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〈差延〉する〈北海道〉

 先日、『ジャンプ+』を利用して『ゴールデンカムイ』を通読した。丹念な資料調査と緻密な構成が生み出す作品世界は実に豊穣で、近年稀にみる秀作と呼ぶべきであろう。連載はいよいよ佳境に入っており、続きが待ち遠しい。

 それにしても、『ゴールデンカムイ』を読み終えた今、私の北海道への憧れは大きく膨れ上がっている。特に食べ物に関しての憧憬が凄まじい。今まで食べたことのない食材はもちろんのこと、オハウ等の料理法にも強く惹かれている。できるかぎりの食材を集めて料理を再現してみようと思うまでに至っているが、やはり郷土料理というのは〈場〉が大切、と何とか我慢をする日々である。

 私はいまだかつて北海道に行ったことはない。白神山地や奥入瀬渓流など迄は足を運んでいるものの、そこが私の北限である。幼少期から訪れたいとは思っていたのに、である。幾度か訪れる好機もあったが、金銭的・スケジュール的に見送ってしまった。北海道は、永遠にたどり着けない場所として、私の中で定位されている。

 しかし、行きたいとは思いつつ、行きたくないというのもまた或る意味で本心である。というのも、本や映像で憧れてきたことにより、既に北海道が美化されており、実際に訪れることで私の〈北海道〉が崩れ去って、深い失望を味わうのではないかと危惧するからである。

 これは札幌市時計台に似ている。日本三大ガッカリとも称される時計台は、憧れが裏切られることへの恐れを端的に示す好例であろう。まあ、私の場合は、時計台がショボいということも含めての〈北海道〉なるもの、としてあるわけだから、三大ガッカリというほどにはガッカリしないのではないかという恐れを生み出してしまっているのだが。

 ここで、私は〈差延〉という言葉を思い出す。かのジャック・デリダが生み出したこの用語は、

 現在が、絶対的に自己ではないもの(過去・未来)への関連によって現在と呼ばれるものを構成し、同時に、現在を現在として構成するこの間隔が、現在をそれ自体の中で分割する(青日注 現在なるものには本来的に他者性が含まれており統一できずに分裂する)ように、存在者にも自己自身との絶対的一体化はありえず、「起源」において自己とのずれ(「差異」「遅延」)がある                            引用:「用語解説」(岡山靖正ほか編『現代の批評理論 第二巻』 研究社出版 一九八八年) 一九五頁~一九六頁

ような動きを意味する。

 我々は気安く北海道と呼び習わしているものの、〈北海道〉は人それぞれで異なって現れる。私の思う〈北海道〉と他者の思う〈北海道〉とは幾分か違うものであるはずだし、そもそも〈北海道〉なるものに、北海道という記号を与えた時点で既にズレが生じている。私の〈北海道〉が、『ゴールデンカムイ』等を経験することで、〈起源〉なる〈北海道〉からはかけ離れたモノと化してしまっているのだ。

 私が〈差延〉を思い出したのは、それだけの理由ではない。〈差延〉は「différance」と綴るのだが、これは差異を意味する仏語「différence」から生まれた造語であり、遅延といった意味を含んでいる。だとすれば、私の〈北海道〉は、北海道への旅を「遅延」し続けたがゆえの発生物なのだから、まさに〈差延〉的なモノではないか!

 そう思ってくると、私の〈北海道〉はある意味で貴重な体験なのだから、無くすには惜しい。だが、やはり食べ物の誘惑には勝てそうにないし、行きたいところは山ほどあるのだ。在学中に一度北海道を訪れ幻想を打ち壊し、そうして社会に飛び出していくというのも、それはそれでドラマティックな営みなのではないか。

 なお、画像は、「ゴールデンカムイ公式サイト」(https://youngjump.jp/goldenkamuy/)の27巻表紙プレゼントの一つを引用させていただきました。

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