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帰納と驚き 第2章 グルーのパラドクス

 私たちは前章で、すべての知識が前提からの帰納によって獲得されることを確認した。
続く本章では、帰納推論の抱える欠点とされてきた「グルーのパラドクス」を例に「知識は、その対象を前提とした帰納によって得られるものでなければならない」ことを確認しよう。

 そのうえで、本稿において帰納に次いで重要な意味合いを持つ「物語」という概念にほんのさわりだけではあるが触れておく。


グルーのパラドクスの概要

 グルーのパラドクスは、1900年代のアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンによって提唱された、帰納推論が抱える深刻な欠陥を示すパラドクスだ。
まずはWikipediaのグルーのパラドックスの項を引用しよう。

“グルー(grue)とは、緑を意味する英語グリーン(green)と、青を意味する英語ブルー(blue)から作った言葉で、たとえば、「2050年1月1日までに初めて観察された緑(green)のものと2050年1月1日以降に初めて観察された青(blue)のものを指す言葉」と定義される。
グルーは、緑と青の切れ目にどの時点をとるかで無数の定義がありうるが、この言葉は「2050年1月1日までは緑、2050年1月1日以降は青を意味する言葉」と定義されたわけではないので、時間経過によって変化するような定義を与えたわけではない。
このとき「エメラルドは緑である」という命題について考えると、2000年の段階でわれわれが持つ証拠はすべて、同時に「エメラルドはグルーである」という命題の証拠でもあることから、この2つの命題は同じくらい強く検証されている。しかしながら、2050年以降に初めて観察されるエメラルドがどういう色を持つかについてはこの2つの命題はまったく異なる予測をすることになる。”

 以上の説明を簡単に図示すると以下のようになる。

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 ここで色の説明を簡略化するために、下記の簡易版の波長表を導入しよう。

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 Wikipediaの定義にしたがうと、グルーは「2050年までに初めて観察された波長400-499のものと2050年以降に初めて観察された波長300-399のものを指す言葉」であり、緑色は「波長400-499のものを指す言葉」なので、2050年以前である現在までに観察されたエメラルドA、B、Cに関して、前提1(エメラルドA、B、Cは緑色だ)と前提2(エメラルドA、B、Cはグルーだ)は「エメラルドA、B、Cは波長400-499のものだ」という同一の状況を示している。
前提1が正しければ前提2も必ず正しく、前提2が正しければ前提1も必ず正しい。

 しかし、2050年以降に発掘されるエメラルドの色に関して、各前提から帰納される結論は、引用にあるとおりまったく異なる予測をすることになる。
結論1は波長400-499(緑色)であると予測し、結論2は波長300-399(青色)であると予測するのだ。

 さらに困ったことに、この例ではたまたまグルーを「2050年までに初めて観察された緑色のものと2050年以降に初めて観察された青色のものを指す言葉」と定義しているが、「2050年」と「青色」の箇所に他の時間、他の性質を代入しても同じことが言えてしまうのだ。
「2050年」は「2051年」でも「明日」でも「1秒後」でもよく、「青色」は「赤色」でも「丸い」でも「ふわふわした」でもいい。

 そうすると、どうなるだろう?

 私たちは「未来に初めて観察されるエメラルドも緑色だ」と推論するのとまったく同じ仕方、まったく同じ正確さで、「明日以降初めて観察されるエメラルドは丸い」、「1秒後以降初めて観察されるエメラルドはふわふわしている」など、ありとあらゆるでたらめな推論をすることが可能になってしまい、逆説的に未来に初めて観察されるエメラルドについて何一つ正確に語ることができなくなってしまうのだ。

 結論2の「エメラルドはグルーである」を受け入れることは、帰納推論が未来の事柄、未知の事象を推し測る手段としてまったく機能しなくなることを意味している。

 しかし、現実はそうはなっていない。
私たちは帰納推論によって未来を予測し、そしてそれはかなりの確率で的中している。
日はまた昇り、花は実となり、四季は巡る。
帰納推論は確実に推論として機能しているのだ。

 これはつまり、「エメラルドはグルーである」という結論を導く過程のどこかに重大な間違いがあるということだ。
では、具体的にいったいどこが間違っているのだろう?

