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主役は私なのだ
断捨離を始めて1ヶ月が経った。心療内科で初回診察を受けてから、1ヶ月経ったということでもある。
薬物療法は、薬が減ったり変わったりと、一進一退している。
その分、断捨離は前進している(はず)。もともと私は必要なものしか所有していないつもりだったので、1ヶ月で終わると思っていた。
でも、まだ断捨離終了とは言えず、その代わり、自分と向き合い、気がつくことはできた。
もともと今の部屋は、急な職場配置の変更とともに引っ越した。前より狭くなった部屋に、引っ越し業者さんは荷物収まりませんよ?と言ったものである。
しかし私は、ベッド下も活用しパズルの如く、収めた。ミチミチっと詰まった部屋は秘密基地のようで、掃除はしにくいが気に入っていた。
現在、部屋にある家具はベッドと食器棚だけだ。3段式の食器棚は、もし今の自分にとって必要不可欠な衣食住をここに収めるとしたら?という想像に役立っている。
今の自分に不要なものたちも捨てたし、私の断捨離は終わったかのようだった。
しかし、違った。この1ヶ月、ミニマリストの本やYouTubeを見続け、表現方法は違えど、伝えたい先は同じなのだなと、達観したような気持ちになっていた。それなのに、自分のことに気がついてなかった。
捨てきれなかったものたち。それは私のコンプレックスから存在しているものだった。
それはノート1冊にさえ当てはまる。
スペイン土産のそのノートは、黒革の手帳サイズ、厚さは3センチはある分厚いノートだ。リング式ノートというわけではないので、片面を使う際には同じ高さの台が必要な厚さだ。
つまり、もの凄く使いにくい。
それだというのに、捨てられずにいた。私はこのノートを全て埋めたら、自分が凄い人間になれる気がしていたのだ。
食器ひとつにしても、もし「人」がきたらどう思うかという考えが頭に浮かんだ。
その「人」の意見を考えてしまう。すごくおかしな話すぎる。だって存在していない人間なのに?誰だよ、おまえ?という話だ。
私が所有するものだというのに、その「人」のことを考えてしまう。よくよく考えれば、普段からこの考えがでていることに気がついた。これは私の悪癖だ。
ここまで断捨離をしなければ、全く気がつくことはなかった。私は自分に自信がない。だから、その「人」という存在が常に頭に浮かび、許されるか許されないかを判断してしまう。好きなものを好きと言えない。
その「人」は関係ない。主役は私なのだ。