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トウメイ 夢の先に

"刀"は時代に"名"を刻む

「ネズミ」と呼ばれるほどの貧相な馬体で、セリも格安。
引き取り手はなく、預託予定の調教師が急逝。
移動先では馬房もなく、誰も相手にしなかった。
そんな馬が最高の栄誉を手にするとは、誰が想像しただろう?
彼女の名はトウメイ。夢を掴むまでの実話である。


1.じゃじゃ馬娘の流浪の旅

彼女は1966年、北海道・静内の谷岡牧場で生を受けた。
年間数頭しか生産しない、小さな小さな牧場である。

言うことを聞かないじゃじゃ馬で体は小さく、庭先取引では売れ残り。
仕方なくセリに出したものの、165万円と通常の半値にしかならなかった。

買い手(=馬主)の近藤克夫は預託先を見つけるのも必死だった。
なんとか地方・大井の高木清厩舎に入厩できることになったのだが、
なんと高木師が亡くなってしまう。

ただでさえ手の掛かる馬を預かってくれる人などいなかった。
貴重な理解者すら失い、近藤は途方に暮れた。

ようやく中央の清水茂次厩舎に頼み込んで入れてもらったが、
まず厩はなかった。昼間は空き地に繋いであったそうだ。
毛艶も悪く、貧弱。人に懐かず、手入れをすると暴れ、
夕方になると誰かが空き馬房に入れていたそうである。

調教師も正直嫌っていた。馬主に泣きを入れたこともあった。
完全に邪魔者扱い。というか何もしてもらっていない。
そんな「シンデレラ」は期待もされず、デビュー戦に出ることになった。

2.牝馬クラシックへの道

デビュー戦は2歳の夏、札幌競馬場、ダート1000mだった。
ここを8頭立ての6番人気ながら2着に好走。誰もが驚いた。
翌週(連闘)の折り返し新馬戦で勝利。ますます驚いた。
その後関西に戻って5着の後、3連勝。2歳時は6戦4勝、2着1回で終えた。

年明けにはシンザン記念2着を挟み、牡馬混合の京都4歳特別でも勝ちきって
ついにクラシックの権利を得た。

迎えた桜花賞。トウメイはなんと一番人気(5.2倍)に支持されたのだ。
レースでは先行し、ゴール板前で差されて2着。夢は叶わなかった。

東上してオークスへ。ここでも一番人気に推された。
やはり先行し、最後の直線は粘ったものの内ラチ強襲に遭い3着敗戦。
期待度ゼロの馬がここまで走っているだけで十分ではあるのだろうが。

地元に戻って4歳馬のオープン競走を快勝、夏を迎えることになる。

3.さらなる試練はやってきた

夏は札幌での出走となり、1着 2着2回で帰厩。ダートでもよく走った。
当時はビクトリアカップ('70年〜)も無く、秋は古馬との対戦となった。

しかし、ここで清水調教師が急逝、佐藤勇厩舎へ転厩することになった。
結局年内は勝ちきれず、年明けに坂田正行厩舎へ再度転厩。
オープン、マイラーズカップを連勝して阪急杯2着となった。

今度は彼女自身にアクシデントが起きてしまった。
蹄の病気、重度の白腺裂を患ったのだ。
これは蹄の角質がボロボロになり、隙間が生まれ、細菌・真菌が入り込むため、痛みや炎症、跛行を生じる重篤な疾患である。

そのため8ヶ月もの間、長期休養に入った。
正直引退まで考えられる程であり、もう6歳。
年齢的にも限界かと思われた。

4.「マイルの女王」は終点にあらず

しかし、復帰後3戦して5着、2着、2着と状態が上向く。
その後マイラーズカップと阪急杯を含めて4連勝と完全復活。
この頃には「マイルの女王」と呼ばれるようになっていた。
安田記念の地位が今ほどではなかったことも背景にある。

秋の初戦を2着として、府中の牝馬東京タイムズ杯。
ここで彼女はとんでもない競馬を披露する。

トップハンデの59キロ、馬体重は420キロほど。
斤量が最大8キロ違う相手とやり合った。
結果は「トウメイ9分馬なり」。後方から運び、持ったまんまの大楽勝。
2着馬とは5キロも違っていた。
後日談ではあるが、トウメイはムチが大嫌い(人に従いたくない)なため、
清水英次騎手はそれを分かって使わなかったそうだ。

