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人は自らの切り売りで創作をしている 



友人の招待で映画『コラン・ド・プランシーの万年筆』を見た。

主演は稲垣成弥さんで、稲垣さんの事務所であるAPSARAが企画・制作を行っている作品だ。


あらすじは売れない作家である須田尊(演:稲垣)がアンティークショップで古い万年筆を手にしたことから起こる奇妙な物語である。そう、まさに世にも奇妙な物語とかが好きな人は多分これも好き、っていう感じ。

新しい万年筆を手に入れた須田は早速新作にとりかかるものの、なかなか筆が進まない。とうとう寝落ちようかという時、須田の右腕(あるいは万年筆)は勝手に動き出し、ファンタジー作品を描きだす。

「面白い」、そう思った須田は原稿を出版社に提出するといつもは冴えない反応の編集者が大絶賛、そのまま大ベストセラー作品となる。

次回作を期待される須田だが、この作品は自分ではなく万年筆が書いたものである。困り果てた須田がふたたび原稿の前にした時、右腕は勝手に動き出して万年筆からとある提案をされる。こうして須田は万年筆に翻弄されていく……。

痛みを伴う創作

私は絵を描いたり文を書いたり動画を作ったり楽器を弾いたりTRPGでキャラクターを動かしたりという表現行為についてしばしばタイトルのようなことを考える。すなわち、「人は自らの切り売りで創作をしている」。

なにかしらの表現や創作をする時、そこには大なり小なり私の実体験が盛り込まれていることが多い。

劇中、須田は対価として大切なものを支払うことで万年筆が描く物語を得ている。これはもちろん、自らの切り売りの直喩だろう。

逆に母との電話の後、紙と鉛筆で須田が書いた物語というのは幼少期の思い出だとか母からの愛だとかそういうった須田の内面にあるものを切り売りしていることの暗喩である。

遺作を執筆する須田は「こんなに面白い話、見たことない!!」と歓喜の声をあげながら万年筆の物語を見届け、事切れる。稀代の名作が生まれたのは直喩(須田の器としての身体)と暗喩(えんぴつに象徴される須田の魂)のふたつを差し出したからなのだ。

なぜそうまでして人は表現に執着するのか

突然だが、わたしはすべての表現者は狂人であると思っている。わざわざ人前で「これ!私が作ったものです!見てください!」と言うなんて、スクランブル交差点で全裸になるのと等しいことである。

そう思ってもなお、人前に自分の表現を晒したくなるのはなぜなのか。これは表現者にとって永遠の命題だ。

ある人にとっては死後もなお生き続けるため、ある人にとっては死を超越するため、ある人にとっては呼吸。人によって答えは何千、何万通りも存在する。

えんぴつである須田はきっと、生来摩耗して消えてしまうはずの人物であった。本人もそのことは分かっていたはずだ。ところが万年筆という(手入れさえ怠らなければ)永遠に生き存えることができる異形と出会ってしまったことで人生が書き換えられてしまった。

須田にとってはもし、名が残るのであれば、命すら惜しくない、ということだったのかもしれない。

演技において一番好きである俳優

私の過去記事を読んだことがある人ならご存知の通り、わたしは以前稲垣さんのファンをしていた。いろいろあって今はそういうのではないのだが、久しぶりに稲垣さんの演技を見て「やっぱりこの人の演技好きだなぁ」というシンプルすぎる感想を抱いた。

聞いた話によるとラストシーンは一発撮りだったらしい。あの気迫と執念、どこかで……。思い返すのはもちろん朝夜2024A千秋楽だ。これほどの演技をする人を私はほかに知らない。

またいつか、そんな稲垣さんを見れたらいいと思う。

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