬を受けるに過ぎないの
である。最大価値の奉仕も、それ無くしても充分に事足り、或は最も容易に其代りの得ら
れる仕事に比して殆ど、同じ位にしか認められないのである。(顕著な例外も無い事はか
いが、私はただ一般の通則を述べて居るのである)。異常な精力と忍耐と敏才とを備へか
上に、階級の援助のある人が、或る位置に上るとすれば、其位置はヨオロツパならば、々
誉のみならず生活の安楽をも保証するであらう、併し日本に於けるかかる位置の報酬は実
際の生活費に殆ど当たらないであらう。陸海軍たると、司法、文部、逓信、内務の諸省た
るを問はず、-報酬の相違が、才能及び責任の相違をあらはして居るといふ処は一つ〓
ない。一段一段と官位が上つても金銭上では殆ど何の事もない、-何となれば位階がト
るに従つて費用は法律で規定された俸給とは全然釣り合はぬやうに増加するからである
今までの一般の通則は、到る処で、出来るだけ少額の金で、出来るだけ多量の仕事を強而
するのであつた。此の国の社会史を知らない人は、官吏に対する政府の政策は、物質的〓
盆の代りに空虚な栄位を与へる事に在ると想像するかも知れない。併し実は、政府が近代
の形式の下に昔の封建式の奉公の状態-簡単ではあるが、名誉ある生活の道を与へられ
る代償としての奉公-を単に維持しただけである。封建時代には、農民は存在の権利を
維持する為めに、その払ひ得るだけのすべてを払ふ事を期待されて居た、美術家や工匠は
顕要な愛護者を有つ幸運で満足して居た。普通の武士さへも彼等の藩主によつて、ほんの
必要だけしか供給されて居なかつた。必要以上著しい多額を受ける事は、非常な恩顧を着
味した。そして何か賜物を得る場合に、いつも昇進がそれに伴なつて居た。併し金銭を以
て支払ひをする近代制度の下に、政府は同様の政策を今猶ほ巧みに維持して居るけれども
商業上の生活の他は、生活は到る処封建時代とは比較にならない程に困難になつて来て居
る。昔は最も貧乏な武士でも欠乏はしないやうに保証されて居り、過失がなければ、位器
を奪はれる恐れはなかつた。昔は教師は給料は受けなかつたが、社会の尊敬と弟子の感謝
とは教師の立派に暮らして行く道を保証した。卑賤の位置に居る天才の工人を奨励する為

めに、大諸侯は互に競つて彼等を愛顧した。諸侯等は、金の点だけでいふと、単に普通の
給料で満足する事を天才者に期待したかも知れない、併し彼等は窮乏或は生活の苦しみを
受けないやうに保証を与へ、彼が仕事を完成するやうに多分の暇を与へ、彼の最大傑作が
確実に珍重賞美されるやうな手段を講じて彼を幸福ならしめた。然るに今や生活費は三倍
にも四倍にもなつたので、美術家や工匠等さへも、その最善を尽くす為めの奨励を得ては
居ない。廉くて手取早い仕事が、昔日の美麗な暇にまかせた仕事に代つて居る。それで丁
梨の最も優れた伝統は滅亡の運命に陥つて居る。今日の農業階級の状態も、農民の土地を
取り上げる事を、法律上禁止してあつた時代に比して、より幸福であるとか、或は遥かい
民いとか云ふ事さへ出来ないのである。そして生活費は常に増大する一方であるから、〓
時のやうに気長く順序を経て物事を行ふ事が-遠からず不可能になるのは明白である。
〓判事の俸給は一年七十磅から五百磅まであるが、後者は極限の最大額である。帝国大学で日本人の〓
授が受ける最高額は今までは百二十磅と定められて居た。郵便局の雇員の給料は僅に生活費に当たるか当
たらぬ程である。巡査は地方によつて、一箇月一磅から一磅十志の給料を受ける。小学校教師の平均給料
はなほ低いもので、(一箇月九円五十銭、即ち、一箇月凡そ十九志である)-一箇月七志以下を受け〓
者も多数ある。
次の表は一九〇四年の軍隊の給料であるが、読者は恐らく興味を以て見られる事と思ふ。
如上の俸給が二十年程以前に制定された時には、家賃は廉い
もので、一箇月三四円出せば立派な家が何処にもあつたもので
あつた。
今日東京では、軍人は十八円或は二十円以下では小さな家さ
へ殆ど借りられないのである。そして食料品の値段は三倍にも
なつて居る。併し今までに不平の声は殆ど聞こえなかつた。家
賃を払へる程の給料を受けない軍人は都合して間借りをして仕
んで居る。多数の者は生活難に苦しんで居るが、皆報国の特〓
を誇りとして居て、辞職などは夢想だもしないのである。
〔表の内中尉(二級の)俸給月額〓とあるのは〓とでもあ
るべき処か、それに4を加へた総計は〓になつて居る〕
若し政府が賢明ならば、現今の如き自己犠牲の要求を、無限に維持する事の行ふ可から
ざるを認めるに相違なく-公明正大な競争を勧誘し、健全なる自主主義を刺激するに足
る程に大きな生活上の報酬を懸けて、人材を登用する必要を認めるに相違ないと、多くの
ある人るとを

人には思はれるであらう。併し政府は外観に顕はれて居るよりも、もつと賢明に行動して
居たといふ事も考へられる。数年前或る日本の一官吏が、私の前でかういふ奇態な事を云
つた、『我が政府は必要以外には競争を奨励し度く思つて居ない。人民には競争に応ずる
支度が出来て居ない。若しそれを強く奨励すれば、性格の最も悪るい方面が表面に出て来
るであらう』と。此の話が一種の政策を、どれ程まで実際言ひ現はして居るのか私には分
からないが、併し、西洋の自由競争が、現時のやうに比較的人情味のあるものになり得ス
までには、如何なる経験を吾々が積まなければならなかつたかを、吾々は忘れ勝ちである
けれども-あらゆる人は、自由競争が戦争に劣らず、残酷に無慈悲になり得る事を知へ
て居る。数百年間あらゆる利己的の競争を、犯罪的のものと見做すやうに訓練された一〓
民の間には、純粋に一個人の利盆の為めに努力するといふ事を、〓然に刺激する事の拙笠
と思はれるのは尤もの次第である。十二三年前西洋式の自由政治を行ふ事に対して、国民
が如何に準備がなかつたかといふ証拠は、初期の地方選挙の歴史及び第一議会の歴史が7
れを示して居る。非常に多数の人命を損したあの度々の猛烈な選挙競争に於ても、実際佃
人的の怨恨といふものはなかつた。その乱暴を以て外人を驚かした議会の論静の内にも
個人的の敵意といふものは認められなかつた。政治上の争は実際個人間のではなくして、
藩の利害関係とか、党派の利害関係とかの間のものであつた、そして各藩或は各党の従属
者達は、新しい政治を以て唯だ一種の新たな戦争-首領の為めに戦ふ忠義の戦-正〓
曲直といふ抽象的観念に依つて左右さるべきものでない、一種の戦争として了解したので
あつた。一国民が主義に就いての節義よりも、寧ろ人に対する節義-結果如何は問ふ処
なき自己犠牲の義務を含むものとしての節義-に就いて考へる事を常の習はしとして居
たと想像すれば、議会政治に就いて、かかる国民が行ふ最初の実験は、西洋の意味に於け
る公明な勝負に就いて何等の理解もあらはさないのは明白な事である。やがてはその理解
も来るかも知れないが、併しそれは速に来る事ではあるまい。これは政治の話であるが、
政治以外の万般の事に於ても、各人が自身の確信に従ひ、自己の利盆の為めに、その属し
て居る群とは独立して行動する権利がある事を、かかる国民に納得させ得たとしても、そ
の当座の直接の結果は幸な事ではないであらう、-何となれば個人の道徳的責任の観念
は、集団の関係より以外には、今迄まだ充分に養成されて居なかつたからである
此の真相は恐らく、現時までの政府の力は、主として昔の方法の墨守と、崇敬的服従の
昔の精神の残存とに依つたものであるといふ事にあるのである。後に至れば、大変化が確

に行はれなければならないであらうが、それ迄の間は多くの事を勇敢に忍ばなければなら
ない。法律的には自由の状態の下にありながら、封建時代に行はれたやうな官府の奴役を
甘んじて受け-今猶ほ封建的の精神で、あらゆる犠牲を受納して居る政府に対して服従
する事を、単に特権と考へて、その為めに、彼等の才能、彼等の力、彼等の極度の努力、
彼等の生命までをも-当然の事として-国民の義務として-満足して提供して居る
それ等の幾千万の日本の愛国者の辛抱強い勇気よりも、もつと悲壮なものの記録は、近代
文明の将来の歴史には恐らくない処であらう。そして実際、犠牲は国民の義務として提供
されて居るのである。日本はイギリスの恐るべき友情と、ロシヤの恐るべき怨恨との間に
処して、危険に瀕して居る事、-国の貧乏な事、-軍備維持の為めにその財源が逼迫
して居る事、-出来るだけ僅少なものを以て甘んずるのが各人の義務である事を、-
国民は皆知つて居る。それ故不平は多くないのである……。又一般国民の単純な従順は矢
張り気の毒な感情を催さしめるものがある、-特に、西洋の知識を習得し、西洋の言語
を習ひ、西洋の風習を模倣せしめんとする意志から、恐らく発せられた詔勅に関しての人
民の従順には、哀切の深きものがある。蓋し過度の勉学の為めに自ら死を招く事を、普通
の種類の死と同視した忠誠なる熱心、-子供等を駆つてその小さい頭には余りに困難な
仕事(極東の心理を何等心得ない顧問等が案出した、目的だけは確に良い仕事)に通暁せ
んとする努力で、彼等の健康を損ふまでにも至らしめた熱情的な従順、-地震や大火の
際に、少年少女は破壊した自家の瓦を、学校用の石盤とし、落ちた漆喰を石筆の代りに使
つたといふやうな不思議な不撓不屈な勇気、-それ等の事を談ずる資格を有するものは
一八九〇年代の初めの間、若しくはそれ以前に日本に住居した人々のみである。大学に於
ける高等教育の生活に就いてすら実に悲惨な事実を私は話し得るのである。-それは立
派な頭脳をもつたものが、ヨオロツパの普通の学生の脳力が堪へ得る以上に詰め込む学問
の重圧に堪へ兼ねて挫折してしまふ事に就いて-死と当面しながら贏ち得た勝利に就い
乙、-恐ろしい試験の時に学生から受ける奇態な別辞に就いての話等である、此の別辞
の一例としては、私の受持の学生がこんな事を云つた事がある、『先生、私の答案は出来
が悪るいだらうと思ひます。私は病院から来て試験を受けたのですから-私は心臓に故
障があるのです』(彼は卒業証書を手に入れてから一時間も経たないで死んでしまつた.
……。而して此の努力-研学の困難と闘ふ努力のみならず、大抵の場合には貧困、栄養
不良、生活の不自由と闘ふ努力-は唯だ義務の為め、生きんが為めの手段であつたので
ある。彼の属する人種の経験とは全然異れる西洋の感情や観念を彼が理解し得ぬ事と、彼

の陥る誤謬と、彼の行ふ失敗とを見て、日本の学生を評価するのは、浅薄者流の誤である
彼を正しく判断せんが為めには、先づ力めて彼が発揮し得る沈黙した道徳的勇気を知つて
置かなければならない。

官憲教育

幾世紀の訓練によつて国民性がどれ程まで固定したかといふ其の程度と、其の国民性が
変化に抵抗し得る異常な能力の程度とは、国家の教育の或る結果によつて恐らく最も著し
く示されるであらう。全国民は政府の助けを得て、ヨオロツパ式に基づいて教育を施され
て居る。そして全部の科目の中には、ギリシヤ、ラテンの文学を除くの他は、西洋の学問
の主なる科目は皆含まれて居る。幼稚園から大学に至るまで、全部の制度は外観だけは近
代風である。併し新教育の結果は、思想に於て又感情に於て、人が或は想像するよりも遥
かに著しくないものである。此の事実は古来の漢学が必須科目の中に今猶ほ占めて居る大
きな位置によつてのみ説明は出来ないし、また信仰の差異によつても説明は出来ない。そ
れは目的を達する手段として見た教育に就いての、日本とヨオロツパの〓念の根本的差呈
に遥かに多くその起因をもつて居るのである。新式と新科目とを以てするに拘らず、全口
本教育は、なほヨオロツパ式とは殆ど正反対の伝統的な仕組みを基礎として施されて居る。

西洋の道徳訓育では幼年時代から子供の行為に制止を加へ始めるのである、ヨオロツパ若
しくはアメリカの教師は、幼童に対して厳格である。西洋では行為の諸?の義務-個よ
の義務の『可し』と『可からず』-とを出来るだけ早く懇に教へ込むのが重要だと考へ
て居る。後にはもつと寛大になるのである。充分に生長した男児には、彼の将来は彼自身
の努力と才能とに拠る事を合点せしめられる。それ故に、必要と思はれる時だけは、戒筋
なり警告なりして、大抵は独りで自分の身始末をさせる。終には、将来有望な人格の高い
大人の学生は、教師と親しくなる事もあらうし、都合の好い場合に廻はり合はせると、教
師の友人とすらなり得る事もあらう。そしてその教師にはあらゆる困難の場合に相談を求
めに行く事が出来るのである。そして精神上及び道徳上訓育の全課程を通じて、競争なる
ものは、期待されるのみならず、要求されるのである。併し少年時代から成人に入ると共
に、規律は漸次緩められるに従つて、それは盆?要求されるのである。西洋の教育の目的
は、個人の才能と人格の養成であつて、つまり独立の精神に富んだ力の充実した人を造ス
事である。
処で日本の教育は外観の如何に拘らず、大抵以上の西洋教育とは今迄常に反対の遣り方
で行はれて来たし、今も猶ほ反対に行はれて居る。その目的は独立の行動をなすが為めに
個人を訓育する事では決してなくて、共同的行動をする為め、-即ち、厳重な一社会の
組織中の一定の位置を占めるに適するやうに訓育する事であつた。西洋では抑圧は幼年時
代に始まり段々に緩むが、極東の訓育はそれよりも後に始まり、其の後漸次引き締まつて
行く、しかもそれは両親または教師が直接に課する抑制ではない-此の事実が、今直き
に述べるやうに、結果に於て非常な差異を生ずるのである。学齢-六歳で始まるとされ
て居るが-に達するまでのみならず、それよりもずっと大きくなる迄も、日本の子供は
四洋の子供の受けるよりも遥かに大きな程度の自由を許される。勿論例外の場合は普通い
ある、併し通例、子供は若しその行ひが、彼自身にも或は他人にも、何等の害を与へる車
がなければ、気儘にさせて置かれるのである。彼は保護はされるが、抑制される事はなく
戒筋はされるが、強制される事は稀である。約言すれば、彼はいたづらの仕放題にさせて
置かれるから、日本の俚諺にもある通り『七つ八つは道傍の穴さへ〓む』といふわけにな
るのである。罰は絶対的に必要な場合にのみ行はれる。そしてかういふ際には、古来の〓
慣に従つて、家族全部-召使も誰れも彼れも-罪人の為めに取りなしをしてやる。芸
し弟や妹などがある場合には、それ等が身代りになる事を願ふのである。打擲は極乱暴な
階級の中にあるだけで、普通の罰ではない。罰としては炙が寧ろ用ゐられるが、それは謀

