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はじめに
”ジーンズ”は、アメリカの発明品である
”ジーンズ”の語源がイタリアのジェノヴァであるとか、”デニム”の語源がフランスのニームであるとか、そのような主張は全く正しい。しかし、それと同時に、”ジーンズ”がアメリカの発明品であることもまた紛れも無い事実です。
だから、ジーンズの発展史を紐解くことで、そのバックボーンたるアメリカの歴史も帰納的に紐解けるのではないか、と考えます。
01.ジーンズの定義
世界史における「歴史」は明確に定義されます。
例えば、『詳解 世界史用語辞典』(三省堂編修所/1997年/三省堂)で「歴史(時代)」を引いてみると、次のように書いてあります。
これの示すところは、「文字の発達によって、ようやく人類に関するさまざまな概念が可視化、また形態化されるようになった」という具合。この世界史の用語としての「歴史」は、単にある事物を対象とする時の経過を指す「歴史」は全くの別物であることにはご留意ください。
そのようなわけで、この図式を“ジーンズ”に適用します。
私が考える、”ジーンズの歴史のその起点”は
なので、それに則ると、ジーンズの定義は
とすることができます。
たしかに、1873年以前にもジーンズは存在したし、それらも当然ジーンズと呼称し得るでしょう。しかしながら、ヤコブ=デイヴィス氏(Jacob W. Davis。以下、”ヤコブ氏”)とリーヴァイ=ストラウス社(Levi Strauss & Co.。以下、”L.S.社”)とが世に放った”ジーンズ”は、リヴェットの特許製法を含むさまざまな改良によって、従来のジーンズを形態化した。その意味において、1873年以降の”ジーンズ”と、それ以前のジーンズ―正確には”デニム生地で作られたパンタルーンズ(パンツ)、もしくはトラウザーズ/オーヴァーオールズ(いずれも履物全般を指す)”―とは明確に区別されるのが妥当であると思います。であれば、L.S.社のリヴェット留めジーンズ以前のジーンズは、”歴史”に対比することの”先史(プレ=ヒストリー)”であるので、 “プレ=ジーンズ”とでも呼称しましょう。
また、念のため補足しますが、L.S.社は、自社の(デニム)パンツのことを、”ジーンズ”ではなく、”オーヴァーオールズ”と称すことになります。もっとも、特許資料や初期の広告では、”パンタルーンズ”の名称を使っていました。
02.ヴィンテージ=ジーンズの誕生
ここで、もう一つ押さえておきたい表現があります。1873年のジーンズ誕生から、ある特定の年代までに製造されたジーンズを“ヴィンテージ=ジーンズ”と形容することがあるのです。
これは、ちょうど伊万里焼と古伊万里の関係に喩えられると思いますが、その差は、端的に言えば骨董的価値の有無であり、ヴィンテージ=ジーンズにおいてその差異は、1970年代の合成インディゴ染法の変更がメルクマールとされることが多いです。
“ヴィンテージ”という概念が古着に適用されるようになったのは、1970年代頃と語られることが多いですが、一般に定着するのは1980年代後半〜1990年代半ばの古着ブームを通してのこと。驚くべきことですが、このブームの立役者は日本人でした。その証左に、本国のL.S.社が1992年に”キャピタルE(つまり”ビッグE”)”モデルを復刻しますが、このプロジェクトは、1987年のリーバイ・ストラウス・ジャパンによる赤耳モデルの復刻が成功を収めたことを受けてのことでした。もちろん、それ以前にヴィンテージ的な観念を持ち、古い衣類の収集に力を注いだアメリカ人も数多存在したでしょうが、ヴィンテージ古着が一つのジャンルとして確立するに至ったのは、紛れもなくその時代の日本人が強大な影響力を持ったからです。
デニムハンター
そのような時流の中、1993年、アメリカ本国では、最も古いジーンズを募集するコンテスト”Send Them Home Search”をL.S.社が開催し、地質学を専攻するHeath Rackley氏が廃鉱で発見した1920年代後半の501®XXがグランプリを獲得します。1995年には、古着商のベンジャミン=バスキンス氏が、アンティークショップの敷地内の廃屋とそれに併設する鶏小屋の中で戦前のジーンズ約100本を発掘します。このなかには、先のグランプリジーンズよりもさらに古い501®XXや他のモデルも多数含まれており、当時「最古のリーバイス」として紹介されました。
これらの出来事を契機としてアメリカで登場し始めたのが、「デニムハンター」を自称する者たち。デニムハンティングは、アメリカにおいて非常にメジャーな趣味であるボトルディギングを発端とします。もともとボトルディガーたちは、ゴールドラッシュ時代のゴーストタウンに出入りし、廃鉱や納屋を漁って古い瓶を発掘していました。ゴーストタウンは、まさにジーンズの歴史とともに栄枯盛衰を経験したのであって、実際、そこに着古されたジーンズがあることは珍しいことではなかったのですが、ボトル一辺倒のディガーたちは当初見向きもしなかったようです。ところが、ヴィンテージ=デニムの概念が確立するにしたがって、デニムハンティングは発展し、2010年代には「炭鉱系」なるヴィンテージ衣類のジャンルが誕生するまでに至ります。現在でも数多くのデニムハンター達が、創成期のジーンズを発掘するために閉鎖された金炭鉱に繰り出しています。
そして、時は2020年。彼らデニムハンターたちが発掘したジーンズ(ときに「切れ端」)が、現代まで文字通り闇に葬られ、謎に包まれた最初期のジーンズの姿を少しずつ照らし始めます。
03.最初のジーンズ
さて、先の筆者の定義に従えば、”最初のジーンズ”とは、「1873年、L.S.社が世に放った”リヴェット留めのデニムパンツ”」となりますが、以後簡略化のため、そのモデルを”1873ジーンズ”と仮称します。
マイケル氏の個体
では、今まで”1873ジーンズ”と思われていた、もしくはそれに一番近しいジーンズは何であったというと、おそらく、デニムハンターのマイケル=アレン=ハリス氏がかつて炭坑で発掘し所有した個体(『Jeans of the Old West:A History』(Schiffer)P39~44、『ワークウエア秘史』(ワールドフォトプレス)P118~121などに掲載)を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
マイケル氏は、その個体について、自身の著作の他に、2019年にWWDによって行われたインタヴューにおいて次のように語っています。
続けて、こう語ります。
