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3年越しの通知表


また朝彦と夜彦1987が再演される。


その報せを受け取ったのは12月15日で、わたしはちょうどLIVEに向かう電車に乗っていた。たまたま整番1番が取れていたLIVEでただでさえテンションが上がっていた。

前回の公演が終了してからもわたしは朝夜のTwitterアカウントの通知を取り続けていた。しかも公開垢と鍵垢の両方で、だ。鍵垢と滅多に通知がこない公開垢でそれぞれついた通知の1の数字。この3年間鍵と公開で同じタイミングで通知が付くと再演かな!?と沸き立っては落ち込むのを繰り返していた。だから今回も、もしかして再演かな!?と淡い期待を持って通知欄を見に行った。

そこにあったのは一新された見知らぬアイコンと朗読劇『朝彦と夜彦1987』の文字だった。ちなみに余談なのだが前回公演から今回の告知まで、あのアカウントは制作のGORCH BROTHERSのアカウントだった。

もうその瞬間からものすごい勢いで通知が来て、日付が変わるくらいまでAPIがまったくもって息をしてなかった。なぜならわたしが朝夜に命をかけていることをほとんどのフォロワーが知っていたので。

「あおさん、おめでとう!」「あおさんの好きなやつだ!」「チケ発手伝います」「わたしの推しがまた出るかと思ったら出なかった」そんなリプライで通知が埋め尽くされた。

3年前の上演時、わたしには友達が少なかった。一応舞台俳優おたくのTwitterアカウントは持っていたが、相互フォローは恐らくギリギリ2桁に届くか届かないかくらいだった気がする。なので当時はほとんどひとりで現場に行っていた。

そこからだいたい90人くらい相互が増えた。朝夜を知らないフォロワーのほうが多いが、そんなことを気にせずにわたしは数ヶ月に一度くらいの頻度で「また朝夜が見たい」「次は身内を全員招待したい」「身体が欲している、朝夜を」などと呟いていた。

はじめて朝夜に出会った時、わたしは稲垣さんのオタクをしていた。先述のように友達は少なく、ひとりで舞台を見てひとりで帰るようなことがほとんどだったが、稲垣さんの夜彦はとてもひとりじゃ抱えきれなかった。だから当時同担だったフォロワーに「終演後、お茶しませんか」と声をかけた。のちに「あおちゃんが自らお茶しようと声をかけるなんてその朝夜とかいうやつはよっぽどのものなんだね」と言われた。その通りだと思う。朝夜には人見知りのオタクを行動させる何かがあるのだ。

だからどうしても今回は友人と朝夜を見たかった。それも、特別大切な友人たちに。幸いなことに関東地方に住んでいて今回確実に見てほしかった友人は全員来てくれることになった。

思えば3年前のわたしは結構陰気な奴だった。生まれつきの希死念慮は消えないし、でもビビリだからもちろん死ぬことはできないし、閉塞感に苛まれながらなんとか生きるのをやめないよう必死だった。

それが、朝夜を見たら唐突に消えたのだ。心の中にずっとあって消えなかった大きな黒いもやがスっと晴れていくような感覚があった。初日の帰り道、わたしは六本木のまちをスキップして駆け抜けた。ああ、なんて晴れやかなんだろう!もしわたしがイエス・キリストなら年号の起点はわたしが生まれた時じゃなくて、2020年の朝夜の初日にしてほしい。それくらいわたしの人生の転換点となった。

実の所、この希死念慮が消えたという事象について、本当によいことだったのか今でも判断がついていない。いや、希死念慮が消えてくれたおかげでわたしはだいぶ明るくなった。俳優のファンをしている人の中で「身内」と呼べるような友達ができたし、フットワークも以前と比べて軽くなりやりたかった事に果敢に挑戦するようになった。でもそれが「よいこと」と言えるのはたまたま人様に迷惑をかけない範囲の行動をしているからではないのか。もっと踏み込んで書くならば、ある日突然すべてがつまらないと思った瞬間、ふらっと飛んでしまうのではないか?今のわたしはそれだけがとても怖い。

話を戻そう。そんなわけで朝夜のおかげで社交性を得たわたしは再演までの3年間で大切な友達がたくさんできた。各公演観劇日記にも書いた通り朝夜は大切な友達と見ることを推奨されている作品なので、その友達をわたしは呼べるだけ呼んだ。

「ぜひ見てほしい」と頭を下げた時の反応がみな一様に「あおちゃんをそこまで狂わせるのは一体どんなものなのか、気になる。招待を受ける」というものなのが面白かった。また、わたしではなく別の方の招待で見たフォロワーが「あおさんの感性と文章を信頼しているから、ぜひ感想を読ませてほしい」とツイートしていた。観劇後、呼んだ人たちはみな己の人生の中でも特に繊細な部分に触れた長めの感想を書いてくれた。

