日記

私が絵を描いたとして、その絵の真意を理解し、愛してくれる人の手に渡るのが一番良いと思う。
一方で、私の意図しない琴線にかかり、それが誰かの抱えるものに呼応するならば、それもまた良いと思う。
私の作るものは大衆という規模を相手取っていない。そんなこと出来ない。
人を傷つけないようにと配慮はするが、完璧なる配慮など無いとも思う。

悪意を持って歪められた時、それは私にとってとても不快だと思う。
私は自分に嘘をつくものは作れない。切実な動機が無ければ何も描けない。媒体は違えど、芸術を創る人間はそういうものだと思う。漫画であれ、脚本であれ。そう信じたい。

芸術を創る人間だけの問題では無い。受け止める人間の理性と、相互への敬意は、媒介する人間への教育は、足りているのであろうか。
本当に脚本家だけの罪なのか。利益を求め、商業化されたものを安直に享受してきたのは大衆ではないのか。
問題の根幹はまだ見えてすらいないんじゃないのか。

私は映画や舞台を観て楽しみ、時に批評をする。それらの作品は、誰かの犠牲ありきで作られていたかもしれない。私の楽しみ方で誰かを傷つけていたかもしれない。
そんなことを思っていると、気軽に芸術を享受することが怖くなる。本末転倒だ。
落ち込む。私は芸術もポップカルチャーも好きだし、素敵な作品に出会えば、それをもっと広く知られて欲しいと思う。
私は作り手としても受け手としてもアマチュア気分の抜けない一般市民だ。何も出来ないなりに、心を寄せて、忘れないように頭に留めておこう。

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