罰なのである。大声にわめき叱つたり、こはい顔を見せたりして、子供を脅すのは、一般
の意見では悪るいと認められて居る。総ての罰は出来るだけ静かに加へて、処罰者は罰を
加へながら穏かに訓戒する事になつて居る。子供の頭を打つのは、どんな理由があらうが
下品で物を識らぬ証拠となつて居る。遊戯を抑制したり、食物を変へたり、慣れた慰みを
止めたりして罰するのは普通ではない。子供の事は充分に耐へてやるのが道徳上の法則で
ある。学校に上がると訓練が始まる、併しそれも最初は極軽いもので、殆ど訓練とも云へ
ない位である、教師は先生としてより寧ろ兄として行動する、そして大勢の前で訓戒を加
へるより以外には罰といふものは無い。抑制といふ者があるとすれば、その級の共通の意
見で其子供に加へられる。そして熟練な教師は其の意見を指導する事が出来る。また各級
は人格と智慧の優れた点で選ばれた一両人の小首領によつて名義上支配されて居る。そし
ていやな命令を与へなければならぬ時、それを与へる義務を委任されるのは小首領、即ち
級長である。(かういふ小さい細目も記すに足る価値がある、私は学校生活に於て、如何
に早く意見の訓練と共通の意志の圧迫が始まるかを示す為めに、また此の政策が如何に宇
全に日本人種の道徳的伝統と一致するかを示す為めに、是等を引合ひに出したのである)
上級に進むと圧迫は少しばかり増加し、〓等の学校では遥かに強くなる。その支配する
はいつも級の感情であつて、教師の個人の意志ではない。中学校では生徒は真面目になる。
中学の級の意見は、教師自身と雖も、それに従はなければならぬやうな力を得る。教師が
それを蹂躪せんと企てると、教師を排斥する事が積極的に出来る程のものである。各中学
は選挙された役員を有つて居て、其者は大多数のものの道徳上の規定-行為の伝統的標
平-を代表する。(此の道徳標準は害を為すものであるが、併しそれは或る程度までは
到る処に残存して居る)。闘争とか弱いものいぢめとかいふものは、此の程度の日本の学
校にはまだ知られて居ない。それには明らかな理由がある、則ち一個人の怒を縦にする事
は、殆ど出来ないのである。また一様な行為の遣り方を強ふる訓練の下にあつて、一個人
が怒を擅にし、又威勢を揮るはんとしても、それは不可能である。級の生活を整へるのは
多数の上に一人が支配をするといふことではない。それは一人を多数で支配する事で、そ
の力は恐るべき強大なものである。自覚せるとせざるとを問はず、誰れでも級の感情を害
するものは、独り仲間外づれにされてしまふ、-絶対孤独の状態に陥らされてしまふ。
彼が一同の前で陳謝せんと決心するその時迄は、校外でも誰れ一人彼と口をきく者もなく、
彼の事を眼中に置くものもない。陳謝を決心した時すら、彼を許す許さぬは投票の多数決
によるのである。

註以前の習慣では、生まれた子供は一歳といつた。であるから此の場合の『七八歳の子供』は実は『七
七歳』の意味である。
かかる一時的の絶交は恐れられるのも無理はない。それは学生社会以外でも恥と見做さ
れるからである。そしてその記憶は彼の公生涯中いつまでも当人に附き纒ふであらう。こ
の者が後年どんなに高官にならうが、どんなに立派に彼の職業で出世しようが、彼が一瓩
級友の一般の意見で非難を受けたといふ事実は忘れられないであらう、-彼が其の事実
を転じ自分の声望となし得るやうな事情が起つたにせよ……。中学生が卒業後進んで行く
大きな官立学校では、級の規律はなほ一〓峻厳である。教師は大抵昇進を望んで居る官束
であり、学生は大学に行く準備をして居る者で、極僅少の例外を除くの他、官吏となる〓
命の成人である。此の静かに冷たく秩序の立つた世の中には、青年の喜悦を満足させる余
地は殆どない、そして同情をひろげる機会も少い。集会や学会なども多いが、併し是等は
実際的の目的で設備され或は設立されて居る、-主に研究の特殊の部門に関して居るの
である、面白く遊ぶ為めの時は殆どなく、また遊ばうなどと云ふ気は更に少い。あらゆス
状態の下に、或る形式的の外観が伝統によつて強要される、-如何なる公立学校より〓
遥かに古い伝統である。あらゆる人があらゆる人を注視して居る、風変りとか奇態とかい
ふ事は、速に目をつけられて静かに抑圧されてしまふ。或る学校で維持されて居るかうし
た級の規律の結果は、外国の観察者には不愉快に見えるに違ひない。これ等の官立高等尊
校に就いて、私を最も感銘させた事はその険悪な沈黙であつた。私が数年間教へた学校-
-全国で最も保守的な学校-には生命と精力が充溢して居る一千人の若者が居た。併〓
授業の合間とか、或は運動場や庭園や体操場に於ける運動時間の間の一般の沈黙は、不〓
議に圧迫されるやうな感じを与へた。フツトボオルを行つて居る処を見たとしても、聞こ
える音は唯だ球を蹴る音のみである。柔道場で柔道の試合を見るとしても、三十分間も話
し声の途断える時がある。(柔道の規定では、沈黙を要求するのみならず、観覧者が感じ
を外に現はす事をも全然抑制すべきを要求するのは事実である)。此の抑制はすべて最初
は私に非常に不思議に思はれた-三十年前には武士の学校に於ける訓練は、同様の無表
情と沈黙とを強要したのを知つて居たけれども、
終に大学に達する事になる-此処は官省に行く公式の表門である。此処ては級の意志
はつづいて或る方面では彼を支配して居るけれども、学生は以前にその私的生活の上にも
課せられて居た抑制は、免れた事を知る。通例学生は卒業後官吏の生活に入つて、結婚し、

一家の主人或は未来の主人となるのである。彼の経歴中此の時代に於ける変化が如何に急
激であるかは、その変化を実際見た人のみが想像し得るのである。日本の教育の充分な音
味が現はれ始めるのは其の時である
註これは近頃始まつた事である、そして学生等が自身承認する処によると、其の結果は良くはないので
ある。二十五年前には、大学で学問する事は極めて重大視され、若し自分の落度で落第でもすれば、そ
学生は罪人扱ひをされた事であらう。其の当時の大学(大学南黌)に修業に行く学生があると彼等の〓
人や縁者は其の送別の際に、『男児立志出郷関、学若不成死不還』と漢詩を歌つたものである。其の時〓
にはまた学生たるものは、必らず衣食を質素にして、あらゆる自儘な行為を慎まなければならなかつた。
日本の生活の出来事のうち、魯鈍な学生が、一朝にして威風を備へた、落ち着き払らっ
た、悠々たる態度の官吏と変はる事位驚くべきものは少い。ほんの少し以前には、彼は幅
子を手に持つて、文章の説明や、外国語のイデイオムの意味の説明を鞠躬如として諮い〓
居た学生である。然るに今日は恐らく彼は何処かの法廷で裁判をして居るか、大臣の下て
外交文書を管理して居るか、或は公立学校の管理の任に当つて居るのである。学生としゝ
の彼の特殊の才能に就いてどう評価されて居たとしても、彼が招かれて占めた位置に対ー
て特に適応して居る事は殆ど疑を要しないであらう。彼の任官の際には、彼が学問に於て
どれほど成功したかといふ事は、考慮されるとしても後〓はしになるのであつた-彼が
学問をした目的は、それに成功する事を第一として居た筈なのであるが。彼が或る性質の
人格を備へて居るとか、或は少くともかかる性質を具備する見込みがあるとかいふ訳で選
抜された後、彼は高位のものの庇護を受けて、特殊の過程を経させられた。彼の場合には
依佑贔負があつたかも知れない、併し大体に就いて云へば才物は信任されて顕位に任命さ
れるのである。政府が重大な目違ひをする事は滅多にない。此の男は単に学問ばかりが彼
の身に添へ得る価値以上の価値を有つて居る、-管理の方面とか組織の方面とか-武
は又彼の訓練が助けて養成した天賦の力量又は技能を有つて居る。彼の価値の性質に従つ
て、彼の位置は予め彼の為め選ばれたのである。彼の長い、辛い学校通ひは、書物が教へ
得るよりも以上を彼に教へ、愚鈍な人間には決して呑み込めないものを習得させた、則ち
人の心や動機の読み方、解き方-あらゆる場合に感情を色に現はさぬ事-一二の問だ
けで速に真相を把握し得る方法-(昔なじみの最も親しい人に対してさへ)自分を見透
かされぬ用心をする事-最も愛矯よく人に接して居る時でも、隠しだてをして心底を披
瀝しない事などがそれである。彼は世間的な智慮の術に卒業したのである。彼は実際驚く

べき人で、彼の種族のうちで極めて発達した型である、そして彼の外見に現はれた芸能は
彼の優劣を測るのに余り役に立たないのであるから、経験のない西洋人は彼を判断する事
を得ないのである。彼の大学の学問-彼の英語、仏語、或は独逸語の知識-は政府の
或る機械の働きを容易にする油位の役にしか立たぬ。彼は此の学問を或る行政の目的に対
する手段としてのみ考へるのである。もつと著しく深い彼の実際の学問は、彼の日本人の
精神の発達をあらはすのである。彼の心と西洋人の心との間の距離は測り難くなつてしま
つた。そして此処まで来ると、彼は今迄よりも盆?自我を没却してしまつて、己れにして
己れに非らざるものとなつてしまふ。彼は一家族に属し、一党派に属し、一政府に属する
事となる。私には習慣の掣肘を受け、公には唯だ命令に従つて行動しなければならない
そして命令と違反せる衝動は、縦令それが如何に高潔で道理に適つたものでも、それに〓
ふ事は決して夢にも出来ないのである。一言が身の破滅の原となる事もあらう、故に彼は
必要がなければ一言も云はない事を学んだのである。黙々として命令に従ひ、義務さへ倦
まずに遵奉して居れば、彼は出世が出来るのである、忽ちに出世が出来るのである。彼は
知事となり、裁判長となり、大臣となり、全権公使となり得る、併し彼の栄達に伴なつて
彼の覊絆は盆?重くなるのであらう。
注意と自制との長い訓練は、実際官吏生活に必須の準備である。獲得した位置を維持し
て行く能力も、立派に辞職する能力も、かかる訓練に依る処が多いのである。官吏生活の
最も悪るい事柄は、道徳上の自由の欠如-自身の正義の信念に従つて行動する権利の欠
如である。特に自己の位置を維持し度いと欲する属吏には、独自の信念或は同情心などが
あるとは考へられて居ない-但し上官のお許しの出た場合は格別であるが。彼は一人の
人間の奴隷ではなくして、一制度の奴隷である-支那のそれの如くに古い一制度の。若
し人間の天性が完全無欠であれば、その制度も完全無欠であらう、併し人間の性質が将来
も今のやうである限りは、此の制度には改善すべき点が多い。万事が、高い力を一時的に
委託された人々の人格によるとされるであらう。そして悪主人に使はれて居る最も才能あ
る奴僕が選択すべき唯一の方法は、主家を去るか或は悪事を行ふかいづれかである、と云
つて良からう。強い人間ならばその問題に勇敢に当面して辞職するが、怯懦な者の五十人
に対して強い者は一人位な割合である。如何なる種類の命令違反にせよ、命令違反に附隋
する犯罪に就いての古来の観念は、極めて深刻であつて、此の罪を犯す恐ろしさに較べる
と、地位を棒に振る位の事は恐らく何でもないのである。教義の信仰が既に消滅した後も
宗教の形式が残存して居るやうに、良心をさへ強制する政府の力は猶ほ残存して居る、ー

-宗教が最早政府と同一のものとは今では最早云はれないけれども。飽くまでも励行され
た秘密の制度は、行政上の権威といふ観念に、今迄いつも附随して来た漠然たる畏怖を維
持する助けをする、而してかくの如き権威は私が既に示したああいふ範囲内では実際全能
である。権威に依つて寵遇を受ける事は、〓然造り出された人気のあらゆる幻覚的な楽し
さを経験するといふ意である。一社会全部、一市全部は、一言を聞いて、その人間的性質
のあらゆる温良な側を、その寵遇を受けた者に向けてしまふ。その者はこれを見てすつか
り好い気持ちになつて、世界が自己に与へ得る最上のものを受くる価値が自分にあると信
じてしまふ。併し人を動かす権勢が、此の寵遇を受けた者が或る政策の妨害をして居る事
を後に偶?見出すと仮定する。すると又一言囁きの声がすれば、彼は自身何故とも知らな
いのに、たちまち公敵となつてしまつて居る。彼に話しかけるものも、挨拶の礼をするも
のも、笑ひかけるものも無い-偶?あれば皮肉な笑を見せるだけである。長い間彼を尊
敬した友人等は知らぬ顔して通り過ぎる。或は若し彼が彼等を追うて極めて真面目に問と
事もあれば、彼等は出来るだけ簡単に注意して答へる。多分彼等も『何故か』といふ理由
を知らないのである。彼等の知つて居る処はただ命令に従つてやつて居るのだといふ事と
命令の理由は詮索しない方が為めになるといふ事である。往来に遊ぶ子供等もこれだけは
知つて居る。そして失望落胆して居る運命の犠牲者を嘲笑する。犬でさへも本能的にその
変化を察して、彼の通りすがりに吠えかかるのである……。官吏となつて不興を招いた
果はかういふ風である。そして大過誤や規律の違犯は、これよりもなほ著しく遥かな程岳
に達するかも知れない-併し封建時代には、違犯者は単に切腹を命ぜられた事であらう
時として悪人が権勢を得る時には、権威の力は邪悪な目的の為めに用ひられる事もあり得
る。かかる事が起こると、良心に背いた事をさせる命令に反して行動するには、少からぬ
勇気が入用である。かうした種類の圧制の最も悪るい結果から、昔の日本の社会を救つた
ものは、大衆の道徳的感情、-即ち、権威に悉?く服従して居る下に磅〓して居て、若
し余りに残酷に圧迫されると、反動を余儀なくせしめ得た共通の感情-であつた。今日
の状態は正義に対して昔よりも都合のよいものである。併し段々と出世しつつある官吏が
新しい政治的生活の暗礁や渦潮の中を切り抜けて、安全に舵を取つて行くには、大きな王
腕と、堅実さと、決心とが要るのである。
読者は今、一制度としての、官憲教育の一般の性質、目的、及び結果を了解する事が出

