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楽しむ努力はしているのか

日々気分やら感情やらは変化する。
一定では過ごせない。

安定している、ニュートラルでいられる、そんな状態でも自分の内側では「ずっと同じ」ということはあり得ないように思える。

だから、やる気が全く起きないことだってたくさんある。

何をしていても楽しいと感じないことだってある。

そんな時は、「今は楽しく思えない期だ」とか、「あー今やる気が起きない期ね」とか、そんなふうにしてある程度その現象を自分から突き放すようにしている。飲まれたり、その中にずぶずぶと入っていってしまうと、それこそそやつらの思う壺のような気がして。

とは言え、ある程度突き放してはいるものの、「楽しくない」がずっと続くとちょっと辛いものがある。なんというか、虚無感が漂いはじめる。あれやこれややってみるのだけれども、一向に好転しない。そんなときは本当に嫌気がさしてくる。突き放しているようで、結局ずぶずぶ入ってしまっている。悔しい。

そして頭の中では、次第に楽しくない言葉達に思考が占領される。何を考え始めても、思い始めても、結局は埒が明かない思考順路をたどり、いわゆる「考えても無駄」ということを飽きもせずに考え続けてしまうのだ。

こういう状態は決まって忘れてしまっていることがある。

それは、「楽しむ努力」を自分はしているのか?ということ。

「楽しい」という感情の最中では、それは「楽しい」が自動的にあちらからやってきてくれているように錯覚する。でもそれって、自分が「楽しい」と思えるように工夫した結果だったりもする。そんなことを「楽しくない」期に気がついたりする。

「楽しい」は待っているだけで与えてもらえるようなものではないらしい。「楽しい」を感じるために、何かしら行動を起こすから「楽しい」が得られる。そういうシステムらしい。

そう考えれば、感情って全てそう。何かしらの行動を起こしたから、それについて何かしらの感情を感じられるんじゃないかな。どんな感情を感じたいかによって、人は行動や思考を変えていくのかも。なんて思ったりもした。

「悲しい」や「寂しい」なんかのような感情は、普段感じたくないなぁと思っている。だからそういう感情にならないような行動を、なるべく選択しているつもり。あぁ、「つまらない」も嫌だなぁ。悲しい・寂しい・辛いなどは、どことなく傷つく感情に分類するものであると思っている節があるから、自分を守るためにも回避しようとする。自己防衛本能ってやつ。でもつまらないって別に傷つくものでもないから、特に関心を寄せたこともなかったけれど、わたしはつまらないってとっても嫌だ。これを書きながら気づけた。嬉しい。

つまらないを回避するためにも、やっぱり「楽しむ努力」って必要だ。どういうときに自分は楽しいと思うのか。どうすれば楽しいと感じられるのか。それは人によって違うから、それぞれの方法があると思う。つまりは自分のことをよく知るところから始めるといいのかも。

うん、わたしも。
もっと自分のことを探ってみようと思う。

「楽しい」をひとつでも多く感じられたほうが、人生きっと納得できるから。

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遠藤 葵
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