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2019.12.23 強さ

中学生の頃、ずっと口にしていた言葉がある。

「強くなりたい」

ずっとずっと思っていた。
「わたしは、もっと強くならなきゃ」
「今の弱いままじゃだめだ。もっと強くなる」

一体何と戦っているのだろう。
同級生は不思議そうな面持ちで、
わたしのこの言葉を聞いていたように思う。
今思えば、思春期特有の感覚なのかと
そんな気もしなくもない。
ただ、思春期を過ぎても
度々わたしの頭を掠めるのだ。
「強さ」とは、なんだ。と。

というのも、
中学生のわたしは「強くなりたい」と口にしていたわりに、
「強さ」の定義が曖昧だった。
聞かれてもぼんやりと靄がかっていて、
明確に「こうなりたい!」がなかった。

ただなんとなく、
これじゃあダメだと思い
だから答えは「強く」なることなんだと
信じていた。

そして歳を重ねるごとに、
そのことをぼんやり思い出し
そして自分に問う。
「わたしのなりたかった強さってどういうことだろう?」
と。

多分、昔望んだわたしに、
今のわたしは近づけているのだろうかと
答え合わせをしたいのだと思う。
でも、その答えが一向に出ない。
出る気配もない。
そんなこんなでずるずると生きてきた。

その答えが、
この年末にぽんっとこの手に落ちてきた。

わたしなりの今出せ得る答え。

「そこにただ『在る』という強さ」

これだと思う。
ただ「在る」って、とても強いことだと思う。
それはつまり、在るが儘、ありのまま、
繕わず、格好つけず、
ただただそこに存在するということ。
人は何かしら鎧を身につけようとする。
たくさんの関係性から自分を守るためかもしれないし、
たくさんの関係性という荒波を超えるための武器なのかもしれない。
少なくとも、わたしはそうだ。
鎧を身に纏わないと”いけない”。
そう思っている節がある。
だから、頑張ってしまう。
頑張らなくていいことまで、頑張ってしまう。
着なくていい鎧まで着ようとする。
だって、鎧が強さの証明だと思っていたから。
弱いから、たくさん鎧を身につけなきゃ。
ここが弱い。じゃあここに鎧をつけましょう。
そんな感じで、どんどん増えていく鎧。
重たくてしょうがない。
それでも弱さはなくならないから、
エンドレスで増やそうとする。

どんどん歳を重ねて、
体力だって昔よりは確実に下降の兆しが見えてきて。
それでも増え続ける鎧というのは、
いつかは立ち尽くすことになるぞ
という予感しかない。

薄々は気づいていた。
鎧を全て剥がした先に「強さ」があると。
自分が求めていた「強さ」かどうかは分からなかったけれど。
周りが同じようなことを言っても、
頭ではわかるのに解らなかった在るが儘の強さ。

そりゃそうだ。
人は実感がなければ腑に落ちない。
真の意味で理解はできない。

わたしは、マイク前で実感した。
いつも収録後には自己反省会を
己の中で飽きるまでやるんだけれど、
「もっと強くならなきゃ」
そう思った瞬間があったことを自覚した。
なんで強くならなきゃって思ったの?
と深堀していくと、
そこには
鎧をまた一生懸命着込もうとする自分がいた。

足りないことに目を向けて、
それを補おうとすることは向上心があっていいことだと思う。
ただ問題は、その土台となっている部分は何なのかということ。
できないことや弱いと思っていることにばかり目を向けて
そこを補おうとするやり方は、
鎧を着込むことしかできなくなると思う。
もしも出発地点が、ただ「在る」状態からだったら。
それだったら、きっと、
弱い・できない・足りないところも
ただ「在る」という認識になるだろうから、
何かで覆わなきゃとか、守らなきゃとか、
そういう鎧的発想にはならないのだろうな。
もうそこが強い。
今のわたしが思うに、強いのです。

じゃあ、ただ「在る」強さって何なんだろう。
それは言い換えれば、
「自分を受け入れる」強さ
なんじゃないかな。

「自分を受け入れる」というのは、
自分のあれやこれやに
良い悪いのジャッジをしないことだと思う。
ただ、眺める。
ただ、聞いている。
そこに答えを出そうとしないし、出さない。
鎧を着込むでもなければ、
脱ぎ捨てるわけでもない。
ただただ、"あぁ、そうなのね"と認識する。


その在り方が、
今のわたしの思う「強さ」の答え。

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遠藤 葵
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