来るであらう。また同様に、昔の状態と昔の伝統の復活とを証して居る学生生活の或る右
面を詳細に考察する事も価値ある事であらう。私は教師としての自分の経験-殆ど十三
年間に亙る経験から、これ等の事に就いて話す事が出来るのである
ゲエテを読んだ人は、『フアウスト』の第一部に、メフイストフエレス博士によつて迎
へられた学生の信頼心深き柔順と、第二部でバツカラウレウスとして復び現はれた時の、
同じ学生の非常に違つた容貌を記憶して居るであらう。日本に居た外国人の教師にして
自身の経験によつて、この対照を考へ、日本政府の初期の教育顧問が、別に悪意からでは
ないが、メフイストフエレスの役を演じたのではなかつたかと訝つた人が一人ならず居か
に違ひない……。贈物として菖蒲の花や、馥郁たる梅の一枝を携へて、ただ無邪気な尊敬
の念から外国人の教師に慇懃な訪問をする温和な学生-彼が命ぜられるままの事をして
同年配の西洋の少年の中には稀に見るやうな一種の真面目さと、一種の信頼と、態度の
種の爛雅とで人を魅了するその少年は、バツカラウレウスとならない長い前から、最も奇
態な変化を受ける運命になつて居る。則ち諸君は数年後、高等学校の制服を着て居る彼に
出会ふ事もあらうし、又それが以前の学生である事も認め難くなつて居る、-則ち彼は
今は爛雅な処もなく、黙々として、隠し立てをし、殆ど無礼に当たるやうな事を依頼すス
のを、さも権利ででもあり顔に要求する傾向になつて来て居るのである。彼は保護者気
りで居る-否、恐らくそれよりもなほ良くない者であるのを見るであらう。また其の〓
になつて大学に行くと、彼の応対や辞令はもつと鹿爪らしく礼を守つて居るが、併し遠く
かけ離れた人物になつて居て、少年の彼を記憶する者にはその離れ方を見るのが如何にも
苦痛である。此の外国人の心と、あの昔の学生の心との間に、今拡がつて居る眼に見えな
い深淵に較べると、太平洋も猶ほ狭く浅い思ひがする。外国人の教師は現今は単に教授の
機械と見做されて居る。そして彼は恐らく、彼の生徒と親密な関係を維持せんとして行っ
た努力を悔いるよりも以上に心苦しく感ずる。実際政府の教育の全部の形式的制度は、か
うした親密な関係を何等発達せしめないやうに出来て居るのである。此の事に就いて、〓
は一般の事実を述べて居るので、単に個人的の経験を語つて居るのではない。外人が彼の
学生の情緒的生活と触れる道を得んとする希望で、或は知的の関係を可能ならしめるやら
な、或る学問の興味を喚起させる希望で、縦令何を為ようと、その外人の骨折りは必らず
無駄に終はるのである。千中二三の場合彼は-道徳上の了解に基づいた永続的で温情の
ある尊敬-と言つたやうな貴い物を得るかも知れない、が併し若し彼がそれ以上のもの

を求めたならば、永久に解ける事なき氷の、果てしなき断崖の間を通つて、何処かの入江
を求め何箇月も何箇月も探しぬいて、しかも何の効もない南極探検者の状態と同じで居な
ければならない。さて、日本人の教師の場合は、その障碍はそれほどでなく大抵自然にな
つて居る。日本人の教師は学生に非常な努力を求め得べく、またそれを獲得し得るのであ
り、教室外でも彼の学生と容易に親しむ事が出来る。そして彼は-学生の熱愛-とい
ふ、外人ではとても得難いものを得る事が出来る。此の差異は今まで人種感情の故とされ
て居たが、併しこの事はそんなに容易に漠然と説明する訳には行かないのである。
人種感情の幾分は確に在るには違ひない、無いといふ訳にはとても行かないであらう。
無経験な外人がどんな日本人-少くとも、外国に滞在した事のない如何なる日本人-
とでも半時間対談すれば、その日本人の立派な趣味や感情に触はる事を何か屹度云ふ、に
た海外に旅行した事のない日本人が、ヨオロツパの言葉で短い話しをしても、聞き手の外
人に何か喫驚させるやうな印象を与へない者は殆どない-否、恐らく一人もなからう。
斯ういふ風に出来方の相違して居る心の間に、同情のある理解を求めるのは、先づ殆ど不
可能である。併し其の不可能を我から求める外人教師-彼が西洋の学生に期待して何の
不合理もなくよく分かる理解と同性質のものを日本の学生に期待する外人教師-が喫
するのは当然である。『吾々の間にいつも一つの世界位の広さが入りさうな距たりのある
のは何故か?』とは屡?諮かれる質問であるが、答へ得るのは稀である
此の理由は、私の読者には今迄に〓に幾分明白になつた事と思ふが、其の理由のうちの
一つ-そして最も奇なものが-分かつて居ないであらう。それを述べる前に、私は外
国人の教師と日本人の学生との間の関係は、人為的であるが、日本人の教師と学生の間の
関係は、伝統的に犠牲と義務とのものである事を云つて置かなければならない。外国人が
受ける不精な態度、あらゆる時に彼を興醒めしめる冷淡は、大部分は全然異つた義務の〓
念から起こる誤解に基づくのである。凡そ古来の感情は古い諸?の形式が消滅してしま。
た後迄も絶えんとして絶えずに持続して居る、そして封建の日本が、どれ程沢山に近代日
本に残つて居るかは、外国人には誰れも早速判断は附かないのである。現存の感情の大部
分は恐らく遺伝的に伝はつて来たものであつて、まだ新しい理想が昔の理想に代つた訳で
はない……。封建時代には教師は俸給を貰はずに教へた、彼は自分の時間も、思想も、カ
も、悉?く彼の職業に捧げる事を期待された。其の職業には高い名誉が附随して居たので、
報酬の事は論ぜられなかつた、-教師は親と生徒の感謝に全然信頼して居たのである

一般の人の感情は、とても絶つ事の出来ない絆で、彼等を教師に結び附けたのであつた。
それ故、襲撃に先き立つて、昔の恩師だけは、包囲された処から逃がし度いと心を砕いか
武将もあつた。師弟間の関係は、その力に於て、ただ親子間の関係にのみ劣るだけであつ
た。教師は弟子の為めには何者をも犠牲にして顧みなかつた、弟子は又師の為めには何時
たりとも喜んで死んだ。処が今や、実際に、日本人の性格の苛酷な利己的な方面が表面い
現はれ始めて居る。併し昔の道徳的感情の如何に多くが、新たなそして昔に較べては粗野
な表面の下に固執されて居るかは、唯だ一つの事実を挙げれば充分に合点の行く事である
凡そ日本で成就された殆どすべての高等教育の事業は、政府の援助はあつたが、個人の瑳
牲の結果である。
社会の頂上から基底迄を、此の犠牲の精神が支配して居る。両陛下の御内裕が、多年の
間一般教育に専ら費やされた事はよく知られて居る。併し顕位の人や富豪、並びに上流の
人士が、各個の私費を擲つて学生を教育して居る事は一般に知れては居ないのである。"
くの場合此の助けは全然無償であるが、少数の場合には、学生の費用を立て替へて置いて
何時か将来に分納して支払はせる事もある。昔の大名が彼等の家臣に扶持を与へて助けス
為めに、彼等の収入の大部分をいつも費やして居たのは、読者の確に承知して居る処であ
らう。大名は数百人の家臣、或る場合には数千人、また稀には数万人の者の生活の必需旦
を供給して居た。そしてその報酬として軍務、忠誠、及び従順を強要した。これ等の昔)
大名或は彼等の子孫-特に今猶ほ大地主である人々-は今日競つて教育の補助をして
居る。費用に堪へ得る人は、昔の家臣の子息或は孫、或は子孫を教育して居る、此の愛護
を受ける人々は、昔の所領に設けられた学校の学生中から年々選ばれるのである。現今多
数の学生を毎年支持して行く事の出来る人は、ただ金持ちの貴族だけで、高位にあつても
左程豊かでない者は多数の世話をする事は出来ないのである。併し総て、或は先づ殆ど細
ての者は、幾何かの面倒を見て居る、-そして保護者の収入が僅少で、学生が卒業後。
それを払ひ〓す約束でなければ負担に堪へない場合にさへもそれをやつて居る。或る場合
には保護者が半額を負担して、学生が余の半額を支払ふ事を要求されて居る事もある
さて、これ等の貴族の例は、社会の他の階級を通じて広く模倣されて居る。商人、銀行
家、製造業者-商工業界のあらゆる金満家-が学生を教育して居る。軍人も、文官も
医者も、法律家も、簡単に云へば、あらゆる職業の人々が、同様な事をして居る。収入が
僅少で多くの学生を養成し難い人々も、学生を玄関番、使ひ番、家庭教師などに傭つて、
僅な役目をさせてその報酬として自宅に寄宿させ、折々少しの小遣を与へて、学生を補助

する事をなし得るのである。東京、及び大抵の大都市では、殆どあらゆる大きな家は、か
うした学生を番に置いて居る。教師達が為る事に就いては-それは特別の記述を要する。
公立学校の教師の多数は、金銭で学生を補助するに足るだけの給料は受けて居ない、併
し単に生活に必要なだけより以上の収入のある教師は、すべて何等かの補助を与へて居る」
高等程度の学校の教師や教授の間では、学生を補助するのは当然の事と思はれて居るや?
に見える-しかもその『当然』たるや、余りに極端に走り過ぎて居て、特に給料の僅心
な点から考へて見ると、それが新たな『習慣の圧制』ではないかと思はせる程である。併
し、或る異常な事実によつて現はされて居る処の、犠牲を愉快と考へる気持ちと、封建的
理想主義の奇態な固執とは、習慣の圧制と言つただけでは説明の出来ないものであらう。
たとへば、大学教授某氏は、多年に亙つて、自分の俸給の殆ど全部を、多数の学生に分ふ
つて彼等を世話し、教育したといふ事が知られて居る。某氏はそれ等の学生の衣食住か〓
書籍の購入、月謝まで支弁して-自分にはただ生活費だけを取り除けて置いた。しかも
其の生活費さへも焼薯を喰べて過ごす程に減じて居たといふ。(日本に居る外国人の教授
が、多数の貧困学生をただで教育する為めに、自分はパンと水とで生活すると想像したと
どうであらう!)私は殆どこれと同様に著しい他の二つの例を知つて居る。一つの場合は
七十歳以上の老人で、猶ほその金も、時間も、知識も悉?く、義務といふ彼の昔から抱き
来たつた理想に捧げて居る。かうした種類の、人に知れない犠牲が、とてもそんなことを
する余裕のない人によつて、どれ程沢山に行はれたかは決して分からないであらう、実際
かうした事実を公表するのはただ苦痛を与へるのみであらう。私の注意に上つた場合を記
す事さへも軽率の謗は免れないのである、-かう記す事によつて人間の性質といふもの
は誉を得る事にはなるが……。日本の学生は此の種類の献身的行為を、自国人の教授が行
ふのを見馴れて居るのに、日本人の同僚よりも高給を得ながら日本人教授の例を模倣すス
理由もなく、又する気持ちもない外人教授が、自分等に関心を示したとて同情を示したと
て、余り感銘を受ける筈はないのである。
想像も出来ない困難に当面しながら、個人が自己を犠牲として支持して居る教育上の出
の義〓の事実は、確に多くのごまかしと非行とを償ふに足るのである。近年教育界に盛ん
に腐敗の行はれるにも拘らず-官海の疑獄、陰謀、虚偽のあるにも拘らず-慈仁の念
からする献身的行為が、教師と学生の世界を支配し続ける間は、必要とするだけの改革は
すべて希望し得られるのである。私はまた、官吏の疑獄や失敗は、近代の教育に政治がエ
渉した事から、或は国民の道徳上の経験と全然異る外国の伝統的方法を模倣せんと企てス

事に、起因したといふ意見を敢て述べたいと思ふ。日本がその古来の道徳的理想を守つて
居た場合、日本は気高く立派にやつて来たのであつて、必要もないのにその理想から離れ
た場合、悲嘆と困難とは自然の結果として起つたのである。
近代教育の他の事実の内には、昔の生活の如何に多くが、新状態の下に隠れて居るか、
また考への高い人々のうちに、日本人の特性が、如何にしつかりと固着して居るかを、
段と強く暗示するものが今猶ほあるのである。私は主として海外に於ける日本人の教育。
-ドイッ、イギリス、フランス、アメリカの諸大学に於ける一種の高等特別教育の結里
を言ふのである。或る方面に於ては、これ等の諸結果は、少くとも外国人の観察には、弘
ど消極的に見える。巨大な心理的の相違、-心の構造と習慣の全き反対-を考へると
日本の学生が外国の大学で実際に行つて来たそれ等の事をよく為し得たのは驚くべき事で
ある。日本の文化によつて形作られ、漢学で充満し、漢字を詰め込んだ心で、欧米の名あ
る大学を卒業するといふのは、目醒ましい手柄である。アメリカの学生が、支那の大学を
平業する事が若しあつたとした処で、これ等の日本の学生はこれに遜色はなからう。海〓
留学生は秀才の故に詮衡を重ねた結果であるのは確な事で、此の使命を果たすに欠く可か
らざる必要条件は、普通の西洋人の記憶とは比較の取れぬ程に優秀で、其の質からいふと
全然相違した記憶力、-詳細を悉?く諳んじ得る記憶力-である、併しそれは兎に魚
として此の手柄は人を呆然たらしむるに足るものである。併しこれ等の若い学者が、日本
に帰朝すると共に、彼等の専攻学科が偶?純粋に実用上の科目でなければ、其の方面の努
力は其処で終つてしまふのが普通である。これは西洋の学問の場合には、彼等が独立し〓
研究が出来ない事を意味するのであらうか、独創的思想に対する無能、構造的想像の欠乏
嫌悪或は冷淡なのであらうか。日本人種があれ程長く服従させられたあの恐るべき精神上
及び道徳上の訓練の歴史は、近代の日本人の心にかかる能力の欠乏のあるのを確に暗示す
るであらう。恐らくこれ等の問題は、-私の想像する処では、自明で且つ率直に表現さ
れて居る冷淡といふ事に関する以外には-未だ答へる事は出来ないのである。併し能
とか或は適不適とかの問題とは離れて、考量すべきかういふ問題がある、-即ち本国で
の研究には適当な奨励がまだ与へられて居なかつた事である。底を割つた真相は、青年学
者を外国の学問の本場に送るのは、心理学、言語学、文学、或は近代哲学の研究に、彼笠
の一生を如何に捧げるかを学ぶ為めではないのである。留学の目的は、政府の仕事をする
為めに、純学者の位置よりも一〓高い処に坐るに適せしめんが為めである。そして彼等の