それらの言葉を見るたびにわたしは涙が止まらなくなった。大切な人が増えたこと。そういうことを言って頂けるような行動を3年間とれたこと。この3年間の通知表がそこに詰まっているような気がしたのだ。ああ、頑張って生きてきて良かったなと思う。


各キャストごとの感想

A 平野良さんと村田充さん──恐怖

初見時からずっと怖かった。朝彦のことが分からなくて、夜彦があまりにも亡霊で。なぜ朝彦は夜彦とあんな約束をした?この人らそこまで親しかったか?朝彦はずっとあの日救えなかった夜彦に囚われているように見えた。幻想の夜彦というよりかは亡霊の夜彦だ。

はじめ2公演は演技プランが緻密に作り込まれていたが、千秋楽にそれは化けた。朝彦が感情を乗せはじめて、夜彦にどんどん引っ張られて行った。劇場があれほどの静寂と緊張に包まれる体験をすることはそうそうない。あの場にいるすべての人が呼吸を忘れて音をたてまいとしていたと思う。2020A千秋楽とはまた違った方向性で2024A千秋楽はやばかった。語彙力がない事が本当に悔やまれるのだが、やばかったのだ、あの空気は。

Aを見せた友達はふたりだった。
ひとりは普段から2.5やらジャニーズやらいろんな舞台を見に行っているハピエン厨の友人。見ている作品数が多い友人によかった、と言われるのは素直に嬉しい。彼女いわく、観劇後に彼女に「どうだった?」と聞いた時のわたしの目はかつてないほど輝いていたらしい。

もうひとりはとある俳優のファンをしている友人。確か去年の去年の年間観劇数がとんでもない数字になっていた気がするので、彼女も観劇慣れしている友人だ。彼女は思考回路や行動指針がわたしとかなり異なっているのだが、なぜかその相違が面白く心地よくて仲良くしている。そういう人なので、彼女がこれを見てどう思うかとても楽しみにしていた。前述の通りわたしは初見時自分は夜彦だなあと思っていたのだが、彼女は「自分は朝彦だった」と言っていた。こんなところまで違うのか!でもこれをひとつの「作品」として見た時の感想は一致している。観劇前わたしは彼女に「予習はなにもいらない。ただ舞台上にいるふたりの俳優の演技を見るだけ」と伝えた。そして「余分なものが何もない舞台」、「それだけであることがどれだけ贅沢なことか思い出した」、と返ってきた。全然ちがうわたしたちがそれでもなぜ仲良くしているのか、その一端が見えたような気がした。

B 正木郁さんと溝口琢矢さん──呼応、そして融解

この2人は最初からずっとふたりでひとつだった。運命よりももっと大きな力で引き寄せられてしまった魂の片割れ。特にそう感じたのは3回ほどあるユニゾン台詞。すべての回のすべてのユニゾン台詞が怖くなるくらいぴったりと息が合っていた。わたしが今まで見たすべての舞台でこんなにもユニゾン台詞の呼吸があっていたことはない。それを聞いた瞬間、あ、このふたりは「そういうふたり」なんだなと思った。

今回一番上演回数が多いペアで、回数を重ねる毎によりふたりが密接になっていくのを感じた。それは正木さんと溝口さんの関係性もあるのだろう(このふたりにはシンメ曲があるとアミューズ知見有りフォロワーに教えてもらった)。

互いにとって最も美しく聞こえるタイミングで言葉を発する。芝居を受けてそれを返す。そんな呼応は千秋楽に向けて加速していき、最後には溶け合っていたようにも見えた。

Bを見せたのはAを見せた後者のほうの友人(Aがあまりにも異質だったのでこっちも見て!とおかわりさせた)と、かつて2020Aを共に見た友人のふたりだった。

Aを見せたほうの友人は終わると「全然違うね!B、誰も死んでない!こんなにも変わるんだ」と言っていた。そう、朝夜ってペアによって解釈が全然違うんだよね。それが面白いんだよね。朝夜の醍醐味のひとつ(わたしはこの作品の醍醐味は無限にあると思っている人類です)を感じ取ってもらえてうれしかった。

2020Aを一緒に見た方の友人は大千秋楽に入ってもらった。一応補足をしておくと、2020Aのペアは朝彦を佐伯大地さんが、夜彦を稲垣成弥さんが演じていた。当時わたしたちは稲垣さんのファンの友達だった。わたしが終演後にお茶しませんか……と誘った相手も彼女である。たまたま彼女の予定が空いていたこと、たまたま私が誘おうかなーと思ったのが大楽だったことがなんとなく運命的なような気がした。

