デカい穴閉店に寄せて。
デカい穴が閉店した。今から概ね12時間くらい前の出来事だ。デカい穴ってなんですか?と聞かれると説明が難しい。カフェバーだというとなんか違うし、イベントスペースだというのもなんか違う。店主太田さんの言葉を借りるならまさに「場」とか「部室」がちかいかもしれない。
そこに概ね2年くらい行ったり行かなかったりした。ぼくは熱心な客ではなかったから、行かない時期も大いにあったのだけど、それでも唯一無二の店であり、しんどい時期の精神的支えにもなった店であった。
そうした店が、7月4日を最後になくなった。いや正確には7月5日朝9時に引き渡しで、7月4日最終営業といわれながら、その実日付が変わっても名残惜しさにぼくらは帰れなかった。
緑茶をグラスに注ぎながら、カウンターの中から席を見る。試験官のバイトの時みたいに、教壇から学生を見るくらいいろんなものがよく見えた。
悪口村出身というネタを頻発してたくせに、びっくりするぐらい悲しそうな顔で泣き出しそうになっていた副店長。
ひたすら酒を飲んでいつも通りの話をしている知り合い。
片付けに勤しむ店主。
みんなバラバラのことをしながら、それらが全部同じ空間で、同じ時を過ごしている。
実を言うと僕はこのときヘロヘロで(前日も朝までいた)悲しいとかなんとか言う前に「デカい穴の「終わり」を見届ける」という思いでその場にいたのであんまり悲しい顔も出来なかった。
副店長が「なんだよ~青さんまだ泣いてねーのかよ~」といつもみたいにオラついてくれたのがちょっと嬉しかった。
流石に限界がきて途中毛布にくるまったり、酒がなくなったひとに今ある材料で作ってみたかったカクテルをミックスしてお出ししたりしながら、なんとなくその場に居続けた。
その内、1人減って2人減って、だんだん人が減っていった。時間もどんどんすぎていく。
今日の朝の9時にはここは引き渡され、デカい穴、という場所は無くなる。本当に。
多分、最後まで残ってしまったぼくたちは、デカい穴が無くなることを、本当に受け入れられなかったんだと思う。
寝たり起きたり、しんみりだべったり、終盤2時間になって、まだ全然ゴミとか私物とかあったから皆で回収したり片付けをしたりしながら過ごした。
片付けは非常に慌ただしく、ぼくは何となくこれはお葬式で、一つのグリーフケアなんだと思った。
話は逸れるが大学で仏教を学んでいた頃、葬式というのはなんであるのか?みたいなことを学んだことがある。学部の最初の仏教に親しむみたいな授業だったと思う。
それによると、葬式というのは死んだ人の為というよりは、生きている人間の為にこそ行われるのだ、という話を聞いた。生きている人間があとを追ったり、ひどい悲しみに暮れて日常に戻れなくなったりするのを防ぐために、わざと忙しく、手間のかかる儀式を行って、文字通り忙殺することで、悲しみを幾分か和らげ、その人の悲しみを軟着陸させる装置なのだ、というような話だったと思う。詳細はわすれたがおおむねはこれで合っていたはずだ。
実際ゴミとか多かったので、現実的片付けに忙殺されたが、それでよかったような気がする。
音楽が止まって、片づけが終わって、8時50分くらいにみんなで外にでて。
太田さんと写真を撮ったり、看板を撮ったりして、三々五々、みんな日常に帰って行った。
一番最後になると、きっとどうしていいか分からなくなるから、ぼくは早々にカブのエンジンを蹴って、家に帰った。風呂に浸かって、クーラーをかけて、布団に横になったあたりでとめどなく涙があふれた。
本当にデカい穴はなくなったのだ。
でも救いもあった。穴はなくなったが穴で出会った人との繋がりは残った。
ぼくも、ゆっくり日常に戻ろうと思う。