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23.「言葉の刃」ではなく「言葉は刃」

今月、上司が退職すると聞いた。先週だったかもしれない。職場の電子掲示板に退職のお知らせが出た。「OO、退職。」これでは何も分からない。多分、先週だったのだろう。

「異邦人」に似せて

カミュの「異邦人」になぞらえて書きたくなるほどに、それは衝撃だった。本当のことだった。
聞いた後、困惑とほぼ同時に私の所業に慄いてしまった。

「ああ、これは2例目だ」

思い至った所業についてと、解釈について語ろう。


今から1年ほど前に、職場のある福利厚生について変更する計画案が、人事部より公表された。
詳しくは省くが、私含めて都市部に住む人間にとって不利な変更であった。
その計画案を、人事部から会社の労働組合に提示し、人事部と労働組合との交渉で計画案を承認する流れで取りまとめることとなった。
労働組合の構成員は、地方の人間が圧倒的多数であり、都市部の人間に不利な変更であったが「変更内容は地方には関係ない。この時点で会社側と対立して印象を悪くするより、春闘での賃上げ交渉を優先したい。都市部の組合員には残念だが、この計画案で承認する」と労働組合は結論づけた。
結果、人事部の思惑通りに計画案が承認、福利厚生は今年変更されることとなった。

私は結果そのもの(都市部の会社員に対して不利な変更)については、納得しなくもなかった。
しかし、人事部の交渉の仕方はとても納得がいくものではなかった。
というのも、労働組合を通じて交渉するやり方ではそもそも人数の少ない都市部の人間に圧倒的に不利な交渉にならざるを得ない(組合員の8割以上は地方の人間のため)。
その上、人事部がなぜそのような福利厚生の変更をしたか?その内容について交渉の余地はないのか?と言った、「人事部と都市在住の人間が対面して」議論を行うことを最初から回避したためである
対面的に議論をした上で、「提示内容で致し方なし」となったならば納得のしようはある。
会社側にも言い分はあるだろうし、お互いが思いの丈を合わせる「時間」を共有することは、会社のナラティブを再編し、共有可能な信念に到達する可能性がある。
なんだったら、「今まで提供していた対象の福利厚生を様々な理由から取りやめざるを得ない」という、そもそも福利厚生自体がなくなる計画案にも(困難はあるだろうが)同意する用意はあった。

残念ながら、そのような「お互いに顔を見合わせた」関係は、望めなかった。
「このような、初めから対面の議論を避けた意思決定では、これから先、会社と私たちのナラティブは悪化する一方になってしまうだろう」
そのように結論づけ、以上のような私の解釈を上司に伝えた。
「この先、私はどうすればいいのでしょうか?」

上司の答えは、「なるほど、そのような情熱があるならば労働組合にて会社と交渉を君はすべきだ」というものだった。
やはりそれしかないか、そう思って上司には相談に乗ってくれた感謝を伝えてその場を辞した。


1年後、その上司は退職の意思を固めた。

そして私は上司が退職することを知ったその時、「あの時、会社への私の解釈を伝えてしまったことが上司の退職への意思を後押しするトドメになった」ことを覚知した。
そしてこの流れは、私が職場の人間の退職の意思を後押しした2例目であることに違いないと思い至ったのである

1例目は、入社して間もないころ、研修の際に付き合いのあった人事部の先輩(入社10年目くらいだったか)だった。
研修を通して、どうも私の意見や解釈などがその方の琴線に触れたらしく、その方から「先生」と呼ばれることになってしまった。
思い返して見ても、何が決定的だったかは分からない。
ジャック・ラカンが言うには「教師は教える側に立つならばいつだって教えられる」そうだから、きっと何ごとかを教えていたのだろう。
そして、その1年後にその先輩は転職してしまった。

この2例に渡る「私の言葉が、他者の退職の意思を固める契機になったこと」について、次の解釈を私は行った。

会社や社会といった組織やものごとを言葉で深く<切る>ことを通じて、他者の価値観自体も同時に<切る>ことになった。そのように他者の価値観を切ることで、これまで言葉にならなかった会社や社会への思いが言葉として把持できるようになり、最終的に他者の意思を変えてしまった

人でないものごとへの批評を通じて、うっかり話し相手の現実までも切ってしまったのである
もちろん、本人に対して隔意は全くなかった。
尊敬すらしていた。
しかし、私の批評は二人の「現実への漠然とした思いなし」に、言葉という<刃>によって切り込みを入れ、「言葉によって切り取られて形を得た<現実を説明する構造>」をもたらす契機を与えてしまったようだ。

この考えは傲慢なのかもしれない。
1例だけならただの偶然、ただの妄想で片付けられただろう。
だがしかし2例目が出てしまった。
2例も提示されてしまったら、そこには何らかの謎があると疑われる。
ゆえに、「これは偶然ではない」と私に確信させることになったのである。

「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭のたしかなものはない。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」

ソシュール, 「一般言語学講義」

ソシュールの言葉通り、言葉とは「すでにあるものに対して名前を付けること」ではなく、「非定型で星雲上の現実を切り分けること」である。
ジャック・ラカン的には、象徴界における<意味するもの>=<シニフィアン>=<言葉>と、想像界における”意味されるもの”=”シニフィエ”=”思い浮かべるイメージ”のセットが、我々の言語活動である。

