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運命と自由意志

占い師はどう在るべきか

古典占星術とは

 再三記載しているように「命朴相(医山)」というのが、占いの基本ジャンルである。霊能系はまた違うけれど、今回の場合は卜術の分類で良いと思っている。

 命術というのは、生年月日や出生時の情報で性質や運命を見ること。

 特に、私がやっている古典占星術というのは、勉強する前に「性質や運命は全て生まれた時の天体図に現れる」という前提で取り組まないとならないと云われる。

 これには歴史的な問題があって、西洋占星術というのは紀元前2000年以前んの古代バビロニアの石碑を原点としている。キリスト教以前のヘブライ語聖書である「死海文書」と同じ時代である。この頃は、王族の血統などを分析や研究する為に、学問として用いられていたとされている。

 イエスが2000年以上後に生誕し、やがてキリスト教がローマ国教に定められると「運命論=自由意志の不在」という西洋占星術は、考え方の対立から弾圧されることとなる。

 しばらく経って、心理学者などが集って、現代の西洋占星術が確立されていった。普通に西洋占星術(ホロスコープ)を学ぼうとしたら、書籍も講義も師を仰ぐにしても、基本的にはこちらの「モダン」と呼ばれるものになる。

 簡略的に捉えると、敢えて読める部分を狭めてエンタメ性に重点を置いたものになった。

自分のスタンス

 自分は正直「西洋占星術界隈」や「西洋占星術用語」には疎いのだと痛感することが多い。驚かれるだろうけれど、アスペクトさえ殆ど読まないし、占い師ではない占いオタクな人たちが使う専門用語も殆どわからない。

 とはいえ、西洋占星術や占術、有名占い師の家族などが、安くない金額を払ってでも私の個人鑑定を聞いて確度に喜んでくれる。何が云いたいかというと、モダンで色々な技法を試すよりも、古典の最低限の方が確度が高い可能性があるということだ。

 ちなみに、専門用語がわからないのは、知識を増やし過ぎることで、それこそ「自由意志とは何か」というノイズが入るのが嫌だからだ。

 古典占星術は学術的な研究者が多く、個人鑑定などを行なう人は少ない。そういう人たちからは怒られるんだろうけれど、私はこの「古典占星術で運命が読めるから」「自由意志はない」というものに全く納得していない。

 極めれば極めるほど、性質や運命など、確度で云えば相当なのは知っている。けれど「それの何が楽しいのか」と思う。人の葛藤や行動が人生を作り出して、それが一冊の小説のようになるから楽しいのではないかと思うからだ。浪漫や希望を失ったら、生きる楽しみを自らで奪うことになる。

命術師の問題と危険性

 命術というのは、この危険性を常にはらんでいる。自らも運命に翻弄されるだけと気づいてそれに苦悩するか、全てを知った気になって優越感で断定的に語りやすい。

 卜術や相術にもそういう人はいるけれど、確度や論拠が大きく変わってくる。統計や論拠のある掛け算を誰かが作っているから、ロジカルな占術であり、他者が確立しているから自身がある。

 だから「2×3は6」のように「占いではなく決まっていることを教えてあげている」という考え方に陥りやすいのだ。

 ここ最近は、命術を自身で齧ることや、個人鑑定を購入したりしている。平均値を出すことや、市場調査が目的だったのだけれど、基本的に3割くらい「凄く当たっている」部分があってそれ以外はピンとこない」というものが多い。

 謳い文句として「あなたの取説」としていることが多く「自覚はないだろうけれど、本当のあなたはこういう人です」と断言してしまう。それであれば、命術の全てが全く一緒ではなくとも共通するはずなのだけれど、情報が同じでもびっくりするほど結果が違うのだ。

 これについて、占術師の性質に対しての「時間をかけて観察・分析・俯瞰することの重要性」を理解していない場合が多い。あとは、性質に対する造詣の深さの違いでのバイアスを取り込んでしまっている場合がある。

 血液型がわかりやすいので例えると「B型は性格が悪い」というのが、今がどうかわからないけれど血液型占いでの通説だった。

 これは協調性を重視する場合に「協調性を重要視しないB型」の都合の悪さから来たものだと思っている。傾向としてなのだけれど「O型は協調性を重視し世渡り上手」なので「細かいA型がB型を嫌う」という風潮にして相性に繋げた。

 ただ、私は生粋のA型だけれど、B型は振り回されても自分軸がはっきりしていて、無理して群れなくて良い風潮が楽で楽しかった。

 逆に、O型の友人は「O型は大雑把だから気にしないけれど」と前提を置いてから、B型の共通の友人への悪口を云い、A型が居なくなったら「A型が悪口を云っていた」と話している人が多かった。

 これは、コミュニケーション能力に長けているということなのだけれど、同時に協調性に依存する、自分軸の希薄さという物があると思う。共通の敵を作ったり、相手と対立するものを叩くことなどの同調力というのは、心理学的に見ても、女性コミュニティでは求められるものだと思う。