留学は、彼等の官歴中の一の強制的挿話に過ぎないのである。各人は西洋人が或る方面に
於て如何に研究し、思考し、感ずるかを学び、またそれ等の方面に於ける教育上の進歩の
範囲を確めることによつて、特殊の務に対する自分の資格を作らなければならないのであ
る。併し彼は西洋人の如く考へたり、或は感じたりするやうに命令されては居ないのであ
る、-そんなことは、どういふことがあつても彼には不可能な事であらう。彼れ一個と
しては、応用科学の範囲外には、西洋の学問には何等深い興味を有たないのである、まか
恐らく有ち得ないであらう。彼の仕事は、かかる事柄を西洋人の見地からでなくて、日本
人の見地から如何に理解すべきかを学ぶことである。併し彼は役を充分に果たし、命ぜら
れた処を正確に行ひ、それ以上をすることは稀である。彼が自己に命ぜられた範囲の経験
を得た為めに、政府が彼に与へる価値は二倍にも四倍にもなる、併し本国に於ては-〓
授として或は講師として義務年限を果たす間の他は-彼は恐らく、その経験をただ一種
の心理的礼服-役目上着る必要の起つた時にのみ着る、一種の心の制服として用ふるで
あらう。
外科医学、医学、軍事の特殊研究等の如き、理解と記憶のみならず、手先きと眼との生
得の敏速を要する科学の研究の為めに留学させられる者の場合は訳がちがふ。凡そ日本の
外科医の平均能率を凌駕する者が、他にあるかどうか私はそれを疑ふものである。戦術の
研究は、国民の心と性格とが伝来の得手として居るものなる事は、私が述べるまでもない
併し、単に外国の学位を得る為めに留学させられ、義務年限の後は高官に上る事にきま(
て居る人達は、その外国で得た知識を重視しては居ないやうに思はれる。が併し彼等が帰
国後更に努力して、西洋諸国に名声を轟かす事が出来たとしても、その努力は重大な金銭
上の犠牲を払つて初めてなし得る事であらうし、その結果に至つてはまだ充分に自国人に
認められるやうにはなつて居ないのである。
若し昔のエジプト人や昔のギリシヤ人が、現時の西洋文明の如き文明-単に名だけを
羅列しても一冊の辞書が出来る程の諸?の科学及び更に細目に亙つた研究科目とを加へた
応用数学の文明-と〓然危険な接触触をする事となつたならば、彼等はどうするであらう
と、時折考へる人が西洋にはある。近世日本の歴史は、祖先礼拝に基づいた一種の文明を
有つて居る賢明な国民はいづれも、その場合に応じて、どんな事を為したであらうかとい
ふ事を、極めて明瞭に暗示して居ると私は考へる。則ち彼等は〓然の危険に備へる為めに、
彼等の族長的社会を速に改造したであらう。彼等は自己の使用し得るあらゆる科学的の機

械を、驚く程上手に採用したであらう。彼等は強大なる陸軍と極めて能率の高い海軍とを
創造したであらう。彼等は外国の慣例を学ぶ為め、及び外交的の任務を行ふ資格を得る為
めに、若い貴族を海外に留学せしめたであらう。彼等は教育の一新制度を設立し、彼等の
子供等を強制して、多くの新事物を学ばしめたであらう、-併しその外国文明の高尚な、
情緒的な、そして知的な生活の方向には、当然関せず焉の態度を示すであらう。外国の最
も傑出した文学も、その哲学も、その異説を寛容する宗教の広い諸形式も、彼等の道徳上
及び社会上の経験に、何等深く訴へる事は出来なかつたのである。

産業上の危険

到る処、人間の文明の径路は同じ進化の法則によつて形作られたものである、それで
古代のヨオロツパ社会の、古い歴史に鑑みて『旧日本』の社会状態を理解する事が出来る
やうに、同じ歴史の後の一時代は、『新日本』のどんな風になるかといふ将来に就いて、
或る事を判断する助けとなるのである。『古代都市論』"La cite antique"の著者は、あ
らゆる古代のギリシヤ及びロオマの社会は、四個の革命的時代を含んで居た事を示して居
る。第一の革命は、其の結果として到る処僧侶たる王(priest-king)から政治の権力を〓
奪してしまつた。併しそれにも拘らず、此の僧侶たる王は宗教上の権威を保留する事は許
された。第二の革命時代にはgens部族即ち〓euosの解散と、保護者の権威から被護者の
解放、及び家族の法律上の組織に於ける重要な変化とが行はれた。第三の革命時代には、
宗教的及び軍事的貴族の衰微と、普通人民の市民権獲得、及び富人階級の一種の民主政治
が起つた-尤もこれは直きに貧民階級の一種の民主政治を以て対立されるやうになつた

のであるが。第四の革命時代には、貧富間の最初の猛烈な争闘と、無政府主義の最後の謄
利、及びその結果としての一種新しい恐るべき圧制-人民の輿望を収めた専制者の圧制
-が起つた。
註スパルタも是に洩れないのである。スパルタの社会は、進化的から言へばアイオニアの諸社会に遥か
に先んじて居た、ドリアの族長的氏族は極初期の時代に〓に解散されて居た。スパルタには絶えず王が
つた、併し民事裁判の事件は元老院(セネエト)が取締まつて、刑事裁判はエフオオが行つて居た、併
エフオオはまた宣戦媾和の権を有して居た。スパルタ史上の最初の大革命の後、王は民事、刑事及び軍事
に関する権を奪はれ、只だ祭司の役目を保留した。詳細は『古代都市論』二八五頁-二八七頁参照
これ等の四期の革命時代に対して、『旧日本』の社会史には、唯だ二つ相当したものが
あらはれて居るのみである。第一の日本の革命時代は、皇室の文武権を、藤原氏が纂奪し
た事で代表される、-其の事件の後、宗教上及び軍事上の貴族が、現時に至る迄日本を
支配して居た。徳川幕府の下に在つての、武家の勢力の興隆と権威集中のあらゆる事件は
これを第一の革命時代に属さしめて適当であらう。日本の開国の際にあつては、進化と
ふ点から云へば、日本は昔の西洋の、耶蘇紀元前七八世紀の社会に相当する時期以上には
進んで居なかつた。第二の革命時代は、実際に一八七一年の維新から僅に始まつたのであ
る。併し其の後の唯だ一代の間に、日本はその第三革命時代に入つたのである。長老貴族
政治の勢力は、富者の一種の新寡頭政治-政治上で恐らく全能のものとなる運命を有つ
た一種の新たな産業上の勢力-の〓然の隆起によつて脅威されて居る。藩の分散(現今
行はれ中である、家族の法律上の組織に於ける諸変化、人民が政治的権利の享受を始め
た事は、これ等は皆権力の将来の推移を急がせる傾向となるに違ひない。世態の現今の状
態では、第三革命時代が、急速にその行く処まで行く気配が悉く明白にあらはれて居る、
それから重大な危険に充ち充ちた次の革命が目睫の間に逼つて来るであらう
一八七一年の維新から、一八九一年の第一議会開会に至るまでの、人を困惑せしむるや
うに迅速な近時の世相の変化を考へて見ると、十九世紀の中葉までは、此の国民は、二千
六百年前のヨオロツパの族長社会に普通な状態のままで居た。社会は実際〓に分解の第一
次の時代に入つて居たのであるが、併し唯だ一つの大革命を経たのみであつた。それから
此の国は、なほ二つの最も異常な種類の社会革命を〓然急いで過ごさせられたのである。
この革命の特長たるものは、廃藩と、武士の抑圧と、貴族の軍隊に平民の軍隊が代つた事

と、一般人民に選挙権を附与した事と、一つの新たな庶民団体の急速な形式化と、産業の
発展と、富豪の一新貴族階級の勃興と、政府が人民を代表するに至つた事とであつた。『花
日本』には富裕で勢力ある中産階級の発達は決して無かつた。昔のヨオロツパの社会に払
て、貧富間の最初の政治的争闘を、自然に起こさしめた彼の産業発達の状態に近いものす
らもなかつた。『旧日本』の社会組織は、産業の圧迫を不可能ならしめた。商人階級はい
つも社会の底に置かれて居た-少しく高い進化をした社会では、大抵金力に左右されて
居る人々の足下にさへも置かれて居たのであつた。然るに今やこれ等の商人階級は、解放
され大なる特権を与へられて、貴族の支配階級の力を黙々裡に迅速に奪ひながら-最
重要な位置を占めんとして居るのである。そして新事態の下に、日本民族の歴史では、フ
れ以前に決して知られなかつた諸?の社会的不幸が発達しかけて居るのである。東京の貧
民で毎年の住居税を払ふ事を得なかつた者は五万以上あつて、しかも其の税は僅に二十銭
則ちイギリスの金で五ペンスであつたといふ事実に徴して、此の困難が如何いふ者であい
たかが幾分窺はれる事である。少数者の手に富の蓄積が未だ行はれなかつた時には、日本
の何処へ行つたところで、こんな窮乏は-勿論戦争の一時的の結果は別として-決-
てなかつたのである、
欧洲文明の初期の歴史にはこれと類似の点がある。ギリシヤ、ラテンの社会では、民族
gensの解散の時迄は、近代の意味での貧窮といふものは無かつた。奴隷は、極僅少の例を
除くの他、唯だ温和な家族的の形式で存在して居た。まだ商人の寡頭政治といふものも無
かつたし、産業上の圧迫といふものも無かつた。そして多くの都市や、州は、政治的勢力
が、初期の王達から奪はれてしまつた後には、宗教上の役目をも兼ね行つた軍人の貴族が
統治して居た。当時はまだ近代の意味での商売といふものは余り無かつた。そして通貨と
して金が流通されるやうになつたのは、やつと紀元前七世紀の事であつた。困窮は世に存
在しなかつた。祖先礼拝に基づいた族長的制度の下には、荒廃或は飢饉の為めの一時的理
象より以外には、貧窮の結果として起こる不幸はなかつた。若し斯くの如き事情から窮乏
が起こるとすれば、それは総ての者に同様に起つたのである。斯様な社会状態に於ては
各人は誰れか他人の為めに役目をして、其代償として生活のあらゆる必需品を受けて居る
生活の問題に就いて心を労する必要は誰れにもない。また自給自足のかかる族長的社会に
は、金銭の必要も余りない、物々交換が商売に代つて居るのである……。あらゆるかうし
た点で、『旧日本』の状態は、古代ヨオロツパの族長的社会の状態に極めて類似して居た。
『氏』即ち族が存在した間は、戦争、飢饉、或は疫病の結果としての他、何等の困窮もな

かつた。小さな商業階級を除くの他は、社会全般に亙つて、金銭の必要は稀であつた。・こ
して当時存在したやうな通貨は、一般の流通には殆ど適して居なかつた。税は米及び他の
製産品で払はれた。大名がその家臣を扶養したやうに、武士はその家来を養ひ、農民はそ
の労働者の、工匠はその徒弟と職人の、商人はその手代小僧の面倒を見た。あらゆる人が
食を与へられて居た。そして少くとも平時には食にあり附かずに居るといふやうな事はな
かつた。職人が食を得なくなるといふやうな事が存在し始めたのは、日本の藩制の解散に
及んでからの事である。そして古代ヨオロツパに於て、解放された被護階級と平民階級と
は、同様な状態の下で、発達して一種の民的団体となり、選挙権やあらゆる政治的権力を
求めて喧囂したやうに、日本に在つても、普通人民は自衛の為めに、政治的本能を発達さ
せたのであつた。
ギリシヤ、ロオマの社会に於て、如何に宗教的伝統と軍事的勢力に基づいた貴族政治が、
富者の寡頭政治に屈服しなければならなかつたか、それに次いで、一種の民主的-近〓
の意味のではなく昔のギリシヤの意味に於ける民主的-政治が如何にして起つたかは
人の知つて居る処であらう。もつと後の時代になると、民衆的選挙の結果は、此の民主乃
治の解散となり、貧富間の残虐な争闘の創始となつた。その争闘が始まつた後は、ロオ
人の征服が強制的に秩序を囘復した迄は、人命にも財産にも最早安全といふものはなかつ
た……。さて、日本に於ても、日ならずして此の古代ギリシヤの無政府状態の歴史を繰返
す強い傾向の起こる事が、強ちあり得なくもなささうに思はれる。貧窮の不断の増加と民
衆の圧迫と。新産業階級の手に富が蓄積される事に伴なつて、危険は明白になつて来る)
今迄国民は、その過去の経験に依頼し、その支配者を黙々裡に信頼して、あらゆる変化を
よく忍んで来たのであつた。併し此の悲惨を其の儘に抛棄して増大するに委せ、如何にし
て餓死を免るべきかが、一般民衆の必須な問題となる場合が万一起こるとすれば、長い忍
耐も長い信頼も此処に終はるであらう。それから、ハツクスリイ教授がうまく用ゐた形容
を繰返すと、『原始人』は、『文明人』が自己を死の影の谷間に追ひ込んだのを知つて
蹶起して自らその解決を脊負つて立ち、生存の権利擁護の為めに。獰猛に闘ひを始めるか
も知れぬ。民衆の本能力は、此の不幸の第一原因が、西洋の産業的方法を輸入したのにあ
る事を判断出来ない程鈍ではないから、かかる動乱が何を意味するかを考へると寒心に堪
へない。併しへや五十万人を超過すると計算さて居る悲惨な職工階級の状態を改善せん
が為めに、何等重要な事業も行はれては居ないのである

ド・クウランジュ氏は、個人の自由の猴奪が、ギリシヤの社会の終局の紊乱及び破滅の真
の原因であつたと道破して居る。ロオマはギリシヤに比して被害が少かつた、そしてその
難局を切り抜け、なほ支配力を有して居た-それは、ロオマの領土内では、個人の権和
がギリシヤに比して遥かに尊敬されて居たからである……。さて、近代の日本に於ける個
人の自由の欠乏は、結局国難を齎す迄になるのは確実と考へられる。何となれば、封建の
社会の成立を可能ならしめた無条件の従順と、忠誠と、権威に対する尊敬は、恐らく真に
民主的な政体を不可能ならしめ、無政府状態を現出する傾向を有するからである。個人の
自由-統治の問題と道徳の問題とを離して考へる自由、-政治上の権威とは独立して
正邪曲直の問題を考察する自由、-に長い間、馴れた人種のみが、現今日本を脅威して
居る危険にも、安全に当面し得るのである。何となれば、古昔のヨオロツパの社会が分散
したと同様の過程を取つて、日本の社会が分散する事が万一あるとすれば、-(予防的
の法律を以てこれを防止する事なく、-そして又他の一つの社会的革命を誘致するとな
れば)、その結果は到底全滅を免れ難いであらう。ヨオロツパの古の世界に於ては、族長
的制度の分散は幾世紀もかかつた。それは外部からの力によつて起こされたものではなく
遅々たるもので、正式な形をとつたものであつた。日本ではその反対に、此の分散は、雷
気や蒸気の如き速さを以て作用しつつ、巨大なる外部の圧迫を受けて起こりかかつて居る
ギリシヤの社会に於ては変化は、凡そ三百年で成し遂げられた、日本では族長的制度が法
律上解散せしめられ、産業制度が再び作り出されて以来三十年以上は経過して居ないので
ある、併し既に無政府状態の危険は現はれ始めて居る。そして一千万以上にも、驚く程〓
増加した人民は-既に産業状態の下で、窮乏によつて発達せしめられたあらゆる不幸の
形式を経験し始めて居る。
註『古代都市論』"la citie antique"四〇〇-四〇一頁
新事態の下に与へられた最大な自由が、最大危険の方面で与へられたのは恐らく止むを
得ない事であつたらう。政府はそれ自身直接の支配力を有して居る範囲内で、何等かの種
類の競争を奨励する為めに努力したとは云はれ得ないけれども、それは国民の産業的競争
に利する為めには、当然期待され得るよりも以上の事をすら行つたのである。貸附金は濫
りに前貸され、補助金は惜し気なく給与された。そして種々の恐慌や失敗にも拘らず、結
果は非常なものであつた。三十年間に輸出の為めに製造された物品の価値は、五十万円か
ら五億万円に上つた。併し此の巨大な発達は他の方面に重大な犠牲を払つて成就されたも
のである。家庭製産の旧来の方法-しかも家庭製産であつたが故に、日本があれ程長い