もちろん彼女は朝夜の話を知っているし、なんなら何年か前に出版されていた脚本も持っている。見たことあるのは2020Aのみ。観劇後、「それでもやっぱり稲垣さんの夜彦の声が聞こえるね」という話をした。稲垣さんの夜彦の間。稲垣さんの夜彦の息遣い。稲垣さんの夜彦のしぐさ。わたしたちはせいぜい2、3回しか見ていないはずの稲垣さんの夜彦のすべてが鮮明に蘇ってくる。3年経っても忘れられない演技があって、それが共通するのがたまらなくうれしかった。

C 荒井敦史さんと健人さん──しんしんと降り積もる雪

朝夜ではじめましてのふたりが紡ぐCペア。初日は出会って4日目だったというが、それを感じさせない柔らかな朝彦と夜彦がそこにいた。
「思いやり」という言葉がよく似合うペアだったように思う。冒頭に夜彦を語る朝彦が本当に楽しそうで懐かしそうな表情をしていた。この朝彦にとって夜彦は亡霊でも幻影でもなく親友なんだと一目見て分かった。

このふたりの関わり方はまるでしんしんと雪が降り積もるような、そんな関係性を感じた。ほかのペアが激情を露わにしていたこともあり、よりその静かさが際立っていた。朝彦は夜彦の隣にいてただ話を聞き、そっと手を握る。夜彦は朝彦に声なき声で助けを求める。そんな感じ。優しさってきっとこういうことを言うんだな。

このペアを一緒に見たのは大学からの友人で、今回来てくれた中では最も付き合いが長い人であった。彼女は実は朝夜の筋を知っている。2020年、頼むから見てくれ配信だけも見てくれとわたしが頼み込んで見てもらったのだ。彼女も朝夜のことを気に入ってくれて、「この世に存在する舞台とか朗読劇とか、全部朝夜みたいなやつだったらいいのにね」とことある事に言っていたし、ふたりで飲む時にたまに朝夜架空キャスティング(この俳優とこの俳優の朝夜が見たい!というやつをそう呼んでいる)もしてる。

個人的に、この2024Cペアは今までで一番「親友」というのを感じた。だからわたしと一番付き合いの長い彼女と一緒に見たのがこのペアでよかったな、と思った。

D 桑野晃輔さんと加藤ひろたかさん──正解

今回唯一前にも出演したことがあるキャストのみで構成されていたペアだ。前回は出演されていなかったため私はこのふたりを見るのは初めてだったのだが、初日に観劇してまあ驚いた。
「朝夜スターターセットだ!」
たとえば今回だとAペアのように、これだけたくさんのキャストで上演されていると「癖が強いな」と思うような回も出てくる。その点、このDペアにはそういった癖の強さみたいなものがない。朝彦も夜彦も複数回目だから1周まわってスタンダードになったのだろうか。演劇に正解というものは存在しないはずなのに、どうしてかこのペアの朝夜を見ると「ああ、これが"正解"なんだろうな」と思えてくる。

朝彦は夜彦を真に理解できない。夜彦は死に怯えながら朝彦へと手を伸ばす。朝彦は夜彦を救いたい。しかし観客にはもっとどうすることもできないという悲しさ。そういう朝夜の筋書きがシンプルにも重厚にも伝わってくる素敵なペアだった。

Dペアを一緒に見たのは私より年上のお姉さんで、この人もたくさん演劇を見ている人だった。終演後どうでした?と聞くと彼女はぐったりとしていて、「なんか……疲れた……」と繰り返していた。忘れていた!朝夜って実は1回あたりの観劇で消費するカロリーがとんでもないのだ。ましてや初見、ましてやこの日は最前だった。そうだよね、疲れるよね……と言いながら次の公演が始まるまでの間ファミレスで栄養補給をした。

後日彼女が書いた感想を読ませてもらった。そこに書いてあった解釈が今までに私になかった視点でかなり納得のいくものだったため、紹介したい。

朝彦は、ムーを読んでいた。彼は『普通』じゃないものにすごく興味があったのかもしれない。夜彦のことをどうしても放っておけなかったのも、もしかしたらはじめは『普通』じゃなかったという理由で無意識に惹かれていたのかもしれない。

友人のブログより(転載許可済)


