違いと変えることと変わることのはなし
海外に住む友人から、
「お願いしたいことがあるから話したい」と
深刻そうな連絡がきた。
すぐに日時を合わせて、スカイプ通話をした。
半年ぶりの会話。
最初の1時間ほどは、
お互いの近況報告。
社会の様子や、子どもを取り巻く環境のことや、
この状況下での生活の変化などをあれこれ話した。
そして本題。
それは、とても重たい内容だった。
あまりに、わたし自身と彼女の価値観が異なる、
感情の話だった。
彼女の焦りや恐れが、手に取るように見えた。
それは何かをとても狭く苦しくしていた。
そして、彼女からわたしへのお願いは、
どうにも受け入れられないものだった。
「あなたなら、引き受けてくれると思った」
「瞑想であなたの顔が降りてきた」と
何度言われても、わたしのこころは微動だにしなかった。
ただそこにあったのは、
「違い」ということだけだった。
彼女の現状の思いや考えを否定するわけではない。
その違いを許容し、流した。
あなたはそう思うんだね、と。
わたしはそこには留まらないし、手を貸すこともない。
ましてや、こころを引っ張られることもない。
ずっとむかし。
まだ彼女と出会って間もない頃。
彼女が言っていたことばを、わたしはずっと覚えていた。
彼女は、スピリットと話すことを日常としていた。
目に見えない世界とつながる先天的な能力を持っていた。
そして彼女は言った。
「この先、もしわたしが、
わたしのちからを間違った方に使っているようなことがあったら、
遠慮なくはっきり教えてね。
自分では気づかなくなってしまうものだったりするから。」
そのときのわたしは、「へぇ〜そういうものなのか…」と思って、
そのことばをあたまの片隅に置いた。
今回のことも、
はたから見て、どうにも平常心でない彼女の姿が見受けられたのだが、
それは、むかしからの彼女の言動の端々で、
小さくも、見受けられてきたことの延長と拡大とも言えた。
わたしは思った。
わたしが何かを変えようとか、
変えさせようとか、
どうにかこうにかしよう、ということは
何も作用しないだろう。
変わるのは、
変わることを受け入れる、
その本人でしか、起こりえないのだから。
そう思ったら、
はた、と気づいた。
わたしが普段させていただく施術も同じだ。
エネルギーでも施術による変化でも、
それを受け入れるか、否かで、
(その素地、土台を持つかどうかで)
その効果の現れは、ずいぶんと異なるものになる。
その後の変化も。
あー。
世界って、本当にシンプルだ。
こころのとびらをいつでも開いておく、
というのは、この素地をいつも持っておく、
ということなのかな、と、
ようやく娘の語ることばの意味を
少しずつ理解しはじめた。