例えば<犬>というシニフィアンに対して、”4足歩行でわんわん鳴く動物のイメージ”を紐づけているのが私たち日本人である。
<犬>という現実を切り取る道具によって”4足歩行でわんわん鳴く動物のイメージ”が我々の認識する現実(正確には、現実を説明する図像的虚構)となっているのである。

<ポルフィリン>というシニフィアンを持たない読者の皆様に置かれては、そのような言葉で示される”イメージ”を取り持てず、皆さまの現実認識には「そのようなものは存在しない」が、私は”ピロールが4量環化した色鮮やかな顔料として働くことの多い化合物のルイス構造式”がイメージ的に取り持てる。
一方で<ポメラニアン>というシニフィアンならば、”茶色の毛玉のような犬の一種”のイメージを取り持てて、「そのようなものは存在する」と確信できるはずである。
しかし、<ポメラニアン>という言葉を学ぶ前は、”茶色の毛玉のような犬の一種”を見かけてもそれは”茶色の毛玉のような犬の一種”でしかなく、<ポメラニアン>とは呼ぶことができない(そのような言葉は、その時点であなたの中になかったためである)。
<ポメラニアン>という言葉を知り、”茶色の毛玉のような犬の一種”のイメージと紐づくことではじめて「わたしのうちの<ポメラニアン>超かわいいの!」という言葉で名指されるものが何物かを想像できるようになったはずである。
現に皆さまのほとんどは「僕の作った<ポルフィリン>がすごく不安定で……」という言葉から一体何を話題にしているか想像することはできない。

このように、言葉は[現実を切り取り、イメージとして私たちが取り持てるようにするための刃」としてつねに働いているのである。

暴言や脅迫によって人を傷つけることを「言葉の刃」などと呼称するが、実はこの呼び方は同語反復に過ぎないことが分かる。
正しくは、「言葉は刃」なのである。コナン君も映画でそう言っている。
そもそも言葉自体が、複雑で猥雑で煩雑なとりとめのない現実をなんとか理解するために「切り取って」私たちの頭の中で連鎖的につながりを持たせる(このつながりを持たせる作業は私たちの無意識が担当しているようだ)ことで”想像的に”理解するための道具なのである。

そして、私が二人の尊敬する職場の先輩に退職を決意させる契機をもたらしてしまったのも、おそらくは<現実を切断し、的確に状況を説明する言葉>という刃を意図せず振るってしまっていたためなのだろう。
切り込みを入れる対象こそ当人ではなかったが、「言葉は宛先に届いてしまった」のだと思う。
この所業に気づいた時、私は自身の言葉の切れ味に恐れおののいた。
あまりにも綺麗に現実を切断した結果、他者の<現実>まで切断してしまうことになったのだ。
おそらくは元々、あの二人は会社に対して何らかの不満があったのだろう。
ただ、その漠然とした不満に言葉という切断作業を私がもたらし、分かりやすい形を与えてしまった結果、決意を後押しすることになったのだと思う。



ここ一年ほどで、「我々の考える<現実>は、生々しい現実そのものではなく、<言葉によって形作られた虚構>に過ぎない。ただ、その言葉は現実をどの程度うまく説明できるか、どの程度現実を変える力があるかの程度差があるだけである」と考えるようになった。
人の数だけ<言葉の構造で出来た現実という名の虚構>があり、人の生まれ育った環境や接してきた言葉が違えば、その虚構もまるで別物になる。
その虚構の中で、<他の現実では代替不能な言葉>こそが、私たちの個性(ラカン的には特異性)であるらしい。
そう思いなすようになった。

であるならば、私たちがなすコミュニケーションというものは「他者の虚構に<切れ込み>を入れて、新たな虚構を相手の心の中に形作ろうとする、相互に刃を向けあう試み」ではないだろうか。
その切り方が大いに他者の虚構をぐちゃぐちゃにしてしまう「切れ味の悪い切り方」の時、人を精神的に傷つける悪しきコミュニケーションとなる(つまり暴言やパワハラである)。
一方で「美しくすっぱりと切れる切れ味鋭い切り方」の時、人は自身の無理解や臆断を切り捨てられ、より自由で可能性の多い虚構を手にできる良いコミュニケーションとなる(つまり諭しや教導、相互理解である)。
思わずはっとなる、冴えた言葉というものは、切れ味の美しいものである。現実を切り取り、人の<現実>という虚構すらも切り取る仕方で変えようとするのが、私たちの言葉なのだ。
いつだって取り扱い要注意な刃物だったのだ。
今、Noteにしたためているこの言葉ですら、読者の心にその都度切りかかっている。
私にすら向いている諸刃の剣である。
「手紙は必ず宛先に届く」というジャック・ラカンの言葉の通りに。

願わくば、私がその言葉でうっかり切ってしまった方々の先に、「私が居合わせなければ開けなかった素敵な未来」があらんことを。

そして、私のこの「物ごとを切り取る仕方で、他者を変えてしまう刃」が私以外の他者では代替することが困難な強みである「活人剣」として、よりよい他者の未来を切り開く力として振るわれんことを祈る。