この個体、リヴェットの打ち方やパターンからして明らかにL.S.社製品の仕様に見えるのですが、インタヴューによると、本国L.S.社は、この個体を自社製品であると「確証がないから認めなかった」そう。しかし、そもそもなぜかくもその真偽の判断に慎重になる必要があったのでしょうか。ここには複合的な事情があると思われます。
⑴他社製品である可能性が拭えないため
L.S.社は、1873年のジーンズ発明当初より、リヴェットに係る特許の取得後、度重なる特許侵害を被ります。中でも特に悪質な侵害行為に対しては、1874年のサンランシスコのA.B.Elfelt社を皮切りとし、1876年までにサンフランシスコのGreenebaum社、シカゴのHenry W. King社、と記録に残るだけでも3社に対し、特許権侵害の訴訟を提起した過去があります。もちろん、裁判にまで至らなかったような、本社が把握していない模倣もあったことでしょう。極端な話、個人の仕立て屋が、パターンからリヴェットの位置に至るまでリーヴァイ製品にそっくりのジーンズを作った、というのもあり得る話です。
そうなると、仕様は仕様でも、社名の刻印などの物的証拠だけが頼りとなりますが、件の個体の仕様を列挙してみると、無刻印のリヴェットに加え、ラベルとボタンは欠損、その上、現代までL.S.社のジーンズの象徴であり続けるアーキュエイト=ステッチの施されていないバックポケット。そうなると確かに、リヴェットが打ってある同年代のデニム、という状況証拠のみによって、L.S.社がこの個体を自社の製品と認めることができない事情は、ある意味理解できます。
⑵アーキュエイト=ステッチが施されていないため
先述の通り、L.S.社は、自社の(一部の)ジーンズ製品のバックポケットに”アーキュエイト=ステッチ”と呼称される、カモメにも喩えられるアーチ状の飾りステッチを施しています。L.S.社は、1943年のアーキュエイト=ステッチの商標登録申請時に、その使用開始年を1873年と申告しています。つまり、1873年のジーンズ誕生以来ずっと、自社のジーンズ製品にはアーキュエイト=ステッチが施されていたと公の書類で宣言しているのです。仮に、初期にアーキュエイト=ステッチが施されていない時期があったと認めれば、公には虚偽申告となり、その優位性が揺らぎかねない(実際は必ずしもそのような訳ではないのですが)。だから、アーキュエイトが施されていない件の個体を、自社製品と認められないような事情もあったのかもしれません。ちなみに、アーキュエイト=ステッチが施され始めた時期については、後ほど筆者の考察を述します。
いずれにしろ、マイケル氏が、この個体をL.S.社初期の製品であると判断する根拠である、その仕様の数々こそが、L.S.社の判断にとっては仇となっていたようです。
04.XX
では、マイケル氏の個体は、L.S.社の製品ではないのでしょうか。もしもL.S.社の製品であれば、その正体は何なのでしょうか。
筆者が確認している限り最も古い、1879年のL.S.社のプライスリスト(『501XXは誰が作ったのか』(青田充弘/2018年/立東舎)にも複写が掲載されている)のリヴェット製品一覧には、サイズ違いを除くと、次の2種類のジーンズの記載があります。
このプライスリストによると、前者が卸値15.50ドル/ダースなのに対し、後者は17.50ドル/ダースと、若干ではあるが価格に差異がある。ではこの2種類のデニムの差は何でしょうか。
2/1綾と3/1綾
そもそも、”デニム”と呼称される綿織物には、一般に、経糸2本/緯糸1本で生成される”2/1綾(英語だと“2 by 1”)”のものと、経糸3本/緯糸1本で生成される”3/1綾(同“3 by 1”)”のものがあります。どちらも純然たるデニムではあるのですが、前者は”ライトオンス”、後者は”ヘヴィウェイト”と称されることもあるように、織り方の違いにより、微妙に強度や厚さにも差異があり、また、生地表面に露出するインディゴ糸の割合も異なるため、色味も全く異なった印象を受けます。
ここで、先のマイケル氏の個体について触れますが、実はあの個体は2/1綾デニムで作られています。それ故に、「“1873ジーンズ”はライトオンスのデニムで作られていた」と未だに語られることがあるのですが、これは明確に誤りです。1873年当時、L.S.社のジーンズは、当時主流であった2/1綾のライトオンスデニム”Amoskeag Blue Denim”と、3/1綾のエクストラヘヴィウェイトデニム”XX”の2種が展開されていたものと推測されます。
”226”
ここで、上述の2種類のデニムの差異を端的に示す、とある1本の個体、通称”226”を写真付きでご紹介します。2019年、デニムハンターにより新たに発見された個体です。
全体像ではわからないのですが、個体の細部を見ると、部位によって上述の2種類のデニムの両方が使用されていることがわかります。本体部分は3/1綾のXXデニムですが、バックストラップと略比翼(↔︎本比翼、フロントフライの比翼においてボタンホールが施された部分)の2箇所においては2/1綾のデニムが使用されています(Fig.04-3, 04-4)。
現時点で発見されているL.S.社製品のデニムの個体の中で、マイケル氏の個体は確かに最古の部類に属するもので、さらに言えば、プライスリストにも記載のある2/1綾デニムで作られた”Amoskeag Blue Denim Pants”であると推測されます。対する”226”は、”XX”デニムとして当然最古のものであるし、L.S.社のデニム製品と証明できる個体としても最古のものと言えるでしょう。
05.1873
つぎは、暫定”1873ジーンズ”である”226”について、より詳細な仕様を写真とともに紹介します。
バックル
この個体に特有の仕様は複数挙げられますが、その中でも特異なもののひとつは、”1855バックル”です。
バックルの形状としては、2つのプロング(prong、細長い部品全般を指す用語)から構成され、シンチ(針)部を衣類に付帯するストラップ部に突き刺してサイズ調節を図るもの。1855年にハーツホーン氏によって発明され、発明者の名前から“ハーツホーン=バックル”と呼称されることもあります。中でも、特許出願の年である1855の刻印があるものを”1855バックル”と筆者は呼称します。
2プロングのバックルを「ハーツホーン氏の発明」と表現しましたが、衣類に付帯するこの形状のバックル、元々の発祥はイギリスです。正確な発祥年代は不明ですが、18世紀ごろと推測され、その後フランスやその他欧州の国での普及を経て、アメリカに輸入されます。ですので、発明というのは、ハーツホーン氏によって最初に特許登録された、というに過ぎません。ですから、バックルのイギリスでの発展とアメリカでの発展は時差があると言っていいでしょう。
