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頭のモヤ

 朝から瞼が重くて目が開けていられない…。身体がふわふわし、頭に霧がかかったように思考が霞んでいる。ただ「朝から」と正しく入力するのに5回も誤字してしまった。こうなってくると「ギリギリ生きている」と生を嫌でも実感する。ふらつきながら会社の人に「やばいです」といったところで「どうやばいの?」と帰ってくるのが籍の山で、会話が面倒臭くで適当に返してしまうのも良くないところだ。精神科医には説明できる、というか大抵自分のことをわかってくれているので説明が多く無くて済む。偉大な医学である、と思う。

 会社で「顔が死んでいる」「眠そう」などの指摘を受けたが当然だ。体調不良を常に抱えて身を削ってやりたくもないことを永遠とやっているのだからどうやっても目が死んでいくだろう。それこそキラキラと働けている人の方がフェイクだ。確かにやりたいことをさせてもらえる人はごく少数してその人たちが輝くのは分かるが、その裏には目が死んでいっている人がいるのをちょっとでいいから理解してもらえないだろうか。きっとわからないのかな。多分今まで大きく体調崩すことなく精神的に順調に生きてきた、健康な人にはきっと理解がもらえないし、僕もその人のことが分からない。。そもそも相手を理解することは考察の範囲であり、「こう思っているのだろう」とある種決めつけの範疇である。ただし、僕が通ってきたような人であれば考察の範囲ではなくなり、理解できる。Twitterではぼくがnote書くまでに至った過去の人格があるような気がして「居場所感」はあるしnoteであえばやっぱり今の僕の思考に近しい人が多いような気がする。
 本質はそうでないのかもしれないがこの「居場所感」は帰属意識により自我の置き場となる。だからTwitterやnoteに自我を置く他ない。健常な皆さんはしっかり意識を現実に置きましょう。

 弊社の朝礼は社会活動で一番無意味なものと認識している。身体を動かすわけでもないのにラジオ体操1番。どうでもいい挨拶と社訓の唱和。誰も興味ない直近のプライベートでの出来事の発表。業務連絡。本来必要なものは業務連絡であり、その他の時間は多忙人にとっても不要な時間だ。1年前の僕がそう理解している。特にプライベートの発表は無理やり聞かせるものではないだろう。しかも会話の範疇であるため顕示欲高い人はとことん長い。「CMが~、エコキュートが~、ラジオで~….」本当にどうでもいいのだ。僕だって1年前は当番の際不幸自慢を発表していたけど、健常者まみれのところでボカロやアニメの話をしたところで誰が興味あるだろうか。良くて「うわっ、きっしょ….」だろう。でも僕にはそれしかない。じゃあ話を聞いてもらうなら不幸話をするしかない。それならどんな目線であれ聞いてもらえる。
 今年中に同社の関東にある拠点で移動になるが、そこでは朝礼は「業務連絡のみ」。つまり今の拠点でやっていることは会社として必須のことではないし、勝手に良かれと思ってやっていることになる。
田舎は東京より温かみがある人が多く、人との触れ合いが多くなりがちだが、その文化は私を不幸にするのだ。


僕のおくすりだい