間名声を得て居た、美しい工業品や美術品の大抵-は今や救ふ可からざる様な運命に
ち至つてしまつたやうに思はれる。そして昔の師弟間の温情ある関係の代りに、-非路
を取締まる何等の法律もなく-最悪を尽くした工場生活のあらゆる恐怖が世に現はれス
に至つた。資本の新たな結合は、封建時代に想像され得たよりも遥かに苛酷な形式の下に
実際に奴役を再び作り出した、かくの如き奴役に当てられる婦人小児の艱苦は、世間の誹
謗の的であつて、嘗ては親切-動物に対してさへ親切-であつた一の国民が、不思議
にも残虐の行為を為し得る事を証するものである。
今や改革を要求する人間の叫びが起つてる、そして職工の保護の為めに、法律を得ん
とする熱心な努力も既に行はれ来たつた、また将来も行はれるであらう。併しこれ等の努
力に対して、製造会社や組合は当然強硬な反対をして来た。工場の管理に対する政府の干
渉は、よし企業を不具にしないまでも、甚だしくこれを妨害し、外国の産業に対する競争
を阻碍するであらうと彼等は公言して居る。二十年とは経たない前に、イギリスでも丁毎
同様な議論が、当時産業階級の状態を改善せんが為めに行はれて居た努力に反対して称ハ
られた。そしてその反対に対して、ハツクスリイ教授は大演説をして挑戦した。日本のま
らゆる立法者が今日此の演説を読めば大いに得る処があらう。一八八八年の間に進捗して
居た改革に就いて同教授は云つた
『かかる設備を完うする事が必らず製産費を増大し、斯くして競争に於て製産者の負担
を重くするといふならば、私は先づ第一に、その事実を敢て疑ひたいのである、併し若し
果たしてさうであるとすれば、その結果として産業社会は板挟みの状態に当面しなければ
ならぬ、そしてどちらの方面を選んだ処が破滅の虞れがある
『一方では、労働に対して充分な報酬を受けて居る人民は、肉体的にも精神的にも健全
で、社会的には堅固に安定して居るかも知れない、併しその製産品の高価な為めに、産業
上の競争には失敗するかも知れない。また他方では、労働に対して不充分な報酬を得て居
る人民は、肉体的にも精神的にも不健全に陥り、社会的には不安定になるに違ひない。こ
してその製産品の廉価な理由で、一時は競争に成功するかも知れないけれども、それは終
には、恐るべき艱苦と堕落とによつて全然破滅するに違ひない。
『さて、若し吾々の採るべき道が、ただこれ等に限られて居るならば、吾々は自身の為
め、子孫の為めに、前者を選び度いと思ふ。そして若し止むなくんば男らしく餓死しよう
ではないか。併し私は、健全で、活力に富み、教養あり、自ら治むる事を知つて居る人民
から成る堅固な社会は、滅亡の運命といふが如き重大な危険は決して招かない事を疑はな

いのである。彼等は現今ではまだ同じ性質の多くの競争者にわづらはされる虞れも無ささ
うである、そして彼等は自己を確立する方法を見出す事に安心して任して置かれ得ると〓
はれる
註『論文集』第九巻二一八頁-二一九頁、『人間社会に於ける生存競争』"the struggle for existcnes
in humun socicty.'
若し日本の将来が、その陸海軍と人民の高大な勇気と、名誉の理想の為め、義務の理相
の為めには、十万二十万の人が一度に直ぐに生命を擲つを辞せぬといふ事実に依頼し得ス
ならば、現時の事態を見ても驚く訳も余りないであらう。処が不幸にして日本の将来は
勇気よりも他の性質、犠牲のそれよりも他の才能に依頼しなければならないのである。ー
かも日本は今後の奮闘に於て、古来の社会的伝統に〓されて、却つて大きな不利盆を受け
るに違ひないであらう。産業的競争に対する能力を、婦人子供の艱苦に依つて補ふやうな
訳には行かない。それは、個人の理解に富んだ自由に依らなければならないのである。そ
して此の自由を圧迫する社会、或はその圧迫を許して置く社会は、余りに硬いものにな
て居て、個人の自由が厳重に維持されて居る諸?の社会と競争し難いに相違ない。日本ぶ
集団によつて考へまた行動する事を続けるならば、よし其の集団が産業会社のそれである
としても、その続く限りは日本はいつも最善は尽くし得ないのである。日本の古来の社念
的経験は、将来の国際的争闘に於て充分に日本の役に立たないのである、-寧ろそれけ
死重として日本に妨害を与へるに相違ない。これは実に最も恐るべき死重で、-消滅し
た無数の代々の人々が、現代の日本の生活の上に加へる眼に見えない圧迫である。日本は
これから、もつと伸縮自在な、もつと力に充ちた種々の社会との競争に際して、眼に余ヲ
優勢を向うにまはして張合つて行かなければならないのみならず、今は死滅してしまつか
日本自らの過去の勢力に対しても、遥かに多く張合つて行かなければならないであらう
併し、若し日本がその祖先の信仰からそれ以上何ものをも得る処はないと想像するのは、
又悲むべき誤であらう。日本の近代の成功は皆悉?くそれによつて助けられたもので、そ
の近代の失敗は悉?く、その道徳上の習慣を不必要に破つた為めに起つたのは明らかな事
である。日本が命令一下その人民に、甚大なる苦痛を忍び、努力を為して、欧洲文明を採
用せしめ得たのは、一に人民が長年月の間服従と忠誠と犠牲とに馴れ来たつた故である。
そして日本がその道徳的過去の全部を抛棄し得る時代は未だ到着しないのである。日本は

実際現今以上の自由を要求して居る、-併しそれは叡智によつて制限された自由、他り
の為めのみならず、自己の為めに考へ、行動し、努力する自由であつて、弱者を圧迫し
単純な人間を私利の為めに虐使する自由ではないのである。そして日本の産業的生活の新
たな残虐は、此の国の古来の信仰の伝統中には、何等正当とする理由をもつて居ないので
ある。此の古来の信仰は従属者から絶対の従順は強要するが、同時に主人からも親切の義
務を要求したものである。日本が、その人民をして、親切の道から逸する事を是認すれば
するだけ、日本自身が確に『神の道』から逸した訳である……。
そしてまた家庭の将来も暗黒に見える。その暗黒から悪夢が生まれて、日本の愛好者を
屡?襲つて来る。それは、日本がかかる極度の努力を死物狂ひの勇気でやつては居ても、
それは畢竟方面違ひの努力であつて、帰する処は、商売上の経験では、日本よりも数百年
の長老である他国民の来たつて滞留するに資する為めに、国を準備するに過ぎない事と
日本が有する数千哩の鉄道と電信と、鉱山や鉄工場、兵器廠や工場、ドツクや艦隊も、外
国の資本に利用されんが為めに整頓されて居る事と、日本の讃嘆すべき陸軍も、勇武に宣
んだ海軍も、政府の力では到底左右し得ない事情の為めに挑発され刺激されて、侵略を〓
図する貪婪な数国の聯合を迎へて、到底勝算なき戦をする為めに彼等の最後の犠牲を払ふ
運命となつて居るかも知れないといふ事等の恐れである……。併し日本を嚮導して既にあ
れ程多くの難関を切り抜けさせた経世の才は、此の密集し来る危険とよく対抗し得る手際
を見せるに違ひないと思ふのである。

囘想

私は今迄日本の社会史に就いての一般観念と、其の国民の性格を形作り鍜錬した諸?の
力の性質に就いての一般観念を伝へようと努めたのである、此の企図は未だ甚だ不充分で
あるのは言を俟たない、此の問題に就いて満足すべき著述の出来るのはまだ遠い将来の事
である。併し日本はその宗教と社会進化の研究を通じてのみ理解され得るといふ事は、既
に充分に示されて居ると私は信ずる。日本は、確実な能率を以て西洋の応用科学を利用し、
絶大なる努力を以て数百年間の仕事を僅々三十年間に成就して、西洋文明のあらゆる外形
を維持しては居るが、併し社会学的には、古昔のヨオロツパに於ける基督の出現に先き立
つ数百年以前の状態に相当する状態に留まつて居る、東洋の一社会の驚くべき光景を吾々
に見せて居る」
併し起原や原因を如何程述べた処で、その為めに人間の進化の過程に於て、吾々から心
理的には今猶ほ遠く隔つて居る此の奇なる世界を静観する愉快は少しも減殺される虞れは
ないのである。『旧日本』のうちから、今まで残つて居る驚異と美とは、それ等を生じた
状態を知つたからと云つて軽減される訳ではない。昔ながらの温情に富んだ爛雅な風俗は
千年の間劒刄の下で養はれ来たつたものである事を知るからと言つて、それに魅了される
事を止める必要はないのである。ほんの数年前には殆ど到る処、人は一般に慇懃に、争は
稀なやうに見えたが、これは幾代も幾代もの間、庶民の間の喧嘩は、悉?く非常な厳罰に
処せられたからで、又かかる制止を必要とした仇討ちの習慣は、あらゆる人に言行を慎ま
しめたといふ事を知つても、吾々の気持ちよい感じが減少するのでもない。昔は従属階級
のものは、よし苦痛を受けながらも、微笑して居なければ生命を失ふ恐れのあつた時代が
あつたと聞いても、一般の人々の微笑が吾々の心を奪はなくなる訳ではない。また昔風の
家庭の躾を受けた日本の婦人が、消滅しつつある一つの世界の道徳観念を代表するからと
いつて、また吾々が彼女を拵へ上げるのにかかつた費用-計り難い苦痛の価-を極〓
かに推測し得るのみであるからと云つて、彼女が可愛らしくなくなつたのでもない
否。此の昔の文明のうちから残存して居るものは魅力-筆舌に現はし難い魅力-に
充ちて居る、そして誰れでも其の魅力を感知した人は、それが漸次亡びて行くのに一種の
悲哀を感ずるに違ひない。芸術家や詩人の心をもつた人には、嘗ては此の神仙の国を悉・

く支配して、その精神を形作つて居た無数の制限は、如何に耐へ難いもののやうに思はれ
るとしても、彼はその最善の結果を讃美し愛好しない訳には行かないのである、その結果
とは、昔の習慣の純朴さ、-風俗の温厚、習慣の爛雅、-接客歓待の際に示された巧
緻な手腕、-如何なる事情の下にあつても、性格の最上で最も快活な有様のみを外部に
あらはす不思議な力等である。昔の家庭宗教の中に、-死者の霊の前に毎夜灯す小さな
灯明、飲食物の小さな供御物、訪ねて来る精霊のしるべをする迎へ火、精霊を乗せてその
憩ひの場処に〓すささやかな船-と言つたものの中には、さうした事には極めて無頓着
な人をも動かす、情緒的な詩趣が如何に含まれて居る事であらう。そして此の太古から値
はる孝道の教へは、義務に、感謝に、献身に、あらゆる恐るべきものを強要するのみなら
ず、また気高きものをも同じく強要して、-吾々の絶えんとして絶えざる宗教的本能に、
如何に不思議に訴へる事であらう。又其の教へによつて鍜錬された、吾々よりも一〓美し
い性質は、如何に神に近いやうに吾々には見える事であらう。神々の前で歓楽と敬虔とを
愉快に混ぜ合はせた、あの氏神の祭礼には如何に奇妙に不思議な魅力がある事であらう
子供の玩具から王侯の累代の品物に至るまで、殆どあらゆる工業の製産品の上に、その印
象を止める-寂〓の境地を仏像の群で賑はし、或は路傍の岩石に経文を刻む-仏教
仏教美
術のロマンスは何といふ面白い天地であらう。此の仏教の空気の軟らかな魅惑-大梵舘
の殷々たる音楽、-恐れを知らぬ生き物-呼ばる?ままに羽音高く舞ひ下りる鳩、釦
を求めて浮かび出づる魚-が常の住家として群らがつて居る緑濃き平和な寺庭、誰れが
かうした物を忘れ得よう……。此の昔の東洋の精神生活に吾々が入る事を得ないにも拘ら
ず、-『旧日本』の思想情緒の中に参入せんとするのは、丁度『時の流れ』を溯つて
昔のギリシヤの都市の既に消滅した生活に参入せんと望むのと一対であるのは、確である
にも拘らず、-吾々は、昔話にある、向う見ずに〓魅の国に入つて行つた放浪者のやう
に、かうした幻影によつて永久に魅惑されてしまふのである。
吾々はそこに錯覚-見得るものの実体に就いてのではなく、その意味に就いてのであ
るが、-非常に多量の錯覚のある事は心得て居る。併し何故此の錯覚が、楽園を瞥見し
たとでも云つたやうに、吾々を引き附けるのであらうか、-思想上ではラムジイズ時代
のエジプトの如く吾々と懸絶して居る一種の文明が、道徳的の魔力を有つ事を認めぬ訳に
は行かないのは何故であらうか。吾々は個人を認める事を拒んだ一種の社会的訓練の結果
によつて実際魅了せられたのであらうか、-個人の人格を抑圧する事を強要した祭祀に
魅惑されたのであらうか。

否。その魅力は、此の過去の幻影が、過去及び現在よりも遥かに多くのものを、吾々に
あらはして居る事実、-完全なる同情の世界に於て、或る高尚な将来の可能性を予示し
て居る事実から来るのである。数千年の後には、『旧日本』の理想によつて予め表現され
て居た道徳的状態、-本能的の無私、他人の為めに幸福を作り出す事を人生の楽とする
一般の人の希望、道徳美に就いて一般が抱く一の観念と言ふやうなものを、台厘の幻覚を
混じへず成就し得る一種の人道が発達するかも知れない。そして人間が自己の心の教ふる
ものより以外、何等の法典をも必要としない程までに、現在にたよるやうになつた時は、
則ち実際神道の昔の理想がその最も優れた実現を示した事であらう。
その上、その結果がかく吾々を引き附ける社会状態は、美しい蜃気楼より遥かに以上の
ものを、実際に生じたのである事を記憶しなければならない。大なる魅力を有つた単純な
特性は、当然固定したものではあるが、畢竟社会状態が群集の中に発達させたものである
『旧日本』は、進化の度に於ては、遥かに進んで居る西洋の社会が数百年間に達し得たよ
りも、遥かに高尚な道徳的理想の成就に一歩近づいて居たのである。そして武士の勢力の
隆興に続いたかの千年間の戦乱がなかつたならば、あらゆる社会的訓練の目標となつて居
た道徳的目的に、もつとづつと接近して居たかも知れなかつたのである。併し若し此の人
間の性質の善良な方面が、もつと暗いもつと苛酷な諸?の性質を犠牲にして、もつとよく
発達させられたならば、その結果は国民の為めには不幸であつたかも知れなかつた。侵略
と猾智の能力を失ふ程までに、利他主義に支配された国民は、すべて世界の現在の状態で
は、戦争の訓練のみならず、競争の訓練で鍜へられた種族に対抗して、その位置を保持し
て行く訳には行かないであらう。将来の日本は世界の争闘場裡で成功を収めんと欲するな
らば、その性格のうちの温厚な部分とは正反対な諸?の性質に依頼しなければならない。
そして日本はさういふ牲質を強く発達させる必要があるであらう
日本がそれ等の性質を一の方向に如何に強く発達せしめ得たかは、ロシヤとの現今の戦
争が驚くべき証拠を見せて居る。併し日本が斯く侵略の力を意想外に現はしたその背後に
潜む道徳的の力は、確に過去の長い訓練に負うて居るのである。日本国民が甘んじて変化
に服従して居た為めに覆ひ隠されてしまつた沈黙せる精力、-四千万人の此集団に透浸
して居る自覚せざる勇気、-陛下の一令で直に立つて建造にも破壊にも展開し得る圧搾