ところで、元々この形態のバックルは何を対象として発明されたかというと、ずばり”ヴェスト”です。ヴェストは、イギリスでは”ウェストコート(waistcoat)”と呼称するように、ときにコルセット代わりともなる、袖無し中衣を指します。であれば、何かしら身体にフィットさせ、きつめに緊(し)める機能が求められる訳です。
ヴェストのために発明されたバックルは、のちにトラウザーズ(履物)に転用されるに至ります。しかし、わずかなサイズ調節しかできないバックルに汎用性があったとは言えず、しかも、バックル登場当時の履物はサスペンダーで吊るして履けば良いため、全ての履物にバックルが付帯していた訳ではありません。これはイギリスでもアメリカでも同じです。
南北戦争
ここで、アメリカでのバックルの発展を少しばかり遡ります。ハーツホーン氏がバックルを特許登録してからわずか8年後の1863年に勃発した”南北戦争”における南軍(Confederate)、北軍(Union)、民兵(civil)の3者の軍服の履物(トラウザーズ)を調べました。すると、階級などを問わず、そのいずれにもバックルやストラップは付帯していません。それに対し、南軍と北軍のヴェスト(ベスト)には、同じく階級問わず、バックルを伴うストラップが付帯していることが判明しました。 南北戦争の民兵のヴェストでは、バックルの伴わないストラップやレース(紐)が付帯しているものがみとめられます。バックルが台頭する以前のヴェストは、どうやらこれらの類のものを縛ったり結んだりして着用されたらしいのですが、これでは緩めるにしても緊めるにしても手間がかかります。
話は変わりますが、当時の情勢に目を向けると、ゴールドラッシュ以後南北戦争以前、1850年代のアメリカは、「戦前」の意である「アンテベラム(antebellum)」と呼ばれるように、奴隷制をめぐって南北が対立、いつでも軍靴の音が響き絶えない緊迫した情勢でした。産業革命以降の合理化の流れと相まって、軍需品分野においては機能性・合理性を追求した製品が求められ、現代まで残る数多の工業製品を生み出すことになります。フランスの事例になりますが、1830年にミシンを開発したバーシレミー=シモニア(Barthélemy Thimonnier)の最初のミシン納入先は、やはり軍服工場でした。
デニムパンツのバックル
話を戻します。南北戦争の各軍の履物にバックルが付帯していなかったことはわかりましたが、同時代の他の履物にバックルが付帯している例は、少なからずあります。イギリス由来のテラードの履物に関して言えば、高い確率でバックルが付帯します。長々と書いておいて何ですが、結局、バックルがいつの時点でデニムパンツを含む一般的な履物に付けられるようになったのか、と言うのは正確には記せません。ただ一つ言えるのは、仕立職人であったヤコブ=デイヴィスが、ジーンズの発明以前より、履物に付帯するバックルに親しんでいたことは間違いないようです。
特許法
連邦特許法では、1836年の改正から1861年の改正までの期間、特許の有効期間は、原則の(出願日から)14年と特許委員会による申請認可による7年の延長期間を合わせた、最大21年と定められていました。1861年の改正によって、特許の有効期限は(付与日から)17年に変更されましたが、新法が旧法特許に遡及的に適用されることは、通常考えにくいです。
であれば、1855年に特許出願がなされたバックルは、最大で1876年に特許有効期間が切れる計算になります。だからといって、1876年に即座にこのバックルが使われなくなったとは限らないのですが、少なくともその後のL.S.社の製品では、このバックルが付帯したものを見たことがないので、1876年の特許期限からそれほど長く流通しなかったものと思われます。
縫い糸
もう一つ、特異な仕様をあげるとすれば、オレンジ色の糸です。
実は、これまで発掘されたL.S.社製の極めて初期のジーンズも、そのほとんどが白の糸で縫製されたものであり、オレンジ糸で縫製された個体は、これまであまり見つかっていなかった(ように思われます)。
オレンジ糸については、元L.S.社専属のヒストリアンであるリン=ダウニー女史の著書に信憑性の高い記述があるので、引用します。
この手紙というものを筆者は実際には見たことがないのですが、リン=ダウニー氏の記述どおりであれば、手紙の日付からして、”1873ジーンズ“はオレンジ色のミシン糸で縫製されていた可能性が高くなり、”226”の仕様とも合致します。
糸の染料
オレンジ糸と言っても、そのままオレンジ色の染料があるわけではなく、赤系の染料のpHを調整することで、インディゴを引き立てるオレンジ色が醸し出されるのです。
この時代の赤系繊維染料としては、カイガラムシから抽出するコチニールが挙げられます。コチニールについて、その代用となるアゾ染料が工業的に使用されるようになったのは1878年らしいのですが、この段階のアゾ染料はタンパク繊維にのみ適していたものらしく、XXを象るリネン糸のセルロース繊維を染めるアゾ染色は、少なくとも1884年のコンゴーレッドの出現まで待たなければいけなかったそう。
また、他の赤系染料では、セイヨウアカネから抽出するアリザリンも使われていましたが、1869年に合成アリザリンが開発されて以来、1870年代の終わりまでにセイヨウアカネによる天然物は徐々に駆逐されていったようです。アリザリン価格は、1869年から1873年の間に2分の1以下に、1873年から1878年の間にさらに5分の1以下になっています(出典:https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/2326/1/ronso0640501010.pdf)。
以上のことから、当時のオレンジ糸の染色には、コチニールか合成アリザリンのどちらかが使われていた可能性が高いように思われるのですが、もしコチニールすなわち天然染料による染色であれば、白い糸の謎も説明がつきます。
天然インディゴの例に漏れず、堅牢度の低い天然染料は、湿度や日焼け、また経年による褪色の速度も著しい。当時のジーンズの利用状況もさることながら、現在それらが発掘される場所は基本的に極めて湿度の高い鉱脈内部である場合が多いので、ジーンズをかたどる糸が、染料の褪色によって一見”白”に見えてしまっている、ということではないでしょうか。
つまり、リーヴァイ=ストラウス社のジーンズ(2/1綾のAmoskeagデニムやダックを除く、少なくともXXラインについて)は、”1873ジーンズ”以来、一貫してオレンジの糸で縫製されていた可能性があるのです。
06.226XX?
