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雨が上がる、道が光る (短編小説・ヒューマンドラマ)

 山手線に揺られている間、窓外の雲は一向に鈍色から白色へ変わることなく私は、目的地へと連れて行かれるままだった。通勤ラッシュの時間という訳でもないのにそれなりに混み合っている車内は、夏の湿った空気を取り込みすぎて冷房が追いつかない。時折ハンカチで首元を拭い、髪の毛が肌に張り付く嫌な感じを覚えたときに、ようやく目的の駅に到着した。ドアが開いた瞬く間に人々が吐き出される。
 解放されたのも束の間、狭い駅構内に集中した人の群れの中を仕方なく進んでいく。思わず、土産物の袋を持つ手に力が込もった。ずっと東京に住んでいるのに、どうしても新宿は好きになれない。ビジネスと遊びとが融合しすぎていて、人も建物もごちゃ混ぜだ。
 途中、手洗いを済ませてメイクを直し、急ぎ足で改札を抜ける。三田さんから指定された百貨店は程なくして現れた。人波から逃げるようにしてすぐさまエレベーターに乗り込み、降りる。やっとのことでスペースを確保したように、レストラン街の端で小さくため息をついた。
 スマートフォンを鞄から取り出して、待ち合わせ時間より十分以上前に着けたことに安堵する。私は大概、遅刻をしない。時に、生真面目な自分のこういった部分には疲れるけれども、少しの誇りでもあったりする。
 真穂ちゃん、と背後から芯の通った声で呼ばれて、私は「あっ」と思わず声を溢して振り向く。
 ネイビーの涼しげなワンピースを纏った三田さんは、長い黒髪を一つに結っていて、二年前まで職場で見ていた時の姿のままだった。
 一言で表すならば、華麗なのだ。
 目元も口元も弓を描くようにして、思い切りに笑顔を向けてくる彼女の明るさに、職場に居た誰もが釣られて笑顔になったことを想起した。
 私が辞職した年には確か四十一歳だと伺っていた。だから今は、四十三歳のはずだ。十二歳年上の元職場の先輩は、今でも目の前にすると憧れてしまうほどに女性として輝いていた。少しばかり、緊張で瞼が痙攣しそうになる。
「お久し振りです……!」
「久し振りー! ちょっと、硬くない?」
 きゃっ、と笑いながら私の肩を肘で軽く突いた三田さんは、「会えて良かった」と改めて笑顔を浮かべた。こんなにも、綺麗に笑える人に私は初めて出会った。
 彼女とは部署は違ったのに、入社当初から気にかけて頂いていた。初めてお会いしたときも廊下ですれ違った私に「お疲れ様です!」と声をかけてくださった三田さんは、やっぱり完璧な笑顔だった。

「じゃ、入ろっか」と言った三田さんに続いて、私はカジュアルフレンチレストランの中へと足を踏み入れる。瞬間、中から絶妙な間で店員がスッと現れ、静かに微笑み席へと導かれた。
 通路を歩んでいるとき、右手側の壁はほぼ窓枠と言って良いほど視界が開けており、新宿の街中の上に佇む重たそうな雲に視線が行った。
 すかさず三田さんが「雨、降ってきたね〜」と颯爽と振り向く。雨、なんて単語とは真反対な表情で。職場でよく見かけたあの頃の姿と、重なった。彼女の周囲だけ爽やかな風が吹いているような、そんな不思議な感覚を覚えるのだ。大袈裟ではなく、第一印象はその後も変わることがなかった。
 すぐに前を向いた三田さんは、すでに頭の中のスイッチが切り替わっているのか、席を案内してくれた店員に「有難う御座います」と笑顔を向けている。私も慌てて頭を下げ、三田さんの「どうぞ」という合図に御礼を伝え、席に座った。
「ワイン飲んで良い?」といたずらに目を細めた三田さんに「もちろんです……!」と伝えた私は、メニューを見て少しだけ悩んでから、「私も、良いですか……?」と尋ねていた。