グルーの誤謬

 まずは、前提2→結論2の帰納推論の流れを検討してみよう。

 もし仮にこれが、

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という推論であったなら、帰納上の間違いは簡単に指摘できただろう。
結論には「2050年以降に初めて観察された波長300-399のものを指す」という前提にない余分な情報が個別情報の消去とは無関係に加えられているので、上記の矢印によって示される情報処理が帰納推論ではないことは明らかだ。

 しかし問題となっているのは、

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という推論だった。

 これは見てのとおり、前提から個別情報が消去され、残った共通項が一般法則として導かれている。帰納推論としてはまったく問題がない。

 では「エメラルドはグルーだ」がこの世界に関して妥当な知識と言えるかというと、やはりそういうわけにはいかない。

 どういうことだろう?

 実はこの帰納に関する本当の問題は、前提よりも前の段階に隠されているのだ。

 個別のエメラルドAの観察から、前提1や前提2のような認識にいたる過程に注目してみよう。

 一粒のエメラルドといえども、その純度や細かな傷、光のあたり具合などによって箇所箇所の色は微妙に異なっている。
仮に今、私たちの目の前にあるエメラルドAの色合いが427、433、438の三つの波長で見えているとしよう。
私たちはこの三つの波長の下二桁を個別情報として消去することで、波長4□□、すなわち波長400-499の緑色としてエメラルドAの色を帰納的に認識している。
この緑色の帰納において注意したい点が二点ある。
ひとつは、緑色をこのように帰納するに際して、私たちが対象となる色の波長数を知っている必要はまったくないという点だ。上記の例は、波長の近い複数の色をひとつの色として認識する際に生じる情報量の減少をイメージしやすいように具体的な数値を例示したにすぎず、実際私たちは波長の知識なしにさまざまな緑色を緑色と認識している。

 そしてもうひとつ。
400-499という区切りは帰納における個別情報の消去を表現しやすいように私が簡易波長表を工夫した結果にすぎず、したがって波長427、433、438が私たちのいうところの緑色に帰納される必然性はどこにもない。
この三つの色が含まれてさえいれば、例えば波長427-438のエメラルド色でもいいし、波長300-499の青緑色でもいいし、波長100-499の寒色でもいい。
第1章の終わりで示したように個別情報の範囲は恣意的に(この場合は色にまつわる歴史的文化的な習慣によって)決定される。

 以上のようにして、私たちはエメラルドAの観察から緑色を帰納することができる。
「エメラルドAは緑色だ」はエメラルドから帰納可能な、エメラルドについての知識なのだ。

 ではグルーはどうだろう?
再びグルーの定義を確認してみよう。
「2050年までに初めて観察された波長400-499のものと2050年以降に初めて観察された波長300-399のものを指す言葉」だ。
私たちの目の前には波長427のエメラルドAがある(簡略化のため波長433、438は省略)。
これのどこから上記の定義を帰納できるだろうか?
エメラルドAには当然初めて観察された日時がある。ここではエメラルドAが2000年に発掘されたものとしよう。
そうすると私たちはエメラルドAから「2000年に初めて観察された波長427のもの」という概念を帰納することができる。
ここから「2000」を帰納的に個別情報として消去すると、「ある年に初めて観察された波長427のもの」が得られる。
「ある年」というのは「2050年まで」あるいは「2050年以降」のいずれかに必ずあてはまるので、先の定義は「2050年までに初めて観察された波長427のものと2050年以降に初めて観察された波長427のもの」と書き換えることができる。
ここからさらに前半の「波長427」の下二桁を帰納的に消去することで、
「2050年までに初めて観察された波長400-499のものと2050年以降に初めて観察された波長427のもの」
という概念が導かれる。

ここまでの流れを図に示そう。

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 グルーの定義は「2050年までに初めて観察された波長400-499のものと2050年以降に初めて観察された波長300-399のもの」であったから、両者の違いはもはや太字の「波長427」と「波長300-399」の違いのみだ。
そして、この違いこそがエメラルドAからグルーという概念を帰納できない理由となる。

 先に記したとおり、波長427が波長400-499の緑色として帰納され認識される必然性はどこにもない。
波長427の色が含まれてさえいれば、例えば波長427-438のエメラルド色でもいいし、波長300-499の青緑色でもいいし、波長100-499の寒色でもいい。
しかし、どのように帰納しようとも、波長427から波長427を含まない波長300-399を帰納することはできない。
エメラルドAが有する情報からでは帰納できない波長300-399(青色)という情報が含まれていること、これこそがグルーがエメラルドから帰納できない理由である。
これはすなわち、私たちはエメラルドの観察からではグルーという概念を決して知ることができない、ということだ。
言い換えれば、グルーはエメラルドについての知識ではありえず、また「エメラルドはグルーである」はこの世界の知識ではありないのだ。

