ちょっと不思議なうちあけ話

私の一番古い記憶はちょっと不思議です。

私は当時3歳で岡山のある町に住んでいました。保育園に通っていたことや、関西から訪ねて来た祖父と、大原美術館で岸田劉生の絵を見たことなどは、残っている写真を見て、そうだったんだと自覚したもので、記憶として残っているものではありません。

これが自分の身に起こった事だったとはっきりと断言できるのは、その体験以降、今に至るまで何度も努めて思い出してきたからです。

4歳で父の仕事の都合で札幌に住んだときにも、「あんなことがあった」と思い出していましたし、その後半年で関西に移り、幼稚園、小学生と、自我を形成していくにつれ、ぼんやりとしていくその不思議な体験の記憶は、ある特殊な遊びと共に何度も思い出されました。

当時の家は小さな平屋建ての借家でした。家の前の道路はまだ舗装されていなくて、車が通るたびによく土埃が舞いこみました。庭には元は捨てられていた犬のジョンの小屋があり、ジョンは私が近寄ると嬉しそうに尻尾を振って、ジャリジャリと銀色の頑丈な鎖を引きずりながら顔を舐めに来ました。

その夜、私はお気に入りの袖口にひらひらのついたサクランボ色のパジャマを着ていました。幼児が起きている時間だったので、まだ8時をすぎたあたりだったでしょうか。外から何人かの大人の声が聞こえました。何かあったのかしら。ジョンも吠えだして騒がしくなったので、母が様子を見に外に出ていきました。私は部屋に一人で残されるのが怖くて、サンダルをつっかけて母を追って玄関を出ました。ピッピッとサンダルを鳴らして門柱まで駆け寄り、母のカーディガンの裾をつかまえて、母の視線の先を覗き込むため、門柱の左側に立ちました。

2軒先のブロック塀の端っこが、ぼぅっと青白く光っていました。近所の人たちが何人か同じように外に出てきてその光の方向を見ています。なんや、あれ。大人たちはそう言いあっていたのでしょうか。青白い光が揺れてどんどん大きくなってきます。ゆっくりと歩くようなスピードで光の輪郭が大きくなり、視界から夜の暗さが消されていくようでした。ゆれて膨らむその光が、塀を曲ってこちら側に来るのだと感じて、一瞬目を閉じました。悲鳴のような誰かの声が聞こえて、耳がキーンとなりました。

目を開けると、音が無くなっています。
側にいる母や隣人の大人達の声も、先程までけたゝましく吠えていたジョンの声も聞こえません。横にいるはずの母が居ないように感じます。
不思議と、怖いとは感じませんでした。ただ自分がこちらに向かってきた青白い光のちょうど真ん中に入っているみたいに感じていました。光は光だけでそのままゆっくりと動いていて、私を通り過ぎようとしているようです。周りに人がいるかいないか、もうわからないけれど、光が通り過ぎていく時間がとてもスローで自分以外の全部が止まっているのを感じていました。

覚えているのはそこまでです。

”不思議”という言葉に出会うのは随分後になりますが、このことは夢で見たことではなく体験したこととして自然に受け止め、「お昼にお茶漬けを食べました」というのと同じ感覚で、日常の出来事の中に埋もれていきました。一緒にいて同じ体験をしたであろう母に、この時のことを聞いてみたのは私が大きくなってからです。そんなことあったやろか、覚えてへんわ。で、おしまい。

小学生の低学年まで、時々特殊な遊びをしていました。トイレットペーパーの紙をくるくると長く出して、その一枚を一羽の鶴のような鳥に見立て、フワフワと空中を泳がせる遊びです。2羽、3羽と続けてトイレの狭い部屋の中を白い紙が舞います。
強く思うことで、紙はいつまでも下に落ちてきませんでした。

このことを不思議とは思いませんでしたが、念のため親にも友達にも言いませんでした。私にはこれが独りだから「できる」ということを知っていました。そしてこの遊びが、あの光の記憶と何等か結びついているということがわかっていました。

鶴を飛ばしていた頃の自分と同じ年齢になったわが子をみていると、君にもいま自然とできてるよく考えると不思議なことや、言葉にできない現象が見えていたりするのだろうか と考えます。

自分にとっては、まるでお茶漬けをサラサラとたべるように、他愛のない不思議なこと。あったなら、それを大切に覚えていてほしい。

自分がいつから鶴を飛ばせなくなったのか記録しておけばよかったな。





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