「もちろん」と一言返事で言った彼女は速やかに店員を呼び、それぞれのグラスワインの名と、コース料理の終盤に出されるメイン料理の名を伝えた。
「今日は本当に有難う御座います」と深々と私が頭を下げると、
「大丈夫だから! 気にしないで。私がここの料理を食べたくて真穂ちゃんに来てもらったんだから。さ、美味しいの食べよ!」
 三田さんの素早い気遣いにもう一度深々と感謝を伝えた私は、運ばれてきたグラスワインにそうっと触れ、久しぶりの乾杯を交わした。
 辞職した二年前、最後の飲み会以来の乾杯だった。

 私の苦手な新宿を、三田さんは好きだと言う。
 前菜にスープと進み、魚料理が運ばれてきたタイミングで、彼女は口を開いた。まるで秘密を打ち明けるかのような言い方で。
「なんか、三田さんっぽいです」
 失礼な意味ではなく、率直な感想を伝えた。
「えっ、どういうところが?」
 私は少し思考をしてから、
「お洒落なお店が、多いですし。食もファッションも最先端行っていて。高級な雰囲気のものから、カジュアルめなものまで。それでいて渋谷より、もう少し大人な感じのイメージです」
 三田さんは、ああ、とゆっくり口を開いた。
「分かる。自分に合うとか、そういうのじゃなくてね。私も真穂ちゃんくらいの年のとき、新宿にはそういうイメージを持っていたかな。……今は行き過ぎて、なんだか馴染んじゃったけど」
 だから私には合っていないのかもしれないな、となんとなく脳裏をよぎった所で、三田さんが真鯛のポワレに丁寧にナイフを通しながら、唇を横に引いて笑みを作る。
「大学に行くとき、新宿経由だったの。だからよく学生のときは遊んだ。……ほら、夫とは大学で出会ったって話したじゃない?」
 そこで私は察する。ここは、彼女にとっての思い出の地なのだと。
「もしかしてこの店にも来られたのですか?」
 三田さんは白ワインを口に付けて、一拍を置いてから首を横に振る。
「今日が初めてだよ。店の前は何度か通ったことがあって、なんとなく行ってみたいなと思ったままだったの」
「私で、良かったのですか……?」
 今一度申し訳なくなり、私なんかが、と内側から生まれた思考が脳内を刺す。職場を離れた私は、三田さんとその後も繋がれるほどに魅力的ではない人間だと、頭の片鱗で感じていたのだ。
 三田さんが驚いたように目を見張ってから、首をゆっくりと横に振る。
「『私が』、良かったの」
 姿勢を低くした三田さんに覗き込むように見据えられて、私は息を呑む。
 含み笑いをする彼女は、私の〝異変〟に気づいているのだ。きっと。否、絶対的に。
「……有難う、御座います」
 視線を皿の上の帆立貝に向ける。ホワイトソースに囲まれたそれは、孤島のように皿の中心にそびえ立っていた。
「前から会いたいと連絡していたけれども、本当に会いたかったんだよ」
 その言葉を聞いて、私は自分の浅はかさに恥ずかしくなる。顔を上げたら、あまりにもあたたかな彼女の眼差しに思い掛けず涙が生まれそうになり、ぐっと目元に力を込めた。
 ──友だちはみんな、持っている。
 ここしばらく私が縛られている思考の正体だ。
 友だちに加えて知り合いもみんな。私が渇望してやまないものたちを、幾つもきちんと持っているのだ。
 例えばそれは、結婚指輪だったり、子供用のおもちゃだったり、マイホームだったりする。
 自信がない反面で自身を評価すると、私は真面目だし、結婚したらそんなに男を困らせることはないだろう。家事は、嫌いではない。もっと言うと、決して苦手ではない。一人暮らし歴は六年だ。体に染み付いたように、料理も洗濯も掃除も順々に無事に終わらせられる。