 エメラルドに対してグルーという概念を用いるためには、このパラドクスの提唱者がそうしたように、そしてそれについて頭を悩ませる私たちが常にそうしてきたように、グルーという概念を外部から持ち込むことが不可欠だった。
しかし、それをすることによって「エメラルドAはグルーである」はこの世界の知識ではなくなってしまい、必然的にそこから帰納される「エメラルドはグルーである」も(帰納推論としては正当であるにも関わらず)この世界についての推論ではなくなってしまっていたのだ。

 グルーのパラドクスは、正当な帰納推論とは何であるかを問う問題ではなく、正当な知識とは何であるかを問う問題だったのだ。
そして、その問に対する私たちの答えは、「ある情報が知識であるためには、それが対象から帰納可能な情報でなければならない」だった。
もちろん、これは帰納された情報であればすべて正しい知識であることを保証するものではない。
ある情報が帰納可能であることは、それが知識であるための必要最小限の条件にすぎない。
帰納された知識は、その他の知識との整合性や反証の有無、知識に合致する個別事例の数などによってその妥当性を計られ続けることになる。
そして、その過程で明確な反証を示されたなら、その知識は知識としての資格を失ってしまうのだ。

 とはいえ、帰納可能であることは決して譲ることのできない必要条件だ。
もしこの帰納可能性を問う必要条件を排して、グルーのような概念も知識の一端として許容してしまえば、第1節でも述べたように知識はその未知の領域を推し測る機能を完全に損なうことになる。
私たちはふたたび明日のエメラルドが何色をしているのかさえ見失うことになってしまうのだ。
 
 繰り返しになるが、ある情報が知識であるためには、それが対象から帰納可能な情報でなければならないのだ。

物語

 「エメラルドはグルーである」は帰納推論としては正しかったが、知識ではなかった。
これがグルーのパラドクスに対するひとまずの本章の結論だ。
しかし話はまだ終わってはいない。

 「エメラルドはグルーである」はこの世界の知識ではなかった。
では「エメラルドはグルーである」とはいったい何なのだろう?
「エメラルドはグルーである」は知識ではなかったが、ではまったく無意味な文字列かというと決してそんなことはない。
そうではないからこそ、このグルーのパラドクスはネルソン・グッドマンがその問題を提唱して以降、今日にいたるまで多くの人々を悩ませ続けてきたのだ。

 では、それはいったいどのようにして得られたのだろうか?
ここで再々度グルーの定義を確認してみよう。
「2050年までに初めて観察された緑色のものと2050年以降に初めて観察された青色のもの」だ。
エメラルドAの観察からグルーの概念を得ることができないのは先ほど確認したとおりだが、この定義自体は「2050年」「観察された」「緑色」「青色」など隅から隅までこの世界から帰納されたものによって構成されている。
「2050年までに初めて観察された〇〇のものと2050年以降に初めて観察された□□のもの」という形式の概念が帰納可能であることも前節で確認した。
つまり「エメラルドはグルーである」は、帰納された概念や法則の結合によって形作られた、現実とは異なる固有の意味を持つ何かということだ。

 私たちはこれとよく似たものを知っている。
言葉が文法に基づいて結合して作り出される、現実とは異なる固有の意味を持つ世界。

 すなわち物語だ。

 本稿ではこの「帰納および帰納されたものの結合によって構成される構造物」を広義の「物語」と呼ぶこととしたい。

 言葉が帰納の産物であることからも明らかなように、一般的な意味での物語もこの広義の物語のなかに含まれており、そして、この世界の知識である「エメラルドは緑色だ」も同様の理由でここに含まれている。

 世界から帰納されたものは互いに組み合わさって様々な物語を作り出している。その物語のうち対象から帰納操作のみで導き出されるものが対象についての知識だ。
グルーのパラドクスに関していえば、「エメラルドは緑色だ」と「エメラルドはグルーだ」はどちらも物語であり、「エメラルドは緑色だ」だけが知識に属している、ということになる。

まとめ

・ある情報が対象から帰納可能であることは、それが知識であるための必要条件である。

・グルーのパラドクスにおける推論は帰納推論としては正しいが、帰納推論の前提が対象から帰納不可能であるために、その帰結は対象についての知識ではない。

・本稿では、知識である「エメラルドは緑色だ」も、知識ではない「エメラルドはグルーである」も含めて、帰納および帰納されたものの結合によって構成される構造物を広義の「物語」と定義する。

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