 私はFTXかつA型の蠍座で月が獅子だから、B型の眩しさや、星座別の優しさや寛容さに凄く救われてきた。とはいえ、好かれるのはO型だし、面倒くさいのはA型で、扱いづらいのはB型だ。

 こういう「こういう性質を持つという事はこういう人だ」という断定が占術師の手に委ねられていることが危険だなあと思う次第。

 実際に複数の命術を受けてみて「当たっていない」や「西洋占星術でいうここら辺の部分がこう出ていて、こう解釈されているのかな」というのはわかったりもする。それでも、泣いたり寝込んだりするほどに落ち込むのだ。

 自分などは、特にモダン占星術などでは性悪とボロクソに云われるし、中華圏になってくると急に慈愛の人間になる。古典占星や、自分の人生を知っているし、卜術の訓練を積んでいると自分の先天的性質、環境や経験、ミクロとマクロで理解しているので、今では「なるほどその時点を読んだか」という印象が強い。

 これを「好きな相手」などで見た時に「相手を諦めさせるため」というバイアスも含めて「相手と接したことがない人に人物像とかけ離れたことを云われる」というのがとてもつらいと思う。

 反論自体が「人を見る目がない」とか「騙されてた」という自分の愚かさを指摘されることに繋がるのだけれど、卜術師以前より人の本質に対する洞察力が評価されていた人間からすると納得ができない。むしろ、その性質に対して、それが悪いものと理解した上で使わないように、良い人間になろうと努力している人が多いように見えるからだ。

 自分自身がそうだからというのもある。蠍座というだけで「能力値は高いけれど、人を洗脳したりコントロールしたり、感情が激しすぎて地雷系になる」というような読まれ方をしやすい。

 能力値は高いし、洗脳は出来るだろうと思う。感情も激しいけれど、感情が激しいからこそ愛したものはどれだけ傷つけられても愛し続ける苦しみがあるから愛は憎しみに変えられない。他の人が苦しむことに納得がいかないし、洗脳やコントロールを入れたら人生はつまらなくなる。

シュタインズゲート世界線

 先天的な性質だけを見て判断するのは本当に怖いと思う。それに命術師というのは、先にも書いたような自信から断定口調と、固定のクライアントと接している温度感から「本当はこういう人」と諭す部分がある。

 確かに、占いは当てるものだし、性質は重要だ。でも、殆どは性質止まりで「人生経験」などは加味されていない。

 「本人がどういう経験や環境で育って、どういう価値観を抱くようになって、どう生きたいと考えているか」まで含めて、やっとスタート段階だと思うのだ。だからこそ、命術の個人鑑定は慎重さが必要だと思うし、効率ではなく、一定のお金に応じた慎重な分析や言葉選びが必要になると思う。

 「こういう性質を持っているから、こういう苦悩を抱えやすい」また「今の苦悩はこういう性質が今の場所に合っていない可能性がある」を伝えた上で「自分がどうなりたいかの拘りはあるか」を聞いた上で「こういう環境が向いている」と伝えることが出来る。

 自分の拘りが強いのなら、運命に逆らって、苦しんででも自分の生きたい道を選べばいいと思う。

 それは仏教などの宗教思想では良くないとされるかもしれないけれど、私は達観して運命に身を任せるだけでは、幸運であっても試練が少なく魂の成長は訪れないと思うのだ。

 古典占星術師としては、確かに極めたら全てが読めてしまうのだろうと思う。それは人間や世界のプログラミングに近いものだから。ただ、私は量子力学的な世界線の変動はあると思っているし、シュタインズゲート世界線を探し続けることが、人が自分を生きる理由だと思う。

言葉は包丁

 モダンを受けた際に「あなたの言葉は良くも悪くも人に響きやすいから気を付けて発言するように」と云われたことがある。正直、体感は全くないので当たっているか定かではない。

 ただ、私はもともと文章を書くことを長くしてきた。小学生の頃はアクセス解析を見ては研究してブログを書き続けていたし、中学高校になってくると受賞や全国模試で表彰もされた。

 大学では論文を評価されてその発表資料のわかりやすさに知らない教授まで感動して名前を憶えられていた。

 また、大学で映画サークルを主宰していたのだけれど、一度も演技をしたことない友人たちを集めた。それで、脚本を当て書きして「みんな演技が上手すぎる」と、その前に所属していた既存の映画サークルから驚かれた。アンケートでも演技力はとても褒められていた。

 けれど、テレビや映画などを見ていても思うけれど、演じる人をキャスティングの延長に置かないと、浮いてしまうと思う。カメレオン俳優を探すのではなく「演じさせない」努力をすることで「演技が上手く」見えるのだ。

 その後は、パーティの受託業務や、司令塔のような部署や、クレーム処理に居たこともある。これらの時は私の文章がとても評価されていて、実際に結果に結びついていた。

 ただ、ITに行った瞬間に「能力は高いけれど文章は下手」と言い切られた。結構真剣に叱られた。これは後から判明するのだけど、会社が旧時代的なだけであって、ある程度上の方や小規模な会社なら評価されていたと思う。