さて、暫定”1873ジーンズ”のラベルにみとめられる”226”という数字は何を指すのでしょう。
出荷先を指す番号、もしくは縫製婦かインスペクション(インスペクター、日本語で検査/検針員)を指す番号などいろいろな可能性が考えられますが、ここは一旦”ロットナンバー”と考えるのが自然であるように思えます。
ラベルの数字
文字だけの革のラベルが縫い付けられているL.S.社の初期の製品で、なおかつラベルの左上に数字が書き込んである例は、"226"の他に、本国L.S.社のアーカイヴスが所有する2点しか確認できていません。一つは子供用のダックパンツで、数字は”125”、もう一つはダックのクローズドフロント(プルオーヴァー)のジャンパーで、数字は”1111”となっています。どちらも1870年代の製品と推測されます。
1879年のL.S.社のプライスリストによると、ダックは「ブラウン・モード・デッドグラス」の3色展開であったらしいのですが、それぞれがどのような色かまでは判明していません。しかし、後年の同社のプライスリストによると、一番後年(おおよそ1900年ごろ)まで展開されたのはモードであるらしいので、後年のL.S.社製のダッグ製品の色がモードなのでしょうか。”1111”はモードに近い気がします。
ここで、ラベルの数字について考察しますが、読み飛ばしていただいても構いません。筆者としては、ダック製品は”125”と”1111”とも頭の一桁が”1”で共通している点と、デニム(”226”だけですが…)も1に続く低い数字”2”が頭の一桁であるという点が引っかかります。そのことを軸にすると、例えば、それぞれの数字、まず頭の一桁の数字は素材(生地)、中の一桁の数字は生地の等級や色、下の一〜二桁の数字はサイズを含めた型(パターン)などを表す、というのはどうでしょう。
”1111”は「ダック(1)/モード(1)/クローズドフロント(11)」
”125”は「ダック(1)/ブラウンorデッドグラス(2)/パンツのユース(5)」
”226”は「デニム(2)/XX(2?)/パンツのノーマル(6?)」
なんて言う具合です。
…と、ここまでお読みいただいて申し訳ないのですが、この数字遊びは、筆者の妄想の域を出ません。実際のところ、当時のロットナンバーは、まったく法則性がないとまで言えないものの、1890年代に一度整理されたロットナンバーですら、概ね適当に振り分けた感が否めないのも事実です。
いずれにしろ、”501XX”の前身が”226XX”であった可能性は十分にあると考えます。
(Fig.06-1) 左上に”226”、右に”XX”の表記がある革のラベル
革ラベル
次に、革のラベルの素材についても触れます。
1876年の特約店による新聞広告では、L.S.社のリヴェット留めの製品を大々的に宣伝しているのですが、その中盤の説明文に小さく、"None genuine unless branded Levi strauss & Co.,on a Buck-skin Ticket.”と書かれています。つまり、社名がプリントされているのは”鹿革のチケット(チケットはラベルのことを指しているが、ここでは証明書といった意味か)”であるというのです。革のラベルの素材は、後代にはシープスキン(羊革)が用いられるともされますが、この広告の記述が正しければ、初期の革ラベルは鹿革が用いられていたことになります。
余談になりますが、アメリカでは、ドル札を指す「バック(buck)」という俗語があります。これは、アメリカ建国創成期、開拓者と先住民の流通において、貨幣の代わりに鹿革が決済手段に用いられたことに由来するそうです。そうすると、ハミルトンらが中央銀行を設立し、U.S.ドルの概念が国民に浸透するに至る19世紀のある程度の時期までは、鹿革という物品の価値は、ある程度担保されていただろうことが推測されます。1890年、フロンティア消滅宣言の契機となった、ウーンデッドニーの虐殺で、先住民スー族の戦士が着用していた”聖なる戦闘服”である「ゴーストダンスの上着」が鹿革で作られていたことからも察することができますが、ともかく、buckskin(鹿革)というのは、アメリカの発展の歴史において重要な意味を持つのです。
07.最初の仕様変更
1873年の誕生から19世紀末まで、原始的な4ポケットの時代は、ジーンズにとっての”アルカイック期”と言えます。数字にすると30年弱と短い期間ですが、物事の創成期らしく、細かい仕様の変遷が多くあります。史料すらロクに出てこないため、その全てをまとめることは不可能なのですが、中でも重要な仕様の転換点は、以下の3点に集約されます。
以下、順を追って各仕様の変遷を考察します。
リヴェット
1873ジーンズの誕生以来多発した特許侵害事件に対し、リーヴァイ=ストラウス社は法的措置を講じて取り締まりを厳格化し、自社の正当性・優位性を主張しました。しかし、それだけでは、同業者のみならず、取扱店や消費者へのアピールとしても何の効果も発揮しません。
そこで、リヴェットの優位性を強調すべく、今まで無刻印だったリヴェットに、「社名/所在地(S.F)/特許取得年月」を刻印するようにしたのでしょう。おそらく、これが最初のディティール変更であったのではないでしょうか。その変更時期の仮説としては、L.S.社が、地元の新聞に警告広告を掲載し、さらにA.B.Elfelt社を相手に初のリヴェットに係る訴訟を提起した1874年ごろをあげることができます。
リヴェットの構成部品
ちなみに、リヴェットというのは複数の部品から構成されますが、狭義では、先端を潰して使用する突起した部品のみを”リヴェット”と呼称します。リヴェットが抜けないようにする輪状の部品で、表面に露出して文字が刻印されている部品は、一般に”(リヴェット=)バー”というのですが、上の警告広告を見るかぎり、L.S.社はどうも”アイレット(eyelet)”と呼んでいるようです。また、初期の製品でリヴェットと生地の間にズレ防止のためかレザーの部品がかまされていることがあるのですが、これは”ワッシャー”と呼称します。
