不快の共有は難しい
電車で子供4人、お父さんの親子連れが乗っている。そのうちの一人の子供が靴のままで座席のシートに足を置く。靴のままで座席の上に足を置くのはちょっと…と"不快"に思う。
こういう風に自分の抱えた"不快"を人に共有する、注意するのはとても難しい。なんせ自分の感じている不快を相手は感じていない可能性が高い。だから、その行動してしまう。その相手に「自分は人が不快に感じることをしているので、辞めよう」と思わせるのは簡単ではない。
例えば子供の場合は、「足を座席に乗せたらあかんよ!」と怒るのは簡単だが、急に子供に怒鳴ったり注意する大人にだけはなりたくない。ではお父さんに注意するのがいいのか、と言われると自分の父親が関係のない人に自分のことで他人に注意を受けるのを子供目線で想像するといたたまれない。それにお父さんは何度も注意しているけど、中々言うことを聞いてくれないから仕方なくそうしているのかもしれない。10分くらいの電車内で靴を脱がせて、ぐずられてもなと思い泣く泣く目をつむっている可能性もある。ややこしいのは、逆に申し訳ないという気持ちすらない場合で不快に感じる感情を共有できないから、注意すれば必ず口論になるだろう。
それに不快に感じるのがおかしいケースもある。子供が電車で靴のまま座席に足をおいても、「子供だから」と不快に思わない人もいると思う。それにネットでは、不快だからって言ってそこまで大きな出来事でなくても袋叩きにする惨状を私達はなんども見てきた。"不快"は人それぞれの感世界によるので、世界中で共有されているわけでもない。
だから不快を感じても伝えない方がいいのか?とも思う。むしろ鍛えるべきは、その場の常識を自分は守りつつ、常識破りな相手に何も感じない鋼のメンタル。
けどそれだと不快で非常識なことをしてきた者勝ちで不公平では?と思い直したりする。なぜ不快なことをしてくる人に合わせてこちらが生活しないといけないのか。けど不快にはやっぱり、それぞれの事情とそれぞれの感情がある。堂々巡りし続ける。
不快の共有は難しい。
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