された力、-は皮相の観察の看破し得ざる処である。かくの如き軍事上及び政治上の麻
史を有つ一国民の統率者達は、外交及び戦争に於て最も重要なあらゆる能力をさぞかし表
示する事と人は期待するかも知れない。併し集団の性格-風浪の如き偉大な力を以て命
令の儘に動く物質が具備する性質-がなかつたならば、かくの如き能力も殆ど価値ある
ものとはならないであらう。日本の真の力は其一般人民、-其農民や漁民、工人や労働
者、-田畠に労働し、或は都市の裏路に最も卑賤な職に従事する辛抱強き温和な人民-
ーの道徳的性質の中に今猶ほ存在して居る。此の人種のあらゆる自覚せざる壮烈な気質は
これ等の人々の中に存する、また此人種のあらゆる素晴らしい勇気、-人生に対する毎
頓着を意味せずして、死者の位階を昇進せしめる事をなす天皇の命ずるままに、生命を麟
牲にする事を欲する勇気-もこれ等の人々の中に存するのである。今戦争に召集されて
居る数万の青年にして、光栄を荷つて本国に帰らうと云ふ希望の言葉を洩らすものは一〓
φない、-口に出す希望は、天皇と祖国の為めに死んだ者の霊が集まる処と信ぜられて
居る招魂社-『霊を呼び起こす社』に祀られて、長く世人に記憶されようといふ事の乙
てある。古来の信仰の、此戦争の際ほど強い時はない、そしてロシヤは、連発銃やホワイ
トヘッド魚形水雷よりも、此信仰を恐れなければならないのであらう。愛国の宗教として
の神道は、充分にその力を発揮させれば、極東全部の運命に影響を及ぼすのみならず、ょ
明の将来に影響すべき力である。日本人が宗教に無頓着であると説く位、日本人に就いっ
の不合理な断言はない。宗教は今迄のやうに、今も猶ほ日本人民の真の生命であり、-
彼等のあらゆる行動の動機でまた指導の力である。実行と忍苦の宗教であり、偽信と偽差
のない宗教である。そしてそれによつて特に発達せしめられた諸?の性質は、すなはち
シヤを愕然たらしめたその性質であつて、此後もまだロシヤに多くの苦しい驚愕を与へス
かも知れないのである。ロシヤは子供のやうな潺弱を想像して居た場合に、驚くべき力を
発見したのであつた。臆病と無気力とを期待して居た場合に、勇猛に出会つたのであつた
註一第二囘旅順口閉塞後、日本艦隊司令長官東郷海軍中将の功を嘉して賜はつた勅語に対する中将の素
答文は、神道の特色を遺憾なく表はして居る。
『第二次順口閉塞ノ挙ニ対シ優渥ナル勅語ヲ賜ハリ臣等感激ニ堪ヘザルノミナラズ之ニ戦死セル将卒
忠魂モ永ク戦地ニ止マリテ皇軍ヲ庇護スベキヲ覚ユ(臣等尚倍マス勇奮聖旨ニ副ヒ奉ラムコトヲ期ス)
一九〇四年三月三十一日発行『ジヤパン・タイムス』掲載の翻訳
勇敢な死者に対するかくの如き思想と希望とは、サラミスの海戦後にギリシヤの海将等も亦述べたか〓
知れない。ギリシヤ人を助けてペルシヤの侵入を防がしめた信仰と勇気とは、現今日本を助けてロシヤ

当たらしめて居る宗教的の壮烈勇武と正に同性質のものであつた。
註二本年四月二十六日にロシヤ軍艦の為めに撃沈された運送船金州丸乗組の将士の行動は、必らず敵を
して深省する処あらしめたに違ひない。敵は考慮の時間を一時間与へたけれども、士卒は降服を肯んぜず
戦闘艦に対して小銃を以て砲火を開いた。そして金州丸が水雷の為めに真二つに爆沈されるに先き立つて
多数の将卒は切腹した……。此の猛烈な昔の封建時代の精神の著しい発揚は、ロシヤが若し戦争に勝つた
としたならば、如何に多大の犠牲を払はなければならぬであらうかを示すものである。
無数限りない理由からして、(何時までも続くか誰れにも分からない)此の恐るべき戦
争は、言語に絶して遺憾千万であるし、またその理由のうちには生産に関することも少か
らずある。戦争は近代の国民の繁栄と致富に欠くべからざる、健全なる個人主義の発達い
資するあらゆる傾向を一時必らず阻碍する。企業は生気を失ひ、市場は麻痺し、製造は休
止する。併し此の異常な人民の異常な場合には、戦争の社会的結果が、或る程度まで利盆
となり得る可能性はある。戦争に先き立つて、数百年の経験で建設された諸制度が、まが
時ならぬのに崩壊する傾向が見えて居た、-道徳も或は崩壊せんとする重大なる虞れが
あつた。其の大変化は今後に行はれるに相違ない事、-此国の将来の幸福が変化を要求
する事、-は議論を挟む余地がないやうに見えるであらう。併し、かくの如き諸変化が
漸次に遂げられる事、-国民の道徳的組織を危険に陥れるが如き、時を得ざる急激を〓
てせずして遂げられる事は必要である。独立の為めの戦争、-この民族をして其成行に
総てを賭るやむなきに至らしめる戦争、-は、昔の社会的覊絆の緊張、忠誠と義務の古
来の感情の強い復活、保守の感情の増大等を起こすに相違ない。これは或る方面に於ける
退歩を意味するであらう、併しそれは又他方面の活気を意味するであらう。ロシヤの脅威
に当面して、大和魂は再び復活する。若し日本が勝てば、日本は以前よりも道徳的に強!
なつて此戦争から切り抜けて来るであらう。そしてその時には自信の新しい観念、独立の
新しい精神が、外国の政策と外国の圧迫に対する国民の態度に現はれて来るかも知れない
-勿論自信過大の危険はあらう。海陸共にロシヤの力を破り得る国民は、同様に又彼
等自身の領土内で、外国の資本と競争し得ると、信ずるやうな心持ちになるかも知れない
そして政府を説得し或は威嚇して、外国人の土地所有権の問題に関して、不幸なる妥協を
為さしめるため、あらゆる手段が確に試みられるであらう。此方面の努力は、長年の間固

執的に且つ組織的に行はれて来、日本の政治家の或る階級から幇助を受けて居たやうに思
はれる。併しこれ等の政治家は、特権を有つた外国の資本のシンヂケエトが、唯一つでも
あれば、それが斯様な国に於ては、如何に巨大な圧制を行ひ得るかを了解し得ないらしい
私の考へる処に依ると、日本全国に於ける金力の性質と、生活の平均状態とを、極めて〓
然とでも理解する人は、誰れに限らず、借地権を有つた外国の資本が、立法を支配する〓
段と、政府を左右する手段と、外国の利盆の為めに、此帝国が実際に支配されるに至る車
態を招致する手段とを、必らず得るに至る事を認めるに違ひないと思ふ。日本が土地の購
買権を外国の産業に対して与へる時には、日本は到底復活の見込みのない程に破滅してし
まふといふ確信に、私は抵抗する訳には行かないのである。眼前の利盆の為めに誘はれて、
かかる事を許す自信自惚れ心は、極めて不幸なものであらう。日本はロシヤの戦艦や銃〓
を恐れるのとは比較出来ない程に、英米の資本を恐れなければならない。日本の戦争の能
力の背後には、一千年の訓練を経た経験がひそんで居る。其産業的及び商業的の力の背後
には、ただ半世紀の経験があるのみである。併し日本は充分に警告を与へられて居た。そ
して若し日本が今後自ら進んで破滅を招くことになれば、それは忠告が欠けて居たからで
はあるまいと思ふ、-何となれば日本は世界の最大賢人の忠告を得て居るからである。
註ハアバアト・スペンサア
此の文の読者には、新たな社会組織の長所と弱点-その軍事的方面に於ける攻防両通
動の偉大な才能、及び他の方面に於ける比較的薄弱な点-が今や少くとも明白になつた
に違ひない。結局、驚異すべきは、日本がこれほど立派に今迄其の位置を保ち得たといゝ
事であつて、その最初の覚束ない努力を、新規で危険な方面に導いたのは、確に尋常なら
ざる智能を以てした事である。日本が今迄に成就した事を遣り遂げたその力は、確にその
古の宗教上及び社会上の訓練から出たものである。新形式の統治と、新状態の社会的活耐
の下に、日本が今猶ほ昔の訓練の多くを維持する事を得た為めに、日本は続いて強力であ
り得たのである。併しさうとしても、日本が災〓を免れ得たのは、-外国の圧迫の重荷
の下に、全社会組織が分裂するのを免れ得たのは、ただ最も堅固な最も機敏な政策によっ
たからであつた。巨大な諸変化が行はれると言ふのは避くべからざる事であつたが、併ー
その変化が、国の基礎を危くする性質のものたるべからずといふ事も、同様に避くべから
ざる事であつた。そして直接の必要に対して準備する一方、将来の危険に対しても用意を
怠らないやうにするのは、特に必要な事であつた。人間の文化の歴史に於て、かかる巨士

な、かかる錯雑せる、かかる動かし難き諸問題を、切り抜けるの已むなきに至らしめられ
た統治者は恐らく決して無かつたであらう。そしてこれ等の問題のうち、その最も動かし
難きものが、まだ解けずに残つて居る。日本のあらゆる成功は今迄は、義務と従順といと
古来の神道の理想によつて支持された非利己的な集合的行動に原因したのであるけれども
日本の産業的将来は、全然反対した種類の自我的の個人行動に依頼しなければならぬとい
ふ事実が、すなはちそれである。
然らば古来の道徳-古来の祭祀-はどうなるのであらうか。
-今の此の瞬間は事態が常規を逸して居る。併し常態にあれば、古来の家族の関係は
漸次に弛むで行く事が確であらうと思はれる。そしてこの事は猶ほ此の上にも崩壊を招致
するであらう。日本人自身の証明によると、此の崩壊は、現時の戦争に先き立つて、大〓
市の上流及び中流階級の間に迅速に拡がつて居た。農村の人々の間、並びに田舎の都会に
於てさへも、事物に関する古来の道徳的秩序はまだ余りに影響を受けずに居る。そして晶
環に対して働きをして居るものの内には、立法的変化或は社会的必要〓外に、他の影響も
ある。昔よりも知識が広まつた為めに古来の信仰は乱暴に動揺されてしまつた。二万七千
の小学校では、新時代の少年等が、科学の初歩と宇宙に関する近代の〓念とを教へられて
居る。須弥山の幻奇なる絵を描いた仏教の字宙論は〓にお伽噺となつてしまつた。昔の古
那の自然哲学は余り教育のない者か、封建時代の生残者の間にのみ信仰者を有つて居る
そして極小さい小学生も、星座は神でも仏でもなく、遠距離にある太陽の群である事を学
んで居る。一般の人も最早mi.ky wayを『天の河』として相像に描く事は出来なくなっ
て、織女と牽牛と鵲の橋の伝説も今はただ子供に聞かせる話となつてしまつた。そして若
い漁夫は彼の父と同じやうに星の光りを目当てとして船を行つては居ても、最早北の空に
妙見菩薩の姿を認める訳にはゆかなくなつてしまつた。
併し昔の或る階級の信仰の衰微、若しくは目に見える社会的変化の傾向は、誤解され易
いものである。如何なる事情の下に在つても、宗教は徐々に衰微して行く。而して最後に
崩壊を受けるものは宗教の最も保守的な形式のものである。祖先祭祀が、今までに如何
なる種類の影響たるを問はず、人が感知し得る程の影響を、外界から受けて来たと想像す
る事、或は、その存続は神聖になつた習慣の力にのみ拠るので、大多数が今猶ほ信仰して
居る故ではないと想像するのは重大な誤謬である。どんな宗教でも、それを作り出した人

種の愛着心を、かく〓然に失つてしまふ事はあり得ないであらう、-特に死者を祭る宗
教に在つてはさういふ場合は最も少いのである。他の方面に〓てさへも、新しい懐疑主義
は、表面的のものである。それは事物の核心まで透徹して拡がつた訳ではなかつた。なス
ほど或る種類の懐疑を有つべき事が一種の流行となり、過去を軽〓する風を装ふ青年等の
一階級が、実際段々と擡頭して来ては居る。併しこれ等の者の間にあつてさへ、家庭の字
教に関して不敬の言を放つものは決してなかつた。古来の孝道に対する抗議、家庭の束纎
の盆?加はるその重圧に対する不平は聞こえる事もあるが、併し祖先祭祀を軽んずる言葉
は決して聞かれないのである。神道の社会的及び其の他の公的形式に就いては、神社の勤
が続いて増加する事実が、其の勢力の盛んなのを証するに足るのである。一八九七年には
十九万千九百六十二の神道の社があつたが、一九〇一年にはそれが十九万五千二百五十十
に増して居る。
近き将来に起こるに違ひないと思はれる変化は、恐らくは宗教的のものよりも、寧ろ耐
曽的のものであらう。そしてかかる変化が、種々の方面に於て、如何に孝道を弱める傾向
があるとしても、祖先祭祀そのものに重大な影響を与へるやうな変化があると信ずべき理
由は殆どないのである漸次増加して行く生活難と、生活費との為めに、重くなつて行~
家庭の束縛の重圧は、個人に対しては漸次軽減されて行くかも知れない、併し如何なる〓
法も、死者に対する義務の感情を廃止する訳には行かないのである。その感情が全然な。
なる時が来れば、国民の心臓は既に鼓動を止めてしまつて居るであらう。『神』として〓
の神を信仰する心は、徐々に消えて行くかも知れないが、併し神道は祖国の宗教として革
雄及び愛国者の宗教として存在を続けるであらう。そしてかかる将来の変化が起こり得バ
き事は、多くの新しい神社の紀念碑的の性質をもつ事によつて示されて居る
-近年日本は無暗に『個人主義の福音』を要求して居ると断言された事が屡?あつた
(これは主に、パアシ〓ル・ロウヱル氏の『極東の精神』"soul of the far East"が与へ
た深い印象の故であつた)そして多くの敬虔な人々は、此の国を基督教国に改宗せしめれ
ば、個人主義を生ずるに足りるであらうと仮定して居る。此の仮定は、数千年の間に徐々
と形作られた一国民の習慣も感情も、ただ一つの信仰条令によつて、〓然変化され得ると
いふ古来の迷信以外には、何等の基礎をももつて居ない考へである。昔からの秩序を今ト
りも以上に崩壊せしめ、その崩壊を普通の状態の下に行はせて、今よりも高い社会上の九
を起こさうとするには、それは只だ産業主義に拠る他はない、-競争的企業と商業の膨
張を、強ひて行はしめる諸?の必要事項を働かせるより以外に安全な方法はない。併しか

