知ることは一種の暴力である
今日は一日中、ベットの中で過ごした。
なにもやる気が出なかったし、理由は分からないがとてつもなく眠かったのだ。起きようにも身体が起き上がらないし、無理やり起き上がらせても眠すぎてフラフラしてしまう。
そのため、今日はベットの中にいた。
ブランケットの中にいると安心する。
ブランケットの温かさや手触りは、どこか懐かしさを喚起させる。ずっとこの中で過ごしていたいという思いにさせてくれる。
きっと、これを読んでいる皆さんにもこういう経験があるだろう。
例えば、ぬいぐるみやタオルが手放せないなんてこと。どちらも暖かくて、肌触りが良くて、安心感を与える。だから、手放せなくなる。
なぜ、私がここまで断定的に語れるのか。
それはこの現象に名前があることを知っているからだ。
でも、ここでは言わない。
すべての現象に名前があることが、素晴らしいとは思えないから。
確かに、全ての現象に名前があるということは分かりやすい。
分からないという恐怖感が無くなるし、他者とも共有しやすい。
すべてのことに言葉が与えられることは便利だ。
でも、言葉を知らないことによって生まれる美しさというものもあると思う。
私はブランケットに安心感を持つことに名前があると知らなかった頃の方が、より深い安心感に浸れていた。
自分の複雑な思いに名前があると知らなかった頃の方が、よりその思いに対して実直に向き合うことができた。
知識があることは素晴らしいことだ。
知らないよりも知っている方が生きやすいことも事実だと思う。
でも、知ることの暴力性、不可逆性も理解しながら知識に対して向き合って生きたいと思う。
ベットの中で何も知らずに生きていくことも、別に悪いことではないと私は言いたい。