1875
1875年には、より強大な法的有効力を求め、特許の範囲をリヴェット留めされた”パンツ”から”衣類全般”に広げ再登録します。同年、その申請が通ると、革のラベルにも再登録を示す文言”Renewd March 16, 1875”を追加し、“DUCK & DENIM PANTS”の表記は ”DUCK & DENIM CLOTHING“へと変更されます。
そして、L.S.社がリヴェットに係る権利の主張を強化し始めたのと時期を同じくして、競合他社も、レザーによる補強(Greenebaum社,1874年)や、補強の域を超えた飾りステッチ(Neustadter Brothers社,1875年)の特許登録といった”対抗措置”を取り始めるのです。
思うに、アーキュエイト=ステッチは、これら競合他社のカウンターに対する、L.S.社なりのさらなるカウンターのつもりであったのではないのでしょうか。であれば、やはりL.S.社の最初期のジーンズ(1873ジーンズ)にはアーキュエイト=ステッチは施されていなかった、と結論づけることもできます。
さらに、アーキュエイト=ステッチが施されてから間を置かず、シンチバックルのストラップの両端にもリヴェットが追加され、ジーンズには計11個のリヴェットが打たれることになります。これにてひととおりの仕様が揃います。
08.”NEVADA”
”NEVADA”と称される個体があります。2001年、本国のL.S.社がオークションで競り落とした4ポケット期の個体です。しかし、この個体は、当時発見されていた同時代のジーンズとは決定的に異なる点がありました。左後ろ腿サイドシームに”5番目のポケット”が縫い付けられているのです。
この5番目のポケットが付いたモデルを”NEVADA”と呼称する経緯について、2011年に東京で開催された「OVERALLS-The Origin-」展で”NEVADA”が展示された際にL.S.社がつけたキャプション(説明文)の全文を引用する形で紹介します。
このキャプションには、いくつかの誤りが散見されます。
まず、その後発見された数々の個体を見れば一目瞭然ですが、スレーキにデニム素材が用いられているのは、”NEVADA”以前のすべてのモデルに共通することです。また、L.S.社は、5番目のポケットのことを「スケールポケット」と呼称していますが、どちらかというと、この時代の主たるユーザーである鉱夫の愛用品は、スケール(定規)よりか岩を砕くハンマーでしょう(”NEVADA”が炭鉱で発見されたのであればなおさら)。
そして、もしも、”NEVADA”がのちの501®(=XXライン)ではないとすると、その期間の少なくとも5年以上が完全なるミッシングリンクになってしまいます。上述の理由からも、仕様の変遷としても不自然な点はないので、”NEVADA”はXXラインに属する、と考えるのが自然です。さらに言うなら、特段鉱夫をメインターゲットに見据えた改良ではないでしょうか。
しかし、これは多数の個体が発掘された今だからこそ導き出せる結論であり、史料も乏しかったであろう当時、L.S.社のアーカイヴスが、”NEVADA”について「のちの”501®”ではない」と結論付けたのも理解できます。邪推ではありますが、この”NEVADA”における不確証体験こそ、マイケル氏の個体を安易に自社製品と認めなかった遠因であるように思えます。
09.”NEW NEVADA“
”NEVADA”の落札から12年後の2013年にオークションに出品され、L.S.社が競り落とした4ポケット期の個体が通称”NEW NEVADA”です。
”NEW NEVADA”は、左腿に5番目のポケットが縫い付けられ、ディテールの大半は”NEVADA”と変わりない個体。しかし、驚くべきはその状態で、土汚れこそあるものの、リヴェットやボタン、バックルといった普通なら錆び朽ちてしまっているパーツが完璧な状態で残り、しかも、革のラベルにはサイズ表記とともに手書きの”XX”の文字がみとめられます。これにより、”NEVADA”はXXラインの個体であることが証明されました。
ボタン
さてしかしながら、”NEW NEVADA”の発見により、ボタンの仕様について矛盾が発生したことはあまり知られていません。ボタンについては意図的に触れていなかったのですが、項07「最初の仕様変更」で触れたリヴェットや革ラベルの印字の変更とほぼ同時期に、無刻印の市販品から社名が刻印されたボタンに既に変更されています。
ところが、この”NEW NEVADA”には、無刻印のボタンが縫い付けられています。どういうことでしょうか。もしこの個体のボタンが付け替えられているようなことがなければ、せっかく一度刻印入りになったボタンは”NEVADA”期間に一時的に無刻印に戻されてしまったということになります。ボタンの刻印はリヴェットの刻印に比べるとさほど重要視されていなかったのでしょうか。
しかし、1880年のとある新聞記事(Fig.9-1)では、「すべてのリーヴァイ=ストラウス社の衣類製品のリヴェットとボタンは、L.S.&Co.の文字が刻印されている」と記述があるので、ボタンの刻印もある程度重要な役割を担っていたことは相違ないようです。であれば、なんらかのディティールの変更前のタイミングで既存のボタンが在庫を切らしたとか、単に原価削減のためでしょうか。残念ながらこれもまた知る術がありません。
リヴェット(2)
