T子さんのこと
ぽつりぽつりとインスタに花の写真がアップされる。クリスマスローズ、ミモザ、マーガレット、アジサイ...。 映し出される花は季節の移ろいと共に変わっていく。
花の後ろにT子さんの生活の輪郭が少し透けて見える。室内に活けられたそれらの花々は、T子さんの亡き夫であるタケシさんの遺影に飾られたものである。
タケシさんが亡くなったと知ったのは、その年の暮れ。T子さんから届いた喪中はがきと、それに添えらえたタケシさんからの言葉だった。友人も少なく、人間関係に不器用な私が本当の兄のように慕っていたのをご存じだったT子さんが、タケシさんに成り代わって最期の言葉を綴ってくれていた。
”元気で毎日をすごしていますか~?突然でごめんね。びっくりさせたね。僕もびっくりしてる。もっと生きるつもりやったから。・・・・・・” それは間違いなくタケシさんの言葉だった。
その年に入って急な病に襲われたこと。
辛くなって入院してからも、病状が少し楽になったら看護婦さん相手に趣味のギターを披露して喜んでもらったこと。症状は進んだけれど、最後はだんだん苦しいのもなくなって、えらい眠くなったこと。T子さんが側にいたからそのまま安心して眠ったよ。と。
嘘やろ?嘘やろ? 何度も文章を読み返しながら、冷蔵庫に手をついて自分を支えた。寄り掛かかったまま、数十年ぶりに涙と一緒に声が出た。
うううぅぅ・・。
心配した小さい家族が驚いて駆け寄ってきたけれど、声を絞りだせるだけで「死んでしまった」という言葉を出したくない。嗚咽しながら「俺ら二人(タケシさんとT子さん)は、二人でやっと一人前のもう相方みたいなもんやから。」と言っていたのを思い出した。もたれた背中に冷蔵庫の扉が冷たかった。
タケシさんが亡くなるちょうど1年前。
その少し前に、10万人に一人という病を患って手術を経て克服した私は、退院を控えた病室で、1本また1本と身体から管が外され、自発的な生というものともう一度向き合う時間の中で ”会いたい人に会いに行こう”と決めていた。
退院後しばらくして、以前勤めていたデザイン会社の職長から周年の祝いをするから、来れたら来てねと連絡をもらっていた。
私がその街を離れて12年になる。この機会をつかえということなのだろうと、啓示のようにとらえて、その会に参加する事にきめて、その催しの後にになるが二人にお会いたいのです、とタケシさんに宛ててメールを送った。
久しぶりの故郷には、あの激震に襲われた面影がもうほとんどのこっていない。
故郷を離れるとは、それがどこであっても少なからず変化に気が付いて心象を揺さぶられる事ではあるけれど、壊滅後の強制的な街のリセットは、そこで暮らしていた自分との対峙に時間を要する。
ただ、ここは海と山にはさまれた港町である。どうしても感ぜずにはおれない、「よそ者」になってしまったという思いが、海や山に目を移すことで少しだけ押しやることができる。
タケシさんが待ち合わせの場所に指定したのは、埋め立てて人工的に作られたものではあるが、穏やかで懐かしい海と山が見渡せる美しい浜辺だった。
「おかえり」
二人はその場所で待っていてくれた。
あたたかく懐かしいイントネーションに包まれた。彼らの自宅からは自転車でほど近いこの浜辺は、以前にも連れてきてもらったことがあるのだ。
多趣味なタケシさんは今熱中していることを、たっぷりの思いを乗せて話してくれる。それをT子さんはすこし呆れながら笑顔で聞いている。タケシさんがギターを弾き、T子さんがそれに合わせてハミングする。なんて穏やかで心地よい夫婦なんだろうと、二人の関係を心底うらやましいと感じた。
久々の再会の挨拶をそこそこに、落ち着ける場所を探そうと自転車に乗ったT子さんが突然そのまま横に倒れた。足がからまったようだった。そのまま起きられないでいるT子さをタケシさんが介助しているように見えたのが奇妙だった。
砂浜の階段にやっと腰をおろしてから、「びっくりした?思い通りに手足が動かんようになってしまうねん。」とT子さんは自身のある病名を告げたのだ。
町を離れてからはSNSでしかつながっていなかったようなもので、お互いのインスタで近況が伺える事でなんとなく安心感していた。
積極的に発信するようなタイプではない無精な私でも、アップされた写真にハートを付けるだけで「見ましたよ=存在していますよ」とアピールできる。
タケシさんの写真には、彼の趣味の世界観が変わらず平穏に綴られていたのだ。T子さんの深刻な病に対峙しながらも、二人の日常は変わらずに穏やかに切り取られていた。
でも、私もそうではないか。
自分の病気が発覚してからの細かい心情はSNSにはUPしてこなかった。そういう主義としてだ。急に会いたいと連絡したのはね、と今回の経緯に至った自分なりの事情はメールで初めて直接報告したのだ。いろいろお互いあんねんな とタケシさんは返事をした。
あの時の穏やかな夕方の浜辺の時間を何と言おうか。海風が邪魔をして波の音は遠くここまで届かない。
互いの病気や近況をぽつりぽつりと語らって、こうして私が会いに来たということはすごいタイミングできっと意味があるんやな。と皆で笑った。
T子さんが、ここのおいしいねんでと出してくれたおしゃれな油紙に包まれたカレーパンを三人で頬張り、フランスびいきのタケシさんが選んだ白ワインをグラスに入れて乾杯した。
空が橙色から紫色に混じる頃になっても、タケシさんが弾くアコースティックギターは鳴りやまなかった。
ずっとここにおりたいな。
忘れたない時間やな。
覚えてような。
誰かがそう言ったあとに、また誰かが同じことを言った。
今まで自分達が過ごしてきた時間のかけがえのなさ…。難しい事がこれからもいろいろ起こっても、T子さんのこれからをタケシさんはこういう時間の中で見守っていくんだね。
私も、この繋がった命の先を生きてみよう。
紫の空が濃くなってその静謐で美しい時間が去っていった。
インスタのアカウントは、もともとタケシさんのものだったのを、彼亡きあとにT子さんが引き継がれたようだ。
「相方」だった二人は、共通の友人知人も多い。一見、どこからがT子さんがアップしたものかわからないほど二人の世界は自然と繋がっていた。
でも。でも。
境界線はぼやけても、それがT子さんが綴ったものだとははっきり分かるのだ。テキストにはなったいない声が、その写真から聞こえてるから。
タケシー!タケシー!とT子さんの声が写真から聴こえてくる。
タケシさーん。T子さんが呼んどうよ。
きっといまもそばに居るだろうけど。
T子さんのことみててね。こんなにいつもいつもタケシさんを愛してるといってるよ。
ミモザの写真のこちら側で、二人分の今日を生きているT子さんを私も想っている。
長い文章になってしまいましたが、書いておきたい事でした。
お読みくださり本当にありがとうございました。