 要は、理系が多いから「わかりやすいというのは少ない箇条書き」ということだった。ばかばかしいと思った。何がかというと、それでは伝言ゲームでクライアントの機微がシステム屋の暴論で削られてしまうのだ。これは、RFPの作成の為に客先で実際にヒアリングして、持ち帰った後などに上長に真剣に食ってかかったりしていた。

 RFPというのは、上流工程のその上とされるもので「システムの概要」というものを「クライアント」と「システム屋」の間で翻訳するようなものだ。自社で作ることも多く、自分たちの人材単価と稼働率を考えると「失敗したくないから専門家に委託した」と考えられた。

 もちろん、クライアントが言っている話を纏めた上で、マストが何か、優先順位が何か、実装に必要な最低限というのは考える必要がある。とはいえ、このマストや優先順位を「システム屋が実装しやすいために」曲解して受け止めている状態だった。これは偏に、先方事業とターゲットに対して、ヒアリングに当たった上長が前時代的すぎるというのが問題だった。

 「私を引き抜いたのは革新的なことが必要でそれが出来ると思ったから」「ヒアリングに連れて行ったのは事業とターゲットに合っていたから」でしょ、とまで食い下がったけれど「君はまだ若いからわからない」と云われて終わりだった。正直、こういう風潮に嫌気が差して転職したのもある。

 何の話かというと、言葉というのは慎重に扱わなければ危険だという事だ。この話は「聖書が口伝で伝わった結果、海を割ったとされるモーセは、実は葦の海だった」みたいなことが分かるという話だ。

 繊細に慎重に扱えば有用に使えるけれど、短絡的で粗雑に扱えば真実を壊してしまう。現代の聖書が、口伝や翻訳、私利私欲や政治が混ざったものだからこそ、最古のヘブライ語聖書である死海文書が重宝されるのだ。

 冒頭の話に戻すと「自分は言葉の影響力を知っているから封じ込めている」という可能性は否めないと思う。

 大学の頃、無神経な発言で色々な人を傷つけては、それを「豪快なコミュニケーション」と思っていた、大柄な女子がいた。私はとても小柄なのだけれど、彼女を呼び出して粛々と説教をした。

 暴言でもなければ彼女のような粗雑さでもなく、ただ粛々と「彼女がした発言がどのような危険性をはらむか」を怒りを込めて説教した。怒りというのは「無神経な発言は病んでいる人には最後の一押しになるかもしれない」からだ。大柄な彼女は大泣きした。それでも私は「泣いたからって何も解決しないし、あなたの言葉で傷ついた人たちが被害者」だと詰め続けた。

 それから、彼女の行動は収まった。喧嘩をしたら負けただろう。確か格闘技の類をやっていたので身の危険も考えて、友達の家で、その人を下にして私はロフトから喋っていた。心理学的にも多分優位だと思う。

 これは「被害者が多く、やってはいけないことだから」説教をしたけれど、正直誰にでもやろうと思えばできる。たとえ、悪い事をしていない人でも、少し話せばコンプレックスがわかるので、そこをしつこく掘り下げて指摘し続ければいい。

 最初に触れられていたように、蠍座はそれが出来てしまうのだ。

 実際に「良くない蠍座(多分チャートの状態が良くない掛け算)」と接すると、他害的であったり空気を読めない人は、他者の痛みを顧みずにこれを行なう傾向がある。

 とはいえ、今思うと本人が思うほど(本人は蠍座は性格が悪い信者だから、無神経なことを能力が高い自分の弱点だと陶酔してた)、周囲にダメージも畏怖も与えられていなかったと思う。

 私はチャートで見ると、蠍座一強なんじゃないかくらいなのにモダンの蠍座は当たらないし、基本的に、問題は自己研鑽の道具にするし、情に厚いし、建設的なこと以外に興味がない。なので、どう考えても「蠍座だから」ではないと思う。

 それ以外にも、なぜそんなに攻撃的なのかわからない人が居る。また、それが正義で陶酔している部分がある。星座を聞いただけで「星座で人が分かったら苦労しねえだろ」とキレてきたり。プロフ読めって。太陽星座で判断できると思ってたら古典占星術やってねえわボケ。

 生きてきた分だけ、酷い人間に酷く扱われて、立ち向かうけれど「復讐」に全力は注がない。「改善」を望むのであって「死んでしまう可能性」までは求めていない。出来てしまうからやらないのだ。

 「命術」を「論拠」として行うのは、これと似た傾向を感じるのだ。その人自身の言葉に説得力がなくても、断定的かつ論拠があってそれなりに確立されている物。

 「あなたも知らない本当の自分」や「取説」として「本当は良くない人間なのよ」と諭される。これが蔓延しているのが事実だ。


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