また、リヴェットの刻印も微妙に変更されることが知られています。リヴェットに刻印が施されてから1890年までの特許消滅までは、リヴェットの刻印は一貫して”PAT.MAY 1873 L.S & CO. S.F”(いわゆる”1873リヴェット”)であったのですが、この刻印のデザインも、少なくとも2度、漸進的に変更されています。
漸進的にデザインが変更されたというのは、つまり微妙で些細な変更というわけで、説明するにもしがたい面があるのですが、時代を経るにつれ、より大きな文字ではっきり濃く刻印されるようになった、という変化がみとめられます。筆者は、最初期のものを「前期型(Type-A)」、その次のものを「中期型(Type-B)」、さらにその次のものを「後期型(Type-C)」と呼称して分類することとします(Fig.09-2)。次にそれぞれの刻印の特徴を記しますが、中でも”O”に注目していただけるとわかりやすいと思います。
Type-Aは、全体的に文字は小さく、それぞれが正方形に収まる縦横の比率で、”O”はまん丸の円に近い。
Type-Bは、前期型に比べて文字の線が細く、縦長。故に”O”も楕円形を描いている。
Type-Cは、Type-Bに増して文字が細長く、あたかも手彫りのような印象を与える。”T”、”L"、”F”などの文字を観察すると明白だが、いわゆる”セリフ”(文字の頭と足の出っ張り)のあるフォントに変更された。また、”O”が唯一小文字。
いかがでしょうか。リヴェットは銅製であり、緑青で朽ち果てて刻印を読み取れないケースが多いので、今のところ刻印の変更時期を推測するには至っていません(ちなみに、”NEW NEVADA”に打たれているリヴェットは中期型であることが確認できています)。
リヴェットの刻印変更は、通常であれば、「(リヴェットの)製造メーカーが変わった」もしくは「型が変わった」などさまざまな要因が考えられますが、そもそもリヴェットに刻印が施されるようになったのは、リヴェットに係る特許保有の誇示が目的でした。であれば、同時期に行われたシカゴのHenry W. King社との特許裁判との関連を勘繰らざるをえません。1876年から続いたこの裁判は、1880年にL.S.社の勝訴で幕を閉じますが、その勝訴に際しては、L.S.社は珍しく新聞広告を出すくらいの快哉ぶりです。リヴェットの刻印変更は、このような事情に起因する可能性も考えられます。
10.ミッシングリンク
「NEVADA後/ツーホースマーク前」の個体を、筆者は”ミッシングリンク”と表現します。では、最終的にこの5番目のポケットが取り除かれる時期、つまり"NEVADA”の終焉ですが、”NEVADA”の比較的多い個体数を考慮すると、1880年代の前半と仮定するのが妥当のように思われます。
そして、そこからツーホースマークが導入される1886年までの期間には、大幅なディティールの変更が行われながら、その詳細について今まで触れられることは少なかった。その点において、その期間の個体はXXの発展における最大の”ミッシングリンク”と呼べるでしょう。このミッシングリンクこそ、”NEVADA”を含む”XX”の発展史を紐解く最大の鍵であると筆者は考えます。
しかし、実はこの”ミッシングリンク”の個体は、1つだけではあるのですが、すでに発見されています(リーヴァイ=ストラウス社のアーカイヴス所有、個体名称”1880s”?)。その点で、”ミッシングリンク”という表現は不適当であるとご指摘があるのかもしれないのですが、”NEVADA”と比較すると、そのディティールの変遷があまりにも激しく、他にも両個体のディティールの混ざった中間種の個体が存在する可能性を示唆するためにもそのように表現します。
さて、一旦そのような事情は横に置いて、確認できている”ミッシングリンク”の個体によって判明した、”NEVADA”からのディテールの変更以下7点を挙げます。
タック=ボタン
”タック=ボタン”は、リヴェット式の金属製ボタンのことであり、ヴィンテージ古着業界においては、”打ち込みボタン”と呼称されることが多いです。英語では、タック=ボタンの他に、広義に金属製のボタンとして”メタルボタン”とも呼称されます。この特徴的な工業製品について、年代特定の突破口である特許資料を探したのですが、1880年代までのタック=ボタンそのものの資料はついに見つけることができませんでした。しかしながら、1877年のNeustadter Brothers社のオーヴァーオールズ(pat No.196,693)や、1879年のCharles A. Jones氏のオーヴァーオールズ(pat No.222,708)の特許資料には、タック=ボタンらしきイラストが描かれていることを記しておきます。
また、当時の新聞記事を遡ると、ちょうど1880年からタック=ボタンにまつわる記述を複数見つけることができました(Fig.10-1, 10-2)。これらの新聞記事や広告での、タック=ボタン(と思わしきもの)の呼称は、なんと”リヴェテッド=ボタン(riveted button)”です。この表現、実にプロパガンダじみています。
1880年、Neustadter Brothers社(以下、”N.B.社”)は、後年まで続く名レーベル”BOSS OF THE ROAD”を満を持して登場させるのですが、私の知る限り、このレーベルの初期のデニム製品は全てタック=ボタン仕様です。しかも、N.B.社は、先述のCharles A. Jones氏のオーヴァーオールズの特許を買収したのち、1882年に、特許の図に忠実なタック=ボタン仕様のオーヴァーオールズを”UNION PACIFIC.”レーベルとしてリリースします。