これは強い馬だと皆が認める中、彼女はさらなる夢に向かうのだった。

5.シンデレラストーリーのフィナーレ

1971年11月28日、東京競馬場。秋の盾の舞台に彼女は立っていた。
距離は3200m、まったくの未知の距離である。

ファンの期待は3番人気、しかし鞍上は、
「マイルを2回走ってくりゃいいんだろ」と豪語した。
トウメイは古馬になってから差しを極めていたが、
この日も外から楽に差し切ってゴール板に飛び込んだ。
ついに八大競走を制覇し、史上10頭目の牝馬天皇賞馬となった。

そのまま関東に滞在し、12月19日の有馬記念が引退レースとなった。
トウメイ自身は当日まで順調に過ごしていたが、関東馬の厩舎では
流行性感冒(馬インフルエンザ)が大流行。
前年の天皇賞・秋の勝ち馬メジロアサマや菊花賞馬アカネテンリュウ、(とばっちりで)カミタカと3頭が出走取消となり、有馬記念は異例の6頭立てとなった(出走したメジロムサシが実は感染していた)。

注目のラストラン。すでに彼女にひ弱さなどなかった。
道中は後方2番手を追走し、最後の直線で差し切って完勝。
見事に有終の美を飾ったのだった。

通算成績31戦16勝、掲示板は一度も外さなかった。
引退年の1971年には最優秀5歳以上牝馬と年度代表馬を獲得。

「ネズミ」が「マイルの女王」に、そして「日本一」に。
これほどのシンデレラストーリーを見ることは二度とないだろう。

6.長い旅路の果てに

結局流感のせいで引退式はできず、そのまま繁殖入り。
故郷ではなく、馬主が新設した幕別牧場で馬生を過ごすことに。
2番仔のテンメイは天皇賞・秋を制覇し、史上初・2024年現在でも唯一の
母仔天皇賞制覇を成し遂げた。テンメイは中央引退後、地方・水沢でも走るなど不思議な経歴をたどったことも知られている。

1991年、馬主の近藤は「トウメイは一生面倒を見ろ」と遺言し亡くなった。
その言葉通り、彼女はただ一頭、幕別牧場で余生を全うすることになる。
時はすでに昭和から平成へ移り、バブルも競馬ブームも終わりかけていた。
1997年4月7日、トウメイ32歳。激動の馬生に幕を下ろしたのだった。

名刀は死してなおも輝く

廃業した今でも、幕別牧場は静かに看板を掲げ続けている。
誰かがトウメイを偲ぶため、訪れることを信じて。

かつての熱は去ったが、新たな火は灯された。
今や「日本一」を超える「世界一」が現れ、
日本馬は当然のように海外遠征をし、確かな結果を出している。
競馬は若い世代にも再度注目され、競馬場には声援が絶えない。

ハイセイコーブームの2年前、彼女は静かにターフを去った。
競馬史に名を残し、記録も記憶も刻みつけた。
もう現役時代を知る人も少なく、私もまた後の世に知った一人である。

だが、言葉は紡げる。映像も残せる。そして一個人として表現できる。
昭和の鉄火場を駆け抜けた名牝を、忘れることなく語り継ぎたい。


晴れ間広がる真夏の昼下がり、とある牧場跡地にて。
墓前で静かに手を合わせ、遥か昔に思いを馳せる。

参考文献

・競走馬のふるさと案内所 トウメイ 幕別牧場(廃業、墓のみ現存)
https://uma-furusato.com/search_horse/0000016628.html
(2024/03/27確認)

・JRA育成馬日誌:育成馬ブログ 生産編⑤(その1)
冬期の子馬の蹄のケア〜白腺裂〜
https://blog.jra.jp/ikusei/2017/03/post-c9b2.html (2024/03/26確認)

・ニコニコ大百科 トウメイ
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%A1%E3%82%A4 (2024/03/27確認)

・日刊競馬で振り返る名馬ートウメイ
https://www.nikkankeiba.co.jp/chuo/meiba1/42/42.html (2024/03/26確認)

・netkeiba トウメイ(Tomei)|競走馬データ
https://db.netkeiba.com/horse/1966101293/ (2024/03/26確認)
*netkeibaのデータベースでは32戦16勝となっているが、1969年8月24日の「大雪ハンデキャップ」が翌週8月29日にスライドしたため、馬番が着順(8番=8着)になってしまっている(前述の通り5着以下は一度もない)

・優駿たちの蹄跡 トウメイ
https://ahonoora.com/toumei.html (2024/03/27確認)


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