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古事記の神話 #029(藤沢 衛彦)

二十九 御国譲おくにゆづ

 そこで、天照大御神が、

 「また、どの神を遣はしたらば、よからう」

 と仰せられると、思金神及び諸の神達が、

 「天安河の河上の天石屋にゐる、伊都之尾羽張神ど申すをお遺はしなさりませ。もしその神でなかつたら、その神の子の、建御雷神をお遣はしなされたら、よろしう御座りませう、そして、その天尾羽張神は、天安河の水を塞き止め、逆流させて通を塞いで居りますから、他の神は、参ることは出来ますまい。ですから、別に天迦久神を遣はして聞かせた方がよろしう御座ります」

 とお対へ申した。それで、天迦久神を遺はして、天尾羽張神にたづねたところが、その神は、

 「畏りました。御奉公申しませう。けれども、此事には、私の子の、建御雷神をお遺はしになつた方がよろしい」

 と申して、乃ち、建御雷を出された。で、天鳥船神を、此神に副へて、葉原中国につかはされた。

 此二神は、出雲国、伊奈佐の小浜に、降り着き、十拳劔を抜いて、波の上に逆に立つて、その劔鋒先に、趺坐をかき、さて大国主神に向つて、

 「天照大御神と高木神との御命令によつて、たづねに参つたのであるが、汝が主配してゐる葦原中国はりが天黒大御神の御子孫が、治め給ふべき国であると、仰せられたのであるが、汝の考へは如何、その事を承知せられるか」

 とたづねると、大国主神は、

 「私は、申上げますまい私の子の、八重事代主神が、御答へ申すところでありますが、折悪しく、御保の崎へ鳥追ひ、魚とりに往つて、まだかへりません」

 と対へた。そこで、天鳥船神を遺はし、八重事代神を召むで来て、たづね給うた時に、其父神に向ひて、

 「勿体ない事である。此国は天つ神の子に棒げ奉りなされ」

 と言つて、乗つてゐた船を、踏みまけて、天逆手といふ呪の拍手を拍つて、その船を青紫垣に変じ、その中におかくれなされた。

 建御雷神は、大国主神に向つて、

 「今、汝の子、事代主神が斯様に申した。また他に此事を申すべき子があるか」

 とおたづねなされた。大国主神はそれに答へて、

 「また、私の子に、建御名方神と申すがありますが、此の他には御座いません」

 と言つた。かく問答せる折しも、その建御名方神が、千引石を両手にさゝげて、持つて来て、

 「誰だ。おれの国に来て、そんな忍忍物を言うてゐるのは。希望によつては、腕くらべをしよう。おれが先づ其手を握つて見よう」

 と言うた。そこで、建御雷神の手を取ると、その手は忽ち氷の桂の如く変じ、さう思うてゐると、また劔の刄に変じた。それで流石の建御名方神も、心から恐れ畏つて引きさがつた。今度は建御雷神が、貴様の手を取つて見ようと言つて、取つて、芽が出たその若草の如く、批きつぶして投げ離されたから早速に逃げ出した。建御雷神は、その後を追うて、科野国(洲羽海)のほとりで追ひ付いて、殺さうとなされた時に、建御名方神が、

 「恐れ入りました。何卒命だけは、お助け下さい。此地以外、他の処へは、決して参りませんし、それにまた、父神も、大国主神の命令にも反きますまい。八重事代主神の言葉に反きませんで、父神や兄神の申上げた通り、此葦原中国は、天つ神の御子の仰せのままに、献上いたしませう」

 と言つた。

 建御雷神は、更に科野から、出雲にかへつて来て、大国主神に向つて、

 「汝の子等、事代主神と建御名方神との二神は、天神の仰せのまゝに、反きませんと申したが、そこで、汝の考へは如何か」

 とたづねられると、大国主神は、

 「私の子供達二人が申したとほり、私も反きませぬ。此の葦原中国は仰せのまゝに、獄上いたしませう。たゞ私の住居を、天下を治めなさる、天神の御子が御住居の御殿の如く、立派に広大にして、底の石根に堅固に太く柱を立て、星根には氷木高く天を指すやうに、御造り下さりますれば、私は遠くの隅の方に、隠居いたしませう。また、私の子供等の沢山の神神も、八重事代主神が、天神の前後を守る雷となつて、仕へ申したならば、反く神は御座いますまい」

 とお答へ申して、隠れてしまつた。それ故、申したとほりに、出雲国、多芸志の小浜に、御殿を造営して、水戸神の孫、櫛八玉神を膳部係となし、御饌を捧げるときに、祈つて、櫛八玉神が鵜に化つて、海中に入り、海底の土を咋へ出して来て、多くの土器を作り、海草の茎を刈つて、燧臼を作り、海蓴の茎を燧杵に作つて、火を燧り出して、

 「この、わが燧つた火は、高天原にては、神産日神の、立派な御殿の、煤が長くたれ下るまで焼きあげ、此世界では、かまどの下が、地底の巌の如くなるまで、焼きしめて、大縄長くひきのべて、海人が釣つた、大きな驢を、沢山にひきよせて、調理して召し上る様に献上いたしませう」

 と申した。そこで、建御雷神は、天上に返られて、葦原中国を平定した趣を、委細復命に及んだ。

 (註)出雲に降りて、大国主神に、国譲りをさせたのは、建御雷神である。日本書紀には、建御雷神と経津主神とを遣はされたとあるが、経津主とは、剣より得た名であつて、此の二神は、同一の神であるらしい。建御雷神は、建御名方神を追つて、信濃の諏訪まで赴かれた。しかしながら、その子孫一族は、東北地方にまで及んだ様に思はれる。下総国香取郡に、香取神宮あり、常陸国鹿島郡に、鹿島神宮ありて、此の神をいつき祀つてゐるが、陸奥国塩釜神社もまた、此の神を祀つてゐるのである。春日権現験記に「その源をたづぬれば、昔わが朝、悪鬼邪神、あけくれ戦ひて、都鄙安からざりしかば、建御雷命これを憐れみて、陸奥の塩釜浦に天降り給ふ。邪神霊威におそれ奉りて、或は逃げ去り、或は従ひ奉る」とある。これは、必ずしも建御雷神、御自身にはあらずして、その一族の壮烈を伝へたものであらう。尚ほ、三代実録によると、貞観八年正月二十日の太政官符には、陸奥国に、鹿島大神の苗裔の神の、三十八社ありたることが見える。

#030 へ続く(👈リンクあり)

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