L.S.社(およびヤコブ=デイヴィス)による特許である”衣類のリヴェット留め”の範囲は、特許資料の題目のとおり、”Fastening Pocket-Openings(ポケットの口を留めること)”に限定されている。L.S.社とのリヴェット裁判で大敗を喫したN.B.社が、これを逆手に取り生み出した苦肉の合法策、それが、ボタン機能としての”リヴェット”、言い換えれば、リヴェットの拡充的機能たる”タック=ボタン”であった、と考えることはできないでしょうか。タック=ボタンの利点は、機能性(丈夫さ、取り付けの容易さ)やマーケティング性(見た目の重装さ、珍奇さ)など数多ありましょうが、”リヴェテッド”という言葉を宣伝時に用いることで、自社製品とL.S.社の製品とのミスリードを狙うことをできる点もあります。広告や新聞記事に書かれる”riveted button”を搭載した製品がN.B.社のものであると証明はできていませんが、”riveted button”という表現には、そのような謀略をうすら感じざるをえません。
以上のことから、タック=ボタンが発明された時期はおそらく1870年台後半で、L.S.社の競合たるN.B.社が中心となって、タック=ボタンの本格導入が始まったのは1880年ごろである、という仮説は導き出せましが、実際にL.S.社が製品にタック=ボタンを導入するのは、”ミッシングリング”においてです。つまり、タック=ボタンの導入について、L.S.社は多少のタイムラグがありました。
”NEVADA”の終焉
さて、肝心な”NEVADA”の終焉の時期ですが、それを探る上で思い出して欲しいのは、”NEVADA”が主に鉱夫を購買層に想定した商品であったであろうことです。そこで、まずは1880年代の採掘事情を検討します。
ゴールドラッシュの発生からわずか数年で金は枯渇し始め、”49ers”と呼ばれるフリーランスの鉱夫よりか、マイニング=カンパニー(採掘会社)による大規模採掘が主流となっていました。1880年台前半に”水力採掘”という採掘方法が導入されてからは、その潮流に拍車をかけます。水力採掘によって引き起こされる環境汚染に対し地元の農業組合がマイニング=カンパニーを提訴したころ、ちょうど1883年をピークに金の採掘量はのち5年間右肩下がりとなります(水力採掘が米連邦地方裁判所で違法とされるのは1884年のことで、直接的要因ではないでしょう。また、判決の後も依然としてこのような違法大規模採掘は後を絶えなかったとか)。
また、経済の面に目を向けると、ちょうど1873年から1890年ごろまでのアメリカは、「金ぴか時代」といわれるほどの経済成長を遂げる一方で、ヨーロッパを端に発する不況のあおりを受けて断続的な恐慌が起き、銀行の倒産などが相次ぎました。1883年から1884年にかけて、ニューヨークでいくつかの銀行が倒産すると、アメリカ産業の枢軸であった鉄道債や農産物の価格も軒並み下落し、当然労働者もそのあおりを受け、失業率は高まりました。
このような事情を汲むと、どうでしょう。あらゆる産業の転換点にあって、鉱夫をメインターゲットに据えた商品ではなく、農夫や鉄道従事者などすべての労働者に向けての商品開発に取り組むのも企業努力としては自然です。「すべての労働者に向けた」というのは、ハンマー用のポケットなど、一部の労働者にしか需要のないディテールを添削するといった機能面もさることながら、不況の時代であれば、まず価格を落とすかあるいは保ち、労働者がその商品を手にする機会を均等にならすということでもある。これを今風に言うと、コストパフォーマンスの実現といったところでしょうか。
5番目のポケットの削除やフロントポケットの生地の変更は材料費に係る節約、打ち込みボタンの導入は人件費の節約、ステッチの簡易化であればその両方ということになります。以上の点を踏まえると、”NEVADA”の終焉ともいうべき大胆なディテールの変更は、1883年〜1885年ごろの期間に行われたものと考えます。もちろん、項の冒頭で述べたように、一斉にこれらの変更が行われたとは限らないのですが、この期間に、かくしておおよそのディテールが整います。
”Amoskeag Blue Denim Pants”
もう一つ特筆すべきは、2/1綾デニムを使用した”Amoskeag Blue Denim Pants”についてです。1883年のカリフォルニア州のとあるドライグッズストアの広告には、L.S.社製のXXデニムとAmoskeagデニムのオーヴァーオールズの両方が併記されています。両モデルが併記されている広告としては末期のものでしょう。正確な製造・販売年を特定するには多少物足りないですが、少なくとも1883年ごろまでは流通していたらしいことはわかります。その後の1880年代中頃のプライスリストでは2/1綾の通常デニムの記載は既になくなっているので、1882〜80年代中頃あたりには生産が中止されていたのではないかと推測できます。
この時期は”NEVADAの終焉”と一致します。ここから導き出される結論は、XXラインのフルモデルチェンジと廉価ラインの廃止は同時に行われ、さらにいうなら、新XXは統合モデル的位置づけであった、ということです。
11."Grizzly" Clothing (2022年3月追記)
"Grizzly" Clothingは、1881年7月9日に商標登録がなされたL.S.社のレーベル。
その主製品がインディゴデニムではなくダック生地を用いたものであることに加え、現物史料が発見されなかったことから、マニアからの関心も薄く、長く歴史に埋もれた幻のレーベルとされていました。
ところが、2020年になって、ほぼ完全な姿の"Grizzly"のダックパンツ(あいかわらずポケットこそ取れてはいますが)が発掘されたのです。幸運にも日本に輸入された現物を、筆者は実際にお目にかかることができました。
ディテールについて詳述する前に、この"Grizzly"に関してまことしやかに囁かれてきた一つの噂を紹介します。それは、「"Grizzly"は、L.S.社がN.B.社に外注したレーベルである」というものです。
さて、噂の真相は如何でしょうか?