 容姿だって、特段個性があるわけではないけれども悪くはないと思っている。人並みにお洒落は抜いていないし、寧ろ好きな方だし。人生の中でそれなりに異性から声はかけられてきた。ただ、生涯を共にするパートナーにはまだ出会えていないだけであって。
 子供に対してもきっと、それなりに良い母親になれる気がしている。これはただの予感だけれども、子供は好きだし。育児の愚痴を見たり聞いたりすることはあるけれども、自分のお腹で守った子を産み、抱き寄せ、育て上げることには、どうしたって興味があるし、望んでいる。
 けれども、なかなか引き合わせてはもらえないものだ。運とか縁とか、何なんだろう。
 決して口には出さないが、心の中は自由だから。
 私は、自分よりもしっかりしていない友だちや、自分よりもあっけらかんと過ごしている友だちや、自分よりも我儘なんだよねとまるで自負して笑うような友だちよりも、平均的に〝良い〟と思っている。
 なのに、結婚に関しては恵まれない。
 例に挙げた彼女たちは皆、すでに複数の子宝にも恵まれているというのに。
 一とニと三を比較するよりも、ゼロと一は、決定的に違うのだ。〝無い〟と言うのは、〝有る〟の前では弱くなってしまう。三十代に入ってからの私は、大層感じ切っているのだ。
「真穂ちゃん元気かなーと思って。久しぶりに連絡しちゃった! そうしたら、これも駄目だしあれも駄目だしって書いてあるから。これはマズイぞ〜って」
 茶化すように伝える彼女に、「恥ずかしいです……」と私は苦笑いをしてから、気づかれないくらいの微妙な力加減で自分の服の裾を掴む。
 三田さんは少しだけ笑って、「良いのよ、」と言葉を区切ってから、「ちょっと美味しいご飯でも食べて、喋って、心がほぐれる時間が作れたらなって思ったの」と語り聞かせるように、丁寧に言葉を紡いだ。
 ……昔から、そうだ。
 相手の感情に機敏に反応して、応急処置をしてくれる。彼女の爽やかな気遣いには同性でも惚れてしまう。
 私は、「有難う御座います」と静かに言葉にして、意を決する。逃げないで、話そうと。真摯に向き合ってくれている人に、そのまんまの私を真っ直ぐと話してみようと。
「……自分のマイナスな部分に向き合いすぎて。三田さんだけではなくて、周りの女性に自分のことを話すのが、ちょっとだけ憂鬱でした」
 三田さんは言葉を挟まずに、慎重に首を縦に振った。
「だけど、三田さんからご連絡頂いたとき、溢れてしまって」
「うん、そんな感じだったよね」という彼女の言葉に、肩の力が抜けたように一瞬だけ互いに笑い合う。
「友だちにはネタ的な感じで話していて。すっごく軽く、元彼と別れてだいぶ経っちゃっただとか、マッチングアプリは上手くいかないし未だによく分かんないだとか、そんな感じで」
 指先を伸ばしてグラスワインの取っ手に触れ、そのまま口に運ばずに言葉を続ける。その間も三田さんは視線をずっと私の目から逸らさないでいる。
「今の仕事も、最初に感じた手応えよりも上手くいっていなくて。でも誰よりも突出した特技があるのかというとそういう訳でも無いですし、仕方ないですよね」
 自虐的に言うと、「そんなことはない、頑張っているよ」と言葉が差し伸べられて、少しだけ頭を下げる。
「……友だちがどんどん、結婚していくんです。子供も産まれて。みんなから聞いた子供の名前ももうなんだか、ごっちゃになりそうなくらい。この数年で。あまりにも色んなことが格好悪くて、正直に話すと今日も、三田さんに合わせる顔が無いとまで思ってしまっていたんです」
 三田さんも二児の母ですから人生のステージも違いますし、という言葉は流石に喉の奥に留めた。
「ちゃんと笑えるか、不安でした」
