守りの中で (短編小説・恋愛)
「やさぐれたいときだってあるから」
だからそれちょーだい、って手の平を目の前の彼に向けた。同時に、夏の残り香を連れた風が横切る。視界にチラつくうねった黒髪がサワサワと今にも音を立てるかのように揺れていた。
私は、短い溜息を一つ風に乗せて、他にすることもないしね、って歌うように零して笑った。すかさず「は?」と疑問が投げかけられる。
「私の憂いが分からなーい?」
「あまりにもアホ臭く聞こえたもんだから、」
「あのさあ……喧嘩売ってるよね?」
思わず、勢いよく柏木理人を振り向いた私は完全にヤケクソで彼の指先から一本の棒を奪った。瞬間、歩道橋の下をバイクが激しく駆け抜けていった音を確認する。
……後悔なんて、ない。もう何にでも飲み込まれて良かった。だって今は、深夜だし。明日のことなんか全部忘れて、煙と共に吹き飛ばしてしまえば良いんだ。
「……うわっ、けっっむ!」
「ほら、みろ」
「ああー、煙いー……苦いってばもう、あーー!」
もうっ、もうもうもう……!
頭で繰り返される感情の濁流にまんまと飲み込まれた私は、吸っては吐いて、吸っては吐きながら文句を放って、どうにか一握りの自我に手を伸ばし続けている。
煙は、目の前で歪な形となり浮遊するだけで、例えば夜空へ放つことなんて出来るわけもなかった。私と理人の居る、歩道橋の上すら染め上げる力もなく、モヤモヤと霞むだけだ。
何とも、弱々しい。遠くで光る車や信号機や人の手に収まったスマートフォンの方が、余程力強く見えた。
──嗚呼わたし。消えてしまう。
自覚した途端、右からも左からも熱いものが溢れ出てくる。やばい私、泣いてんじゃん。理人の前で。たったの四年前、趣味のSNSで繋がった男の前で。
泡(あぶく)のように生まれては消えて、また生まれていくそれに、抗えないままに私は苦い顔をする。
「私ってさあ、」
同時に互いの目を見た。
「……なんでいっつも、こうなんだろう」
ねえ理人、笑ってよ。もう一層のこと、その方が清々しいから。
私自身が最も、自分に対して呆れていたのだと思う。この心と体のちぐはぐを受け止め切れる器量も術も無いのだと感じることの多い人生だ。
「……はぁ、」
しかし私のヤケクソな願いは、一瞬で泡(あぶく)となる。
「……あのさぁ、」
「何?」
理人の真っ直ぐな瞳から目を逸らしながら私は、不安から強がってしまう。変に真面目な彼のこういうところは好ましくもあり、少しだけ苦手だ。いつも私の中に隠しているものを、見つけてしまうような理人の目。
「ねえ、何?」
「……これじゃあ俺も、やさぐれてるか」
だからなに? と繋げようとした刹那、私の右手から煙草を奪って理人は咥える。煙を長く吐き出したかと思えば、地面へと落とした。何の躊躇もなく靴底で踏み潰す。そうして私は、気付いてしまう。……理人の目にも、憂いが見え隠れしていることに。
「理人、」
だけれど私の心配は、彼の放った一言により砕かれた。
「どうして泉はいつも、自分を大切にしない?」
はっ、って私は短く息を吸った。反抗の為では無い。図星だったから。
私の表情を読み取ってか、理人は少しだけ沈黙を作る。彼はそういう、〝優しさ〟みたいなものを与えてくれる瞬間が多い。
思わず下を向いた私だったけれども、小さく息を伸ばしてから、もう一度彼に目線を合わせる。準備が整ったのを察してか、彼は口を開いた。
「明日は振られに行くんじゃなくて、こっちから振ってやんなよ」
──俺から見たら泉は、本来そういう人だから。
最後、あまりにも柔らかな目を向けるから、私は涙と一緒に声を出した。言葉になんかならない、裸のままの感情だった。激しく落ちていく涙を、私は、もう止めようとはしなかった。理人はいつだってそのまんまの私を許容してくれるから。
「……はい」
律儀な言葉の響きの後、理人の右手が後頭部に触れてきて、私は素直に彼の胸元に顔を埋めた。倒れ込むような力だったけれども、彼は躊躇わずに受け止めてくれた。
「明日は応援してるから」
理人が耳元で低く、それでもはっきりと伝える。
「……もうこれで分かったと思うけど、」
その刹那、思わず私は目を瞑る。
「俺は泉のことを、ずっと見てきたよ」
一思いに告げた彼の両の手が頬に触れて、上を向かされた。乾きそうな唾を無理矢理に飲み込む。ごくりと喉が鳴った。恥ずかしさと緊張でゆっくりと瞼を上げる。深い茶色の瞳と合った時、その奥には私の泣き顔と、決意だけが映っていると感じた。男の人の、こんなにも強く真っ直ぐな目を見たのは初めてだった。これが、本気の誓いを宿した目なのだと今更に気が付く。
「俺は、泉を悲しませないから」
伸ばされた両の手の熱さも、芯を宿した瞳も、薄まった煙草の煙と夏の残り香も。全てが強く、心地良くて。私はこの四年間、いつだって守られてきたことを知る。