かる健全な変化には長い平和が必要であらう。而して独立した進歩的な日本は、其時宗数
上の変化の問題を、政治的の利害得失の立脚点から考察する事であらう。日本の経世家の
海外に於ける観察と研究とは、彼等に過大な印象を与へてしまつた、『金銭には一つの宗
教が有る』-『資本は新教徒である』、-世界の力と富と智的精力とは、羅馬の束縛を
投棄して、中世の信条から〓出した人種に属する、-とミシエレエがあんなに力を籠め
て云つた半真理を、彼等もすつかり信仰してしまつた。日本の某政治家は、日本人が『廿
督教の方に急速に流されて行く』と近頃公言したといふ事である。貴顕大官の言として〓
聞が報ずる事は、信用の出来ない場合が多い、併し此の場合の報道は恐らく確実であらう、
そして其の言は可能性を暗示する為めに云はれたものである。日英同盟の公布以来、政府
が西洋の宗教に対して以前支持した安全な保守主義の態度に著しい軟化が起つて来た……
研し日本国民が政府の奨励の下に、外国の信仰を採用するか否かの問題に就いては、社命
学的の答が明白であると私は思ふ。社会の基本的構成を何程かでも理解すれば、急激な変
化を企てる事の愚かと、それを成就する事の不可能な事が、同様明白になるであらう。少
くとも、現在だけは、日本に於ける宗教問題は、社会保全の問題であつて、変化を自然の
過程によらずに、性急に成就せんとする努力は、ただ反動と紊乱とを齎すに過ぎないので
ある。日本が今迄非常に立派に役に立つて来たその細心熟慮の政策を抛棄する事を敢てし
得る時節はまだ遠い事と私は信ずる。日本が西洋の信仰を採用する時は、その連綿たる良
統も〓絶する日であると私は信ずる。そして日本が外国の資本に、その土地の縦令一反〓
でも譲り渡す時は、その生得権を合意上手放す事なので、到底再び囘復の見込みはないと
私は恐れざるを得ないのである。
註日本の宗教団体に対する政府の外見上の態度からは、信憑すべき推論はとても抽き出し難いのである。
近年の政策は、外見上は、西洋の宗教のうちの他宗を排斥する心の多い種類を奨励するやうに思はれた。
此の態度に対して奇妙な対照をして居るのが秘密共済組合の排斥である。治外法権の廃止以来、開港場に
店る外国人の共済組合は、或る条件で存在する事を許された(或は寧ろ放任してあつた)けれども、厳〓
に云へば、秘密共済組合は日本では許可されなかつた。欧米に居る日本人は、自由に共済組合員となれる
が、日本では組合員となる事は出来ないのである。日本ではあらゆる会合の行為は公然官辺の監督に任さ
れなければならないのである。
西洋の侵入と極東の宗教との関係に於て、極東の宗教に関する一般的の数言を費やして、

此の説明の企図を完了するのは適当であるかと思はれる。
-極東のあらゆる社会は、日本と同じく祖先礼拝にその基礎を置いて居る。此の古来
の宗教は、種々な形式に於て、其の社会の道徳的経験をあらはして居る。そして現今他宗
を排斥しながら、その教へを説いて居る基督教の輸入に対して、極めて重大な種類の障碍
を与へて居る。基督教に自己の生命の指導を託して居る人々には、基督教を攻撃する事は、
最大の凌辱で、最も許すべからざる罪悪のやうに見えるに違ひない。その仲間の各人が命
令のままに死ぬ事を自分の義務と信ずる宗教は、則ち自分がその為めには喜んで闘ふ処の
宗教である。その宗教に対する攻撃を、その者が如何に忍び得るかは、その智力とその訓
練の性質に依るであらう。極東のあらゆる民族が、日本人のやうな聡明さを有つて居る訳
ではない。日本人は幾時代の軍事訓練の結果、周囲の事情に彼等の行為を適合させて行く
事が出来るが、他の民族はそれ程立派な訓練を受けては居ないのである。特に支那の農民
には、自己の宗教を攻撃される事は耐へ難いのである。彼の祭祀はいつも彼の所有物中の
最も貴重なもので、社会的の曲直のあらゆる事柄に於て、それはいつも彼の最も優れた指
導者である。東洋はその社会の基礎さへ攻撃しなければ、あらゆる信仰を寛容して来た。
それで若し西洋の伝道師等が、これ等の基礎に触れずに居る程に-仏教の行つたやうに
祖先祭祀を取扱つて、他の方面に於て同じ寛容の精神を示す程に-賢明であつたならば
非常に大規模に基督教を輸入する事は極く容易い事であつたらう。若しさうなれば、其の
結果は西洋の基督教とは著しく異つた基督教となつた事は明らかであるけれども、-
東の社会の組織は急激の変化を許さないからであるが、-併し社会の反対を起こさしめ
ず、人種に対する嫌悪などは猶ほ更起こさしめないで、教義の精髄は広く宣伝し得たかも
知れなかつたのである。今日に及んでは、異説排斥の効果少き労力に依つて既に果たし得
た処のものをやめて、元に還す事は恐らく不可能である。支那と其の近隣諸国に於ける基
督教に対する〓悪は、必要もないに祖先祭祀の上に加へられた仮借なき攻撃に原因するの
は疑ひ無い処である。支那人或は安南人に祖先の位牌を破棄せよと要求するのは、イギリ
ス人或はフランス人に対して、基督教尊信の証拠として、母の墓石を破棄せよと命ずると
同じである。否、遥かに不人情な事である、-何故かと言ふと、ヨオロツパ人は、死ふ
だ親の名を記してある簡単な位牌に対して東洋人が抱くやうな、それ程な神聖な観念を以
て墓石などを見ては居ないからである。温順で平和な社会の家庭の信仰に、かうした攻盤
を加へた場合には、其の結果は虐〓を惹起す事に昔から定まつて居た、そして若し飽くま
〓続けて行けば、彼等は戦ふ力がある限りは、〓戮を起こし続けて行くであらう。外国の

宗教的侵略に対して、土着の者の宗教的侵略が如何に対応したか、如何に、基督教の武九
が、外国人の犠牲者のために、十倍程の屠〓と猛烈な掠奪とを以て復仇したかは、此処に
記す必要はないのである。伝道師の異説排斥の結果、惹起された騒擾の返報として、屠盤
され、貧困に陥れられ、或は征服されてしまつた祖先祭祀の人民があつたのは、近年に限
つた次第ではなかつた。併し西洋の貿易や商業が、これ等の報復によつて直接の利盆を得
て居る一方、西洋の輿論は憤〓、激怒、挑発の権利(異教人のする)或は報復の正邪に就
いて議論を許さないのである他宗を寛容する心の少い宗教団体は、道徳的権利(異教の
人の)の問題を起すのさへも邪悪なことと云ふのである。そして声を挙げて抗議する事を
敢てする公平な観察者に対して、狂信者は恰も彼が人類の敵であるかの如く猛烈に攻撃し
てかかるのである。
社会学的の見地から考へると、全部の伝道師制度は、宗旨信条に論なく、昔の型のあら
ゆる文明を敵視し、これに対して一般的に攻撃してかかる点に於て、西洋文明の小競合の
力を代表して居る、-即ちそれは最も強大で最も進化した社会が、自己よりも弱い進化
して居ない社会を攻撃する前進運動の第一線である。これ等の闘士の自覚せる仕事は、〓
教師や教師の事業であり、彼等の無自覚の仕事は工兵や駆逐艇のそれである。薄弱な民族
の服従は殆ど想像されない程度まで、彼等伝道師の仕事によつて助けられて来た。そして
此の服従は他の如何なる手段を尽くしても、かく速にかく確に成就する事は出来なかつか
であらう。破壊を行ふ為めには、彼等は一種の自然力のやうに自覚せずに働いて居る。併
しそれかと云つて基督教は感知し得る程に発展はしないのである。彼等は死を辞せぬ。乙
して彼等は軍人以上の勇気を以て、生命を抛つのである、併しそれは彼等が希望するやう
に、東洋が今猶ほ必然拒絶するに相違ない教義の伝播を助ける為めではなくして、産業上
の企業と西洋の拡大とを助ける為めである。伝道の真の公言された目的は、社会学的の旨
理に対して飽くまでも無頓着な為めに破壊されて居る。そして基督教国民は、基督教の精
神とは根本的に反対した目的を達する為めに、殉難と犠牲とを利用して居るのである
民族と民族とが互に侵略し合ふ事は、争闘-適者のみが存続するあの永続的争闘-
の一般法則と充分に一致する事は言を俟たない。劣等民族は高等民族の奴隷となるか、喜
等民族に圧迫されて消滅するかである。そして余りに窮屈で進歩の出来ない昔の型の文間
は、更に能率あり、更に複雑した文明に服従しなければならない。此の法則は無情冷酷で
また明々白々である。その作用は人間の考慮に依つて、慈悲心を以て緩和されるかも知〓

ないが、併し決して防止する訳には行かないのである。
併し如何に寛大に考へる人も、この内に含まれて居る道徳的問題を、斯様に容易に決着
さしてしまふ事は出来ない。免れ難き運命は、道徳的に定まつて居るものであると吾々が
主張しても、其の主張には正当の理由が無い、-況んや高等民族が、偶?世界の争闘の
勝者となつて居たからと云つて、力が権利を構成し得ると主張するのは、決して正当の理
由ではないのである。人間の進歩は強者の法則を否定する事により、-獣類の世界を支
配する弱肉強食の衝動、星辰の運行と同じく自然の秩序と一致して居る弱肉強食の衝動と
闘ふ事によつて-今迄成し遂げられて来たのである。文明を可能ならしめるあらゆる美
徳や抑制は、自然の法則を犯して発達し来たつたものである。最も優秀な民族は、最高の
権力は忍耐を行ふ事によつて得られるものであり、自由は弱者を保護し、不正を強圧する
事に依つて、最もよく維持せられる事を、最初に学んだ民族である。かくして得た道徳的
経験の全部を否定する心を常に有つて居るのでなければ、-またその道徳的経験を、今
迄高唱して居た宗教は、特殊な文明の信条に過ぎない者で、人道の宗教ではないと断言す
る事を欲するのでなければ、-基督教と啓蒙といふ名で、外国人に向つて行つて居た侵
略に対して、これを道徳上正当なものであると承認するのは困難であらう。かかる侵略の
支那に於ける結果は、確に基督教でも啓蒙でもなく、反乱、虐殺、厭ふべき惨虐-都士
の破壊、州郡の荒廃、数万の人命の損傷、億万の金銭の誅求であつた。若しすべてかうし
た事が権利であるならば、力は実際上権利である、そして西洋で人道と正義の宗教と公言
して居るものは、いづれの原始的祭祀と同じく排他的のもので、同じ社会の人間の間にの
み、行為を調節する目的をもつたものなる事が分かるのである
併し少くとも進化論者の眼には、此の事は極めて相違した映じ方をして居る。社会学の
明白に教へる処は、高等人種が纎弱な人種を取扱ふ際に、道徳上の経験を投棄して、しか
もその報のないと云ふ事はあり得ざる事と、西洋文明は、その圧制行為に対して充分なる
罰を早晩蒙るであらうといふ事である。国内で宗教上の異説排斥に耐へる事を拒絶しなが
ら、外国に於て宗教上の異説排斥を鞏固に維持し得る国民は、数百年の残虐な努力を費ふ
してはじめて獲得した知的自由の権利を終に失ふに違ひない。罰が来る時代は恐らく余ん
遠い事ではあるまい。全ヨオロヅパが好戦の状態に復帰すると共に、必らず人類の自由を
脅威する広大な宗教上の復活が始まつて来て、中世の精神が復び広布する虞れがある、こ
して反セミテイツクの感情が、実際上大陸の三強国の政治の要素となつて来て居る……

-宗教的確信に反対を試みた上でなければ、何人もその確信の力を評価するを得ない
とは云ひ得て妙である。伝道の悪意の掩蔽砲台から狙はれる迄は、恐らく何人も伝道の問
題に関する伝統の、邪悪な方面を想像し得ないであらう。併し伝道政策の問題は、その問
題を起こす者を秘密に中傷しても公然黒詈しても、それを解決する事は出来ないのである
今日では、それは世界の平和と商業の将来と、並びに文明の利害とに関する問題となつた
のである。支那の保全もそれに依るのである、現在の戦争もそれに無関係といふ訳ではな
い。本書には多数の欠点は勿論あらうけれども、極東の社会組織は、西洋の宗教の従来行
ひ来たつたやうな伝道に対して、打勝ち難き障碍を与へる事、これ等の障碍は、現今では
以前の如何なる時代に於けるよりも、もつと注意深き人情味のある考察を要求して居る事
彼等に対する妥協心なき態度を、今後も不必要な位に維持して行く事は、災〓以外何物を
も齎さないといふ事に就いて、思慮深い人々には恐らく必らず確信を与へた事と思ふ。祖
先の宗教は数千年前はどういふものであつたにせよ、今日では極東全部に在つては、それ
が家庭の愛情と義務の宗教となつて居る。そして西洋の熱狂者が人道を外づれて此の事管
を無視すれば、その齎す結果は、必らずまた数次の『拳匪』の乱である。支那からの危険
を世界に強ふる(ロシヤは今はその機会を失つたやうだが)真の力を、異説排斥を説く口
的で、宗教上の異説容認を要求する人々に授けて置いてはならないのである。独断主義が、
改宗者に向つて、家族と社会と政府とに対する彼の古来の義務を否定せん事を要求し、
-その上また、祖先の位牌を破壊し、自分に生命を与へた人々の霊を凌辱して、以て外国
の信条に対するその熱心を証せん事を固執する間は、東洋は決して基督教に改宗しないで
あらう。

追録

五年程以前の事、当時東京に居住して居たアメリカ人の教授が、私に話した事がある
それは、日本が独立を維持せんとならば、如何なる政策に拠るべきかを、日本の某政治定
に教へたハアバアト・スペンサアの手簡が、此の哲学者の死後公表されるであらうといゝ
のであつた。がその後何等の音沙汰も聞かなかつた。併し『第一原理』(一七八節)にあ
る日本の社会の崩壊に関する説を想起して、氏の忠言なるものは極保守的な種類のもので
あらうと、私はかなり確信して居た。処が実際は私の想像にも増して激しい保守的のもの
であつた。
スペンサアは一九〇三年十二月八日の朝死んだ(其の時本書は丁度出版の準備中であ(
た)、そして、一般の人々が既によく知つて居る事情の下に、金子堅太郎男に宛てた此の
手紙は一九〇四年一月十八日の『倫敦タイムス』に掲載された
拝啓小生の書簡二通の翻訳を新首相伊藤伯に御送附のお心組みの由拝承欣懐至極に右