最も重要なディテールは、以下の3点に集約されます。
まず、タック=ボタンについては、ミッシングリンクと同じものが使用されています。ミッシングリンクの推定製造年を鑑みるに、L.S.社は、デニムパンツ以前にダック製品においてタックボタンを導入していた可能性が高いのではないでしょうか。
そしてラベルについて、1886年のツーホース以前に、動物がL.S.社製品のラベルに描かれたのは興味深い事実です。Grizzlyが選ばれたのは、地元カリフォルニアを象徴する動物であったというのと(1911年には秋季に採用されている)、その堅強なイメージが同レーベルの製品と一致したから、といったところでしょう。
N.B.社の製品
(1)から(3)ではL.S.社の"Grizzly"について記しましたが、(1')から(3')はN.B.社の製品のディテールを記しました。対比すると一目瞭然ですが、両者のディテールは驚くほど似通っています。"Grizzly"の登場が1881年であることを鑑みるに、"Grizzly"はN.B.社の製品のイミテーションであると言えそうです。だからこそ、N.B.社への外注説が飛び出してきたのでしょう。
[07.最初の仕様変更]の項を思い出して欲しいのですが、L.S.社がアーキュエイト=ステッチを自社製品に施し始めたのも、N.B.社を含む競合他社が飾り的補強ステッチを導入し始めた後のことだと推測されます。であれば、競合のN.B.社が製品で多用したステッチを用いることは、まさにL.S.社のN.B.社に対する当てこすりに他ならない、とは考えられないでしょうか。
①L.S.社はダックパンツを外注するほどに設備が不十分であったのか?
②N.B.社が競合であるL.S.社から受注するのか?(その逆も然り)
調査の中でも、実物以外の史料が一切見つからなかったのであくまでも推測にはなりますが、"Grizzly"については、「L.S.社がN.B.社との競争の中で生み出した実験的レーベルである」を新しい仮説としてここに提唱したいと思います。
12.ツーホース
現代までL.S.社のアイコンであり続ける”ツーホース”が発明され、それまで文字だけが記されていた革のラベルにプリントされるようになったのは、1886年のこととされています。ツーホースの誕生に伴い生じたと思われる変更が、革のラベルの縫い付け位置の変更、ウエストバンド上センターから右サイドへの移行です。
というのも、しばらくセンターに位置していたラベルを、この期間にわざわざサイドに移行した理由は、「せっかくの新アイコンがバックルのストラップで隠れてしまっては意味がない」、それくらいしか見つからないのです。実際に、センターにツーホースの革ラベルが、また、サイドに文字の革ラベルが縫い付けられているような例は確認できていません。
また、革ラベルがサイドに移動したことにより、バックヨーク左右の”ギャザー”を施す余地が消失したようで、この時期を境にギャザーは消滅したものと思われます(かなり大きいサイズでギャザーが施されているものは存在する)。
13.1890
1890年、フロンティアの消滅が宣言されたこの年、L.S.社にとっても大きな変化がありました。リヴェットに係る特許が期限を迎えるのです。それに伴って、L.S.社は、”大改革”ともいうべき、数々の変更を断行します。
例えば、久しく空白になっていた”XX”の廉価版(セカンドライン)にあたる”No.2”や、当時の流行を取り入れた”スプリングボトム”をはじめとする新製品をリリースします。現在まで、L.S.社の最高品質のジーンズの代名詞である”501”が”XX”の名称に付け加わったのも、これからさほど間を置かずしてのことです。
もちろん、”XX”のディテールにも変更が生じます。特許期限をむかえるにあたり、リヴェットの刻印が社名だけになったり、フロントポケットのツイル地にツーホースと諸文言のスタンプがなされるようになりました。
そして、昨年の発掘により、”17 years”のオイルクロス製チケット(通称:ギャランティー=チケット)の存在が確認されました。つまり、今までの定説では”20 years”が最初とされていたギャランティー=チケットは、1890年の大改革の賜物であった可能性が高いわけです。
おわりに
「青は藍よりも出でて藍よりも青し」
今回は、史料批判を第一の目的とし、化学を用いた詳細な分析は行っていません。なおかつ、最初の項でも述べたように、そもそも史料自体がほとんど出てこない時代のジーンズの調査に挑んだので、当然ですが筆者自身も釈然としない部分が未だ多くあるし、それはこの記事を読んだ方のほとんども同じでしょう。
「青は藍よりも出でて藍よりも青し」。これは、『荀子』の一篇「勧学」を出典とする、「学びにより、弟子は師匠を超える」という意味の諺ですが、思うに、我々に送られた警句のような気がしてなりません。その心は、デニムの歴史ー天然インディゴから合成インディゴ、合成インディゴからサルファー染料へと変遷した、染料の発展ーとも重なるし、その意味をとっても、世代の更新=学問の発展といったような図式が読み取れる、といったところです。
今後も新たな史料が発掘され、歴史が解き明かされていくことでしょう。そのような事態に際しては、私たちは、既存の知識への固執を捨て去り、時に自らの仮説すらを否定し、当意即妙に”歴史”を更新していくことが必要となります。でなければ、”ヴィンテージ=ジーンズ”という、先人の築き上げた一つの偉大なる文化は、確実に滅びていきます。(2020年10月20日執筆完了 文責:anzyinjapan)
—リンク集—
03.最初のジーンズ
https://funq.jp/lightning/article/534103/
06.226XX?
https://www.denimbro.com/levi-strauss-18731973_topic12_page9.html
https://twitter.com/TraceyPanek/status/1087736392870969344
09.”NEW NEVADA”
https://www.levistrauss.com/2015/05/20/new-nevada-jeans-acquisition/
https://twitter.com/TraceyPanek/status/795661289053769728
10.ミッシングリンク
https://www.levistrauss.com/2018/10/18/fab-favorites-paul-oneill/12/
12.1890
https://mushroom3.wixsite.com/akira/post/今年もお世話になりました%E3%80%82
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