前提が見えない人ほど常識を説きたがる


 常識という言葉を聞く度に、聞こえの良い言葉だな、と思うようになった。
 
 別に斜に構えている思春期こじらせという訳ではなく、聞こえのいい言葉で考え方を押し付けているような感覚になるからだ。(これが斜に構えているような気もしてはいる)
 
 そもそも常識という言葉は、人によって異なるものだと私は思う。
 
 常識という言葉には沢山の見えない前提があり、その前提やらお互いの共通認識が噛み合って初めて「常識」になる。
 極端な例だが、日本と中国のご飯における礼儀は真反対だ。
 日本人は米1粒足りとも残さないことが礼儀である。
 しかし、中国人からしてみればご飯を全て食べ切るという行為はとても失礼にあたる。
 何故か?
 中国人はごはんのおかわりを催促しているように思わせ、不満足をあることをアピールしているように見えるらしい。
 ところ変わって日本人は、ご飯を残せば命を粗末に扱うこととみなされる。
 どちらも合点は行く。
 だがこの2点は着眼点が大きく異なる。
 そして、どちらが正しいとも言いきれない。なぜなら見ている軸が違うからだ。
 
 だからこそ豪に入れば郷に従わなければならないし、生き方が異なれば常識も変わると思う。
 今回は国が違う例を出したが、同じ日本人でも宗派や生き方が異なれば食べ方も自然と異なることと思う。そんな文脈が見えない限り相手へ”常識”を振りかざすことはとても理不尽に思えてならない。
 
 見えない部分までが自分と同じだと思い込み、自分が生きてきたルール、世界、考え方が通用するなんて思いながら常識を説くなんて危ないと私は思う。

 常識的に考えてさ。

 

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