なほ後の貴問へ対しては御返事左の如くに御座候、先づ一般的に申し上ぐれば、日本の
採るべき政策は、欧米諸国を出来得る限り遠ざけ置く事と存じ候。貴国に比して強大なス
諸国に面しては、貴国は常に危険の位置に有之候故、外国に対しては能う限り足掛りを与
へざる様御注意専一と愚考仕候。
貴国が許可有之て利得を招き得る交通の種類は唯一種のみと考へ候、そは物品の交換に
対して-と申すも精神的及び肉体的の産物の輸出入の意に候が、-欠く可からざる〓
通のみに有之べく候。異人種の人民、特に貴国よりも強大なる諸国の人民には、上記の日
的の遂行に絶対的必要なるより以上の特権は許可相成る間敷き事に御座候。貴国は欧米諸
国との条約の改正によりて、『外国の資本に対して全国を開放する』事を提案致され居ス
様相見え候が、小生はこれを貴国の安危に関する者として寒心に堪へず候。此の結果が功
らく如何なる者を齎すかは、印度の歴史を見て明らかなるべく候。強大なる民族の一をー
て、一度立脚地を得せしめば、歳月を経る間には必らず侵略的政策を生じて、其の結果は
日本人との衝〓を来たす事と相成るべく候、然る上はこれ等の攻撃は日本人の加へたる☆
撃と詐称せられ、その場合に応じて必らず復仇を受くべく候、領土の一部は占領せられて
外国植民地として割譲の要求を受くべく、その結果終に日本全土の服従と相成るべく候
貴国は如何なる場合に於ても此の運命を避くる事は甚だ困難と存候へ共、小生が指摘せス
事項以外に、外人に対して何等かの特権を許可有之事と相成候はば、此の運命は容易に来
る事と信じ申候。
第一の貴問に対するお返事として、かく一般的に指摘仕候愚考を御採用相成候節は、外
国人の土地所有を禁止相成るべきのみならず、彼等に土地の貸与をも拒絶相成るべく、
年契約の借地人としてのみ居住する事を御許可相成るべくと申添へ度く候
第二の貴問に対しては、政府所有或は政府経営の鉱山の経営を外人に厳禁あり度き事を
申述べ度く候。此の場合に於ては、鉱山経営に従事したる欧米人と政府との間に静論の論
拠となるものが明らかに生ずる虞れ有之べきかと存候、此の争の結果としては、欧米の経
営者は其の権利を貫徹せしめんが為め、勢ひ英米政府或は他の強国の援助を請ふに至るべ
く候、凡そ文明国民間の常習として海外在留の自国の代理人或は売捌人より来る報告はあ
べてこれを信用する事に有之候へば。

第三に、小生が申し述べたる政策を遂行せらる?に当つては、貴国は沿岸貿易を常に白
国の手に収めて、外人のこれに従事するを御禁止有之べく候。此の沿岸貿易は、承認すべ
き唯一のものとして、小生が指示仕候要件-商品の輸出入に便宜を与ふる要件-中〓
含まれざるは明らかに御座候。他国より日本に輸入したる商品の分配は、日本人の手に委
ね、外人には禁止して然るべきかと被存候、こは、此場合に行はる?各種の取引は、また
多くの争の種と相成引いては侵略の理由とも相成るべきが故に御座候。
貴下が、『我が学者政治家中に現今甚だ沸騰せる』と申し越され、また、『最も困難な
る問題の一』と申し居らる?内外人間の雑婚に関する最後の御質問に対しては、合理的な
る御返事を致す事とすれば、何等難かしき事なしと申し上げて差支なきやう小生には被存
候。そは断然御禁止あるべきものに有之候。これは根本に於て社会哲学の問題には無之、
根本は生物学の問題に有之候。混淆せる異種類のものが、或る僅少の程度以上に分岐する
時は、年月を経る間には終に必らず悪結果を来たすといふ例証は、人間の異種族結婚及び
動物の雑種繁殖が豊富に提供致居候。小生自身も過去多年に亙りて此の事実に関する証拠
を不断に注視致し居候が、小生のこの確信は多数の原因より得たる多数の事実に基づくも
のに御座候。小生は此の確信の立証をこの半時間内に得申候、と申すは小生が唯だ今偶然
にも、家畜の異種族繁殖に豊富の経験を有し居らる?著名の某氏と田舎に滞在致し居る故
に有之候、氏は小生の問に答へて、例へば羊の変種に於ては相違の甚だしき種類の異種繁
殖ある時は、其の結果は、特に二代目に於ては悪結果を生じ-混合せる特性と混沌的組
纎とも称せらるべきものの生ずる事を談り、小生の信念を確証致され候。人間に在つても
同様に有之、印度の欧亜混血児、亜米利加の雑種などはこれを例証致し居候。此の経験の
生理的基礎は、生物は如何なる変種と雖も、代々相伝する間に、その生活の特殊形式に武
る素質的適応性を得、また他のあらゆる変種は同様にそれ自身の特殊の適応性を得る事に
在る様に相見え候。其の結果としては以下の如く相成るべく候。若し甚だ相違せる生活状
態にそれぞれ適応するに至りたる、二つの甚だ相違せる種類の素質を混合すれば、両者の
いづれの生活状態にも適応せざる一つの素質、-即ち、如何なる一定の状態にも適合せ
ざるが故に、適当の作用を営み得ざる一の素質を生ずる事と相成るべく候。故に、日本人
と外国人との雑婚は必らず断然禁止すべきものと存候。
上記の理由により、小生はアメリカに於て定められたる支那移民制限の規定を全然賛成
致すものに御座候、若し小生に力あらば、小生は出来得る限りの小数に支那移民を制限致
し度く存候。小生がかかる決心を致す理由は下記の二つの事実の一が必らず起こると考と

る故に御座候。若し支那人が米国全土に亙つて広く土着するを許さる?場合、若し彼等が
米人と雑婚する事なければ、終には、よし奴隷とは相成らずとするも、奴隷に近き階級の
〓置を占むる一の従属種族を形成仕るべく、又若し雑婚をなす暁には彼等は必らず不良の
雑種を形成するに至るべく候。いづれの場合に在ても、移民が多数なれば、社会的弊害は
巨大なるべく、終には社会の瓦解を来たすに至るべく候。欧米人が日本人と著しく雑婚〓
る場合にも同様の弊害を生ずべく候〓
かるが故に、小生の進言はあらゆる方面に於て激烈に保守的なるを御覧の事と存候、小
生はまた本書簡の起句を以て結尾と致度と存候、即ち、他種族を能う限り遠ざくべしとい
ふ事に御座候。
本書簡はただ御参考として貴覧に供する為めのものにして他見を憚り候間、漏洩公表の
虞ひ無之様呉々も懇願仕候。兎に角小生存命中はかかる事無き様御配慮願上候。かく申し
候は小生同胞の怨嵯を惹起するを避け度きが故に御座候
敬具
ヰルトシヤ・ピユウシイ・フエアフイルドにて
ハアバアト・スペンサア
一八九二年八月二十六日ハアバアト・スペンサァ
追伸、前記の如く申上候ても、本簡の進言を伊藤伯にまでも秘密に願ひ度しといふ意に
は勿論無之、小生はかへつて伯が此の事を考慮せらる?機会を得ん事を翹望致居次第に御
座候。
『タイムス』紙上に現はれた、此の手紙の批評を読めば、ハアバアト・スペンサアが白
国人の偏見を如何に充分に了解して居たかが分かるが、これ等の批評は、イギリス人の保
守的な心が、直接の利害に反した、新思想の与へる苦痛を憤つて罵詈を縦にする不条理な
性質をその特色として居るものである。併し、此場合の真相を多少知つて居れば、若しロ
本が今の此瞬間に一般の文明の為めに、そして特にイギリスの利害の為めに戦ふ事が出来
るとすれば、それは、以前よりも賢明なる今の時代の、日本の為政家等が、『タイムス』
から『巨大なる主我主義』の証拠といふ途方もない汚名を蒙つた此の手紙に示されたあら
ゆる文句に従つて健全な保守主義を保持して居たといふ正に其の理由からである事を
『タイムス』にさへ確信させ得たに違ひないのである
此の進言自身が、政府の政策に影響を与へる直接の役に立つた事があつたかどうか私は

〓らない。併しそれは国民の自己保存の本能と充分に一致した事は、治外法権廃止唱道者
が出会はなければならなかつた猛烈な反対の歴史により、また、ハアバアト・スペンサ
の書簡に記されたその事実に関して施行された予防的法律の性質によつて示されて居る
行外法権は(恐らく、勢ひ止むを得ず)廃止されたけれども、外国の資本は気儘に此の国
の富源を開発する事は許されなかつた。そして外国人の土地所有は許可されなかつた。内
外人の雑婚は決して禁止されなかつたけれども、決して奨励されはしなかつた。しかも生
別な法律上の制限の下にのみ行ひ得るのである。若し外人が結婚によつて、日本の土地を
保有する権利を得る事が出来たならば、多大な土地が直きに外人の手に入つてしまつたで
あらう。併し外人と結婚する日本婦人はそれが為めに外国人となつてしまつて、かかる結
婚から生まれた子供は生涯外国人である事を法律が賢明に規定した。これに反して、結婚
して日本の家庭に入籍した外国人は何人と雖も日本人となり、かかる場合の子供は、生涯
日本人である。併し彼等も亦或る資格は与へられないのである。彼等は高官に上る資格は
ない。そして特別の許可ある他、陸海軍の士官となる事さへ出来ないのである。(此の許
可は一二の場合に与へられたやうに見える)。終りに、日本はその沿岸貿易を自身の手〓
維持して来た事を注意しなければならない。
註内外人雑婚の家庭の数は東京では百以上あるといふ。
さうすると、大体から見て日本の政策は、スペンサアの進言中に提議された方針を著し
く採用して居ると云へてよからう。併し私の意見では、スペンサアの提案にもつと厳密に
従ひ得なかつたのは、まことに遺憾の至りであると思ふ。此の哲学者が今に生きて居て、
此の間の日本の勝利-唯だ一隻の船も失はずに強大な露国艦隊を潰滅せしめ、鴨緑江上
で三万の露軍を潰走せしめた、此の間の日本軍の勝利-を聞く事が出来たとしても、彼
は毫厘も彼の進言を変じなかつたらうと私は考へる。恐らく彼は、彼の人道主義の良心が
許す限りは、日本人がかくも徹底的に新戦術を研究し得た事を賞讃したであらう。彼は発
揚された高邁な勇気と、古来の訓練の勝利とを称揚したのかも知れない、-彼の同情は
保護国となるか、露国と戦ふか、いづれか一を選択する事を余儀なくされた国の側に傾い
て居たであらう。併し若し彼が、勝利の場合に、将来の政策に就いて再び質問を受けたな
らば、彼は軍事上の能率は、産業上の力とは甚だ異つた者である事を問者に答へて、力を
籠めて彼の警告を繰返したであらう。日本の社会の構造と歴史とを了解して居るので、〓
は外国との接触の危険を明らかに認める事が出来たのである。そして此の国の産業上の薄

弱を利用せんとする企てが、恐らくどの方面からなされるかを明らかに認める事が出来た
のであつた……。次の時代が来たら、日本は、その保守主義の多くを棄てても危険はなか
らう。併し、現在一時だけは、日本は、保守主義を救済の力と頼まなければならないので
ある。
あとがき

一神国日本は一九〇四年ニユウ・ヨオクとロンドンのマクミラン会社から同時に出版さ
れた物である。先生は日本の事に就いて米国から講演の依頼を受けて居られてゐたが、ヲ
れが果たされなかつた為めに、その結果がこの一書となつてあらはれたものだといふ
一先生はこの書の上梓され、そのお手元に到着するのを非常に待ち焦がれて居られたさ
うであるが、それは先生御臨終の間に合はず、先生は一九〇四年の九月におかくれになり
この書はその十月に到着したのださうで、結局先生は、この御高著の版になつたのを見ず
におかくれになつたのださうである
日本の本文の英訳が終始引用されて居るが、それに就いては出来得る限り、原文を〓
して、それを挿入して置いた。併し篤胤、真淵等の言葉が、先生の所論の中に引用され、
屡?出て来るが、それ等の出処は私如きものには、殆ど見当がつかなかつたので、そのま
ま日本文に訳しかへして置いた。今になつて見れば、多少の見当はつけられ得るのである
が、何分出版を急がれたので、そんな事も調べる暇のなかつた事を遺憾とする。
固有名詞のロオマ字綴りを日本の文字にかへるのも困難であつたが、それは幸にそぬ

ぞれ専門の方の助けを藉りて、果たし得たと思ふ。
一先生のお説の内、藤原氏といふ姓の始まりを、桓武天皇に帰したのは、誤りであると
思ふが、それはそのままに訳して置いた。この書の内にある先生のお考へ違ひと考へられ
る個処と云へば、この一事だけと思ふ。併しこれとても私の読み違ひかも知れない。大方
の御示教を願つて置く。
一家康遺訓が本書の内で度々引用されて居る。これは専門家から云へば、家康の遺した
ものではなく、謂はば偽作であるとか。併しこの『神国日本』は決して家康論ではないの
であるから、小泉先生の所論はそれに依つて少しでも変はる事はないと思ふ
一訳語訳字に就いては、私の浅学と注意が足りなかつたのとで、不適当なものが多くあ
ると思ふ。そればかりではない全体の翻訳として甚だ麁末なものになり、先生の立派な殆
ど申し分のないお考へを、少からずぶち壊したといふ恐れがある。殊にこれまで上梓され
た全集の内に収められた他の諸先生の訳と比べて、これは甚だしく拙劣なものである。〓
筆を急がれたからと云ふ口実もないではないが、畢竟これは駿馬の間に驚馬が一匹加はい
た為めで、責はこの駑馬を加へて下さつた方にもあらうと、責任転嫁のやうな申し訳を言
つて置く。
なほこの翻訳に就いては多数の方に多大なお世話を被つて居る。則ち日本上代の事
たとへば神々の名などに就いては、高橋竜雄氏に、仏教の事に就いては、柴田一能氏に
徳川時代の事に就いては幸田成友氏に、それぞれ示教を仰いで居る。殊に幸田氏は、非当
な好意をもつて、助力を与へて下さつた。固有名詞の解釈例へば『王フォイン』-松浦
公法印-と云つたやうな事から、『組帳』-私にはロオマ字でkumichoとあつた時、
何の事か解らなかつた-家康遺訓の原文、四十七士の祭文、山口大道寺允許の文の〓入
の如きには、一々幸田氏の好意に依つたものである。ここに深く感謝の意を表して置く
一更に相曽博氏にも翻訳に就いて、多大な助力を仰いだ。殊に遺訓何条に云々と書いて
ある処に、一々その原文を探して挿入して下さつたのは同君で、これ又厚く謝意を表する
次第である。
昭和二年五月
戸川明三

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