見出し画像

わたくしがYES

家族と自分を切りはなすことは難しい。
それは、たぶん幸せなことだと思う。
どうすることもできない。
もう、すでに繋がっているし、
細胞レベルで影響を受け、
こころのなかだけでなく、
自分の姿かたちだって、どうしたって似ている。

すべてが過ぎ去っていく。雨だけじゃないし、おじいちゃんだけでもない。
わたしも、ケヤキも、いずれ過ぎ去る存在なのだ。
そしてみんな、人も動物も、ものもすべて、
地球から発生してから消滅するまでの過程をしか生きられない。
はじまりもおわりも見られない。
すくなくともいっぺんには。

松橋裕一郎 わたくしがYES

この本では、著者が、かつて一緒に住んでいたおじいちゃんとの関係と、亡くなる一ヶ月ほど前の出来事、
そこから発生したあらたな気持ちを丁寧に紡いでいる。
こんなふうに見送られて、亡くなったおじいちゃんも幸せだろうし、しっかりと見送った著者も、まぶしく感じる。
いろんな立場を包み込むような文章に、わたし自身もあたたかくくるまれる感覚だ。

そのなかで、ひとつ気になる関係がある。
著者と母親との関係だ。

はっきりと覚えている。幼稚園にいくのがいやでぐずっていた四歳のわたしに、二十代半ばだった母が言ったのだ。
「ねえゆうちゃん、ママもつらいの。毎日、おじいちゃんたちにいじめられてるの」

松橋裕一郎 わたくしがYES

「もうやめて。ママにこれ以上、おじいちゃんを汚されたくない」
—「なによ。わたしがわるいっていうの
— あたしはねえ、あのじじいに苦労させられてきたの。泣いてなんてやるもんか」

松橋裕一郎 わたくしがYES

しかしわたしに、肉体を与えたのは、母なのだ。
むごいけど事実だ。じゃあ感謝をしましょうとか、運命でしたとか、そういう話じゃない。

—もう一度やり直せるとしたら—わたしはやっぱり、たとえ未来で、時間を返せとか咽び泣くはめになることがわかっていたとしても、
母の味方であろうとするのじゃないか。
母をひとりにはしないんじゃないか。

松橋裕一郎 わたくしがYES

著者が描く著者のお母さんは、
言葉遣いはワイルドなところがあるけれど、
すごく繊細で愛情深く、素直で、
我慢強いひとだと思う。

そしてそうじゃないと、いくら愛する夫の両親だからといって、
ひとつ屋根のしたでは暮らせないと思う。

いわゆる「嫁いびり」なんてなくても、
嫁いできた女性はその家にとって、
かわいいかわいい息子のお嫁さんであり、
かわいいかわいい孫のお母さんである。
ちゃんとやってるでしょうね、というような、
意識無意識的な発言や態度は、
いやでも全身で感じ取るだろう。
どんなに寛容な義両親であったとしても。
それが毎日つづくのだ。

母の料理はいつも過剰だ。
品数の多さだけじゃなく、味つけも激しい。
わたしはここに住んでいたころ、そんな母の姿を、例によって無償の家事労働をさせられている人、としか見ていなかった。だが、家を出てからわかった。
母はくいしんぼうなのだ。
自分がたべたいから作るのだ。

松橋裕一郎 わたくしがYES

たしかに、著者のお母さんは、
自分で色々食べたいのかもしれない。
けれど、大人数の食事に一品増やすことがどれだけ大変か。
材料も増えるから買い物も増える。荷物も増える。
下ごしらえの時間も増える。手間は何倍にもなる。
それを毎日だ。
自分だけのためにやれるはずがない。

この本には、著者の幼いころの写真が出てくる。
アルバムに丁寧に貼られ、
お母さんが書いたと思われる自作のイラストとコメントも貼り付けてある。
背景にうつる家のなかは、どこもすっきりと片付いている。

掃除はもしかしたら、他の家族もしていたかもしれない。
けれどやっぱり、偉大なる著者のお母さんの気持ちを想像せずにはいられない。

そして、わたしは自分の父のことを思った。
祖父をなくした母方の祖母、
つまり父にとっての義母に、一緒に住もうと自分から提案し、20年以上一緒に住んで、優しく接していたわたしの父。
祖母が高齢者住宅に引っ越したあと自分の故郷に帰り、祖母のお葬式に来なかった、父のことを。

いいなと思ったら応援しよう!