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七回忌

今まで書く機会も気持ちもなかったのだが、ちょっと書いてみようと思う。
昔話含みます。

この4月、ぼくがやっていたバンド「フラワーズ」のギタリスト長田幸二の七回忌だった。甲斐市にある寺で法要を行い、ベースの上野一郎と元THE BOOMのミヤも参列した。ボーカルの河野守は仕事の都合でその夜に合流した。
ミヤと幸二は同じ高校出身で、現役時代は「あまから」というフォークデュオ?をやっていたりした。ミヤのラジオにも定期的に出演していた。と記憶している。(一度ぼくも出演したような…)

幸二とは高校の頃からの付き合いだった。
当時のギター少年はもっぱらストラトキャスターかレスポールが主流だったが、幸二はワインレッドのテレキャスターを弾いていた。(レスポールも持っていたが)
しかも腰まで低く吊って、抑えめのディストーションがスタイルだった。
話すとなんとLed Zeppelinが好きとのこと。当時の甲府の高校生には珍しくブートレッグまで持っている入れ込み様だった。当然話は弾んだ。
そんなこんなでフラワーズでの活動が始まったのだった。

ギタープレイのセンスの良さだけでなく、独特なソングライトの才能があった。フラワーズの曲のほとんどを幸二が書いていた。(メンバー4人とも曲も詩も書いていたが)
CD 2枚を発表し、デビュー後によくある諸々でその後解散に至る。

解散直後、偶然にも幸二とぼくはそれぞれ違う病気で入院した。互いに疎遠になっていったので詳しくは知らない。幸二もそうだったし、ぼくもその時の病気を今も引き摺っている。そして何年か経ち、年に一度のライブをやる程度の活動を再開をした。
フラワーズを知るお客さんがまだいて嬉しく思ったものだ。

——

2016年のある日一郎からの電話で訃報を聞いた。ぼくは赤坂で飲んでいた。
電話の後の飲みの席での会話や家までの記憶はほぼない。ショックだった。
もうあの4人で音は出せないのだ。もうライブをやることもないのだ。ひたすら飲み続けた。しばらく音楽を聴くことができなくなった。

幸二の後を追うように、同じ年の同じ月、プリンスが世を去った。4月なのに雪が降った。Sometimes It Snows In Aprilだった。

石橋を叩いて渡らないタイプではあったが、才能ある男だった。
最後に書いた曲は原発の歌だった。いまならどんな曲を書いただろうか。
あいつが残した楽曲を含むフラワーズの曲はおそらくもう人前で演奏されることはないのだろう。こうして忘れられていくんだな。

そしてぼくは都心で暮らす理由を失っていった。

戦争反対

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