そうか、朝彦は「普通」ではないものに焦がれていたのか!とものすごく腑に落ちた。ペアによってはいくら長男気質とはいえなぜこんなにも朝彦は夜彦に執着するのか?と思うこともあるのだが、確かにこの理由ならわかる。人は己に欠けているものを求めてしまうから朝彦は自分に無いものを持った夜彦に惹かれるのかぁ。
すごく素敵な解釈を聞けてうれしかった。

朝夜とわたし

何度でも書くけれど朝夜の面白いところは見る人の数だけ解釈が生まれることだと思ってる。もっと言えば演じるキャストの関係性や年齢によっても変わるし、同じキャスト同士の公演でも違う回に行けばまた違ったものが見られるし、誰と一緒に見るかによっても異なる。

演劇は毎日生まれ変わる、という当たり前のことを改めて認識させられた。それはまるでわたしたちが何回生まれ変わっても同じことをしてしまうように。同じ言葉、同じ動きをしていても人生に100%の再現性を求めることはできなくて、唯一無二の人生となる。その認識がわたしはきっと「嫌いじゃない」。だからわたしは演劇が好きなんだ、と思う。


私にとっての朝夜とはなんだろう、ということを2020年からずっと考え続けている。

ひとつの答えとしてあるのは好きな作品だからということ。初見時、あまりにも良くて人の少ない六本木の街をスキップしながら駆け抜けたくらいには好きだし、3回しか見てないのにだいたいの台詞を覚えてしまうくらいには好きだし、再演されたので全通してしまうくらいには好き。余談だがわたしは朝夜を全通するためにテニミュ関立初日のチケットを手放した。関立は青学11代目卒業公演なので少し迷ったが、いまのわたしが求めているのはどちらか?ということを考えての上での決断だった。

そう、朝夜とはわたしの人生にとって不可欠な作品なのである。前回の公演がすべて終わったあと、わたしは朝夜の脚本をどうにかテキストで入手できないだろうかと調べた。過去に雑誌の中で収録されていたことを知り、すぐさま国立国会図書館に複写申請を出して入手した。それ以降、気分が落ち込んだ時に自分で声に出して台詞を読んでみたりなどしている。これはセラピーだ。鬱屈としてティーンズを過ごしてきた過去の自分を救うための行為だ。音読する箇所は毎回まちまちで、冒頭から読んでみたり逆に最後の場面だけ読んでみたり。当然ひとり2役なので声色を変えてみたりとかして。読んでいるうちに少し気持ちが落ち着いて、また日常に戻っていく。そうした日々を1年くらい続けて徐々に音読の頻度は減っていった。

朝夜セラピー。わたしは心理学だとか精神医学だとかについてはあまり詳しくはないけれど、「演じる」ことで多少なにかが改善することはある、というのを朧気ながら聞いたことがある。17だったか18だったかの夏、追い詰められていたあの時のわたしを、心に夜彦を飼っていたわたしを追体験して浄化する。それがわたしにとっての朝夜セラピーなんだろう。


3年前に身内向けの感想ブログの締めで己に「朝夜とはどんな作品か」というのを問うたことがある。当時の私は「希死念慮に対して優しさでもって寄り添う作品」と答えた。では今の私なら?
「すべての人に健やかな朝が訪れるよう祈る作品」
であると思う。わたしがそうであったように、今まで朝夜に出会った人も、これから朝夜に出会う人も。


初日にパンフレットを購入した。各キャストの初日を観終わったあと、アドベントカレンダーのようにそのキャストのコメントだけを読む、ということをしていた。そして全ペアの初日が終わったあと、さいごに演出の中屋敷さんのコメントを読んだ。パンフレットの内容については買った人の特権なので詳しく触れることはできないが、わたしにとって朝夜はまさに今必要なタイミングだった。2021年頃からわたしの人生は徐々に濃密になっていき、たくさんの楽しいこと、たくさんのつらいことを経験した。だからこそその絶頂のいま、また放課後のふたりに会えたことはとても幸福だったと思う。

千秋楽を終えてからの10日間。はじめの5日くらいはふとした瞬間に朝夜のことを想っては泣きそうになり、寂しくて涙を堪えながら仕事をしていた。まだあの屋上に心が囚われていたのだろう。そしてさらに5日が経ったいま、気持ちが日常に戻りつつあるのを感じている。とても幸せな6日間の公演期間だった。

でも、きっともう大丈夫。だって、またいつか私にとって最も必要なタイミングで彼らは会いにきてくれる。なぜだか分からないけれど、そんな確信めいたものがある。

だから、n年後の再演まで健やかに過ごそう。

n年後の自分が通知表に自信を持って10をつけられるように、小さな幸せの溢れる日々を送ろう。

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