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ふーん。だから?

ラッシュアワーより少し早めに家を出て、
勤務先の最寄り駅近くにあるこじんまりとした喫茶店でホットコーヒーを飲み干す。
それが朝の儀式。今日もいちにち働くぞ。
ご老人は朝が早い。
目覚めの一杯は、馴染みの店でと決めている。
「いつもの」と言えば、目の前に運ばれてくる。
コーヒーにプラス60円でトーストとゆで玉子付きの
モーニングも注文出来る。バターかジャムを塗って貰う。何も言わなければバターだ。ジャムのお客は常連で顔ぶれは決まっているので、手練れのホール係は客を見ればわかる。皆まで言うな。わかってるってば。
いつもの、でしょ?
キッチン係もここに長くいるから、モチロン言われなくともわかっている。でもホール係の威勢のよい「オーダー入ります!」の声は、慌ただしい店内を明るくさせた。
「君はよく動くね。」客のひとりから声をかけられた。
「ありがとうございます。」ニコッと接客スマイルを
向ける。手練れは、サービス業は「おままごと」だと
割りきっている。「お店やさんごっこ」だと思えば、
キショい客もムカつく客もまた百代の過客なのである。
さて、なぜかこんな朝っぱらからカウンターに陣取ってこの店最高値の「焼き肉定食」を喰っている客がいる。こんなことはあまりない。絶対ないこともないだろうが、自分が勤務中のときには、初めてだった。
見慣れない客だ……。オッサン、としかホールの中には
カウントされない。
しかし、その「オッサン」は、おもむろに店を出て行った。あわてたホールはキッチン係に「あのここにいたお客さんから代金受け取った?」「?いいや?」
キッチン係の彼は訝しそうに首を振った。
ふとりとも同時に声を揃えて、
「食い逃げ。」と顔を見合わせた。
「ちょっと、わたし追いかけてくる。」
足早に店の外を走るホール係の彼女は、眼前に
さっきの食い逃げ犯の背中をキャッチした。
ターゲット捕獲。後ろから、すぅっとさりげなく近づいて何気ないフリをして、オッサンの隣に並んでそのまま何歩かいっしょに歩みを共にする。
ホールの彼女は手練れである。百戦錬磨である。
完全無敵なのである。
「風が気持ちいいですねぇ。」
「え、ああ、あなたはさっきの喫茶店にいた……」
「はい、あの、大変申し訳ないのですが……、そのお代を頂戴するのを忘れていまして……。」
「え?あ、それはそれは。こちらこそ、うっかりしていました。もう一度お店に戻ってきちんとお支払いします。」「すみませーん。ご足労かけて~。そうして頂けると助かりますぅ。」
心の声(食い逃げヤロー!!)
「あの……、」オッサンが何か言いかけた。
「ハイ?」
「失礼ですが、貴女のお名前を教えていただきたいのですが……。」
心の叫び(キッショ、マジ、きっしょ。気持ち悪い~。
イヤだなー、イヤだなー。教えたくないなー。そうだ!キッチン係の男のコの名前教えちゃお。)
「あ、わたし、Kです。」
オッサンは、きちんと精算を済ませて何度も謝りながら去って行った。
次の日、ホールはバイトは休みだった。
盛大に朝寝坊して、自分のために時間を使って有意義な休日を過ごした。

その次の出勤日、店長に呼ばれた。
「Rさん、この間、食い逃げされかけたんだって?」
「あー、ハイ。でも説得したらすんなり払って帰って行きましたよ~。」
「いやー、実はね……。」
「?」
「Rさん、自分のこと、K君だって名乗らなかった?」
「ハイ、名前尋ねられて怖かったので。」
「実は……。」
ホールが休みだった日、その食い逃げオッサンが
「Kさんに、ご迷惑かけたお詫びにケーキを買って来たんですが……。」と本当にケーキの入った箱を持って
店を訪ねて来たのだった。
そのとき、店内にいたキッチン係のホンモノのKは、
何も知らなかったので、
「Kは、僕ですが。」
と答えたら、オッサンは膨れて帰って行ったそうな。
それを後日談として聞いたホール係のRは、
「ねぇ、ケーキは?ケーキはどうなったの?」
「貴女にあげたかったみたい、持って帰ってったよ。」
あー、ケーキ食べ損ねた。

備考/トプ画のアート作品の作者さんは、

長田沙央梨さんです。

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