 告白した私は、今度こそはっきりと苦笑いをした。三田さんは「大丈夫。ちゃんと笑ってくれてたよ」と何処までも優しい。その優しさに満ちた声に心がほぐされて、許されていく気持ちになる。
「職場に居たときもそうでした。どんなに疲れていても、三田さんに会うと、笑っちゃうんです」
「それ、褒めてくれてるー?」
 褒めてますよ! と慌てて口を開いた私に、「分かってるから!」と彼女は声を出して笑った。私もいつも通り、釣られて笑い声が出てしまう。
「真穂ちゃんはね、一生懸命なのが分かるから。仕事しているときもだし……ほら、ランチに行ったときも色々と話したことがあるけれど、考え方もちゃんとしていて偉いなあって思ってた」
 そんな、と首を横に振った私を三田さんは制するように言葉を重ねる。
「真穂ちゃん」
 はい、と改めて応える。
 彼女は真剣な面持ちで言葉を声に乗せる。
「生きているのだから、良いじゃない」
 瞬く間、嗚呼──と、解き放たれるように目を見開く。
 重くて仕方が無かった現実が、まるで唐突に開けていくような。そういった感覚を身に感じた。
「……やりたいことがやれる。健康があれば、そうじゃない? 結局は自分次第だから。行動するのもしないのも、何をするのかも、選べるのよ。それにこれからだってびっくりするくらいの数の人と知り合っていくし」
 三田さんは、目の前の人が奥底で欲しているであろう言葉を適切に選び、差し出すことが出来る人だ。社内だけでなく顧客からも評判の良かった彼女は、沢山の人の心の隙間に触れ、言葉を分け与え生き返らせてきたのだろう。経験と知恵と感受性が、いつだって抜群な人だ。
「それにね、私は一度、夫と別れているんだよ」
 え、と声を漏らすと三田さんは、くしゃりと笑う。
「それでもまたこうして出会って、結婚した」
 頭の中で言葉を慎重に選んでいると、彼女はすっとワインを一口含んで、「……さ!食べよ!次、お肉だよ。楽しみだなー」と口早に放ち笑った。
 切り替えも大事だよ、と清らかな表情で付け加えた三田さんに、私は「本当に有難う御座います」と今日何度目かの頭を下げる。
 顔を上げたときには、命を吹き返したような気持ちになっていた。私は生きているから、大丈夫だと。

 肩を並べてエレベーターを降りたあと、私は山手線の改札口まで三田さんを見送った。
「ごめんねー! 夫に子供見てもらってるから、そろそろ帰らないと」と言った彼女に私は、「大丈夫です。早くお子さんの元に行ってあげてください」とだいぶ落ち着いて伝えることが出来た。地に足がついたとは、こういうことなのかもしれない。
 元気でね、と手を振り歩き出そうとした三田さんは、思い出したように足を止める。
「そういえば雨、止んでたね」
 にこり、と効果音が聞こえそうなほどに笑顔を向けた彼女は、風の如く軽やかに手を振り去って行った。
 私は、もうきっと聞こえていないだろうけれども「はいっ」と力強く応えてから、背を向け反対側の道を進む。
 ──本屋へ、寄ろうと思った。ほとんど閃きに近かった。
 迷うことなく足が進んでいく。人混みは視界に入っても、もう何も感じることはない。自分の頭の中に、集中していく。
 近頃の私は、本など全く開いていなかった。頻繁に開くと言えば、スマートフォンのマッチングアプリだ。開いたり閉じたりしては、泥沼の中にいるように思考を繰り返していたけれども。
 でも今は、この瞬間の今は、そんなことよりもやりたいことが山ほどあるんだということに、気がついた。
 あれもやりたいし、これもやりたい。あそこにも、行きたい。だからきちんと一から、調べなくては。これからも私を生かしていくために。
 私は、雨上がりの新宿のど真ん中を力を込めて突き進んでいく。
 私は今ここに居て、生きているのだと。確かめるように。